ピエトロ・コロンネーゼ
2回戦では、40番の人と当たってしまった。
前の試合とは全く違う試合展開になって、ものの10秒未満で場外にされて終わった。番号が若ければ若いほど、上の学年だ。しかも上級生になれば前年の序列戦などの成績順で番号を振り分けられていくから、若い番号の人はそれだけ強くなっていく。僕が二桁の先輩を相手に勝てる理由などなかった。
セラフィーノはとっくに自分の2試合目を済ませていて、僕が負けて控室に戻るとすぐ近づいてくる。だけど、何も言えずにセラフィーノから逃げるように控室を出ていった。セラフィーノは、追いかけてこなかった。
『僕のことをセラフィーノは分かってない』
どうして、あんなことを言ってしまったんだろう。
いや、違う、分かってる。セラフィーノが寄せてくれた期待が重かった。マレドミナ商会の一員として元気に働いていたミルカが眩しかった。でも僕は……。
食堂でのことは楽しかった。
けれど学院に向かって歩き出してから、すぐ、嫌な気持ちがお腹の底の方からわいてきた。
先輩に脅されて陥れようとしたにも関わらず、セラフィーノは平気だとすぐに返した。気にするまでもない些事だったと。僕がどれだけの気持ちでやったにも関わらず、セラフィーノには取るに足らぬどうでも良いことだったのだ。
友達だなんてとんでもない。
それは分別を知らない子どもだったから、そう誤認してしまっただけのことだ。
お父さんはレオンとは対等な関係の友達だと、いつも言っていた。
エンセーラムの王様であるレオンと対等だということを誇っていたのではない。レオンの王様という立場だとか、レオンの奔放な性格だとか、そういう全てをひっくるめたその上で、単なる対等な友達だという意味だ。友情で結ばれているからこそ、表向きの立場に上下のものがあってもそういうものに縛られることなく対等な関係を築いてつきあえる。
でも僕はどうだ。
セラフィーノと対等だなんて思えやしない。
いいや、僕を誰と比べたところで、僕の秀でているところなんてない。
だって僕は、落ちこぼれなんだから。
「カノヴァス」
オーロルーチェは談話室を横切らないと個室へ帰ることができない。いつも早足に僕はそこを抜けていくけれど、やっぱり取り囲まれてしまった。足を止め、僕はうつむく。薬は飲ませた。でも効かなかった。それはきっと、監視をしていた人から伝えられている。
「何かしたのか? お前が」
「して、いません……」
「じゃあ何で、ああなった!?」
怒鳴られ、胸ぐらを掴み上げられた。
体の大きな先輩で、足が軽く浮きかけるほどだった。
毒薬と見抜いて僕にしか見えないように吐き出して見せた――なんて答えられずに黙っていると、乱暴に手を放されたけど、その拍子に突き飛ばされた。尻餅をついて転ぶ。
「何としてでも、レヴェルトを出場できなくしなきゃいけねえんだよ」
僕の前で膝を折ってしゃがみ、先輩が言う。
目を逸らそうとしたら、顎の下から片手で顔を掴み上げられた。
「そうだ、お前……あいつの弱点言え」
「……思い、つきません……」
「何かねえのかよ? 嫌いなもんとか」
「分かりません……」
ちっと苛立ちの舌打ちをしてから、先輩が腰を上げて取り巻きと相談を始める。
言われてみると、僕はセラフィーノのことをほとんど知らない。嫌いなものも、苦手なものも。好きなものは多少は知っているけど、セラフィーノに弱味というのを見出すことはできない。
「まあまあ、先輩。今時、そんな高圧的にやってても意味ないですってば。僕に任せてくださいよ」
どこかひょうきんな声がした。
それから僕の前に違う人がしゃがみこむ。狐みたいな細い目をした、一見するとひょろっこいけど背の高い人だった。
「カノヴァスくん、僕はピエトロ・コロンネーゼ。父はパトリツィオ。騎士団の第二大隊で中隊長を務めているんだ」
にこやかな顔で言いながら先輩は、さっき掴み上げられて乱れていた襟元を片手でそっと直してくれた。それからすっと手を差し伸べてくれ、悩んでいたら片手を掴まれて引っ張られた。そのまま腰を上げると、僕の肩に腕を回しながら周りの先輩達に向き直る。
