幸福という名の苦しみ
「ごめん、俺のせいで。危ないみたいだったら、これでどこかに逃げて。あげるから」
女の子の家は外壁に向き合った、街の円周部にあった。
両親のところに送り届けるとシルヴィアが短く、広場であったことを話した。女の子の両親は顔を青ざめさせていたけど、俺が持ってきていた宝石を2個あげると、今度はビックリした顔になった。
「こ、こんなもの……」
「いいから。本当は俺が直接守ってあげられたら良かったけど、一緒にいた方が危ないかも知れないから……。もう行くから、ごめん」
宝石を押しつけるように渡してから、すぐにそこを離れた。
ようやく落ち着けたのはスラムだった。何となくスラムというのは落ち着いちゃう。小さいころにこういうとこで寝てたりしたからかも知れない。でもシルヴィアにはやっぱり合わない。それに、シルヴィアからすれば落ち着ける気持ちになんてなれるはずがない。
一日中日陰になっているような、高い壁に挟まれた暗い路地。
立ち並ぶ家はどこも小さくて狭い。その中にぽつんと宿屋があったから、顔を隠したままそこに入ってすぐに部屋に閉じこもった。
「……ごめん、シルヴィア」
「え……?」
「俺があんな時にシルヴィアって呼んじゃったから」
「……いえ、あなたのせいではありませんわ。それに何だか……」
「……何?」
「ああしてわたくしがいるというのが露見して、少しだけ、ほっとしたような気がいたしました」
ほっとした?
バレちゃったし、問答無用で殺すなんてことになっちゃったのに?
「おかしいですわよね」
「……うん? 多分?」
「わたくしは、罰を受けるべきなのでしょうか……」
シルヴィアは両手を膝の上で組み重ねる。視線はその手に向けられている。
「元々の、元凶なのです、わたくしが。
バルドポルメがこうして争いばかりの国になってしまった、大元なのですわ。父も、祖父も、民を省みないことばかりをしてきたのは事実ですし、わたくしも目を向けようという気さえなかった。そしてテリー・クラーが民を率いて革命をし、今度は彼が民の反感を買っています……。逃げ去る時、わたくし達に兵の注意が向けられていたので、集会に集っていた人々は逃げられていたように見えました」
俺は逃げるのに必死だったから、どうなったかなんて見られていなかった。
でもシルヴィアがそういうならそうだったんだ、きっと。
「しかし、今度こそ武力衝突が起きます。
どちらが勝つにせよ、少なくない血が流れてしまうはずです……」
あの広場で戦いが起きる――。
想像をすると嫌な光景が広がる。さっきは女の子が巻き込まれかけた。でも今度は、もっと大勢の人が巻き込まれていくのかも知れない。いつも痛い目を見るのは力のない人ばかりだ。抵抗する力もないような。
「わたくしは……ふと、考えてしまったんです。
この国で最後に流れる血は……わたくしの血であるべきではないかと」
「どういうこと……?」
「リュカ、長い歴史の中で味方同士が争ってしまう時、どのような条件があると思われますか?」
「味方同士……? 分からない……」
「それは敵のいない状態なのです。敵がいない集団は、その集団に属する人数が多ければ多いほどに……その味方内で争いを始めてしまうのです。人はきっと、争いを起こしていなければ滅んでしまうのでしょう」
「そんなこと……ないと思う」
分からないけど、そうだったら嫌だ。
争いがないと人が滅ぶだなんて、意味が分からない。分かりたくない。
「ですから、わたくしが……忌まわしきバルドポルメ王家に名を連ねていたわたくしが出ていけば、再び、この国の民は団結できるのではないでしょうか」
嫌な感じがする。
シルヴィアの言葉を聞きたくなくなる。
きっとシルヴィアは、俺の聞きたくないことを言う。
「わたくしが彼らの前で死ぬ姿を見せれば、バルドポルメ王家という悪を完全に排除したという団結で、また争いが消えるのではないでしょうか」
体が熱くなって、思わずシルヴィアの手を掴んだ。
でもシルヴィアは動かない。冷たくて、震える小さな手だった。
「……嫌だ」
「自己満足だと、頭は言っておりますのよ。
己を騙して楽になってしまおうという欺瞞なのだと」
「俺は嫌だ、そんなの」
「けれどわたくしは、この考えが頭にこびりついて離れないのです。
わたくしが悪となれば、彼らの争いは止まるかも知れません。
元々はクラーという人物も憂国の士だったのでしょうから」
