清水寺の段
清水寺の段
何れかの御門の御代であろうか。
平安の都が築かれて後、今はまだ応仁と言う御代の名は聞かぬ頃。
――音羽山 清水寺――
普段であれば参詣の人々で賑わう境内も、日が西山の峰々に差し掛かる頃ともなれば、静寂に包まれる。
聞こえてくるのは寂しげに松に吹き付ける風と、音羽の滝の落水の音のみ。
その高さから舞台とも称される本堂の前にて、まだ賑やかな頃から今に至るまで一心に、そして熱心に祈りを捧げる少年が一人。
「……井杭殿、井杭殿」
「ああ、これは和尚様。遅くまで申し訳ございません」
「井杭」と呼ばれた見目麗しい稚児の少年は、小直垂を着た禿童の姿であった。禿童とは「かむろ」とも「かぶろ」とも呼ばれた元服前の少年の事であって、禿と呼ばれる髪型に由来する。肩の辺りで切りそろえた所謂おかっぱの髪型である。
「井杭殿、昼頃から随分と熱心なご様子。何事かお悩みの事と存ずる。差し支えなければ拙僧が合力致しましょう」
「和尚様、ありがとうございます」
「して、一体何事をお悩みで?」
「はい、私の悩みは正にその『井杭』と申します私のあだ名の件でございます。和尚様は何故、私が本名ではなく『井杭』とあだ名で皆に呼ばれているかご存じでございますか?」
「そう言えば確かに。拙僧は寡聞にして存じ上げぬ事じゃ」
「私には日頃から非常にお目を掛けて下さる方、さる屋敷の旦那様がいらっしゃるのですが、そこの旦那様には一つ困った癖がございまして」
「困った癖とな?」
少年はとても困った顔を隠すこともなく語った。
「扇でもって何かにつけて私の頭を叩くのです」
「井杭殿、それは折檻か何かか?」
「いえ。その様な意図ではなく、旦那様が私に話しかけるたびに、まるで拍子を取るように頭を叩かれるのでございます。それが兎に角、そのぅ、痛くて」
「ほう」
「それで私が頭ばかり叩かれる様子を周りが見て、皆には『杭』と呼ばれ始めまして」
「杭とな?」
「頭ばかり叩かれるのでその様子がまるで杭のようだと」
「……口の悪い輩もいるものじゃ」
「はい。そうこうしているうちに『杭では語呂が悪い』となり、何時の間にやら『いぐい』と呼ばれるようになりました」
「いの字は何処から?」
「それは旦那様の叩きたい所にいつも居るからと聞きますが、真実はなんとも。旦那様もこのあだ名を気に入られたようで、いつの間にやら私の事を本名ではなく『井杭』と呼ばれるようになりました」
「不思議なあだ名の由来はそういう事なのじゃな。それはまた難儀な――」
和尚は井杭の悩みを聞き少し思案を巡らせるが、良い解決法は見いだせなかった。
少年の事を気の毒には思うが、自分にできる事はないように思い始める。
自分にできる事は話に出てきた旦那に出会ったときに、少し注意を行うこと位である。
「はい。言って直る癖でもなく、ほとほと困り果てております。それで霊験あらたかなるこの清水寺の観世音様に何か良い思案はないかと祈っておるのでございます」
「確かに人の心に働きかける事ほど難しい事はないものじゃ。神仏に御すがりするしかないのかもしれぬ」
「はい」
「井杭殿の熱心な祈りは観世音菩薩様にも届いておるであろう。もうこれ位になさい」
「そうでしょうか」
「あの熱心な祈りを聞き届けられぬような方ではない、と拙僧は信じておる」
「和尚様ありがとうございます。幾分か気が晴れました。これにてお暇致します」
井杭は一礼をすると寺を辞去し帰途につこうとした。
「これ、お待ちあれ。もう今日は道中が暗い。如何に京の都と申せども夜分に共も連れず一人で帰るのは心許ない。知らぬ仲ではないし本日は当山で一夜を過ごされよ」
和尚は帰ろうとしていた井杭を引き留めた。
「お気遣いありがとうございます。しかし明日は旦那様の屋敷へ伺う事となっております。泊まるとなれば、こちら様のご迷惑にはなりませんか?」
「それならば猶の事。井杭殿は明日も頭を張られるであろう。拙僧には合力ができぬが、せめてもの慰めに今日は馳走いたす」
「ありがとうございます。ではお世話になります」
井杭は清水寺で一晩の宿をとった。
『この頭巾を差し上げましょう』
「……朝か」
井杭は目を覚ました。夜は明けておらず外は暗い。
鶏が鳴くにはまだ早いだろう。
「何か夢を見ていたような。そして確か、何かを下されたような気がする」
寺の朝は早い。夜の明けぬうちから誰かがもう仕事を始めているのであろう。
井杭は人が動く気配を感じた。
「目が覚めたのであれば、私も身仕度をしよう。朝餉を下されるとの事なので、それを頂いたら旦那様の屋敷に向かうとしよう。だが、その前に――」
井杭は外の空気を吸うために障子を開け外に出た。
山の清浄だが、肌寒い空気に身震いする。
「寒い。……ふぅ。……ん、これは?」
井杭は思わぬ寒さに思わず懐に手が向かった。そうすると懐にふくらみがあった。身に覚えのない膨らみである。着物の内側に何かが入っているようだ。
「……これは袋、いや頭巾か?」
井杭の懐には錦と毛皮で造られた見事な頭巾があった。
頭巾は手触りが良く、毛皮が温かい。
「思い出してきた。夢で確か頭巾を賜った。もしかしてそれが、この頭巾!!」
