新釈・近江屋事件
慶応三年11月15日、京都河原町通向かいの近江屋。
その日は朝から数多の要人がお忍びでここを訪れていた。
お目当ての男は、坂本龍馬。
大政奉還が成った、その影の立役者たるこの男は、数日前からここ近江屋に身を隠していたのだ。
「こう寒くちゃかなわんぜよ。のう? 藤吉」
「へい」
「おんしゃあ、ほんに無口な男じゃのう。口から先に生まれたわしとは、えらい違いぜよ」
坂本はゴホゴホと咳をしながらくっくっくと忍び笑いをする。
西日の射し込む室内はすでに随分と冷え込んでいた。
「大丈夫ですか?」
「おう! なんちゃあない! けんども、おまんほど鍛えちょったら風邪なんぞ引かなさそうじゃ」
「もちろんです。風邪なんぞ、最後にかかったのがいつかも覚えてません。兎に角、坂本さんも養生してくださいね。今日はもうご予定もないのでしょう?」
「そうじゃのう、じゃが、さっき会うた中岡がまた来るち言いよったんじゃ。その相手をせにゃいかんぜよ」
面倒だというような口調で、しかし顔には嬉しそうな色を浮かべながら坂本が毒を吐く。
中岡というのは陸援隊隊長中岡慎太郎のこと。
この日の午前に、一度龍馬を訪れていた。
「仕方がないのう、酒を用意してやるか」
「体調がよろしくないのでは?」
「何を言っちょるがぜよ。公が政を治天の君に還し奉ったその祝い酒ぜよ!」
『公』というのは将軍徳川慶喜公のことである。
「ここ数日、毎日呑んでるじゃないですか。風邪もそれのせいですし」
「ええんじゃええんじゃ! とにかく持ってきてくれ!」
「分かりましたよ……」
藤吉が席を立った時、下の階から二階の龍馬は呼びかける声が響いた。
「才谷先生! 石川様がお見えですよー!」
続いてドタドタと騒々しく階段を上る足音。
バンッと雑に開けられた襖の向こうには、大男が一人立っていた。
「よう! 龍馬! さっきぶりじゃの!」
「おまん、もうちぃとだけ静かに出来んかぇ……」
中岡慎太郎。
陸援隊隊長で土佐藩を脱藩した直後から脱藩浪士達の中心になるなど、各方面から絶対的な信頼を受ける坂本の盟友だ。
「いやぁ、寒い! 寒いのう、龍馬! こりゃ風邪を引きそうじゃ!」
「そうじゃな。とりあえず声を落としてくれ」
「まあ、質実剛健、幕府にも負けんかった維新の志士が風邪なんぞにやられるはずはないがの!」
「わしは風邪を引いちゃるんじゃ。おまんの声がガンガン響いてクラクラするぜよ」
「おぉ! すまんすまん。まさか坂本先生ともあろうお方が風邪を引いちょるとは思わんくてのぅ」
昼間に来た時に言っただろ、と大笑いする中岡に心の中で毒突く。
「ほんじゃほうじゃ、聞いたかぇ? 最近、巷ではわしらのことを『維新の志士』ち言うもんが増えちょるらしい」
「イシン? 清の言葉で言う、『維新』か?」
「ほうじゃ。 西洋では『りぼるーしょん』ちいう意味じゃ。京の都の皆々さまも、時代の変化を感じとるようじゃのう」
将軍徳川慶喜公の英断により政が京の朝廷へと返還されてから数日。
政治は未だ混迷を極めていた。
初めは倒幕をしたところで政治から手を引く考えだった坂本だが、その混迷を見るうちに新政府の形が成立し稼働するところまで見守ろうと覚悟を決めるようになっていた。
「まだまだぜよ。日本国が変革し、それをすべての人民に反映するには時間がかかる」
「西欧列強や亜細亜の中でのつきあいもあるからのぅ」
日本を変えても、次の壁として外国がある。
「まあ海外のことを考えるのは国内政治を固めてからじゃろう」
「ほいじゃあ、本題に入るか」
「なんじゃ?」
堅苦しい話はおしまい、と中岡は手にしていた風呂敷を広げる。
「酒じゃ。極上の逸品じゃ」
「中岡……」
「齢三十と一つの祝いじゃ。呑もうぜ」
「全く……」
そう、この日は坂本龍馬の誕生日。
盟友の粋な心遣いにこのいごっそうは笑みを浮かべ、藤吉を呼びだす。
「こっちも酒を用意してたんじゃ」
「ええのう。呑みくらべじゃ」
「酒だけじゃつまらん。なんか食うていくかえ?」
「おう。寒いからのぅ、鍋でも食うか」
「おし、ほんなら軍鶏鍋にするぜよ。ついでにおまんの好きな焼き飯も用意しちゃる」
「おい! 藤吉! 軍鶏を頼むぜよ!」
「おい中岡、わしの藤吉になぁにを言っちゃるがぜよ」
冬の短い陽が落ち、薄暗くなった室内。
酒を持ち、灯りを点けに来た藤吉に二人が絡む。
