マオライアス対ピエトロ
「がんばって戦うんだよ、あんた達。いい報せ待ってるからね」
「ありがとうございます……」
女将さんが序列戦があるから、という理由で僕らにだけこっそり朝食を一品だけサービスしてくれた。
オーロルーチェを追い出されてからずっと泊まり続けている宿の食堂で、いつものようにセラフィーノと一緒に朝食を摂る。硬いパンと少しの野菜が入ったスープ。野菜のピクルス。そしてサービスされた鳥の肉を焼いたもの。これが今朝の食事だ。
セラフィーノはけっこう偏食で嫌いなのか苦手なのか、まったく手をつけない食べものがある。今日はピクルスだった。大きめのずんぐりした丸いパンを2つに割って、その割れ目にお肉を挟んで頬張っている。で、手をつけないものはいつも僕の方へ無言で押しやってくるから、僕は先にピクルスからやっつけて食べる。
「何か、緊張する……」
「何で?」
あんまり味がしないのは、ここが安宿だからか。それとも僕の気持ちによるものか。
ボヤくとセラフィーノはいつものように、さらりと理由を尋ねてくる。本当にセラフィーノは人の気を知らない。知ろうとしていないわけじゃなくて、セラフィーノにとっての当たり前が普通とはかけ離れすぎていて分からないのだ。
「大勢に見られるし……相手が、ピエトロ先輩だし……」
「……それが?」
「色々考えちゃうんだよ……。失敗したらどうしようとか……どんなことされるか分からないとか……」
「大丈夫、マオは勝てる」
「根拠は?」
「あの狐目男に雰囲気がない」
「……雰囲気?」
「ある程度できる人がまとえるような……雰囲気」
よく分からない。
要するにセラフィーノの目には強い相手に映らないってことなんだろうけど。
「でもそんなの僕にもないよ……」
「確かにない」
「……じゃ、じゃあダメじゃない」
「だから同格だ」
「同格って……。どっちが上に見えるとか、そういう比較は?」
「大丈夫、さしたる違いはない」
やっぱりダメだ、セラフィーノは感覚的すぎちゃう。
というか色々と立っている場所が違いすぎる。セラフィーノからすれば、僕もピエトロ先輩もはるかに格下だ。高いところから地上を見下ろして、例えば人の視点から地面を見て、そこを這いつくばるアリの区別をつけたり、どっちが強いとかって考えるくらいに分かりゃしないのだ。もう今さらだけど。
「食べたら試合前最後の特訓をしよう、マオ」
「もうすでに食べ終わってる……」
「うん。だから早く食べて」
「……セラフィーノってさ」
「何?」
「こう……誰かに合わせる、ってしないの?」
「しない」
「何で?」
「逆に何でする?」
「それは……」
「それは?」
「ううーん……こう、揃った方がいいっていうか……」
「それは自分の能力に蓋をする。ムダになるばかりだ」
個人主義のセラフィーノは相変わらずである。
だからこそ、特別なんだろうけど。
朝食後、いつものようにスタンフィールドを出て荒野を歩く。
序列戦は1日に1回戦ずつ消化される試合スケジュール。初日は全18試合あって、僕は16試合目だから時間には余裕がある。荒野にぽつんと転がされている、というような印象の小さな巨岩周辺が特訓の定位置になりつつある。セラフィーノが1本の杭をその岩に地面と並行になるように打ちつけていて、そこにロープを結んで垂らした。ぷらんと1本ぶら下がる、何の変哲もないロープ。岩の上に飛び乗ったセラフィーノが上からロープの上部を掴むと、ソウラーがロープにかけられる。
特訓初日から、いつも最後に行われる課題。
やけに硬くて丈夫な、ソウラーのロープを切断するというものだ。いまだに1度として成功した試しがない。
「マオ、やっていいよ」
「……うん」
サンクトゥスロサを抜いて、振りかぶるように構えた。
必要なのは鋭い一振り。ただ速いだけじゃダメで、ただ力いっぱいやるだけでもダメ。スピードを乗せ、刃で断ち切る。それがコツらしいけれど、僕が今までどれだけやっても失敗続きだ。本当にセラフィーノみたいに簡単に一振りでこれを斬れるのかと疑問を強く持っている。
でも、僕は証明しなければならない。
「ふぅぅ……」
構えたまま息を吐く。
肩の力を抜いて、じっとロープを見据える。
手首を使って刃に少し角度をつけ、振り下ろす。
「っ……!」
ロープが揺れ動く。刃は切断することも、直径1センチ程度の太さのそれに食い込むこともできずに滑った。表面を削ることさえできていない。手応えは軽く、慣性でぶら下がっているロープの先端がくるんっと僅かに持ち上がった程度だ。
「もう1回」
「うん」
セラフィーノに促され、何度も何度も刃を振るう。
だけど一向にロープは切れず、太陽は空の頂点へ登り詰めた。
