逃げられない命令
「カノヴァス先輩」
ノックをしてから遠慮がちに入ってきたのは、まだ1年生の子だった。
「お父上がいらっしゃっているみたいで、呼んでこいって言われたんですけれど……」
「……いないって、言っておいて」
「でも——」
「いないんだよ」
「……は、はい」
追い返してから、胃が重くなった気がした。
とうとうお父さんが来てしまった。居留守でどれだけ逃げ続けられるか。魔法大会中は寮に引きこもり続けられる。その内にお父さんも帰るはずだ。何十日とスタンフィールドにいられるはずがない。そんなに暇じゃない。けれど、忙しいのならどうしてスタンフィールドに来たんだ。
以前来た時のようにここに用事があったとか?
それとも僕の手紙を不審がって?
前者なら長くても数日、もしかすれば今日中にでも帰ってくれる。
でも後者なら、分からない。見通しが立たない。長居し続けることはできないはずだけど、それなりに長くいようとする可能性が高い。知られちゃいけない、僕の現状を知られてしまったら幻滅される。
産みの母がそうしたように、今度はお父さんに捨てられる……。
とにかく逃げるんだ。
逃げ続けてうやむやにして、何事もなかったかのように卒業してから振る舞えばいい。過ぎたことをずっと追及してくるほどの興味を持たれるはずもない。今は逃げの一手を打ち続けていればいい。
コンコンとまたノックの音がした。
僕はいないんだと言えないからって引き返してきたのか。枕を掴んで、入ってくる後輩に向かって投げつける構えを取った。ドアの隙間から足が覗き、反射的に投げつける。でも、さっきの後輩ではなかった。飛来した枕が真っ二つに切り裂かれ、中に詰まっていた羽毛が部屋中にばさりと飛び散る。
「いきなり何だ、マオ? 思わず切ってしまった」
サンクトゥスロサを鞘に納め、お父さんが僕を見据える。
枕を切り裂いた剣筋は僕の目では全く見えなかった。
完全に想定外の形で再会を果たしてしまった。
「相も変わらず、オーロルーチェの空気はよどんでいるな。
表に行こう。話したいことが山ほどあるんだ」
逃げられない。
向き合わざるをえない。
『そもそもキミは悪いことをしてるのかい?』
そうだ、開き直るしかない。
理解してくれないならそれまでで、そもそもの与えられていた条件がおかしかったんだ……。
連れていかれたのはスタンフィールドの東にある広場だった。
近くには商売に来たキャラバンが店を開いていた。——そういえばここは、悪童伝説の最初の決闘の舞台だ。
学院に伝わるお話で、とある貴族の子息に悪魔が取り憑いて学院中を荒し回るというお話。
悪魔に取り憑かれた少年の親友が、悪魔を追い払うために戦いを挑んでいく、全6章の学院戦記である。20年くらい前に実在していた人がモデルになっているとか、いないとか……。
「マオ、背が伸びたな。前にレオンとスタンフィールドへ来た時とはすっかり見違えた」
「……うん」
怒るでも叱るでもなく、お父さんは最初にそう言った。
肩透かしをされた気分になる。久しぶりに見たお父さんは、以前ほど大きく感じない。もっと背が高くて、もっと若々しいような気がしていた。
「この1年ほどでお前から何度も金が欲しいと手紙が届いていたから、何かと思って来てしまった」
「…………」
やっぱり、それか。
もう少しどうにかしていれば、こんな嫌なことにならなかったはずだ。
「ミシェーラも心配している」
「……はい」
「……あとお前に弟も生まれているぞ。もう5歳だ。お前が学院に向かってからすぐ、妊娠が分かってな。手紙には何度も書いているし、前にスタンフィールドへ来た時も話したから知っているだろうが」
知っている。名前はクラウス。
正真正銘、お父さんとお母さんの息子だろう。
ジョアバナーサで生まれ、産みの母に捨てられた僕とは違う、望まれて生まれた子ども。
「お前に会いたがっている。陸路と海路で……十月はかかるか。3年も待てば会えると言い聞かせても、待ちきれないといった様子だ。何となくお前にも似ている。変なところで繊細だったり、外で遊ぶよりも室内で過ごす方が好きだったり。だが、お前と同じでかわいいよ、とても」
「……そう、ですか」
何を言いたいのだろう。
息子に息子の自慢?
そんなにかわいいなら、僕はもういらないっていうことか?