「嫌だっ!」
シルヴィアが死んで争いが消えるなんて嫌だ。
本当にそんなことで終わるなんてバカな俺でも信じられない。
何もシルヴィアが悪いことをしたなんて思えない。そんなことをする意味がない。
悪者じゃない悪者が死んだって、めでたしにはならない。
「いいのですよ……。わたくしは、エンセーラムで暮らした日々で幸せを知りました。子ども達がいて、学校で先生の皆さんとお話をして、新鮮なお魚をいただいて、甘いお菓子を口にして……あなたと出会えて、心を通わせられた。
リュカを悲しませることにはなってしまいますが、ミリアムや、マルタがあなたにはいらっしゃいます……。きっと彼女達とあなたは幸せな家庭を築けると思えます。
レオンハルト様に出会わなければわたくしなどはどこかでとうに命を落としていたことでしょう。降ってわいたような幸せなど、しょせんはうたかたの夢も同然だったのです。いつか夢は覚めてしまう。わたくしにとって、それは……今なのです」
この国に来てからシルヴィアはずっと、つらそうな顔をしていた。
悲しいとか、くやしいとか、そんな単純な気持ちじゃなくて、もっと色んなことがごちゃごちゃに混ぜ合わさった苦しみがシルヴィアにある。だから死にたいんだ。すぐにシルヴィアは「わたくしなんて」って言葉を口にする。
シルヴィアは、ただ生きていることだって苦しいことだったのかも知れない。
幸せっていうのが苦しみの種だったのかも知れない。
それでも、俺は嫌だ。
嫌だとしか言えないのが、自分が嫌になる。
「最期にあなたが涙を一雫でもこぼしてくだされば、それがわたくしの幸福になります。
だから……止めないでください」
俺じゃあシルヴィアを言い負かすなんてできない。
どんな言葉を言ってもすぐに否定されちゃう気がして、首を振って見せる。
「子どもじゃないのですから、いやいやをしないでください」
「嫌だ……俺は、シルヴィアに生きててほしい」
「わたくしは……ダメなのです。わたくしなど、こうでもしなければ……何にもなれぬのです」
「そんなことないっ」
「せめて最後は胸を張りたいんです。未来のために」
「っ……」
何を言われても納得できるはずがない。
だけどシルヴィアも譲らない。俺の言葉じゃ説得できる気がしない。
「デアスは……死神デアスは、ちゃんと生きないとダメだって教える。自分から死ににいくなんて許さない。そうしたら、シルヴィアは——」
「それがわたくしにふさわしいのです」
「ふさわしいなんてない……ダメだ、そんなの」
どうやって言えばシルヴィアを止められる?
自分が死なないといけないなんて思うのは間違ってるはずなのに通じない。ううん、間違っていることにして死にたがってる。死にたいなんて思わせたくない。でも、説得する言葉が出てこない。
「あつかましいかも知れませんが……最後のお願いをしてもよろしいでしょうか?」
「最後なんて嫌だ。何でも、俺にできることならやるからっ、シルヴィアがいなくなるのはヤダ。ずっと、俺、シルヴィアのこと好きだった。結婚したいってやっと言えたのに、こんなの、認められ——」
シルヴィアが俺を向いて、キスをしてきた。
それで口を封じられる。喋っている途中だったのに黙らされちゃう。
「どのようにして、処刑をされるかは分かりません。
せめて最後に見た目だけは綺麗なままで……抱いてくださりませんか?」
そんなの嫌だ。
嫌なのに、またシルヴィアにキスされた。
そのままシルヴィアの冷たい手が俺の体をさすってくる。服の下に手を潜り込まされた。片手で俺の手を掴み、自分の胸に触らせる。触れたシルヴィアの胸はやわらかかった。俺の左膝にまたがるように座ってくる。
「シルヴィアっ……」
顔を放して、シルヴィアの肩を掴んで離した。
こんな気持ちでするのは嫌だった。やめさせようとして離して、でもシルヴィアの顔を見たら手が震えた。
今までに見たことのない、悲しい顔をしていた。
悲しい顔なのに、俺が欲しいって目が言っている。胸がぎゅっと締めつけられるような感じがして、シルヴィアを抱き締める。シルヴィアも俺の首に腕を回した。
今までに、シルヴィアとも、ミリアムともした。
だけど今日はそのどれもよりも、シルヴィアが切なくて激しい声を出した。
何回も何回も、シルヴィアはずっと続けようとして、俺はそれを受け入れた。
ずっと、ずっと、俺はシルヴィアが心変わりしてくれるんじゃないかと思おうとした。