オーロルーチェの小火事件
いつものようにセラフィーノの特訓が終わって、寮に帰ってくる。
あれきり、マックスという人が現れることもなかった。思い出したようにクラウスの手紙も読んだ。
『おにいさまへ
はじめまして。クラウスです。
おにいさまがエンセーラムにかえってくるのをまっています。
おにいさまがかえってきたらいっしょにあそんでほしいです。
おにいさまときのぼりをしてあそびたいです。
おみやげも、まっています。 クラウス』
簡素な手紙だった。
パピルス紙に書かれた、メモみたいな手紙。
どう返事を書けばいいのかが分からなかったけど、丁寧に書かれたのが分かってしまって無碍にできなかった。
1時間くらい悩みながら、手紙を書いた。
『クラウスへ
はじめまして、マオライアスです。
まだまだ帰れそうにないけれど、いつか会えるのを楽しみにしています。
木登りは危ないから、輪っか転がしをした方がいいと思います。 マオライアス』
返事も、簡素に済ませた。というか、これ以上、何を書けばいいか分からなかった。
土産代わりに雑貨屋で見つけた帽子を買って、それと一緒にエンセーラムへ送っておいた。あそこの日差しは強いから帽子はあった方がいい。
無事に手紙と帽子を送ってくれるよう預け、また寮に帰るとラウンジに少し前までつるんでいた同輩や先輩が揃って僕を待ち受けていた。取り囲まれると、居心地が悪くなる。セラフィーノの特訓が始められてから、彼らとのつきあいは皆無になっていた。——ピエトロ先輩は、その輪から離れたところでソファーに腰掛け、いつものように細い目を僕に向けていた。
「なあ、マオライアス。ちょっと金貸してくれないか?」
「俺も昨日、大負けしちゃってさ」
「最近お前、賭場に行ってないから余ってるだろ?」
馴れ馴れしくも、僕を見下した語気で彼らは肩を組んでくる。
両脇から片方ずつ腕を押さえられる。そして背後から、首に腕を回される。すぐにでも締め上げることができるだろう。
「…………」
結局のところ。
媚びて、気安く金を貸して、帰ってくるのはほんの2、3割で。
そんな関係性で居続けない限り、彼らは僕を下の存在と見てくる。
「カノヴァス、なあ……調子乗ってるんじゃねえ、最近?」
「何か言おうぜ、友達だろ?」
「それとも今度は? 俺らのこと裏切っちゃう? まーさーかー、ないよな? なっ?」
フラッシュバックする、嫌な記憶。
惨めで、無力で、ただ羞恥と苦痛に耐えるしかなかったころの思い出。
体の芯が熱くなったような気がし、気がつくと身構えるように体に力を込めていた。
「じゃあ今日はお前の奢りで、黒馬の鬣亭行こうぜ」
「ペラゴン、いっちゃうか?」
「おおっ、いいね、ペラゴン! あそこの葡萄酒は1本で金貨3枚とかするしな。俺達の変わらない友情に乾杯、ってことで10本くらいいくかぁっ!?」
「ははっ、5本くらいでいいじゃないか」
「でもきっとマオライアスが、もっともっとご馳走したいって言うぜ?」
左右と背を押さえられたまま、ラウンジから移動をし始めようとする。
押されるようにして歩かされる。
『不可能はひっくり返せる。
マオ、自分に期待しろ。それか僕を信じて。
マオは変われる。強くなれる』
自分に期待しろ。
セラフィーノを信じろ。
僕は変われる。強くなれる。
不可能はひっくり返せる。
胸の中で自分に言い聞かせるように唱えてから、足を止めた。
背中に軽くぶつかるのを感じる。腕だけが引っ張られかけ、振り払う。
「あ——?」
「マーオー、ちゃん? どーかちまちたかぁ〜?」
「すぅぅ……はぁぁ……」
深呼吸をしてから、顔を上げる。
「……行かない」
その一言を確かめ合うように、彼らは仲間達と目配せをした。
「何だって? もっぺん、言ってくれないか? 耳の調子が悪くなったみたいだ」
「行かないって言った。仲間なんかじゃない。タカられるつもりはもうない。お前らと友達なんか、ありえない!」
しんとラウンジが静まった。
その場がシラけていく。そして、いきなり右側に立っていた先輩が僕のお腹に拳を叩きつけてきた。
「ぐあっ……!」
反射的にお腹を押さえて前屈みになったら、後頭部を殴打されて顔から床に叩きつけられる。背中を踏みつけられ、顔の前にしゃがんだ先輩が僕の髪の毛を掴んで持ち上げる。
「やっぱ調子に乗ってるよ、お前。
悪い犬にはオシオキしなくちゃダメだよな?
