マオライアスの憂うつ
ディオニスメリア王国。
お父さんとお母さんの生まれた国。
学術都市スタンフィールド。
ディオニスメリアの王命によって作られた、王立騎士魔導学院を中心として栄えた荒野のただ中にある街。
王立騎士魔導学院。
ディオニスメリア王国騎士団の騎士の養成と、優秀な魔法士を養成するための学校。
僕はこの王立騎士魔導学院に籍を置いて、騎士養成科で訓練と学業に励まなければならない学生。
お父さんはこの学院を卒業する時、序列戦という学生同士で競う学内最大の大会で優勝に輝いた。お母さんは4位で敗れたと聞いたことがある。けれど騎士養成科、魔法士養成科を全学年で合わせて1000人以上の学生の中で4位というのはすごいことだ。もちろん、お父さんもすごい。序列戦第一位という成績は騎士団に入れば出世確実のエリートになれるという狭き門だ。
けれど、僕は。
マオライアス・カノヴァスという人間は、落ちこぼれだ。
「カノヴァス、うまいかよ?」
頭の上からビシャビシャとかけられているのは葡萄酒だ。僕はカーペットに両手両膝をついた格好で、年上の同期生に葡萄酒をかけられ、大笑いされている。惨めだと思う気持ちはいつまで経っても馴れないでいる。悔しいけれどやり返すこともできず僕は哄笑の中で固まる。
騎士魔導学院の男子寮のひとつ、オーロルーチェ。
ここはディオニスメリアでも高位の貴族の子息のみが集まっている。血筋だけを見るのなら僕は彼らよりも上だというのは知っている。でもそれを掲げられるような人間じゃない。僕はきっと、カノヴァスの名にふさわしくない。
「おい、うるさいぞ」
先輩の声がすると、大笑いしていた同期生達の声がやんだ。
「すみません、先輩」
「もうちょっと静かにしろ、それになまぬるいだろ? それじゃあ」
先輩の声が近づいてきた。俯いている視界に靴の先が入ってきた。
顔を上げると先輩が僕を見下ろし、口元に笑みを浮かべている。
「舐めろ」
「えっ……?」
「それとも犬にできることもできないほどの間抜けかよ? そんな這いつくばった格好で、愛嬌もなしぃ? よっぽど犬の方が役に立つし利口だよな?」
「……っ」
「無視すんじゃねえ!」
いきなり喉を蹴り上げられ、ひっくり返って喉を押さえた。
息が詰まるかと思ってむせこみながら、さらなる暴力に怯えて丸くなるとさらに大きな笑い声が起きる。同じ靴が僕の頬を踏みつけてくる。
「おい、舐めろよ?」
「できません……」
「はぁ……犬以下だな。まずは犬になれるように、服でも剥いじまえよ」
「や、だ……やめてっ——」
「犬ならキャンキャン鳴けよっ!」
手が伸びてきて、服を脱がされそうになった。
抵抗して手足を丸めると、あちこちを蹴られる。情けない自分と悔しさで泣きそうになる。それがさらに情けなくて嫌になる。仰向けに押さえ込まれ、ズボンに手をかけられる。股を閉じて、膝を曲げて抵抗しようとしても、お腹を思いきり踏みつけられた。
「げほっ……!」
「おら、犬は人間様の言うことを聞——んぎゃあああっ!?」
すごい悲鳴が聞こえた。
それから派手な物音がして顔を上げると、同期生の1人が壁に寄せられていた棚の下でのびていた。
「マオを虐めるな」
「レヴェルト……」
セラフィーノがこっちへ歩いてくる。
と、同期生も、途中から加わった先輩もたじろぐようにして無言で解散していった。
「……マオ、平気?」
「……痛い」
手を貸されて立ち上がる。
セラフィーノ・レヴェルトは、学院で唯一、僕と友達でいてくれる相手だった。人間族のお父さんがディオニスメリアの大領主でもあるレヴェルト卿。母親は彼に仕えるエルフ。セラフィーノは母の血を継いでエルフとして生まれてきた。綺麗な金髪と、男でもみとれそうになる綺麗な顔をしている。
「やり返せばいいのに」
「……僕じゃ、やり返してもムダだから」
セラフィーノと一緒に寮の個室へ戻った。
オーロルーチェの学生は、学院の原則である寮では2人一部屋という決まりに縛られない。だからほぼ全員が個室だったけど、僕はセラフィーノと相部屋だった。セラフィーノはタオルを貸してくれ、それで葡萄酒で濡れていた体を拭く。
「これ、捨てとく?」
脱いだ服をセラフィーノがつまみ上げて尋ねてきた。
赤葡萄酒の汚れはなかなか落ちない。それをまた洗濯してしまうより新しいのを買えばいい。——というのは、貴族の考え方だ。
「いいよ……。お金、かかっちゃう」
「別にマオの家は困らない」
「ううん、余計なお金使って、なくして……お金ちょうだいって手紙出すのも、嫌だから」
「……そう」
セラフィーノはお父さんに言われて学院にきた。
僕はエンセーラムという国でセラフィーノと仲良くなった。そこの学校の卒業に合わせて、セラフィーノが学院へ行くと聞いたから一緒に来た。セラフィーノが友達として好きだったし、ユーリエ学校では勉強もできたからもっと難しい勉強するにはここの方がいいとも思った。
けれど今は——セラフィーノが嫌いになりそうになっている。
僕の産みの母親は、ジョアバナーサという国の女王だ。