「この広場はな、レオンと友人になった場所だ」
「…………」
「詳しくは言わないが、彼との出会いは鮮烈だった。もう随分と昔のことだが、ここからの景色は変わらないな。あの時の惨めさを思い出す」
「……惨め? お父さんが……ですか?」
「若かったんだ。だがその失敗があって、今がある」
埃っぽい風が吹く。微量の砂を巻き上げながら吹く、この地方独特の乾いた風だ。
風に含まれる砂が目に入らないよう、瞼を絞る。
「マオ、僕はお前に期待をしているつもりだ」
でも僕は裏切った。
「少し遊ぶくらいはいいさ、恥じることじゃない」
でも僕は裏切った。
「さすがに、自分で撒き散らした吐瀉物の中へ倒れていくのはどうかと思うが、僕しか見なかったから安心しろ」
でも僕は裏切った。
「金の心配もしなくていいさ、キミの父親は甲斐性なしではないから不便はさせない」
でも僕は裏切った。
「まあ、このまま遊ぶ金も欲しいと言うんなら、来年の剣闘大会で少しは良い成績を収めるなどすれば小遣いを増やしてやっていいんだが——」
「できません」
言葉を遮ると、お父さんは僕を見つめた。
呆気に取られたかのような、きょとんとした目をして僕を見ている。
「マオ?」
「僕は……お父さんと違う」
「何を言っている? それは当然だろう」
「普通の人と同じこともできない……。何をしたって、平凡以下で、価値なんかなくてっ……!」
「マオっ、どうした? 落ち着け」
肩を押さえようとしてきた父の手を振り払う。
「僕はっ、セラフィーノを邪魔して、自分の身を守った! あれ以上、虐められ続けるのが嫌で、三連覇できたはずなのにそれを僕にしかできない方法で裏切って邪魔してっ、でもそうするしかなかった!」
ぶちまける。
耐えられなかった。
期待しているとかいう言葉も、僕があれだけ身構えていたのにあっさりと容認してきた発言も。僕は身勝手でひねくれていて、どうしようもないクズなのに。ぶん殴ってくれればいいのに、やさしくされてしまうのが耐えられない。——そんな温情をかけられるような息子じゃないのだから。
「いらないよ、どうだっていい! いつかお父さんだって僕に幻滅するのに、どうしてそんなこと言うのっ!? お父さんだってジョアバナーサの女王みたいにいつか僕のこと捨てるんだ! それなら——」
動きが速くて、ただ殴られたという結果だけを受け取った。
左の頬を硬い握り拳に打ち抜かれて、首の筋が伸び切れそうな痛みまでした。
思いがけない一撃は簡単に僕を吹き飛ばす。乾いた大地の上で尻餅をつきながら倒れ込み、父を見上げる。初めて手をあげられた。誰より強いけれど暴力的な人間ではない人だ。その父が殴ったというのが、そうしてほしいとどこかで思っていたにも関わらずショックだった。
「ヴァネッサ女王はお前を捨てていない。彼女は自分で産んだ子を父親に見せてやる、という名目で自分の下から離す。そして僕はお前を受け入れ、彼女のところではなく僕の手元で育てると決めたにすぎない。捨てられたなんて誤解は今すぐに認識を改めろ」
殴られた頬が酷く痛んだ。歯が欠けたような気さえする。たった一撃なのに頭が激しく揺さぶられて、起き上がろうにも足腰に力がうまく入らない。
「セラフィーノを裏切った、と口走ったが……それは本当か? 多少の悪い遊びは認めてやらんでもないが、あれだけ親しくしていた友人を裏切ってお前はのうのうとしていたのか?」
初めて見る顔をしている。恐ろしかった。
僕がこれまで恐怖を抱いてきた学院の人なんて、この迫力の万分の一にも満たない。険しく、厳しく、冷たい眼差し。触れれば弾けるような恐ろしさではない、その視線だけで全身を貫かれて痛みを伴ってしまいそうな眼光だ。
「……そうだよ。僕は、違う……。お父さんとも、セラフィーノとも。何も、できないんだ。才能なんかない、落ちこぼれなんだ! ああでもしなきゃ、ずっと惨めに弄ばれて、からかわれて笑われて、たまにセラフィーノに守られてっ……! だから、セラフィーノを売って平穏を手に入れて、仲間だって認めてもらうためにお金が必要だったんだ! 周りと同じようにお酒を飲んで、煙草吸って、博打をして、群れていなきゃダメだったんだよ! お父さんが悪いんだ、貴族の真似事をするなとか言うから去年まではずっと、毎日毎日毎日、学院のどこにいたって虐められた! お父さんは強かったからできたんだ、でも僕は違う! あんな言いつけのせいで、苦しめられてきたんだ!」
お門違いの糾弾を、自分の非を棚上げした開き直りを、お父さんは射抜くように鋭い視線のまま聞いた。
「大きな誤解をしているようだな、マオ。そもそも、根本から間違っている。
お前が落ちこぼれのはずがない。結果が出ていないから落ちこぼれだとでも言いたいのなら黙れ、それはお前の努力が足りていないからだ。お前は僕の子だ。だと言うのに、気後れして丸め込まれる内に歯牙を抜かれ、そのまま負け犬に甘んじているなど言語道断。
命令だ、マオライアス・カノヴァス。
卒業までに序列戦へ参加し、序列第一位を取ってこい。
それが果たせなかったら、お前を強制的にディオニスメリアの騎士団へ入れてやる。トヴィスレヴィ殿下の親衛隊にな。親の権力とコネでいきなり親衛隊の一員になり、何もできないろくでなしの邪魔者だと死ぬまで蔑まれたくなければ、死に物狂いで努力しろ。ずっと負け犬で居続けたいのならば、好きなだけ遊んで暮らせ。後ろ指を指されるのはお前だ」
逃げられない命令。
騎士団になんか入れられたら、それこそ永遠に僕は――。
「見にきてやる。逃げるなよ、マオライアス。
もしも逃げても、どこまでだって迎えに行ってやるからな」
腰の剣を鞘ごと1本外し、それを僕の前へ投げた。
いまだ腰を抜かしたままでいる僕に近づき、懐から出した紙片を僕の胸へ押しつけるようにして置いた。それからサッと踵を返し、行ってしまった。残されたのはサンクトゥスロサと、折り畳まれた何かの紙だけだった。




