不可能はひっくり返せる
いきなり、どこからか叫ぶような声がした。
何と口にしているのかも聞き取れないような、でも必死すぎる声だった。部屋を出て廊下に顔を出すと、同じようにしているオーロルーチェの学生がいる。声はどうやら奥の部屋から聞こえてきていた。気になって声のする方へ歩いていくと、そこはマオの部屋だった。誰も寄りつこうとしていない。異常なこの叫びが何なのかと気にはなっても、関わろうとする人はいなかった。
ドアを開けると、マオが1人で暴れていた。
体を床に叩きつけるようにして、頭を壁にぶつけるようにして、たった1人でのたうつように暴れ回っている。釣り上げた魚がはねるような動きにも見える。部屋には羽毛が散らかっている。寝具の詰め物か、何か。でも、そんなことを気にする余裕もない。狂乱しているマオの肩を掴んで動きを止める。
「マオっ!」
ぎょっと驚くような顔をして僕の姿を認め、それからマオは顔を歪ませていく。
「……マオ、何? どうしたの?」
そう尋ねても表情は変わらない。
それどころか、今度は涙をこぼして、体を震わせる。
「嫌だ……」
ひどく掠れた声。
「何が」
「嫌だっ……い、やだ……」
ぎゅっと目をつむり、僕の手を振り払う。
また同じように自分を痛めつけようとするのは目に見えている。錯乱している。止めさせようとして手首を掴むが、駄々をこねる幼児みたいにマオはまた振り払ってしまう。
嫌だ、とばかり繰り返して何度も止めてもそれを逃れようとした。
だから僕も、何度もそれを止めた。そうする内にマオはだんだんと弱るように力を失っていって、そこにへたりこんだまますすり泣いた。
ようやく落ち着いたマオをベッドに寝かせた。
枕はなかったけど、毛布をかけてあげると眠ってしまう。疲れていたのかも知れない。部屋中に散らばっていた羽毛をまとめて捨て、抜き身のまま床に転がっていた剣を鞘に入れて壁に立てかける。あと床に落ちていたのはジャムの入った小さな小瓶。マレドミナ商会のマークが蓋に焼き印されている。そして、メモ紙のような紙片。中を見てみると、マオの弟からの手紙みたいだった。以前、レオン達が来た時に確か生まれたと聞いた。きっとその子からだろうと分かったけど、折り目とは関係なしにぐしゃっとしわがついていた。
ジャムと手紙はマオの机へ置いておく。
それから壁に立て掛けておいた剣を抜いてみた。鮮やかな真紅の剣。一目で名品と分かる一級品の剣だが、確かこれはマオのお父さんがいつも腰に佩いていたものだ。どうしてこんなものがここにあるのか、いまいち分からない。
眠ったマオの顔を見る。
さんざん床や壁にぶつけたせいか、ところどころ擦過傷ができている。
痛そうだから回復魔法をかけてやり、顔以外の傷も治しておく。これといった大きな外傷はなかった。
これで一安心——とするには早計か。
さっきの暴れっぷりはおかしかった。異常だ。
何かを嫌がっているように見受けられるが、一体、何をそれほどに拒否したというのか。
この1年でマオが誰かに虐められるというようなことはなくなっていたし、マオの気持ちがどうだったかは分からないが大きなトラブルにも見舞われていなかったように見えた。目が覚めたらまた暴れてしまうことも考えられる。
「…………何」
ふと、気配に気づいて顔を向けた。
戸口に立っていたのは、誰だったか。1つ学年が上の人。狐みたいな目の、マオを彼らの輪に引きずりこんだ男だ。
「彼が何か暴れていたって聞いてね。どうしたのかと思って、少し見に来ただけさ」
「……マオならもう寝た」
「ふうん? ……意外におやさしいんだね。彼、キミを売って僕らに取り入ったのに」
薄ら笑いを浮かべながら狐目男が言う。
「用は?」
「無視かい? どんな気分か、少し教えておくれよ?