「僕がレヴェルトのことはどうにかしますよ、先輩方。だから任せてくれませんか?」
「できるのか、ピエトロ?」
「はい、もちろんです。じゃあ、カノヴァスくん、ちょっと向こうで話をしようか。あ、砂糖菓子があってね、好きかい? ご馳走をしてあげるよ」
何だか不気味なやさしさを感じてしまうけれど僕に拒否権はなかった。
肩を組まれたまま、ピエトロ先輩の部屋に連れて行かれた。
「何だか見ていて可哀想になってしまってね。あの人達がどうして、レヴェルトをあんなに蹴落としたいか、知ってるかい? あ、これ食べなよ。母上からたくさん贈られてしまったけど、甘いものはそこまで好きじゃないんだ」
ピエトロ先輩は僕を部屋に連れ込むと、親しげに言いながら瓶詰めのお菓子を出した。砂糖を溶かして固めた小さな粒のお菓子だった。小さな球体に無数のトゲトゲがついているような見た目で、すすめられるまま食べてみると硬くて、ちょっとだけひやりともした。けれどすごく甘い。
「レヴェルトはまだ4年だろう? それがもしも、また剣闘大会を制覇してしまったら、騎士団に入ってからはずっと、小さな子どもに負けた世代って言われてしまうんだよ。いくらレヴェルトがエルフだからって、不名誉極まりない悪評になってしまう」
言いながらピエトロ先輩が一人掛けのソファーへ腰掛けて足を組んだ。
「そういうわけで、何としてでも邪魔をしたいんだ。手段を選ばずに、ね」
「…………」
「そういう顔をすると、余計に虐められるよ?」
その時になって初めて、ピエトロ先輩が作りものとは違う本物の笑みを浮かべた気がした。けどそれはただの笑顔じゃなくて、邪気をともなった意地悪そうな、それでいて冷たいものを感じさせる笑みだ。ただでさえ細い目が、さらに細く線のようになる。
「緊張しいなのかな、キミは? まあいいや、僕はあの先輩らに媚びを売ってはいるけど領地も持たない、騎士貴族の子だから仕方がないというものさ。でも野心はある。受け継ぐべき領地もなく、騎士団に入らなければ食っていけない身の上だが……例えば、有力な貴族にお目こぼしで猫の額ほどの領地を恵んでもらうだとか、土地を持っている貴族の娘との婚姻を結んだ上で実権を手に入れるだとか。今はそのための素地作りだ。あくせく国のため、人民のために働こうだなんて気にはなれないから、領地でももらって適当に税収を得て、お上に意見せず平穏に暮らせれば僕はそれだけでいいんだ」
喋りながら先輩は足を組み替えた。
「で。僕はね、カノヴァスくん。そのためにも、今はあの自分の名誉しか考えてない先輩達に表面上は有能なやつだと思わせておきたいのさ」
「…………」
「何か喋ってもいいんだよ?」
「……どう、して、僕にそんなことを……言うんですか……?」
「ああ、そんなことかい? 簡単さ、何だか……キミって面白そうだなあって思ったからさ。もちろん、虐めてても面白いかも知れないかも知れない。けどね、もっともっと楽しいものが、キミにはあると思うんだよねえ。単なる勘ではあるけれど」
また、意地の悪そうな笑みでピエトロ先輩は言う。
たまにレオンが見せていたような意地悪な笑顔とは、その背後にある悪い企みの性質が違っているように思える。ピエトロ先輩の笑みには、ぞっとさせられるような冷たいものを感じさせられる。
「まあ、それだけさ。キミには目をかけたいと思ってる。仲良くしたい、ってね」
お父さんとの約束が脳裏をよぎる。
貴族の真似事は禁止だ、と。益のあるなしで人を選んで、言葉だけの上っ面の友情を語るようなことはするな、という含みを持たせられている。
「悪いことは言わないから、おっかない先輩に脅されたっていうことでさ、試しに協力しておくれ、カノヴァス。媚びるのが嫌いだなんて意地を張り続けたって、ずっとそのままだよ?」
「……お父さんの、言いつけだから……」
「言いつけ?」
「悪い貴族達の、真似事をするな……って言われました」
