嫌だ。
序列戦第一位――。
それはディオニスメリア王立騎士魔導学院の学生が手にすることのできる、最高の栄誉だ。
ここに名を連ねた者が王国騎士団に入れば出世は確実。学院ができてからというもの、歴代の騎士団長全てが序列戦第一位の座を掴んでいる。その代の学生全ての中でもっとも強い者である。序列戦は第一位から三位までが決められるが、この三本指に入れる者はすでにして正規騎士よりも実力があるとさえみなされてしまう。
この最高の栄誉の座を掴めなかったら、僕は一生、騎士団でいびられ続ける。
それもエリート揃いの親衛隊、現王の兄でもあるトヴィスレヴィ殿下の護衛役で。親衛隊になれれば王族と直接、顔を合わせて自分を知ってもらうことができる。王族に個人を知っていただくというのは騎士にとって最上級のステータスで、競争率が高いだろうというのは簡単に想像できてしまう。
そんなところに放り込むという脅しは、きっと実行されてしまう。お父さんは元々、僕を放り込むといったその親衛隊の一員だった。殿下の信頼が厚かった。有言実行するだけのコネがある。
逃げ出したところで、必ず見つけ出される。
どういう方法かは分からないけど、ふらりとスタンフィールドへやって来たようにどこへでも来られるはずだ。エンセーラム王国にはワイバーンがいる。広い世界を縮めてしまえる、強い翼を持つ魔物を飼い鳴らしている。あれがいる限り、僕がどれだけ不眠不休で歩き通そうとしてもすぐに追いつかれる。身を隠すにしてもそれでは生きていけない。僕なんかが1人で生きられるはずもない。
終わった。
人生はもう、おしまいだ。
どれだけ酒を飲んでも、僕がこの事実を一方的に忘れたとしても、お父さんは予告通りに次々回の序列戦を観にくるだろう。
そして決が下されるのだ。騎士団へ行け、親衛隊に入れ、一生を蔑まれながら過ごせ、と。
嫌だ。
体が震える。
寒気がする。
僕のプライドなんてちっぽけでしかない。
小さい豆1粒分しかないと思う。
それでも恐怖させられる。
指差され、陰口をたたかれ、面と向かって罵声も浴びせられるだろう。
そうしてバカにされ続け、邪魔者扱いをされ、いない方がいいとまで言われるんだろう。
想像するだけで怖くなる。
消えてしまいたくなる。
逃げ出したくなる。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
「——マオ?」
声をかけられて顔を上げると、ミルカがそこにいた。
いつの間にか、視界は歪んでしまっていた。目に溜まった涙が目の前を滲ませている。
「ど、どうしたの、そんな顔して……こんなところで。お腹痛いの?」
しゃがんでミルカは僕の背をさすった。いつの間にか僕より小さくなっていたミルカ。あんまり、ユーリエ学校でも話したりすることはなかった。でも前は僕の方が少し背が低かったような気がする。
喉がひきつって言葉は出ず、腕だけでミルカを振り払う。
それでミルカはまた驚いた顔をし、心配そうに眉根を寄せる。
「マオ?」
「放っといてよ……。関係ない」
何も言わず、でもミルカは動かなかった。
手で掴んだ砂利を投げつけようとしたけど、振り上げてからミルカではなく地面に打ち捨てた。細かな砂が静かに舞う。
どこへもミルカは行かない。
彼女を見ずに薄く茶けた地面へ目を落としたまま、彼女の影だけを視界に収める。それが不意に動いた。遠ざかるかと思ったら、違った。僕の視界に差し込むようにして、剣と折り畳まれた紙が差し出される。
「これ、マオのでしょ?」
「……違う」
「そうなの?」
「違う……」
置いていかれた剣はサンクトゥスロサ。
真紅の剣。片手持ちの剣にしてはやや剣身が長いが、両手持ちの剣にしてはシャープで少し短い。施された装飾は薔薇をモチーフにされている。柄には薔薇の花が咲き、そこから伸びている蔓は剣身の面に模様として刻み込まれている。お父さんがクセリニア使節団に同行していた時、ジョアバナーサの神前競武祭に参加、優勝をした時に贈られたものだと幼いころに聞かされた。これを鍛えたのはジョアバナーサに名高い名匠であるとも。
薔薇は優美さや、気品、そして高貴な力、といった意味合いを持つ。
エンセーラムの家の裏にある庭にも薔薇は植えられていた。棘に触れば痛いけれど幾重にも重ねられた花弁の開きようは重厚でいて美しい。お父さんを象徴しているかのような花だと思ったこともある。
これを置いていった理由は——考えたくない。
僕のものじゃない。僕なんかが使って良いはずがない。
ミルカが鞘に収められたままの剣を僕に見えるようにそっと置いてから、折り畳まれていた紙片を広げた。
そして、僕に文面が分かるように剣の上へこれも置く。
手紙のようだった。
でも字は不揃いな大きさで、汚くもある。小さな子の字だと一目で分かる。
おにいさまへ、という言葉から始まっていた。
目を逸らす。見たこともない弟から「お兄様」なんて笑える。
お父さんとお母さんの本当の言葉なら、きっと僕よりもかわいいんだろう。
ずっと動けなかった。
時間が経つほどに、お父さんに殴られたところが痛んでくるようだった。
今まで1番痛くて、ずっと心臓が激しく鼓動を打ち続けている。ショックだった、と言えばそれだけで済む感情の働き。でも、こうなるなんて分かっていた。いや、もっと酷いことを想像していた。それなのに、痛む。痛くて、涙が込み上げてくる。頬も痛いけど胸が痛んだ。
この報いは当然なのに。
全部、僕が悪いのに。
分かっていたのに、それでもやるせない気持ちが沸き上がってくる。
「マオ、だいじょぶ?」
「…………」
「……嫌なこととか、あったの?」
「…………」
「ええと……あっ、ほら、あたしもね、よく叱られるよ?