もうほとんど覚えていないくらい小さいころは、その国にいた。でもリュカという人にディオニスメリア王国へ連れて行かれて、お父さんのお父さん――おじいちゃんに当たる人の屋敷に閉じ込められた。積み木の玩具しかない部屋にずっと閉じ込められて、メイドが世話をしてくれたけれど誰も話しかけてくることはなかった。そんなある日、お父さんがやって来て、今度は一緒にエンセーラムへ渡った。
お父さんは格好いい人だ。
僕と同じ、燃えているみたいな真っ赤な髪をしている。
腰には格好いい剣が2本あった。アーバインの兄弟剣と、サンクトゥスロサという剣だ。お父さんの剣技はエンセーラムでは1番で、王様のレオンよりも強いってよく聞かされた。すごく強いんだ、ってお父さんから聞かされて、それが嬉しかった記憶がある。お父さんは1番強い。
お母さんは、僕を産んだお母さんじゃない。お父さんが好きになって結婚した人で、やさしくて綺麗だった。いつもにこにこしていて、僕は本当の子どもじゃないのにかわいがってくれた。魔法がすごく得意な人だった。エンセーラムにいたころ、夜中にふと目が覚めて怖くなったことがある。お父さんは家にいなかった。1人でいるのが怖くてお母さんのところに行ったら、一緒に寝てくれた。眠れるまでずっとお話もしてくれて、朝に目が覚めた時もやさしい声でおはよう、って言ってくれた。
僕はお父さんもお母さんも好きだ。
学院に行きたいって言った時も心配はされたけど、ちゃんと話をしてくれて許してくれた。
入学を許す条件として、お父さんと3つの約束をした。
貴族の真似事をしておごりたかぶらないこと。
勉学にも訓練にも一生懸命取り組むこと。
そして、友達を大事にすること。
『いいか、マオ。
学院には貴族の子弟が腐るほどにいる。
そのほとんどの性根は、本当に腐りきっている。
だが、そいつらには決して迎合するんじゃないぞ』
ディオニスメリアへ向かうための船へ乗り込む時、お父さんにそう注意された。
うん、と短く返事をした。——でも、お父さんの言葉の真意をその時は知ることもなかったんだ。
学院には——ううん、騎士養成科には、貴族の息子というのしかいなかった。
彼らは群れを作って反目し合う。家柄を自慢して、父親を自慢して、その上下関係で結びつく。爵位が上の者が、下の者を連れ回す。そうして同等程度のそれぞれの群れの最上位者同士が、互いを気に食わなければちょっかいを出し合う。様々なことで競い、争い合って、相手の部下を時に買収したりして、どちらが上かというのを決める。そうしてグループを大きくしていく。
これがこの学院で彼らがやるべきことだった。
でも僕はそういう貴族の真似事をしてはいけない。
興味もないし、そういうことをするつもりもなかった。けど、彼らの輪の中に入らずにいれば自然と孤立をすることになる。そして、僕の家柄に目をつけた者から誘いを受けることもあった。
『カノヴァス、僕は良き友人になるべきだろう』
さも対等であるかのような言葉遣いと裏腹に、彼の引き連れる10人ほどの学生に囲まれて。
それをやんわり断ったら、その時から僕への嫌がらせは始まった。
派閥がどうなっているかは分からないけど、どの派閥からも嫌がらせをされた。
ストレスの発散なのか、単なる玩具という扱いなのか、色んな嫌がらせを受けることになった。僕の持ち物を知らぬ間に奪って捨て去るのは当たり前。階段を降りている時に後ろから突き飛ばされるのも当然。練習と称して教わったばかりの魔法を浴びせられるのは魔法の授業の後のお決まりになった。そうして嫌がらせをした後には必ず、彼らは大笑いする。
やり返す度胸もなかったし、肉体的にも僕が彼らに勝てるはずがなかった。
この学院の入学適齢は12歳。でも僕とセラフィーノは10歳で入学した。同期生であっても彼らは背が高いし、腕力もあった。
そんな生活の中で、セラフィーノはと言えば派閥に入ることも、自分で派閥を作ることもなかった。
そこは僕と同じだ。けれどセラフィーノは嫌がらせを受けてもやり返す。魔法で嫌がらせをされれば、それ以上の魔法で仕返しをする。陰口をたたかれてもどこ吹く風で気に留めもしない。大人数で囲まれて暴力を振るわれそうになっても、たった1人で全員を叩きのめしてしまう腕っ節もあった。
いつからか、セラフィーノも孤立をしたけれど、誰に何をされるでもなくなっていた。
セラフィーノを自分の派閥に取り込もうとする人も、それに腹を立てて嫌がらせをする人もいなくなったのだ。
そしてセラフィーノは、僕がいじられている現場を目撃する度に助けてくれる。
でもそれが、僕とセラフィーノの決定的な違いだと思うと、嫌な気分にさせられた。僕が出来損ないの落ちこぼれなのだと、まざまざと突きつけられているような気さえした。
学院に入ったのは、間違いだった。
ただセラフィーノと遊びたいなんて気持ちで来たにすぎない。でも僕とセラフィーノは全く違う。違っていた。
どこまでも惨めで。
どこまでも情けない。
きっと僕はこうしてずっと、誰かに脅かされながら生きていくしかない。