ささやかな希望
まだ、ワシが今よりは若かったころ。
バットが生まれたばかりの赤ん坊で、あそこに居着いて数年が経ったころ――。
「チェスター殿、この近くで鉄の鋳造やら、鍛冶やらをしているところはあるかのう?」
「知らん」
「そうか……。ならば、少し時間がかかってしもうのう……」
「何のことだ?」
その老人ともう何度、食事をともにしたかは分からなくなっていた。
10日は超えていたが、20日であったか、30日が経っていたか、今となっては曖昧である。しかし、そのころにはアーバインがいることに何の違和感も抱くことがなくなっていた。
「ここに置いてもらうのは今夜で終わりにしよう」
「何? 行く宛てはあるのか?」
「もともと、あってないようなもの。また近い内にこよう」
「また来るのか」
「うむ、また来る。……そうじゃ、この前、町へ行った時に酒を買っておいたのじゃ。飲まぬか?」
「……ならば飲もう」
そう大きくもない蓋つきのツボから、見た目以上の酒が出てきた。
ワシとアーバインは木を削ってこしらえた杯にそれを注ぎながら、海の音と風の声を聞きながら少しだけ語らい合った。
「わたしは見た目の通りに長生きをしてきたんじゃが……色々と旅をしておるとたまに、これはと思うような者と出会うことがあるのじゃ。そんな者にわたしは自分でこしらえたものを譲ってきておる。力も技量も乏しいが、兄弟で生きるべく戦い続けねばならぬ者達に二本一対の剣を授けたことがある。いつも道に惑い、己の心に嘘をつく小心の女に小さな短い剣を持たせてやったこともある。美食を求めて人の踏み入らぬ地にまで分け入って、巨大な魔物を討ち倒そうとする者には食器も作ってやったことがある」
「物好きだな」
「ほほ……よくそう言われてしまうものじゃ。しかしのう、巡り会わされるのじゃよ」
「巡り会わされる……?」
「うむ……。わたしはこれといった神は信仰しておらぬ。しかし世の中というものには出会うべくして巡り会う縁があるのじゃといつのころか感じるようになってのう。そうして出会った者達に、わたしはどうしても何かを与えたくなるのじゃ。そして今はチェスター殿に、何かを作ってやらんとならない気がしておる」
酒のせいか、やや上気したような顔でアーバインはワシを見た。
いつもより緩みはしているが、それでも静かにじっとワシの顔を老人の視線が射抜いていて何かを見定めるかのようだった。
「そんなものはいらぬ。ワシに剣も食器も必要ない」
「そうじゃろう……。わたしも悩んだ。じゃがの、きっと気に入ってくれるはずのものをこしらえよう」
「いらぬと言っておるだろう。耄碌しているのか」
「ほっほ……とうに耄碌などはしておるわ。それでもわたしは、そうせねばならぬのじゃ。チェスター殿が海を眺めておれば満足するように、わたしも何かを作り、これはと思う者に与えてこそ満足する性分なのじゃよ」
同じにされたくはないと思いはしたが、そういう変わり者だろうとは短いつきあいで知っていた。
だから黙っておくことにした。また来るとアーバインは言ったが、どこかへ行き、またここへ戻るというのは老人の足と余生を考えれば難しいことに思えた。今生の別になるだろうと思い、わざわざ無粋に水を差そうとは思えなかった。
「チェスター殿、もし、望みが何でも叶うとすれば……何を望む?」
「何かの問答か? ワシに学などはない、期待をするだけ損をするぞ」
「そんな小難しい話ではない。希望の話じゃよ」
「希望か……」
はて、しかし、考えてみると何でもと言われてもとんと思い浮かぶことはなかった。
しばし黙り込んで頭を巡らせてみたが、せいぜい思いつくのはこまごまとしたことばかりであった。悩みあぐねている様子を見かねたのか、アーバインはまたにこやかに笑みを浮かべながらワシに言葉を投げかけてきた。
「何でも良いのじゃ」
「それが思い浮かばぬから、こんな顔をしておる」
「欲がないのう……。例えばずっと穏やかな海でいてほしいであるとか」
「それではつまらぬだろう。海というのは穏やかな時もあれば、酷く荒れる時もある。しかし海が荒れるからこそ漁場は息を吹き返すのだ」
「ふうむ……。ならば一目、故郷を見てきたいであるとか」
「少年のころを過ごした漁村にも、同じように海があった。そこと繋がっておる海さえ眺められれば良い」
「では……ううむ……そうじゃ、一人息子が出ていったのじゃろう? また会うてともに暮らしたいなどとは思わぬのか?」
「ワシは好きに暮らしている。カークも、ワシと同じように好きに暮らしているだろう。ならば案ずることも、侘しく思うこともあるまいて。今の暮らしがワシには合っているのだ」
またアーバインは欲のない男め、とどこか呆れたように呟いた。
それを聞き流し、ふと思い浮かぶ希望というものがあった。
「思い浮かぶことがあった」
「おお。何じゃ、どんな願いじゃ?」