つい、後回しにして忘れてやらなかったり、良かれと思ったら、あちゃーっていう失敗になっちゃったり」
「…………」
「…………」
「…………」
僕は違う。
何もできない。
期待されたくない。
身の程を知らないバカな子どもだったから、安易に学院へ来てしまった。
「元気出そ? ね? ほら、そろそろ立たないと、何か……注目浴びちゃうし」
剣と手紙をまとめて腕に抱えて、もう片手でミルカは僕の手を掴んで引っ張った。引っ張られるままやっと腰を上げる。パンでも抱えるようにミルカの腕から剣が突き出ている。そして、僕は小さな子みたいにミルカに手を引かれるまま、足を引きずるように歩いた。
マレドミナ商会の直営食堂に連れていかれた。客のように表からではなく、裏口からミルカに通された。商品や食材を一緒に置かれた倉庫のようなところに裏口は繋がっていた。木箱の上に剣と手紙を置いてから、ミルカは何かを持ってくる。
「これね、お店で売ってるジャムなんだけど、ちょっとつまみ食いさせてあげる。本当は何かにつけるともっとおいしいんだけど、これだけでもおいしいし」
小さな器に入れられたベリージャム。小さな木の板を匙代わりに僕の手へ握らせてから、ミルカも同じように木板の匙でジャムをすくって口に入れた。
「んん〜……甘くて幸せ♪ こういうのがあるからマレドミナ商会で良かったなあって思う。ほんとに。マオも食べていいよ」
「…………」
そっと匙を手にし、その先端に少しだけジャムをつけてしゃぶる。
ベリーの酸味をはるかに上回る甘さが口の中に広がる。懐かしい味だ。貴重な甘味で、でも生産しているエンセーラムでは安価に手に入るのでたくさんの人が食べる。おやつとして親しまれている。
「マオのお父さん、お店に来たんだよ」
「……そう」
「何か心配してるみたいだったけど、どうかしたの?」
「…………」
「えっと……そろそろ、お仕事戻らなきゃっ。はい、これ持ってっていいからね。内緒だよ? これとこれも、はい」
ジャムに蓋をし、それと一緒に剣と手紙も押しつけられた。
そして送り出される。一歩外に出てから足が止まると、背中を軽く押された。振り返るとミルカはにこっと笑顔を作って手を振る。
「また来てね。今度は表から」
「……そんな資格ないよ……」
「そんなのいらないの。もー、マオ、暗すぎ! またそんな顔してたら、破産しちゃうくらいいーっぱい、食べさせちゃうからね! セラフィーノと一緒に来てね、待ってるから。バイバイっ」
また1人になり、立ち尽くす。
でも、ずっといるわけにもいかないから歩き出した。長い長い、学院の階段を上がる。それを上りきっても寮まで階段をまた上っていかないとならない。オーロルーチェに戻ってきて、ロビーを通り過ぎる。自分の部屋に入り、ドアを閉めてから持たされていたものを全部床に落として、そのままベッドに腰掛けた。
どうしようもない未来しか広がっていない。
もう、誰にも顔向けできない。
ドアのすぐ前に落とした剣を見る。
あれで首でも切ったら、死んでしまえるんだろうか。
重い体を引きずるようにして剣を拾い上げた。鞘から抜くと、真紅の剣が姿を現す。先端にいくほどに紅は薄くなっていく。その色味さえも鮮やかで美しい剣だ。両手で握った剣の刃を、そっと首筋に当てる。死ぬってどうなるんだろう。リュカが何かの折に、死んだら何かの神様のゆりかごにいくと言っていた。そこで生きてきたことの苦しみを癒してくれるんだと。僕もそこへ行ければ楽になれるのか。
「ふぅ……ふぅぅ……」
少し刃を引くだけで、嫌なこと全部から逃げ出せる。
ほんの少しだけ、ちょっと思い切れば。
でも、手が動かない。
死ぬのは怖い。痛いのが怖い。
「っ……!」
剣を壁に投げつけて、両膝をつく。
何に刺さるでもなく剣は落ちて音を立てる。
死にたくない、怖い。
でも生きていたくもない。
逃げ道がない。
どうしたらいい。
どうすれば良かった。
どこにも正解なんてなかったのに。
惨めな自分が憎くて、額を床に叩きつける。
その衝撃で目眩がして、わざとそうしたのに痛がって手で押さえてしまう。それさえもまた嫌になる。
「あああああっ!」
嫌だ、嫌だ。
床が嫌だ、自分が嫌だ、この部屋が嫌だ、学院が嫌だ。
目につく何もかもが見たくない。叫び声を上げながら目をつむって、ただ床を叩く。痛いのも嫌だ、壊れてくれない床が嫌だ。決定された騎士団行きの未来が嫌だ。お父さんが嫌だ。ミルカに心配された自分が嫌だ。床を殴って痛む自分の手が嫌だ。頭をまた打ちつける。額から、横から、がむしゃらに痛めつける。もう、嫌だ。嫌だ、嫌だ、壊れてしまえ。全部、消えてしまえばいい。何もかもなくなってしまえばいい。
「——マオっ!」
いきなり声がして心臓が跳ねた。
叫び続けてひりつく喉は言葉を出せなくなった。
「……マオ、何? どうしたの?」
目の前にセラフィーノがいた。
「嫌だ……」
「何が」
「嫌だっ……い、やだ……」
見たくない。
聞きたくない。
目を閉じて肩を押さえてくる手を振り払おうとする。
でも何度も何度も、手首を掴まれた。振り払っても振り払っても、同じことの繰り返しだった。