剣闘大会二連覇のかかっていた試合を、マオライアスのせいで妨害されて裏切られた時の心境とか」
「ないなら失せろ」
「失せろ? ここはキミのプライベートな空間じゃないのに、そんな権利ないだろう?
そんなに触れないでおきたいことになってるのかな?
自分が庇護してやっていた子犬に手を噛まれたのが。
メンツとか、キミにもあったのかな?
それを潰されてご立腹だったりした?
さんざん庇って、守ってやって。
その結果の裏切り、鮮やかだったよね。
あれって彼が提案したことなんだ。
魔法を封じれば無力なんだ、って。
だからガシュフォースを仕込んだ。
キミは負けた」
よく分かった。
こいつは人を踏みにじるのが好きな男だ。
用件などなくて、その歪んだ趣味を楽しんでいる最中だ。
「思い上がってる、お前は」
「思い上がってる? 僕が? 何がだい?」
「裏切られてない」
「はあ?」
「去年のことなんてもう気にしてもいない。
お前達の妨害にマオが加担してたのは知ってた。
その上で、僕は平気だって言っておいた。
だからマオは実行した。
あの場での対処ができなかった僕の落ち度だ」
冷やかすように細めていた目が、少し開かれる。
気に入らないらしい。
「売られたのに?」
「好きに切り売りすればいい」
「意味が分からないよ、キミ」
「それでマオのためになるんなら、いい。
友達なんだから」
部屋の中に踏み入ってきた狐目男が僕の胸ぐらを掴む。
目を開きながら僕を睨みつけてきた。
「頭がおかしいのかな、エルフっていうのは。
キミは彼に都合良く利用されて、裏切られて、もう何とも思われていなかったんだ。
それなのに友達? 彼のためならいい? 自分の落ち度? どれだけめでたい頭してるんだい?
現実を見なよ、キミがどう思っていようが、キミとあの愚図はっ、もう——」
「お前が語ることじゃない。マオは愚図でもない」
怒りで顔を青白くさせ、狐目男が手を放した。
この男の目論みは僕を精神的に傷つけることにあったんだろう。
だからいかにもショックを受けそうな言葉を並べ立てて僕に迫った。
「出ていけ」
「っ……」
「でも、マオが虐められないように守ってくれたことはありがとう」
尻尾を巻いて逃げるように部屋を出ていった。閉められたドアがうるさい音を立てる。自分がやろうとしたことを少しは思い知っただろうか。いや、ぬるすぎるか。
「……セラフィーノ……」
「っ……マオ、起きた?」
呼ばれてベッドを振り返ると、マオが薄く目を開けていた。
「痛いところは?」
「……ごめん……」
「何が?」
「ごめん……」
また顔を歪めて、苦しげにマオは謝る。
「何も僕が謝られるようなことをマオはしてない」
「した……」
「多分気のせいだ」
「違う……。ピエトロ先輩が、言った通りだから……」
いつから起きてたんだろう。
どこから聞いていたんだ。
「もう……僕なんか、友達なんかじゃないのに……」
「誰が決めた?」
「っ……誰かが決めるまでもないよっ……。だって、だって、あんなに、セラフィーノはがんばってたのに、僕のせいでっ……」
「身一つで剣を振って負けた実力だっただけ」
「何で、セラフィーノは……そんなに、気にしないの。
セラフィーノだって本当は軽蔑してるんでしょ?