「笑わないでもらいたいものだが……息子が生まれてすぐ、遠洋まで漁に出たことがあった。乗っておった船は難破し、ワシは命からがら助かったのだが、暮らしていた村まで戻るのが困難な道のりだった。ようやく帰ったころにはカークはつかまり立ちができるほどに大きくなっておった。赤子というのは夜泣きもするし、すぐにぐずって、何とも手のかかるものだが……それでも、あの特有のかわいらしさというのは何とも比べがたいものだと思った」
「ふむ」
「どうせならば、ワシはもう少し……あの小さく、弱く、だがふっくらとした、赤ん坊というのをまた抱きたかったものだ」
「つまり子作りか?」
「違う。何をどう勘違いした? 確かに女房はとうに亡くしたが、今さら肉情などは抱かん」
「あいわかった、チェスター殿」
「本当に分かったのか?」
「うむ……お主にどんなものをやりたいか、ようやく全てが定まった。あとは打つのみじゃ」
杯の中に残っていた酒を飲み干し、アーバインは憑き物が落ちたとばかりに晴れやかな、しかししわくしゃの笑みを向けてきた。やはりおかしな老人だと思いながら、ワシも酒を飲み干した。
朝になり、漁へ出ようとしてアーバインが姿を消していたことに気がついた。
夜も明けきらぬ内に出ていったことを少し不安には思ったが、不思議な老人のことだから無事だろうと考え直した。
そうして数日が過ぎ、数十日か、あるいは数年が経ち、アーバインを忘れかけたころにまたふらりと現れたのだった。
「おお、チェスター殿。変わっておらぬようじゃ」
最初にやってきた時と同じく、少し目を放した隙にアーバインはワシが食おうと思っていた魚をむしゃむしゃとやりながら座り込んでいた。
「お主も変わらんようだの。また勝手に魚を食いおって」
「うまそうでのう。食欲というものはどれほど年を重ねても消えはせんのじゃ」
咎めたつもりだったが老人はそう言ってほほえんだ。
幸い、魚は2匹焼いていた。もう1匹が焼けているのを確かめてからワシも腰を下ろして焚き火を挟んでアーバインと食べた。食事が済むとアーバインは持ってきていた荷物を出した。それは細い棒状のもので、布に包まれていた。
「約束していたものじゃ。受け取ってくれるのう」
「いらんと言っただろう」
「ほっほ、まあ、見てからでもいいじゃろう。ほれ、どうじゃ」
言いながらアーバインは包みをほどく。
中から出てきたのは、ワシが使っていたのと同じに見える銛だった。ただし、やはり新しいからか作りは同じに見えても、綺麗であった。
「ワシは見ての通り、普段使いのものがあるから必要がない」
「ならば、その普段使いと交換をしてくれぬか」
「断る。長く使ってきて愛着もあるのだ」
「困ってしまうのう……。じゃが、気に入ってくれるはずじゃ。試しに手にしてくれぬか」
何やら強引で、断り続けても問答が際限なく繰り返されるだろうと踏んだ。
手に持つだけ持ち、難癖をつけて突き返す肚でそれをワシは握った。すると不思議な感覚がした。
まるで何十年もこれを握ってきていたかのように、何の違和感もなく手に馴染んだのだ。
重量といい、長さといい、比べてみても何も変わらないように思えた。本当にただ外見だけ綺麗になって、銛が生まれ直してきたかのように感じられてしまった。
「悪くはないじゃろう?」
「…………う、うむ」
悪くはない。
それはアーバインの言う通りであった。
「何も違和感なく使えそうじゃろう?」
「……うむ……」
それもアーバインの言う通りであった。
「新品にしたものと思って、交換してはくれぬかのう? ほれ、魚1匹を食うてしまった分じゃ」
「魚1匹と銛1本が釣り合うはずがないだろう」
「じゃからこそ、交換がよろしいと言ったのじゃ」
「む……」
「交換してよろしいのう?」
愛着はあった。長らく使ってきた銛だ。しかし、細かな傷もあり、汚れもあった。そっくりそのまま、何も変わらずに新品に変わるというのならば名残惜しさはあっても交換をした方が良いというのは自明の理である。どれだけ大切にしても、いつ壊れてしまうか分からぬ銛よりも、新品になってまた何十年と使えてしまいそうなものの方が良い。
そしてワシは、古びた銛を握り締め、これまでよくつきあってくれたと労いの言葉をかけてからアーバインに手渡した。
にっこりとアーバインは微笑み、ワシが使っていた方の銛をまた丁寧に布へ包んだ。この老人のところならば、不遇な扱いを受けることもないだろうとその手つきで感じられた。
「ではチェスター殿、今度こそ別れじゃ」
「うむ……。しかし交換とは言え、良いのか?」
「ほっほ、良いのじゃよ。これがワシの生き甲斐じゃ」
「ならばもう、これ以上を言うのはよそう。達者で」
「チェスター殿も達者でのう。その銛とともにいつまでも壮健であっておくれ」
アーバインは去っていった。
ノーマン・ポートまで続いている浜辺をゆっくりと歩き、足跡を残しながら去った。




