遠ざかるもの
部屋に帰ってくると、何だか嗅ぎなれないものが鼻をついた。
汗臭いとか、泥臭いのとは違う。何だか、物が焦げたような、それともちょっと違うような……?
「マオ。何か変な臭いしない?」
鼻を鳴らしていると、マオが二段ベッドの下――僕が上を使っている――で寝返りを打った。いつもなら、まだ眠る時間じゃないのにすでに床に入っている。どこか具合でも悪いのかと思いながら、僕を向いたマオの顔を見るとどこか顔が青白くなっているようにも見えた。
「セラフィーノ……」
「……何?」
「部屋、別にしない……?」
「何で?」
「…………」
「マオがそうしたいなら、いいけど」
「……じゃあ、明日から……別にしよう」
それきり、マオは毛布を被ってしまった。
何だか様子が変に思えるけれど、それ以上は言わないでおいた。
翌日も、剣闘大会がある。
今日は3回戦と、それに勝てば4回戦がある。
明日以降は1日1試合とペースが落ち着くから、余裕も出てくるはずだった。本当はマオと競いたかったけど、マオは昨日負けてしまったからできない。
『僕のことをセラフィーノは分かってない』
いきなり言われてしまった言葉が、まだ頭に染みついている。
無神経なことを言ってしまったのかも知れないけれど、間違ったことを言った覚えはなかった。でもマオは傷ついて、僕の顔をちゃんと見ようともしない。今朝なんて日課の朝稽古から帰ってきたころには、いつも眠そうな目をこすってベッドでうとうとしていたはずなのに姿を消していた。
嫌われたんだろうかと思うと、胸に風穴でも空いたような気がした。
でももう、僕もマオも14歳だ。子どもみたいにいつまでも2人で一緒の部屋を使わなくたっていい。——僕はエルフで肉体の成長が少し遅れがちで小さいけど。
「セラフィーノ……」
そろそろ控室へ行こうかと思ったころ、部屋にマオが戻ってくる。
「もう、試合いくよ」
「……うん。あの……セラフィーノ」
「何?」
また、誰かに言われて僕の邪魔をしなきゃいけないんだろうか。
歯切れ悪く、目を泳がせながら、何か言いにくそうにしているのを待つ。
「……マオ?」
「う、ううん、何でもない」
「……そう。じゃあ、行ってくる」
「僕……荷物まとめたら、この部屋、引き払うから」
気になるものはあったけれど、部屋を出てドアを後ろ手に閉めた。
何もされてはいない。僕が剣闘大会を勝ち進むのを疎ましく思う者は一定数いるはずだ。けれど手を出そうとするのはオーロルーチェにいるような学生程度。それがマオを利用し、昨日は失敗した。次の手を何か打ってくるのかとも思ったけれど、今のところは何もない。マオが何かを担わされていたのかも知れないけれど、命じられたことに背いたんだろうか。
早く試合を終わらせて寮に帰った方がいいかも知れない。
そう考えて、でも、と思い直す。
僕がそうすることをマオは嫌がるかも知れない――。
マオのことを分かってやれていない、と本人の口から言われたのだから。
それに部屋も別にしようとまで言い出してきて、何か重大な決心を固めて、そのためにマオが動き出したのかも知れないとも思える。そこに僕は不必要で、あるいは近くにいてはいけないからこそ遠ざけられている。辻褄は合う。
ファビオは僕が彼を遠ざけようとしたら、どうするだろう。
決まってる、お父さんの命令が何か出されているのなら、僕の意思は黙殺するのみ。そうでなければお父さんに相談して決める。
じゃあ、僕がお父さんを遠ざけようとしたら?