僕を、どうしようもないって……」
「してない」
「何でっ……」
「だって友達だ」
「普通はっ! 友達を裏切ったらもう友達なんかじゃない!」
ああ……。
そういうものなんだ。
裏切ったら友達じゃない。
だからマオは否定したがる。
なるほど。
「じゃあ、分かった。友達じゃなくていい」
「っ……」
「友達の上は、マブダチだってレオンが言ってた。
だからマブダチだ」
「ま、まぶ……?」
「マブダチ」
「っ……そうじゃない!」
「どこが?」
「そういう問題じゃないっ……」
「……マオは、僕とはもう友達も、マブダチも嫌?」
「…………」
問いかけにマオは沈黙をし、それから頷いた。
「何で?」
「つりあわない」
「他は?」
「僕が……みじめになる」
「あとはある?」
「顔を向けられない……後ろめたい……」
「まだある?」
「……僕なんか、いない方がいい」
「それだけ?」
「…………」
もう言葉が出なくなったから、これが全てだろうと決める。
反証を1つずつ挙げてもいいけど、あんまり違うと言い続けてもマオが嫌かも知れない。
「じゃあ、解決策が分かった」
「何で僕に構うの……放っといて」
マオの言葉を無視する。
僕を見ようとせず、背を向けたままのマオの肩を掴んで仰向けにさせた。その顔を覗き込んでやり、目をつむろうとしたから指で片方の目の瞼を無理やり開かせる。
「僕を見て、聞いて、マオ」
「嫌だ……」
「解決策がある。
マオが強くなればいい」
「そんなのっ、できるはずない……。期待しないで……裏切るしかない」
「大丈夫、期待じゃなくて事実だし、裏切ったことになるとして僕自身の判断に裏切られたっていうだけになるから、マオに非はない」
「違うんだよっ! 僕とセラフィーノは! ムリなんだよっ!」
「ムリじゃない、できる。
不可能はひっくり返せる」
「期待しないで!」
「期待しろ、マオ。自分に」
「っ……」
ようやくマオが嫌々をやめ、僕を見て視線を定めた。
それでも顔は可哀想なくらい強張っている。
「できないって思うことはあっても、できちゃうことはある。
人はその繰り返しで文明を進化させて、今日まで生き続けてる。
誰もがムリだって口を揃えたことでも可能にして見せた人は探せばいくらでもいる」
「いないよ。不可能は、不可能だ。できないから、不可能なんだよ」
「言葉遊びじゃない。事実だ。レオンは穴空きなのに魔法を使える」
「……っ」
「しかも悪童伝説なんて作ったくらい」
「あ、悪童……? レオンが、何で……?」
「知らないの? あの悪童はレオンだ。勇者はマオの父親。賢者はロビン」
「…………え?」
学院で語り継がれている悪童伝説というお話は、今は随分と編纂・改訂を繰り返されて原典からは遠ざかっている。でも、最初期のものを見ればそこに登場する人名は、エンセーラムにいれば自然と耳に入ってくるような人ばかりだ。彼らが学院にいたころと、悪童伝説が作られた時代は一致する。
「それは今はどうでもいいけど……」
「…………」
とにかく、大事なことは。
「不可能はひっくり返せる。
マオ、自分に期待しろ。それか僕を信じて。
マオは変われる。強くなれる」
言い聞かせると、マオは瞳を震えさせた。
マオの瞳に映る僕の顔が、何だか少し脅しているように見えた。意図はしていない。
その悪印象をちょっとでも払拭するために、口元を綻ばせておいた。
「一緒に強くなろう、マオ。
ううん、僕が、マオが強くなれるように協力する」
腰を伸ばして、真紅の剣を持ち上げた。
振り返るとマオが体を起こして僕を見つめていた。
立派な剣をそのまま差し出すと、マオはためらってから僕の顔をうかがうように見る。
そして、自分から手を伸ばして剣を掴んだ。
「……序列戦」
両手で剣を握り締め、ぽつりとマオが呟く。
「序列戦、一位……僕でも、なれる?」
「難しい」
「…………」
「けど、不可能はない」
「セラフィーノ……」
「これを証明するのは、マオと僕だ」
またマオが泣いた。
昔から思っていたけど、泣虫だからしょうがない。
それに今度の涙はちょっと違った性質のものに見えた。




