秤
「首尾は上々かい?」
「……は、はい」
「じゃあ、一仕事を終えられた一服だ」
また、煙草を差し出される。
何がいいのかは分からないけれど、すでにピエトロ先輩も吸っている。くわえて、自分で火を点け、すぅっと煙草から息を吸い込む。煙が入ってきて、それが咥内から鼻へ抜けようとするのを、ぐっと飲み込む。そうすると、喉の奥の方から煙が上がってくるのを感じられる。口から煙を出していく。
「葡萄酒は?」
「……渋くて、あんまり」
「これのおいしさが分からないんじゃあ子どもだね、まだまだ」
ほくそ笑むピエトロ先輩がゴブレットに葡萄酒を注ぎ、自分だけ飲んだ。空のゴブレットはもうひとつ出ている。大理石を削り出したような重厚な灰皿に煙草を休めさせてから、葡萄酒を僕も注いだ。
「乾杯、マオライアス」
「……はい、乾杯」
一口含むと、渋さとアルコールのふわっとしたものが広がった。
これをおいしいとは思えない。けれど先輩は優雅に飲んでいる。葡萄酒で喉を湿らせ、煙草をまた吸った。むせかけ、それをこらえる。何が、いいんだろうか。頭が少し、ぼうっとする。
「これでちゃんとレヴェルトが脱落してくれれば、僕があのおっかない先輩達にキミがうまくやったんだと口添えをしてあげるよ」
「……はい」
「そこで、演技でもいいから、そういうつまらない顔を消しておくんだ。僕が少し大袈裟にキミのことを誉めてやる。一目置かれるように、ね。あとは、輪の中でずっとへらへらしていればいいさ。どうせ、もう1年もあの人達はいないんだから、ちょっとだけ、これまでと違う方面への我慢をすればいいだけさ。そうすればもう、キミにちょっかいを出そうという輩も減る。いいや、うまくとりなせば完全にいなくなるはずさ」
半分ほど飲んでおいたゴブレットに、お酒を注ぎ足された。
煙草を指に挟んだまま、また口をつける。渋い。
「キミは賢明に秤にかけた。
たった1人の、何もかもが違いすぎる友人か。
まだあと半分近く残っている学院での穏当な生活か。
その選択はきっと間違っていないよ。それはこれから分かるけれど僕の読みなら十中八九は成功さ」
煙草を吸う。
喉が、何だかずっと変な感じがしている。
「この件がうまくいったら、どうだい? キミはまだ、楽しい遊びなんてほとんど知らないだろう? 賭場にでも連れていってあげるよ」
「賭場……ですか?」
「とても楽しい。勝てば嬉しい、負ければ悔しいけれど、それでも熱中するような遊戯がある」
「……でも、お金が」
「最初は僕があげるよ、ルールを覚える程度まではさ。勝った分も少しはもらうけれどね」
色々なことをピエトロ先輩は喋り、教えてくれた。
いずれも僕の知らないことばかりで、どういうところが良いのかと丁寧に説明をした。でも僕はお酒のせいか、途中から頭がぼうっとしてほとんど聞けていなかった。2人で葡萄酒の入っていた壷を空っぽにしてしまうと、また煙草を吸ってから先輩に体を支えられて部屋を出た。
「見てごらん、マオライアス」
「……はい」
そこは試合場の、観客席だ。
客席から舞台は見下ろせるように高くなっている。舞台上にはセラフィーノがいた。
「ちゃんと、例のものを渡せたんだろう?」
「……はい」
「魔力拡散魔法の魔法紋を敵の獲物に仕込む……。これは大昔にあった、騎士団内の争いで使われた手口だそうだ。柄に巻く革紐の裏側に、柄に巻きつけた時にぴったり重なるようにしてあらかじめ魔法紋を描いておく。魔法戦を得意とする王国騎士は魔法を使おうとして、知らずに自分の剣に魔法を封じられてしまう。混乱に陥っているところを攻め込んで、その内乱を治めたそうだ」
セラフィーノは、見るからに苦戦をしていた。いつもあまり変わらない表情に、少しだけ焦りが見てとれる。
