最後に流れる血
「あなたの気持ちを踏みにじって、ごめんなさい……。
でもあなたはやさしいから、きっといつかは許してくれますよね?」
裸のまま眠るリュカに話しかける。
心は落ち着いている。気が遠くなるまで、ずっとわたくし達は愛を確かめるようにまぐわり、いつしか眠っていた。
体を拭き清めてから服を着て、国を逃がされた時に持ち出せたブレスレットを左腕にはめる。
そうして身だしなみを整えたところでまたリュカを見る。
きっと怒る。
けれどいつかは許してくれると信じたい。
これはわたくしのわがままで、リュカへの甘えでもある。
彼は強く、純粋で、やさしくて。
だからわたくしは裏切ってしまう。
この罪は死しても抱えよう。
死後の極楽は望まない。わたくしには地獄がふさわしい。
こんなわたくしを愛してくれた人さえも悲しませ、自己満足で死のうという女が救われる必要はない。
外へ出ると日はすでに高く昇っていた。
フードを被らぬまま、堂々と歩く。わたくしに気品などというものはないだろう。けれど、王家の証でもあったこの髪色を見れば、奇異の目を向けてくる者は多い。昨日の広場までゆっくりと歩いていく。珍しく今日は晴れていた。少しは雪が融けるかも知れない。
この国の雪融けの日になってくれれば良い。
そして、最後に流れる血であってほしい。
広場には10人の兵士が今日も槍を携えて立っていた。
人の行き交う、広場へ続く道の真ん中で足を止める。それから息を吸い込んだ。冷たい空気が五臓に染み渡り、身体が内側へ引き締まっていくような心地がした。この空気は昔から変わらない。
広場に設置されている台へ歩み寄っていくと、わたくしの姿に気づいた兵士が槍を両手で持ち構えた。
「貴様っ、何をし——お前は……」
すぐにわたくしと分かったようだった。
他の兵も気づき、槍を構えながら迫ってくる。慌てずに階段を上り、台の上へ立つ。
「わたくしはシルヴィアと申します」
背伸びをするような心地で背筋を伸ばす。
動き出した兵に行き交う人々の視線はまず向けられた。それから、台に立ったわたくしへいくつもの目が向けられる。
「バルドポルメ王家に生まれた者です」
ざわつきながら足を止めた人々がわたくしを見つめる。
「バルドポルメの王女として、再びこの国へと舞い戻りました。
昨日の騒動を見物させていただきましたが……何を愚かなことをしていらっしゃったのか、終始、分かりませんでしたわ」
できるだけ邪気のないように笑む。
演じるべきは、この国の忌むべき悪の王家である。
「革命などという言葉……あなた達のような者には永劫、関係のないものでしてよ?
わたくしこそが、バルドポルメ王国の王女シルヴィア・バルドポルメ。
お父様が亡き後、この国を統治するのは正式な血統であるわたくしのみです。
さあ、皆さん。わたくしにひざまずきなさい。それが国民のあるべき態度というもの——」
飛来した石が額を打った。鋭い痛みがして、手で押さえる。
台の下で荷運び人と思しき男性が叫ぶ。
「ふざけるな! もうこの国に王なんかいねえんだ!」
「そうだ、王女だなんて誰が認めるか!?」
「バカにするな! 俺達はもう王族なんかいらないっ!」
次々と反発する声が上がり、石や固く握られた雪がわたくしに投げられてくる。
あまりの痛みに頭を抱えながらうずくまっていたら、髪の毛を掴まれて顔を上げられた。昨日もいた、軍の指揮官と思しき赤毛の兜を被った兵だった。
「これはこれは、シルヴィア王女殿……。昨日からずっと探していましたよ」
痛い、怖い。
けれど途中でやめられない。
これがわたくしにふさわしい、罰なのだから。
「っ……その手を放しなさい、無礼者!」
「つくづく、この国の王の血族というのは状況というものを理解できぬようですなあ」
