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 ここまででも、僕は「表現」という言葉を何度か使った。D猫殿下の演奏には強弱があり、「まらしぃ」の演奏にはそれが乏しいと書いた。だとすると、疑問がいくつか生まれる事になる。「表現」とはそれほど大切なものか? あるいは、強弱がついていれば、自動的に良い演奏となるのか? その点はどうなのか?



 この問いに、僕は簡潔に答えたい。というより、次のような考えを提出したい。つまりそれは「心が最大の技術である」という事だ。手回しオルガン弾き氏風に言うなら、心というのが、芸術作品において、微細なフォルムを生み出す為の最高の機関、あるいは理論である。人は変に思うかもしれないが、最高度の芸術作品において、理論は心情と一致する。また、技術は心そのもののあらわれである。これは説明を要するだろう。



 殿下がそのピアノ演奏において微妙な強弱をつける事により、視聴者の心を揺さぶるのは、それが技術だからではない。殿下が何故そうするかと言うと、それは彼女の中で、完全に心と技術が一致しているからである。例えば、ある強烈なメロディーの前で一瞬間を溜めたり、左手のリズム的な演奏で徐々にやってくる盛り上がりを演じる。それは先にあげた人達のように、技術としてそうしているのではなく、殿下の心がそうであるから、そう弾いているのだ。この時、技術と心とは一致している。僕達が彼女の演奏に心を揺さぶられるのは、ピアノ演奏という最も微細な、直接的な音楽現象に、彼女の心が透明に反映されているからである。



 この時、技術はどこにあるのか。それはピアノという物、単なる物性、あるいは人間の偉大な発明品と、芸術家の心を直結させる橋として存在している。この時、もちろん、技術がなければ芸術にならない事はもちろんだが、心がなければ芸術にはならない。だから、芸術家にとって最大の才能はその心情にあると言っても良い。技術というのが目的になっている限りは、芸術家とは言えない。芸術家は自身の心と、外側の、言葉や絵の具や、メロディーやフレーズとを直接的につなげる、そのような存在である。心と物との距離は芸術という世界においては、最も遠い。だから、その間を埋めるべく、本物の芸術家は日夜修練するのだ。そして、そうした事柄は常に自分本位的なものである。偉大な芸術家につきまとう、無意識的な尊大な雰囲気というのはその点に由来する。




 少し、見方を変えてみよう。例えば、パソコンに鍵盤をつないで演奏する時、その強弱はベロシティと呼ばれ、〇から127の段階で表される。(一番強いのが127) だから、細かい事を抜きにするなら、その状態でピアノを演奏する場合、127段階のベロシティの強弱と、キーである88個の鍵盤の数の組み合わせによって、どんなピアノ演奏も記録される事になる。(面倒なのでペダル等は抜く) だとすると、この電子的な情報の組み合わせを分析する事により、例えば、偉大なピアニスト達の演奏をコンピュータによって再現したり、また、自動で作り上げたりする事ができるか?という問いを設定する事が可能だ。



 つまり、そういう電子的な情報の側面から、芸術を完全に機械化し、ロボットが自動生成する、そういうものに作り変えてしまう事ができるのか? これは意図的な問題設定なので、細かい所は抜きにしてもらいたい。昔、「猿が適当にタイプライターを打ち続けたら、いつの日かトルストイの『戦争と平和』が偶然に生まれるか?」という問いがあった。今の問いは、それと似たようなものである。



 このパターンでは、芸術の論理的な面のみを注視しており、僕が心と呼んでいたものは無視されている。この論理的、理論的な面をずっと進んでいくなら、芸術に遂に心は要らなくなってしまうのではないか? あるいは、心を持たない機械が自動で素晴らしい芸術をどんどん製造する日が来るのではないか? 心などは、所詮、芸術愛好家の戯言に過ぎないのではないか?



 言ってみるなら、マルクスの行き過ぎた理論からレーニン、そしてスターリンに至る悲劇は、こういう面に現れたと言える。つまり、彼らは現実から理論を抽象したが、それをまた現実に適用するという事をして、大失敗した。これから先もそういう失敗が起こらないとも限らない。現実ーーーつまり、例えば殿下の作品から殿下の音楽理論を今の僕のように抜き出す事は可能である。しかし、僕がその理論を適用して、ピアノ演奏しようとすると(訓練して)、それは殿下とは似ても似つかない、醜いイミテーションになってしまうだろう。ここでは何が問題か? どこから間違えたのか? ここでの問題は、殿下の理論は殿下の心そのものであるから、もし、僕が殿下の演奏をしようとしたら、僕自身が殿下自身にならなければならない、という事である。



 心というのを、現実、あるいは理論から逆算できると想定してみよう。ある種類のベロシティの強弱と88鍵の組み合わせの、一つの演奏情報があるとする。そこに、機械的、自動的な演奏があるとすると、一つの問いが起こる。だとすると、それを統御する全体的な精神とは何なのか? それを統御する全体的な、統一的概念とは何か? すると、その統一的概念こそが、僕の言う「心」だという事がわかるだろう。もっと言うなら、僕の考えでは、この先、ロボットやコンピューターが偉大な芸術作品を作る事は可能である。それは可能だが、その場合、そのロボットなりコンピュータなりは、偉大な芸術作品を作る上で欠かせない、精緻な芸術理論を持っている事が要求される。それは心の代わりになるような何かであり、もし、そんなものを機械が持っているとしたら、外見はどうあれ、それはもう「人間」になっていると言えてしまうだろう。