「ふうん? キミのお父様はマティアス・カノヴァスだろう? とんでもないエリートだよねえ、序列戦1位になったにも関わらず、学院卒業後にすぐ騎士団へ入ることはなかった。数年も姿を消していたかと思えば、ふらっと騎士団へ入って、あっという間にトヴィスレヴィ殿下の親衛隊になってさ、クセリニア使節団に同行したかと思えば、帰ってきたころにはすっかり殿下と懇意になっていて……。そのまま領地を継ぐかと思えば、カノヴァス家とボーデンフォーチュ家の婚姻による内乱が起きて、責任を取るだか何だかでエレキアーラの自治権だけはカノヴァス家に残るようになったのに、どっかの小国に行っちゃった……んだっけ? 当時の騎士団長だった、ブレイズフォード卿の娘を娶って」
少しは聞いたことのある話も混じっていたけど、僕より詳しいような口ぶりで驚かされた。貴族同士はよその家のことまでちゃんと知っていなきゃいけないのかも知れない。
「でも、それって正しいことなのかな?」
「えっ……?」
「よくよく考えてごらんよ? この国に残っていれば、カノヴァスの名を捨ててブレイズフォードにでも婿入りしていさえすれば、今ごろは侯爵の地位にいたんだ。ま、それだって領地を持たない騎士貴族だけどブレイズフォード家は特別すぎる、ディオニスメリアきっての武門の名家なんだから、些細な問題にしかならないほどだ。いや、むしろ、うまく転がせばブレイズフォード家に入りつつ、エレキアーラという一大交易都市まで手中に収められたんだからもったいなさすぎるか……」
嫌な気持ちになる。お父さんをバカにされているようだ。
ピエトロ先輩もその自覚があってか、それとも僕の顔を見てか、おどけたように笑って肩をすくませる。
「そんな顔をしなくていいだろう? いい加減、キミも子どもじゃないんだからさ、自分の頭で考えてごらんよ? 僕は単なる意見を述べているだけさ。世の中っていうのは厄介だよ、計算通りにいかないことだらけさ。だからこそ頭を使って賢明に生きなきゃいけないのさ」
懐からおもむろにピエトロ先輩はシガレットケースを出して、口にくわえた。指先に灯した魔法の火に先端をあてがい、煙を吐き出す。
「害をなすおっかない先輩に迎合するか、百害あって一利、二利しかない親の言いつけを守るか。
誰からも目の敵にされてしまっている友人に義理を通すか、ちょっとだけ信条にあわないことをするだけで甘い蜜をすするか」
「……でも、僕は――」
「キミはレヴェルトとは違うだろう?」
「っ……」
不意に胸の中に冷たい手が滑り込んできたような感じがした。
それが僕のドクンドクンと鳴っている心臓を掴んでいる。
「傍目に見れば、素晴らしい少年だよ、彼は。
できないことは何もなく、キミが言うところの悪い貴族みたいな他人の足を引っ張り合うことにも興味がない。
驕らず、昂らず、冷静沈着、勝負強くて、その美貌たるや女神シャノンの生き写しか……なんてね。僕とも違うし、キミとも違う。いいや、あんなのと同じ人がいるものか」
ピエトロ先輩がシガレットケースを僕の方へ差し出してきた。
「ねえ、マオライアス」
僕の名を呼びながら、ピエトロ先輩が狐のような細い目で僕を見据える。
「キミはずっと、人畜無害な羊のままでいるのかい?
毛を刈り取られて丸裸にされ、いずれ潰されて肉になるような、家畜のままでいいのかい?」
煙草を口の端にくわえ直してから、先輩がシガレットケースから1本取り出した。
それを僕に差し出す。震える手でそれを取ると、先輩が指先に火を灯した。
「息を吸うんだ、煙草から」
口に煙草をくわえると、切り口から細かく刻まれた葉が唇の裏に張りつくような感じがした。先端に火を近づけられ、言われたように息を吸う。煙草越しに入ってくる空気は、どこか重い気がした。鼻先から立ち上る煙にむせ、口の中に入ってきた煙で喉がイガイガする。
「鼻から空気を出すようにしてごらん、喉が動くだろう? その時、ごくんと空気を飲むんだ」
「……げほっ、ごほっ……!」
「ふふっ、むせなくなったら一人前さ。仲良くしてあげるよ、マオライアス」
紫煙をくゆらせながらピエトロ先輩がほほえんだ。