わいわいと談笑する二人の影が部屋の中にゆらゆらと伸びていった。
***************
「峯吉よ、使いに行ってくれんか?」
「藤吉さんじゃないですか! どうしました?」
「坂本さんが軍鶏鍋を食べたいと仰ってな。一つ、使われてくれ」
「分かりました! 行ってきますね!」
藤吉に声をかけられ、鹿野峯吉は元気よく返事を返す。
藤吉は元相撲取りらしく、大きな図体に陽気な性格を兼ね備えた優しいおっちゃんだ。
暇があるときはいつも一緒に過ごし、峯吉もまた彼になついていた。
その主人、坂本も気さくなお兄ちゃんのような存在で、峯吉は彼と話す機会を多分に持っていた。
小間使いの自分に対しても、他の大人と違って同じ目線に立って話してくれる一方で、多くの人から先生と呼ばれ敬愛されるその姿は彼にとって憧れの人物である。
当然その人の望みなら軍鶏の一つや二つ幾らでもお使いにいく。
「暗いから、気をつけて行っといでな!」
「ありがとうございます! 藤吉さん!」
11月の酉の刻は陽もすっかり落ち、明かりがなければ真っ暗闇に閉ざされる。
その中を提灯の灯りを頼りに数件離れた所まで出かける。
「こんばんは! 遅くにすみません!」
「はいはい、あら峰ちゃん! どうしたの?」
「軍鶏を一つ頂けますか?」
「軍鶏ね、はいどうぞ!」
「おおきに!」
「毎度ありがとう! 遅いから気をつけるのよ」
笑顔で店主に手を振り帰り道を急ぐ。
坂本は軍鶏が届くのを待っているだろう。
自分が早く届けたら喜ぶに違いない。
そう思うと峯吉の足は自然と速くなる。
「??」
近江屋の近くに辿り着くと何やら騒がしい。
向かいの土佐藩邸から人が出入りし、近江屋の前には不審な人影。
ゴクリと唾を飲み込み、意を決して近づくと不審な人影が動いた。
「とまれ! 何者か!」
輝く棒のようなものを構える男。
よく見るとそれは抜刀された真剣だった。
天下の往来で真剣を抜き去るなど尋常ではない。
「ぼ、僕は近江屋小間使いの鹿野峯吉です。お侍さん、これはどういったことでしょうか」
「ここに宿を取っていた土佐藩商人の才谷という者が強盗に襲われたとの一報があってな。まだ犯人が中にいる可能性があるのだ」
「坂本先生が!?」
わずかに見える玄関の中には鮮血と横たわる大きな物体。
「うそ……」
「あ、まて!」
刀を持つ侍の横を通り、その顔を見る。
「なんで……」
藤吉が倒れていた。
背中には袈裟懸けに刻まれた深い深い一太刀。
「藤吉さん! 藤吉さん!!」
「さか……もと……先生が……」
必死に呼びかけると、うわ言のように彼は何かを呟く。
重症ではあるが、息があることに安堵する。
「小僧。坂本先生の部屋はわかるか?」
突然侍が声をかけた。
びっくりして振り返ると、真剣な表情をしている。
『才谷』ではなく『坂本』と、確かに侍は言った。
「分かります」
「拙者は嶋田庄作。今は立場を抜きにして頼みたい。坂本先生のお部屋はどこか」
後に峯吉は嶋田が土佐藩下横目(下級警察官)という役職の者だと知るが、この時の彼にはそんな事など想像もつかない。
ただ、侍が小間使いの自分に対して頭を下げているという異常事態に目を白黒とさせるだけだった。
「敬愛する先生を助けたいんだ。早く頼む!」
「わ、分かりましたから! 頭をあげてください!」
慌てて頭をあげさせ、案内をする。
急な階段を上り、坂本の泊まっていた部屋の元へと走る。
「襖が……」
坂本の部屋は荒らされていた。
襖は蹴破られ、そこら中に血が飛び散っている。
障子や柱などには刀傷がいくつも出来、部屋の中央には血溜まり。
「ああ……ああ…………」
そしてその中に、坂本龍馬が倒れていた。
その体は一切動かない。
それはただの少年でしかない峯吉にも、事切れていることが一瞬で分かる姿だった。
「坂本先生……あぁ……あぁ……うあぁぁぁあああ!!!」
深夜の京都に、慟哭が響き渡った。
坂本龍馬は即死、もしくはそれに近い状況だったと考えられている。
背中と頭部に深い裂傷を追い、頭部への二つの傷のうち片方は頭蓋を抉り、脳にまで達していた。
藤吉はその翌日に死亡。
中岡もさらにその翌日、死亡した。
坂本と中岡、その両雄を失った日本は、それでも何事もなかったかのように新時代に突入した。
坂本、中岡両名が死亡してから丁度一年経った頃、天皇は江戸――今は東京と名を改めた――に移り、貴族や武士もそれに追従、それ以来京の街はすっかり寂れてしまった。