 思考し、心を持っている機械を我々が生み出す可能性はある。しかし、その時、それはもう機械ではなく、変質した、あるいは進化した人間そのものである。そう考えない方が逆におかしい。僕達は片腕をなくした人間を「人間でない」と斥けたりはしない。だから、その時、人間の本質を抱いている機械は既に人間であると言える。だから、芸術作品を作るには、全体を統御する何らかの概念が必要であり、今、僕はそれを便宜上「心」と呼んでいるだけなのだ。



 今述べた事だけでは、徹底した自動機械論には反論できない。共産主義的に良い芸術を乱発できるという考えに反論するには、もうひとつの道具が必要だ。それを今述べる。



 理論から芸術を生み出す事はできる。今のように、「うまい」と「へた」という言葉だけが価値基準になってしまっている、そういう世界の趨勢にはそれなりの根拠がある。この場合、あらゆる演奏、あらゆる楽譜、あらゆる音楽が既に試みられ、単に人は、ある決められた階段を昇る事だけが、何かに卓越していく事だと無意識的に考えられている。



 卓越していく、向上していく事には、「既に決められたものをなぞる」という発想が染み付いている。その最たるものが受験勉強だ。そこでは、優等生達は現実から理論を抽象し、その理論からまた新たな現実(芸術作品など)を作り上げる。しかし、そういう過程でできるのは商品、製品だけだ。



 ーーいや、製品すら、そのような方法では「量産」しか可能ではない。発明、発見、あるいは何かを創造する過程というのは、現実から未来へと至る一歩であるから、未知なものを含む。優等生的なあらゆる精緻な理論は、未知なものを見逃すか、それに目をつぶる事から始める。だから、彼らはこう言う「我々は天才ではないので、彼らのようには考えないようにしよう。我々は凡人なのでかくかくしかじかの方法でやろう」 僕は逆に考える。どんな愚鈍な凡人でも、その人間が何かを試行錯誤、工夫したり発明しようとしている限り、その人間には(一時的といえ)天才の影が射しているのだ。そう言えるだろう。



 何かを生み出すという事には、未知のものが潜在している。逆に言うと、そのアーティストなり、発明者なりが何かを生み出そうとするという事は、未知なものを目指しているという証明であるとも言える。僕が言いたいのは、次のようなシンプルな事実だ。「現代において、モーツァルトのイミテーションを生み出す事はいくらでもできる。しかしどんな精緻な理論も、現代のモーツァルトを生み出す事はできない」 



 世の天才らは常に、今を基盤にして未来へと一歩踏み出す。そこに彼らの悲劇の原因が在る。彼らは一歩を踏み出す事により、現在世界から疎外され『未来』へと入り込む。彼らーー特にアーティストのような独自の存在は今を蹴破り、未来へと、未来の見えない天国へと入り込む。しかし、それが天国なのは、それが今、ここで現実ではないからなのだ。



 現実に天国を作ろうとする試みは、現実に地獄を作り出すという結果に終始した。だから、芸術家はその作り出した芸術の中でこそ真に呼吸する事ができると言える。彼らは、「今」を前提として未来へ歩くが、どんな複雑で正確な理論も、未来を織り込む事は不可能である。何故か? もちろん、未来の傾向を予測するのは可能だろう。しかし、その瞬間に、未来へ歩く者は、「未来への傾向の予測」さえも自分の思念の内に取り込んで、それすら越えようとする。ここで葛藤が起こる。現在性とは常に与えられた世界の事である。それは今から過去に至る精密な理論である。精密な理論から、過去のものまねを引き出す事はできる。だが、現在から未来へ歩む、その一歩は踏み出す事はできない。



 現在の、技術全盛、方法論全盛の重大な欠陥はここにある。それは製品を量産する事はできる。それはもちろん重要なものである。技術や方法論は。しかしながら、芸術は製品であるとは限らない。少なくとも、天才の作る芸術はそうではない。だから、天才とは常に理論外的なものであり、天邪鬼的な存在でありーー殿下の言葉で言うなら「変態」だと言う事になる。



 それは突飛な存在であり、階段を昇っていく事象ではない。うまいとかへたとか他人に言う事はできる。みんな、コメントでそう書いている。だが、僕は逆に問いたい。…では、その「うまい」とか「へた」とか言っているその基準そのものはなぜ、そう確固としたものとして誰にも信じられているのか? なぜ、その価値基準を何の疑問もなく、誰も彼もが受け入れているのか? 天才を人々が感嘆しているような顔をして、半ば以上拒否する理由もここにある。天才は現在の破壊者という側面がある。彼らは今の僕らの価値基準を破壊する。彼らは新たなものを生み出す。すると視聴者に二つの態度が生まれる。自分の価値基準が破壊された事に憤慨する者と、その事に喜悦を漏らす者と。


 この時、後者は現在から未来へと入っていき、前者は、現在から過去へと還っていく。



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