結局、まだこれは最初の課題だというのにクリアすることができないまま試合に臨まざるをえなくなった。
学院に数ある修練場の中で、最大規模の場所。
そこが第一修練場と言って学内で開催される大会と名のつくものの準決勝戦以上は必ずここでやることになっている。剣闘大会や魔法大会は出場者が多いので他の修練場と並行で試合が進行されていくが、序列戦に限っては全試合がここで行われるようになっている。
「1回戦第16試合。15番ピエトロ・コロンネーゼ対50番マオライアス・カノヴァスの試合を執り行う」
審判の教官が観戦に来ている父兄や、騎士団、ディオニスメリア王国の有力者が居座る特別観覧席に背を向けたまま言う。息を大きく吸い、そして全てを出すように吐く。そうしながら舞台に上がった。広い、とても広い舞台だ。ダンスパーティーが開催されてもここで一度に何十人という人が踊れてしまう。その中心で教官を挟むようにして僕とピエトロ先輩が向かい合う。
「構えろ」
その合図で剣を抜く。
ピエトロ先輩の剣は刺突に特化した、細身のものだった。護拳がついていて、丸く膨らんだそれが持ち手をしっかりと守っている。右足と刺突剣を持った右手を前に、半身になるようにして先輩が構える。僕は両手でサンクトゥスロサを握り込む。
走らされてきた。
毎朝、毎朝、どんなに弱音を吐いても、具合が悪いと仮病を使っても、胃の中のものを口や鼻から吐き出しても、さんざんに走らされた。走れなくなるとひきずられて、這いつくばるような形で必死に手と足を動かして追いつこうとしたようなこともある。
指一本も動かせない、と思うほどに疲れ果てて、でもそれが1日の特訓のウォーミングアップでしかなくて。
そしてこれまで幾度となく、セラフィーノに負かされてきた。
物心つくかつかないかというころから、ずっと剣を持たされてきたセラフィーノに。
あの超一流の剣技は、15年経ってもまだ成長途上にある。僕はそれに追いつけると言うことさえはばかられるほど劣っている。でも、その剣の冴えをもう300日近くも見て、叩き込まれ、体に教え込まされた。それに比べればピエトロ先輩は怖くない。
それに魔法の練習もしてきた。
最初は合計8個の火球を同時に出現させることさえ満足にできなかったけど、今はできる。瞬時に発動し、その1つずつを意のままに射出することができる。他にもたくさんの魔法をスパルタで教えられてきた。失敗する度に額に豆がぶつかってきて、毎度同じところにぶつかるものだからおでこの一箇所だけ頑丈になったような気さえしている。
剣を向け合い、開始の合図を待つ間にそれまでのことが次々と溢れ出してきた。
それこそ1日の休みもなく続けられてきた特訓の日々だ。最初は宿に帰ってくると汗と土埃にまみれた体を洗うことさえ億劫なほど疲れ、そのまま眠ってしまうことが何度もあった。でも10日か15日かすると、お腹がぺこぺこでしっかり晩ご飯を食べないと眠れなくなって、1ヶ月するとようやく特訓後に眠らずともゆっくりできる時間が増えて、2ヶ月目はセラフィーノに特訓に費やす時間をものすごく増やされてまた疲れ果てて眠るようになった。
そうして約300日だ。厳密には280日か、いや、270日か……。
とにかく、それだけの期間、ひたすらにセラフィーノに鍛えられ続けた。
「——始めぇっ!」
緊張感が高まり、静まり返った会場に教官の合図の声が響いた。
ステップを踏みながらピエトロ先輩が出てきて、鋭い突きが放たれる。顔を狙ったその一撃は恐ろしく速かった。顔を逸らして避けるのが精一杯。けれど、刺突剣の引きも同様に脅威のスピードだ。派手さがあるわけではないが、正確かつ速い突きの連続で後退させられる。
「アクアスフィア」
7度目の突きも後退してどうにか避けると、水の粒が空気中に出てきてそれがきゅっと袋の口を縛ったかのように寄り集まって僕の全身を包み込んだ。まとわりつく水の重さが体を制限する。そして繰り出される刺突剣。顔を振ったり、足を使って避けることはできない。
エアブラストを使う。突風を起こすだけの魔法。
けれどこれでピエトロ先輩を吹き飛ばすのはできない。前へ剣を突き出す動きのピエトロ先輩に反対方向へ押し返す突風を浴びせても効果的ではない。それほどの風量を生み出すことは僕にはできない。
——だから、捕えられたアクアスフィアの内部でエアブラストを使って、内側から水を弾くように壊した。
爆散して弾け飛ぶ水滴を、今度はアイスバーンという凍結の魔法で凝固させる。人の全身を覆えてしまう水量を瞬時に凍りつかせることはできずとも、爆散して飛沫と化した水滴程度ならば一度に凍らせて氷の粒にしてしまえる。それをカウンターの要領で向かってきていたピエトロ先輩にぶつけた。