明治の世になって三年、東京奠都が行われてから二年。
清水の舞台から見える街はかつての賑わいを失い、すっかり廃墟と化している。
峯吉はその街を見下ろしながら思う。
あの時、軍鶏を買いに行かなかったなら、坂本や藤吉を救えたのではないだろうか。
あの時、藤吉が使いを自分に頼まず自分で軍鶏を買いに行っていたなら藤吉だけでも助かったのではないか。
もちろん、自分がいたところで何かが変わったとは思えない。
だが、自分のいないところで全てが起こり、そして終わっていたことが未だに峯吉の心を縛っていた。
彼は眼下に広がる寂れた京の町を想う。
かつて藩邸がひしめき合った辺りは荒野になり、御所のあったところは貧民街となっている。
街を行く人の数は目に見えて少なくなり、その服装も次第に貧相なものになっている。
これが、坂本の望んだ日本だったのか。
これが、彼の望んだ京都だったのか。
幕末は血生臭い事件こそ無数に起きていたが、それでも日本中から人が集まり京の都には活気があった。
見知らぬ土地の話を、言葉を、空気を、全身で感じることができた。
だが、たった二年でそれは全て消え失せてしまった。
まるで夢か、幻のように。
いつかと、峯吉は思う。
いつかこの寂れた京が、昔のように活気あふれる街になることはあるだろうか。
様々な文化や人が混じり合う、あの時のような時間を過ごすことは出来るだろうか。
五十年後、百年後、あるいは百五十年の後、もう一度そんな時代が来て欲しい。
再び京の都が活気を取り戻し、様々な人や文化が混じり合うあの夢のような世界を、もう一度感じたい。
きっとそれこそが、坂本龍馬という男が夢見た日本であり、彼が見たかった日本の姿でもあるはずだ。
身近に見ていた英雄達の背中。
憧れていた彼らの背中に、しかし自分は届かないことを峯吉は知っていた。
彼らのような強い信念と行動力の元で世界を変えた人たちに比べ、いかに自分という存在が小さく役不足かということは分かっていた。
彼に出来ることは、精々自分の目の前の日々を守っていくことだけ。
でも、それで良いのかも知れない。
そう峯吉は思った。
坂本や中岡の遺した新時代を生きていくだけ、ただそれだけの事が大切なのかも知れない。
時は流れ、今ではもう坂本の顔も、藤吉の声もはっきりとは思い出せなくなっていた。
過ぎ去ったあの日は、峯吉からどんどん離れていく。
「わしゃあ、海が好きじゃ」
ふと、坂本の言葉を思い出す。
「海の向こうには、見知らぬ世界がごまんとある。わしはのぅ、峯吉。いつか、世界中を回ってみたいと思うちょる。ほんでのぅ、いつか……」
坂本は峯吉の頭をポンポンと軽く叩いた。
「いつか、日本と世界中を繋ぎたいと思ってるんじゃ。わしらが海の向こうに行くっちゅう話だけではのうて、世界中の人が日本っちゅう国に憧れ、訪れてくれよる未来ぜよ」
「そんなこと出来るんですか?」
「分からん!」
ガハハと豪快に笑い飛ばし、彼は峯吉の背中をバンッと叩いた。
「分からんが、そうなったらきっと毎日がわくわくするぜよ。それに、数年後には藩がのうなって、日本が一つになるはずじゃ。ほんなら、もっと未来には世界が一つになるかもしれんのぅ。……ん? じゃけどそうなったら色々問題が……」
難しい顔をし始めた坂本は、「まぁ、兎に角」と峯吉を振り返った。
「兎に角、海はええんじゃ。峯吉も大きゅうなったら海に出てみぃ。そん時は鍛えちゃるからの!」
ガハハと笑う坂本。
約束が果たされることは無かったが、その時峯吉は彼が別世界の人間のように思った。
自分には想像の出来ない世界が坂本には見えている。
峯吉はそう感じた。
途中から難しい話になったけれど、彼の見えている世界がとてつもなく広いということだけはわかった。
今でも、峯吉には彼の見ていた世界は見えていない。
きっとそれは、自分には一生理解できない世界なのだろうとも思っている。
けれど一つだけ、「海に出ろ」と言う言葉だけは強く彼の心に残っていた。
「……いつか、土佐の海に行ってみよう」
彼との日々を心に抱き、そんな密かな想いを胸に抱え、峯吉は今日も京の街へと足を踏み出した。
お読みいただきありがとうございます!
以前、近江屋事件の日に「小説家になろう」の方で投稿させていただいたものの再構成版となります。
カクヨムの方でも投稿しているものを投稿させていただきます。