1 虚像の令嬢と若き宰相閣下
ドロシー=フォン=レイフィールド公爵令嬢。
闇夜の帳の黒髪に、深い憂いを湛えた瞳。抜けるような白い肌に華奢な体躯。
しかし公爵令嬢の特筆すべき点は彼女のたおやかな外見ではなく、彼女自身にかけられた呪いである。
彼女は似ていた。
見るものにとってかつて大切で、とりわけ今はもう手の届かない、記憶によって美化されたその存在に、彼女は似ているのだ。
誰に、と問われれば、それは人を特定できるものではない。例えば今は亡き母親、別れた恋人、果ては手放したペットまで、老若男女関わらず多岐に渡る。
鏡越しの美しき追想。
夢の中でしか有り得ない邂逅。
その特異な魔法は、貴族の世界に瞬く間に膾炙した。誰もが惑わされ、心乱される彼女のことをしばしば彼らはこの通り名で呼ぶ。
――――虚像の令嬢。
彼女は微笑む。
誰かによく似た、姿かたちで。
◇ ◇ ◇
と、いうのが、私、ドロシー=フォン=レイフィールドが貴族社会でまことしやかに囁かれている噂の全貌である。
果たして誰が流しているのかは知らないが、『魔法』、『呪い』、などとは随分過大評価されたものである。私は誰かを惑わせることも心を乱すことも出来ないし、魔女でも悪魔でもない。
盛り上がるばかりの評判に、過去に魔女を名乗る老婆のもとに連れて行かされたことがあったが、老婆は嗄れた声でこう述べただけだった。
「魔女の血も才能もないさ。このお嬢ちゃんは少しばかり、過去に好かれる質みたいだね」
諦めることだと、老婆は言った。
だから、つまり、そういうことなのだろう。
「……ロシー、ドロシー」
静かに私を呼ぶ声に、ふっ、と意識が引き戻された。
あまりに暇なせいかぼんやりと物思いに耽ってしまっていたらしい、私は咄嗟に辺りを見渡し、ここがレイフィールド邸――つまりは私の家の応接室であることを思い出した。
「お父様」
「ぼうっとしていたようだけれど」
「ごめんなさい、昨日は緊張してよく眠れなくて」
といっても、今日は午後近くまでぐっすり快眠だったのだが。
特に罪悪感もなく嘘を吐く私に、隣に座る父は少しだけ眉を寄せてなおも言う。
「そうかい。体調が優れないなら……」
「いえ、大丈夫です」
父の言葉を遮って応えると、かすかに揺れていた瞳がじわりと凪いで、父は私の横で居住まいを正した。
本当に、心配性というかなんというか。
たとえ私の体調が悪かったとしても、わざわざレイフィールド家の邸まで来てもらっていることになった客人をおいそれと追い返すわけにもいくまい。いくら公爵家とはいえ、相手方も十分に位が高いし、というかそもそも果てしなく多忙なひとなのだ。私を慮ってくれるのはもちろん嬉しいが、この機会を逃せばもっと事態が延長していく一方。多少眠気がある程度で、相手の貴重な時間を無駄にしてはいけない。
「よく見極めるんだよ」
私はそれに頷きだけで返して、扉の向こうから現れるであろう彼のことに想いを馳せ、心の中で呟いた。
(ヴィクター=ロージングレイヴ)
この国の宰相であり、私の夫となるかもしれない男の名前を。
「ごきげんよう、レイフィールド公爵令嬢。ヴィクター=ロージングレイヴと申します」
「お会いできて光栄です、ヴィクター卿。私の名前は、」
「ああ、よく知っていますよ。ドロシーというのでしょう。かの聡明な作家と同じ名ですね」
「……そうです。博識でいらっしゃるんですね」
背中で結んだディーマン・ブルーの長い髪に、眼鏡の奥にある黄金色の鋭い瞳。
今年で三十二になるという話だが、甘さのない玲瓏な美貌や、奥を見透かせない完璧な微笑みが、どこか年齢不詳にも思える超然とした雰囲気を漂わせていた。