わし、と髪の毛の根元を指の間で握る力を込められた。頭髪が抜けそうになる痛みがする。痛みを少しでも和らげようと体は勝手に動いて背を逸らしながら男の手に頭頂を寄せるような格好になる。彼の手首を掴もうと冷たい篭手を、とてもわたくしの手では握り込めない太さのそれに指をめいっぱい伸ばすのみだ。
「もう、貴様などに戻るべき玉座はない。
もう、貴様などの命令に従う者はいない」
彼はわたくしに顔を近づけ、恫喝して言い聞かせるかのように喋った。
「大人しくどこかに隠れ潜んでいれば良かったものを。
そうすれば命程度は助かっていたのだよ!」
乱暴に、わたくしをはり倒すように彼は手を放した。
台に張られた木の板にわたくしは倒れ込む。
「皆の者、この愚かな元王女の処刑を近日中に執り行う。楽しみに待っているといい」
わたくしを見下ろす指揮官の目にはねっとりとした欲望の色が濃く浮かび上がっていた。
懐かしき城内を見る、というのは叶わぬことだった。
わたくしが連れて行かれたのは城の地下にある牢獄である。
かつてまだバルドポルメ王家が国の支配者に居座って内乱が起きていたころ、多くの革命を志した者を収監して悪戯半分に残虐な拷問を与えていた——と逃亡している折りに耳にしたことはあった。彼らは一度、この地下牢へ閉じ込められる。そして鋲の打ちつけられた重い扉の向こうへ連れていかれ、様々な苦痛を与えられたという。
冷たい牢ではあったが、地下にあるためかさほど冷え込むということはなかった。
しかし寒さがないというわけではない。檻に入れられると、不思議と心は落ち着いた。広場にいた時は心臓がずっと高鳴っていたが、それが収まった。明日には殺される身だろう。しかし、どうせならばあの場ですぐに殺されていたかった。
もしかしたらリュカが助けに来てしまうかも知れない。
彼の力ならば城の警備を薙ぎ倒し、わたくしをこの牢から連れ出すことなどたやすいに違いない。そうなる前に、早く刑を執行してもらいたかった。
死にたい。
この気持ちを自覚した時、恐ろしくなり、それから腑に落ちた。
死は恐怖だ。
それが何故怖いのかなど、分からないほどに。
だが、終わりでもある。
救われたいのではないが、逃げたかった。
生きることの苦しみから、わたくしが幸福を感じる度に脳裏をよぎる罪悪感から。
死は逃亡である。
この世に死者を呼び戻す方法はなく、死者はこの世に干渉することも、干渉されることもない。
喜びを感じる心を閉ざしたかった。
怒りを感じる心を塞ぎたかった。
哀しみを感じる心を破りたかった。
楽しみを感じる心を壊したかった。
それらはこの国を不幸に落とし込んだわたくしが抱いて良いものじゃない。
死はこの全てを消し去ってくれる。
同時にバルドポルメの民の溜飲を下げてくれるはずである。
処刑というショーに人々は熱狂してくれるだろう。
長らく民を苦しめてきた王族の、最後のひとりがとうとうこの世から葬り去れる。
テリー・クラーはわたくしの死を利用して、民のガス抜きをしてくれる。為政者ならばそうするべき事態である。このままではまたグスターブという男によって、忌むべき王族と同じ末路を迎えかねないのだから。
民の心を率いて手に入れた座ならば、同じ手段で奪取されるという危機感は抱いているはずなのだ。
あとはわたくしが、処刑の時に悪の王女を演じれば良い。
そして革命をした時の、民の団結した心を人々が思い出してくれれば……こんなわたくしでも、死ぬことで役に立てる。
首を刎ねられるのだろうか。
それとも火炙りにされるのだろうか。
股裂きか、それとも磔刑に処されるか。
むごたらしくて良い。
痛みは怖いけれど、それが未来のために繋がるのならば……いいのだ




