新しい朝を生きる
運動会で汚れたお召し物のお洗濯が終わった。
それから王宮の厨房を覗きにいくと、イザークさんは丸椅子に腰掛けて包丁を真剣な表情で研がれていた。
「イザークさん」
「…………」
声をかけると顔をこちらへ向けてから、また包丁研ぎのために視線を戻す。
「今日はご苦労さまでした。朝ご飯もお昼ご飯もとってもおいしかったです。あと、お夕飯のスープも」
話しかけるとイザークさんは包丁を研いだまま頷く。
「明日、お買い物行きますけれど何か必要なものはありますか?」
「…………」
そう問いかけると手を止め、イザークさんは腰を上げた。懐からパピルス紙を束ねたものを取り出し、調理台の上で羽根ペンを走らせてから、その紙をベリっと剥がして差し出してくる。食材のリストに目を通してから、それをしまう。
「ではお先に休ませていただきますね。おやすみなさい」
「ああ」
おお、今日はイザークさんの声を聞けた。
何だか珍しいから、嬉しくなる。それから王宮の使用人に与えられている部屋に戻った。
今日はとっても楽しい1日だった。
準備などで色々と疲れもしたけれど終わってしまえば、疲労は心地よい充足感に変わる。玉入れでレオンハルト様に誉めていただけたし。いつもあくせく働いてはいるけれど、普段のそういうのとは違った体の疲れが今は無性に嬉しい。たまにああやって体を動かすのは気分が良い。
それにミシェーラ様ともお話ができた。トリシャ様の面影が最近は色濃く見えるようになったけれど、ミシェーラ様はとっても元気でいらっしゃった。帰っていらっしゃったマオ坊ちゃんのお顔も見られて、クラウス坊ちゃんと一緒にお話されてるところを見られて。マティアス様ももちろん、お元気でご家族4人でとても仲の良さそうなところを拝見できた。
本当に良かった。嬉しかった。
クラシアのお屋敷にいたころは想像もできないことばかりで、そのことごとくが幸せな風景で。トリシャ様と旦那様とロジオン坊ちゃんがいらっしゃればもっと良かったけれど……。でもトリシャ様はきっと、遠くから見守ってくださっている。
あんなに小さかったころにお別れせざるをえなかったレオ坊ちゃんが、たくさんの人に囲まれて笑っているところを。とってもやさしくて、逞しい立派な男性に育たれたのを喜んでくださっているはずだ。でもブリジットさんが一緒にいらっしゃったら、あんまり成長できてないわたしにお小言をこぼされるかも……。
いや、ううん、もうマノンは単なる小娘じゃ――ないけど、それはそれで悲しい。出会いがほしかった。
でももうこの年じゃあ、一生、独り身で終わってしまう。ふと直面するこの現実には酷く落ち込まされるけど、でも、そう。わたしにはこの王宮でのお仕事がある。レオンハルト様がいて、エノラ様がいて、フィリアお嬢様が、ディー坊ちゃんがいる。イザークさんもいらっしゃるし、今では少ないながらも部下だってできているのだから寂しさなんて気のせい。
明日はシーツを洗って干して、それからお買い物へ行こう。
食材のリストはイザークさんにもういただいたから、レオンハルト様達にも必要なものがあるかお尋ねして……。あ、時間があったら礼拝堂に行こうかな。よく当たるって評判のリュカさんの占いも気になるし、今のこの何か幸せな気分なら良い結果が出るかも知れない。ああ、でもずっと婚期は訪れませんとかって言われちゃったらショックかも……。
「……あっ、いけない、早く眠らなきゃ」
わたしが寝坊なんてしちゃいけない。
眠ろう。眠ってしまおう。
明日も平穏無事な日が訪れますように。
願わくば、それが永遠に続きますように……。
朝を迎える。
素早く着替えて、髪の毛の乱れを直して使用人の食堂へ行けばすでにイザークさんが朝食を作り上げていた。塩だけで握ったオニギリとミソスープ。それからお豆と海藻を和えたもの。見た目だけは少し質素だけれど、どれもやっぱりおいしい。
「この朝ご飯が食べられるだけで、幸せです……」
「食いしん坊ね、あなた」
「そういう先輩だって、もうオニギリ3つ目ですよ」
「だ、だってそれは……おいしいんだもの」
若い娘達がそんなことを言い合って笑う。
イザークさんは目を細めて少しだけほほえまれていた。
シーツを干し終わると、風に拭かれて綺麗になびいた。
達成感。お天気にも恵まれたからすぐに乾くだろう。朝の内に各所で聞いて回った買物リストを確認してから、出かける支度をして王宮前桟橋から小舟へ乗り込む。水夫は新人さんの少年が同乗していた。
「うちの倅なんですがね、今日から見習いなんですよ。邪魔だったら突き落としてもらって構いませんので」
「何言うんだよ、父ちゃん」
「で、今日はどちらまで?」
「トト島までお願いします」
「あいよ、トト島。おう、お前も漕げ」
「うんっ。マノンさん、揺れるかも知れないけど落っこちないようにね」
「バカ野郎、揺らさないように漕げ」
「そう言う父ちゃんだって揺らしまくりだろっ」
「何をっ、見習いの分際で」
「ふふっ、仲がいいんですね。ちょっとくらい揺れても大丈夫ですよ」
父子で櫂を操って小舟は島の円周部を沿うように動き出す。
到着するまで、水夫の父子は軽口を叩き合っていたけれどくすりとさせられる会話だった。
エンセーラム王国、お天気は快晴。
気持ちの良い潮風が今日も吹き、人々は笑って過ごしている。