ごめんなさい、もうしません、って犬語で言えたら許してやるよ!」
脇腹を蹴られて、頭を思いきり踏みつけられる。
激しい痛みに襲われる度、息が詰まった。無理やりに立ち上がらされ、背中から羽交い締めにされると助走をつけてお腹に両足を揃えた飛び蹴りをしてきた。そのまま後ろに倒れ込むと、僕を抑えていた人に後頭部をまた殴られる。今度は胸に膝蹴りをされる。次から次へと畳み掛けられてくる暴力にこらえきれない声が漏れる。
「おらぁっ!」
頭を持ち上げられ、顔に蹴りを入れられた。
くらっと意識が飛びかけるけど痛みがそれをしっかりと引き戻した。床に転がされる。ようやく一段落すると、僕を痛めつけた人達の荒い息遣いが聞こえた。
「ごめんなさいワン、って言えるか?」
「……っ」
「もうしませんワン、って言えよ?」
「……ファイアボール」
「は?」
「燃えろっ!」
全身が酷く痛んで、僕も息が荒くて——でも、それがどうした。セラフィーノに特訓されているんだ。
ファイアボールを合計8つ、同時発動。自分を中心にした四方に火球を作り出して、全てをめちゃくちゃな方向に放った。
「本気で燃やしやがった!?」
「火ぃ消せ! 早く!」
「魔法で消すんだよっ、バカが!」
慌ただしい声が飛び交う。
「ざまあみろ……」
「カノヴァアス!!」
吐いて捨てるように漏らした言葉を聞きつけた1人が、腰から剣を抜いた。反射的に目をつむった時、ラウンジを包み込もうとしていた炎の熱が瞬時に消え去った。そして金属音が鳴る。
「っ——」
「マオ、だから言ったんだ。やればできる、って」
セラフィーノがいた。
鞘に納めたままの剣で抜かれていた刃を受け止めている。ラウンジがまるごと氷漬けにされていた。一瞬で火を消し、冷却してしまったのだ。カーペットの毛の1本ずつが霜柱のように逆立っている。
「レヴェルト……!?」
「次にマオに手を出せば、今度こそマオはこのラウンジを燃やし尽くす」
勝手にセラフィーノが言って剣を押し返すと、片膝をついて僕に手を差し伸べる。
「そうだろう、マオ?」
「…………うん」
握った手は、その綺麗な顔とは似つかないほどゴツゴツしている。
手を引かれながら起き上がるとふらついて、セラフィーノに支えられた。
「こんなことして、このオーロルーチェにいられると思うなよ!?」
「どうでもいい。お前達のような性根の腐ったドブ野郎どもと同じ空気を共有しなくなるなら、その方が喜ばしい」
言い放たれたセラフィーノの暴言は、ラウンジにいた誰もを凍らせた。
初めて直接的にセラフィーノが言葉にしてけなした。それまでセラフィーノにちょっかいを出した人は無言の報復を受けていただけに、奇妙なショックがこの場を支配したのだった。
1時間を待たず、僕とセラフィーノは退寮を命じられた。
替わりの寮を通達されることもなく、荷物をまとめてオーロルーチェを出ていった。どれだけの魔法を使ったのか、ラウンジの壁と天井、それに取り揃えられていたいずれも高級品の調度類は隙間なく氷に覆われていて融ける気配もなかった。
「宿なしになるまでは考えてなかった」
学院中腹の玄関ロビーまで来たところでセラフィーノが言う。
「ごめん……」
「何が?」
「……セラフィーノまで、巻き込んで」
「さっきも言ったけど、この方がいい」
「すごいこと、言ったよね」
「別にすごいことじゃない。マオの方がもっと言えたと思う」
「そ、そうかな……?」
「試しに言ってみたら?」
「えっ?」
「試しに」
「……えっと……いや、そんな、思い浮かばないよ」
ちょっと考えたけど罵倒する言葉は浮かばなかった。
するとセラフィーノはふっと笑う。
「マオらしくて、いいと思う」
「……そ、そうかな?」
「野宿しよう」
「野宿? ずっと?」
「大丈夫、きっと楽しい」
「ええええ……?」
「あ、でも手紙が受け取れなくなる……。後でいいか、考えるのは。行こう、マオ」
オーロルーチェのラウンジで僕が小火を起こしかけ、それをセラフィーノがカチカチの融けない氷で凍結させた。
僕らは揃って宿なしの身になって、それなら宿に泊まればいいのに野宿をした。荒野に起こした焚き火を2人で挟みながら横になって眠った。朝になると体のあちこちが痛くなってて、やっぱり宿に泊まろうと笑い合った。