「ぐっ……!?」
1つずつは小石を投げられるより痛くはない。でもそれが面となって大量にぶつかってくれば怯むし、細くて軽い刺突剣に氷の礫がぶつかればその軌道も逸れてしまう。普通の剣のように面で受けて顔などを局所的に守る、ということも刺突剣にはできない。
「アサルトゲイル!」
水球から逃れ、さらに後退しながらまた風魔法を使う。
無数の風の刃とともに竜巻を起こす魔法だ。凄腕の魔法士は、この規模をさらに大きくし、さらに密度の濃い刃で対象を切り刻む、上位のアサルトホールゲイルという魔法を使えるだろう。でも僕にはできない。それにこれで充分だった。
渦巻く強い気流と、そこから放たれる風の刃がピエトロ先輩を切り刻むとともに氷の礫を巻き上げる。ここから先の魔法の連携はセラフィーノ直伝。
「リフレクションレイ!」
熱を持った光線を放つ。これだけならば、単なるレイラインという魔法だ。練習次第でその熱量――つまり威力は上げられるけれど、そうすると光線そのものが太くなるとともに突き進むスピードが落ちてしまう。でもアサルトゲイルで飛び散った無数の氷の粒達がこの光を拡散、反射、そして増幅させる。煌めく無数の光の線が方々からピエトロ先輩に襲いかかる。
「スケープビット!」
ピエトロ先輩も魔法を使い、自身の体を盛り上げられた土のドームで隠した。熱を持って攻撃をする魔法に対して、土魔法は有効な防御手段となる。それを掘削させるだけの威力を持たせるのは至難の技だし、ましてリクレクションレイは1本ずつの光線が細くなっている。
でもスケープビットならば知っている魔法だ。自分の体を土のドームで隠すと同時に、別のところへ出口を作ってそこから脱出をできる。その穴を探しさえすれば出鼻をくじける。そう思ってステージ上に素早く目を走らせるが、出口と思しき穴が5個も6個も見える。——ダミーだ。どこから出るのかと足を止めた時、僕の足元が盛り上がった。
反射的に横っ飛びになると、僕の立っていたところから太い火柱が立ち上る。
そしてピエトロ先輩が身を隠したドームが崩れる。空けられた全ての穴はダミーで、僕の注意を分散させるもの。そして足元から魔法の奇襲をし、慌てた回避で体勢の崩れたところへピエトロ先輩は攻撃を繰り出してくる。
「まずは右の足っ!」
とっさに剣で顔を守るように防御を固めるが、刺突剣は僕の右足の太腿へ突き刺さった。
迸った痛みで右足を庇ってしまう。このペースはいけない。攻め立てられる。
「そして右腕っ!」
右手の付け根から肘のすぐ下までを刺突剣が深く激しく切り裂いた。
前腕の裏側を骨に引っかかりながら切り開かれたとでもした方が正しいか。
何にせよ、右前腕が使い物にならない。剣を取りこぼして、激痛のせいで痺れるように動かせなくなる。
「自惚れるんじゃないよ、キミ如きが序列戦なんて場違いなんだ」
胸に刺さったのは剣じゃない、先輩の言葉だ。
トーナメント表が発表されて初戦がピエトロ先輩だと分かった時から、勝ち目は薄いと思っていた。でもセラフィーノにずっとつきあってもらった特訓で、どうにかなるんじゃないかという希望も抱いていた。それを口にしてしまうと負けた時が情けなくて言えなかったけど、でも心のどこかで勝利を掴むのは不可能じゃないとわずかには思っていた。
「僕は最初から分かっていたさ」
舞台上を逃げる。縁まで追い込まれたら、あっという間に場外へ叩き落とされてしまいかねない。剣を落として、利き腕を潰されて、勝機は限りなく遠退いているのに。
「キミは弱い、心が弱いからすぐに折れて、歪むんだ」
目の前に土の壁がせり上がってきて足を止められ、かと思うと左右にも土壁が立ち塞がる。
「金属疲労って知ってるかい? あれと同じでね」
振り返るとピエトロ先輩が薄ら笑いを浮かべている。風が吹きつけてきて前髪が上がる。
「打ち直されても、また折れて、それを繰り返す度に亀裂が入るんだ」
チリ、と空気が乾燥するのを感じた。
目の前に大きな大きな、紅蓮の炎が出現する。
凄まじい炎の中、ウォーターフォールを使って自分に水を浴びせながら燃やされるのを防ぐ。めちゃくちゃに右腕が染みて痛む。歯を食いしばって、水圧に耐えて、呼吸のできない苦しみにもがく。炎が収まり、ようやくウォーターフォールも解除する。でも膝と左手を地面につきながら、どうにか倒れずに済んでいるという有様になる。
「そして壊れるんだよ、いつか。
キミはあまりにも脆くて弱い存在だ」
ピエトロ先輩が僕を見下ろし、刺突剣を向けた。
「降参するかい、マオライアス?」
目だけが笑っている。
弓なりに細められた、その目はどこまでも僕を見透かしているような気にさせられた。