その光景でセラフィーノも魔法を使えなければ、単なる人と変わらないのだと分かった。相手の選手は慎重に攻めているけれど、セラフィーノに勝ち筋は見られない。
「これはキミの手柄さ、マオライアス」
盛り上がっている観客席で声が届くよう、耳元で囁かれた。
「この方法ならば第三者による妨害だなんて、見抜かれたところで意味もない。自分でガシュフォースをつけた武器を持ってきているのだからね。故意に陥れようとしたのだと主張したところで、自分の武具の不備さえも気を払えないのでは騎士失格、お門違いというものになる。キミでなきゃ、これほど簡単にこの手段を取ることはできなかった」
とうとうセラフィーノが、舞台のヘリに追い詰められた。
地属性魔法でセラフィーノの足元が泥状に変質させられてしまう。舞台がとろけるようにし、重力に引かれてセラフィーノが場外へと投げ出されていく。無理やりに足を泥から抜きつつ、それを逃れようとしている。けれど、膝上まで泥に捕えられた状態で身を持ち崩すのも難しかった。
——大きな歓声が響き渡った。
「ああ、良かった。この策でダメだったらどうしようかと思っていたんだ」
セラフィーノはあと一歩を踏み出せば泥沼から抜けられるというところで、対戦相手に押し込まれて負けた。
2年生の時――12歳で剣闘大会を制してしまったセラフィーノが4回戦で負けた。前代未聞の三連覇を期待され、同時に疎んじられていたセラフィーノが。大きな歓声はその偉業がはばまれたことへの悲嘆か、セラフィーノを快く思っていなかった人達の歓喜か。
「これでもう、キミは彼を友達だとは言えないねえ?」
「っ——」
どこか鈍っていた思考が、ピエトロ先輩の囁きでハッと覚醒した。
「だってキミがハメたんだから。
でも、それでいいのさ、マオライアス。
キミは賢明な判断を下し、人としての正しい生き方を選んだ。
エルフみたいな強い種族でない限りね、人は社会という群れを作って生きるしかない。助け合いさ。
キミはレヴェルトに助けられたことがあっても、レヴェルトを助けたことなんてなかったんだろう?
それじゃあ助け合いになっていない、共存になっていない。
仕方ないことだけれどね、彼には誰かの助力なんて必要がなかったんだから。
そんなやつと友達だなんて、そもそもムリだっただけなんだよ」
セラフィーノは落とされた場外で、ただ呆然としていた。
それから握っていた自分の剣を見て、それを投げ出した。カランと乾いた音がした。
そして、初めてセラフィーノが憤りを見せた。
たった一度の、地団駄。けれど、その踏み下ろされた足からは放射状にヒビが入り、細かな破片が浮かび上がった。どしん、でも、ずしん、でもなく——ドゴンと床の破壊される音は、一瞬だけ沸いていた観客を静まらせた。
「だからマオライアス――キミは今、この瞬間に正しく生きられる人間になれたんだよ」
僕の中でも、何かが弾けとんだような気がした。
この日から僕は、セラフィーノと一言でも口を利くことはなくなった。
ピエトロ先輩の口添えがあって、僕はセラフィーノを陥れたがっていた先輩に気に入られた。どこへ行くのもピエトロ先輩と一緒になった。賭場ではカード遊びを教わって、お酒の味を教わって、一緒に煙草を吸いながら同じ時間を過ごしていった。
僕にちょっかいを出してくる人はいなくなった。
オーロルーチェの先輩達と一緒にいる姿を見たことで手を出さなくなったのだろうと、何となく感じ取れた。
人は社会という群れを作って生きるしかない——。
ピエトロ先輩に教わったこの言葉は、すぐに身に染みるように分かった。人数が多いから、有利になる。揃えた人の数だけ、人は強くなれる。足りない知恵は補い合える。良いことも、悪いことも、分かち合うことが群れなのだ。
セラフィーノを陥れた剣闘大会から1年が過ぎると、僕はもう立派な群れの一員になっていた。