井杭は笑みを浮かべる。願いが聞き届けられたと思った。
「いやいや、一応和尚様に確認を取ろう。盗人と間違えられては事だ」
井杭は身支度を済ませると朝餉の席に向かった。
「和尚様、宿ばかりか朝餉まで賜り忝く存じ上げます」
「口に合いましたかな?」
「はい、とても」
井杭は食事を頂いた礼を述べる。
「それは良かった。では気を付けて行かれよ」
「山門を辞する前に一つ質問がございます。和尚様、この頭巾に見覚えがありませんか?」
井杭は朝から懐にあった頭巾を和尚に見せる。
「いや、初めて見る頭巾じゃ」
「誰か様の持ち物ではございませんか?」
「当山にはこのような見事な頭巾を持つものは居らぬ。……これ誰ぞ、この頭巾に見覚えはないか?」
和尚は一緒に朝餉を取っていた自らの弟子達に尋ねた。
「ありませぬ。左様な頭巾は昨日まではございませんでした」
「確かか?」
「はい。修行の一環として皆での掃除は欠かしては居りません。これほどの見事な頭巾であれば目につかない事はございません」
「それもそうじゃな」
和尚は井杭に視線を戻す。
「して井杭殿。この頭巾はなんじゃ?」
「はい和尚様。昨晩、夢のうちに頭巾を賜りました。そうして朝起きると、この頭巾が懐に入っておりました」
「ほう、それはそれは。井杭殿は観世音菩薩様より賜った頭巾と申すか?」
「いえ、そこまでは。夢に現れた誰か、としか申せません」
「仔細はどうであろうと当山にはその頭巾の持ち主など居らん。遠慮なく持ち去られよ」
「和尚様、ありがとうございます」
「なんのなんの。では井杭殿、しばしの別れじゃ」
井杭は清水寺を辞去した。
この作品は本来であれば短編として投稿するべきでござるが、作品の性質上どうしても解説が必要と判断いたし、その部分を独立させるため連載投稿と致した所存でござる。
もう全て書き上げておりますので順次投稿致しまする。
ご機嫌が斜めでければ高評価、ブックマークをよろしくお願いいたしまする。
以下、この作品が和泉流狂言台本の二次創作である事による備考にござる。
さて「井杭」の著作権ですが、これに限らず私がこれから書く狂言を基にしたシリーズの底本は国立国会図書館デジタルコレクションにて公開されている――
――『和泉流狂言大成 山脇和泉 著 (わんや江島伊兵衛, 1919) 』全4巻となっています。
著作者は4巻とも『山脇 和泉』と奥付に記載されております。
当時の能楽狂言方和泉流の宗家の方です。
この『山脇和泉』とは和泉流宗家の名跡であり、御本名は『山脇 元照』氏(没年1916年“大正5年” 2月25日『新選 芸能人物事典 明治~平成 日外アソシエーツ[編]』)となります。
何代目の宗家かは数え方に二つの説があり、10代目か17代目です。
なぜこの方と言えるかというと、理由は第1巻においての目次前の前書きに相当する部分において著作者の他界直後の大正5年3月にて著作者の死を悼む記述がある事。
第4巻の著作者の名前の上に故の字が付されている事。
和泉流はこの後しばらく宗家不在となるため次代の可能性がない事となります。
また、なんとこの時代の著作者の部分には、著作者の住所が記されており、その住所がすべて同一であるため、これをもって全4巻の作者が同一であると言えるはずです。
よって底本の著作者の没年は1916年。著作権の起算点は翌年の1月1日。
著作権法に記載された没後70年を余裕でクリアしています。
また公開年に関しても
第1巻 大正6年 3月25日発行
第2巻 大正6年 5月18日発行
第3巻 大正7年 10月25日発行
第4巻 大正8年 5月5日発行
と奥付にて記載されております。
著作者の死後に刊行された著作物であるものの、一応公開70年もクリアしていることをここに示しておきます。
ここに記したことは国立国会図書館デジタルアーカイブにおいてどなたでも確認することができます。
以上の理由により、二次創作のガイドラインにある『童話、古典文学など著作権の保護期間が終了している作品を原作とした小説』に当たると判断できるはずです。
まあ著作権に関しては、歌舞伎に免じて許してほしいのです。
なんで、ここで歌舞伎が出てくるのか。ですか?
話はそれますが、歌舞伎の中で一番の有名な演目の一つに『連獅子』があります。
ラグビーワールドカップ2019のマスコットのモデルにもなった演目であり衣装なのですが、これの元々は能の曲目『石橋』なのです。
そして歌舞伎が『連獅子』を初演したのは明治五年に入ってからとなっておりますから、なんと江戸時代ですらないのです。
ですからあのマスコットは能が由来と言っても良いはずですが、能楽は広い心を示し手柄を誇りません。室町時代から多分、六百年位は『石橋』をやっているのに。なんと心が広いのでしょうか。いよ流石、日本一!!
これに限らず歌舞伎は“能の台本”を歌舞伎にアレンジしたものがあります。
いわゆる『松羽目物』と呼ばれる作品群です。
なんでこんな話をしたかと言うと――
――ぶっちゃけ百年前の歌舞伎が許されているなら僕も許してください(土下座)――
という訳です。
しかし和泉流の狂言台本がいつでもどこでも読めるとは。
凄まじい時代になったものです。