……きっと、悲しい顔を少しだけ見せてから、尊重してくれる。それで、後でファビオに詰問されるに決まってる。
ダメだ、身近な人だと色々と違いすぎて僕とマオのケースに当てはめられない。
マオの気持ちを尊重してあげるべきなのか、それとも踏みにじることになっても守ってあげるべきなのか。別の方法があるのか。僕はどうすればいい。どうするべきだ。分からない。答えが、見つからない。
3試合目を終え、寮に向かおうとし、足が止まる。
マオはすでに2人で使っていた部屋から引き払ってしまっただろうか。まだ何かをしているだろうか。——いや、ただ部屋が別になるというだけで何をそこまで考え込む必要があるんだ。僕にできることがあればしてあげる、味方なんだ、ってそう言ってあげればきっと気持ちが楽になる。僕がファビオとの稽古に嫌気が差してエンセーラムへ連れていってもらった時のように、ちょっと離れることで溝を埋められるような気になることはある。だから、その時に備えて、僕は平気だと宣言しておけばいい。
オーロルーチェのラウンジを通り抜け、個室の並ぶ廊下へ。
僕の使っている部屋のドアを開ける。——だが、そこにはどこかで期待していた、マオの姿はなくなっていた。マオの持ち込んでいた荷物も綺麗さっぱり消えている。残されているのは備えつけの調度品と、僕の荷物ばかり。初めから僕しかいなかったかのような光景だった。
「…………」
これがどうした。
マオは手際がいいから当たり前だ。
広く感じる部屋で剣を鞘ごと外し、椅子に座る。
そう言えばマオはどこの部屋に移ったんだろうか。後で聞いておこう。マオが一人部屋になったことで、マオを虐めて遊ぶ連中が部屋を荒らしに行ったりしないかな。一度だけ、前にこの部屋でやられた時は僕が報復をしてそれきりになったけれど、僕と別の部屋になってしまったらどうなるか。
コンコン、とノックの音がしてからドアが開いた。
「セラフィーノ……」
「マオ。……ノックなんていらないのに」
「う、うん……。一応、もう僕の部屋じゃないし……」
マオが顔を出したのが、ほっとする。
「試合は、どうだったの?」
「勝った」
「……すごいね」
「少しだけ強かった」
「最上級生なのに少し、か……」
マオは部屋に入ると、そのドア付近で立ち止まって中まで入ってこない。
右手を背中の後ろに回して、居心地が悪そうにしている。
「どこの部屋になったの?」
「……一番、奥の、突き当たりに向かって左」
「たまに行ってもいい?」
「……こ、来ないで」
「……分かった、行かない」
1人になりたい、とかなのか。
だったら相部屋も嫌がるだろうし、誰かが部屋を訪問するのも嫌だ。それなら理解できる。
「ごめん……」
「大丈夫。僕のことは気にしないでいいから、マオはマオのしたいようにすればいい。それがマオのためなら、僕はいい」
「……うん」
「何か、されてるの?」
「……ううん、大丈夫」
ぎこちない。
隠しているつもりがあるのかないのか、判断もつけられないけど酷くぎこちなかった。
「お昼はもう食べた? まだなら、またミルカをからかうついでに——」
「ううん、もう、食べたよ」
「……そう」
「うん。……せ、セラフィーノ、その……さっき、荷物まとめてたら、こんなの出てきて。あったの忘れてたまま、僕はこの前替えたばっかりだから、良かったら使って?」
言いながらマオが右手を出すと、剣の柄に巻きつける革紐があった。これも誰かに言われたものだろうかと思いつつ、細長いその革紐を受け取って眺める。これといったものは、少なくとも僕の目には見抜けない。考えすぎか。
「……いらない、よね?」
「……ううん、もらう。ありがとう、マオ」
剣の手入れをする時間は充分にあるから、ついでに巻き替えることにした。ずっと柄に巻いていた革紐は、すでにすり切れ気味で替えごろでもあった。表と裏を確かめ、皮を伸ばすようにしてぎゅっと巻きつけていく。マオはそれを見守っていた。
「できた」
「……ど、どう? 握り心地とか」
「うん、悪くない」
軽く剣を振って感触を確かめる。
交換してみると、前のが随分とすり切れて滑りやすくなっていたんだと分からせられた。新しくしたお陰で手に吸いつくような安心できる握り心地になった。
「……よ、良かった」
「マオ、昨日から、何だか顔色が悪いけど……具合が悪い?」
「そんなことないよ。……ちょっと、喉はイガイガするけど……」
「風邪?」
「……違う、と思うけど。じゃ、じゃあ、僕まだ、部屋の整理しなくちゃいけないから……がんばってね」
「うん。これ、ありがとう」
「……うん」
やっぱり、何かがおかしかった。
でもマオは僕に相談をするつもりもないのだ。
それなら黙って見過ごすしかない。
しっかり者のマオなら大丈夫だろうという信頼を寄せておいた。