なんというか、誤解を恐れずに言わせてもらうと、若くして宰相になったその手腕は伊達ではないというか、正直顔は良いが果てしなく胡散臭いというか、とりあえず一筋縄ではいかなそうな御仁であることは確かである。私は心の中で喝采を送った。
「私のことはどうぞドロシーと呼んでください」
「ならば私もヴィクターで結構です、ドロシー。……それと、結婚、の話ですが」
すこし苦笑するようにして、彼は先ほどまで父が座っていた位置にさりげなく視点を滑らせる。
簡潔に話を終わらせて早々に部屋を出て行った父が気になったのかと思ったが(残念ながら話術で『あとはお若い二人で』まで上手にこぎつけるほど器用な父ではない。あれは普通に逃げを打っただけである)、どうやら違ったようだ。
どこか困ったような、反省しているような表情を、麗しい顔に浮かべる。
「私が最初に相談を持ち掛けたときは、まさかすぐに色よいお返事が返ってくるとは思っていなくて。しかもそのまま一度も面会せずここまで事が及んでしまうとは……私が忙しいのもありますが、貴女のことをろくに考えず、随分甘えてしまいました。本当に申し訳ありません」
「い、いいえ、夜会で何度かご挨拶をしたことはありましたし、それに噂はかねがね伺っておりました。それに父からもあなたのことを素晴らしい方だと聞いていて、なので、特に、問題はないかと思って……」
問題はないかと思って、とは。我ながらなんて台詞だ、微笑みを浮かべた頬がひきつる。
問題がなければ満足に言葉を交わしたことのない男と結婚していいのか――我ながら、その言葉の俗物加減に笑ってしまいそうになる。
しかし、現実。
結婚適齢期真っ盛りの私に求婚してくる者の理由の多くは簡潔に述べて『虚像の令嬢が恋しいから』。
そんな輩と結婚すれば、私は壁に掛けられた絵画や精巧な人形のごとく扱われ、私の向こうの偶像を崇拝しながら生涯指一本触れ合わずに生涯を終えるに違いない。
が、勿論そんなくだらない理由で高貴なる貴族の血を無駄に絶やすわけにもいかない。
そして都合のいいことに、宰相閣下は血縁というはっきりとした後ろ盾が欠けていた。
――だからこれは文字通り、互いの目的を最優先した狂おしいほど正しいかたちの政略結婚。
一瞬ひきつっただろう私の顔を見て、宰相閣下は寸の間何かを思案するような顔になり、それからなにかを理解したような、しんと冷たい微笑みを浮かべた。
「そう、ですか」
金色の瞳が、ゆっくりと弓なりになる。
計算高い蛇が、獲物が死んだことを確信して安堵したような、そんな表情だった。
「ええ、実は私もずっとそう思っていたのです」
なにか清々しい調子でそう言う宰相閣下に、私は若干気圧されて居住まいを正した。白々しい、胡散臭い、といった雰囲気が無くなった代わりに、包まれていたオブラートも無くなってしまったような錯覚を覚える。
徹底した利益主義――だけど、それでも。
彼の眼には、私以外は何物も映っていなかった。
「貴女は私にとって、最大の利益となる女性だと」
いよいよ罪悪感も、己の俗物加減に対する自己嫌悪も消えてきた。
いつも私の恋愛に関しては沈黙を貫いてきた父が、こと宰相閣下に関してはやけに寛容だった理由が分かった気がする。動物的な勘が鋭い父は、本能で私の最善を選び取ってくれたのだろう。
とろけるように陶酔した、さながら恋人同士の密言の調子で、彼は悠然とこう言った。
「愛しております。貴女の血と、その権力を」
その言葉を聞いて、私ははっきりと、彼と結婚することを決めたのだった。