小さな聖女と、小さな坊ちゃん
とても信じられない体験というのは、往々にして自分を冷静にさせるものかも知れない。
例えば本当にトラックに轢かれて死んでしまう人がいて、それが自分で、その寸前にはドラマチックにどこからか現れた男の人が庇ってくれたとか。結局、わたしもそれで死んでしまったのだとか。
冷静に客観視してみると、いやいやそれはあり得ないでしょうと。
そんな言葉が思わず漏れ出てしまう。だって死んでしまっても、こうして考えることができるのはおかしい。しかも、庇われて突き飛ばしてくれた人も死んでしまって、わたしもついでに死んでしまって、そんな無慈悲なことってあるだろうか。庇ってくれた人は無駄死にだ。本当に申し訳ないと思う。どんな詫び方をしても謝りきれないだろうとも思う。ごめんなさい。そして、ありがとう。
最期の瞬間となってしまったけれど、人生で初めて家族以外の男性に本気で、しかも結果的に命懸けの心配をされたのだから本望です。はい。
わたしは、その感謝を胸に、この摩訶不思議な世界で今日も元気に生きています。
「ティアっ、よくぞ参ったな! 首を長くして心待ちにしておったぞ! 今日はひとりでここまで来たのか? 悪いことは言わんから、屋敷に泊まっていくが良いぞ! そして余とともにめくるめくロマンスの一夜を――」
「だからね、ブルーノ、そういうのはもっと大人になってから言おうね?」
「余はもう立派な大人だ! 見よ、この力こぶっ! それにそれに、エズメにも剣術勝負で勝利をしたぞ? ティアよ、余はお主の言う大人であるのだ!」
転生――というものを果たしてしまったようで、気がついたら赤ん坊になっていた。
死ぬ前の記憶は持ったまま、赤ちゃんとして文明レベルの低い別の世界に生まれてしまった。ここでは誰もが魔法を使えて、身を守るために剣を持って、王様や貴族や奴隷がいて、耳や尻尾のある人や、頭に角があったり背中から翼を生やす人もいて、わたしの知らない常識があって、けれど何だかんだで順応しながら10年を過ごした。
その間、色々なことがあった。
魔法というのが面白そうで赤ちゃんの時にドカンと小火を起こしたばっかりに戦慄され、悪魔の子扱いをされちゃって幼少期にずっとはぶられ続けちゃったり、とてつもない流行病が村を襲った時にペストじゃないかと疑って猫をたくさん家に集めまくってネズミ駆除をしていたところを見つかったり。
最初こそ気味悪がられていたのに流行病の一件からは手の平返しで聖女だなんて言われ始めるようになった。今では各家庭に1匹以上の猫が常識になっている。かわいそうだけれどネズミは敵だ。
そんなこんなで勝手にわたしに注目してしまう人が次から次へと増えていって、今ではライゼル王国三大領主の一角であるシンクレア公爵家の次男ブルーノ・シンクレアにものすごく気に入られてしまっている。ブルーノは肉体年齢は同い年なのだが、マセた10歳の――ちょっと頭の弱い男の子で、子どものくせに欲望まみれのお誘いを何度も何度もしてくる。
「それで今日はどうしてわたしを呼んだんですか、ブルーノ?」
「もちろんっ、それは余がお主に会いたかったからだぞ!」
わざわざ、わたしの住んでる小さな村まで従者のエズメさんを派遣してまで、可能な限り早急に屋敷に来いと伝えられたのにこれだ。そんなことだろうと思ってゆっくり来たものの、やっぱり脱力してしまう。室内で今日も律儀に待機しているエズメさんも小さい主に肩を落としていた。エズメさんはブルーノの世話係兼ボディーガードをしている女性で、背筋がすっと伸びている見た目だけはクールビューティーと言える人。中身は同情したくなるほどの苦労人で心配性な人だけど。
「何だ、嬉しさのあまり、気が抜けたのか? だったら余がお主を大人にしてやろうではないか。エズメ、湯を沸かせ! 湯浴みの準備だ!」
「沸かさなくて大丈夫です……」
「ほう、このままが良いと? ティアよ、お主も大胆ではないか……むっふふふふ」
「その気はありません」
「照れるでない」
「照れてません、真剣です」
「余も真剣に好いておるぞ?」
「お断りします」
「まったく……怖じ気づくとはかわいいところがあるのう、ティアよ。よい、許してやろうではないか」
本当にこの子の頭の中はどうなっているのやら。
それともこの世界の貴族っていうのは、こんなに小さい内から性に意欲・関心が高いのかな。それにしてもオープンすぎるような気もする。だいたい、こんな10歳の子の好きだなんて、悪いけれどちょっとこっちは本気で受け止めきれない。もう10年経って冗談でも下心でもないのなら、一考することくらいできるけれど……。
「折角、ここまで来たのだ。ティアよ、余の力を貸してやろうではないか。何か、今企んでいることはないのか?」
「大丈夫だよ」
「む……何かあるであろう? 例えば何かこう……なかなか手に入らぬ食材が欲しい、であるとか」
「ない、かな……」
「何かこう、お主の考案した料理に欠かせぬ特別な調理器具がいるとか」
「事足りてます、ありがとう」
「あ、味見役がいるとか!」
「でも失敗も多いからブルーノには悪いよ」
「案ずるでないぞ、ティア! 余はティアの作ったものであるならば、何でもうまいと言えるのだ」
「それじゃあ味見役にならないよ?」
「むむぅっ!」
ブルーノはけっこうかわいいところがある。
これがわたしに向けられた幼い好意じゃなかったらほほえましくしていられるんだけれどなあ。
「だったら、余はどうやってティアを恋に落とせば良いのだ!?」
「だから落ちる気はないんだって……」
本当に申し訳ないけれど、少なくともあと10年は。
むむむ、と唸っていたかと思うとブルーノがずびっと鼻をすすった。ちょっと罪悪感。だけど、ここでやさしくする方が余計に残酷だと思ってくるっと背を向けておいた。
「坊ちゃん、ティア様を市に案内してあげてはどうです? 何か珍しいものを見つけて坊ちゃんにお願いしたいことが思い浮かぶかも知れませんよ」
「ほんとか……?」
「多分、ですけれど」
「……分かった、そうする」
エズメさんに提案された通りにブルーノは涙声で市にいこうと誘ってきた。ここで断ったらまた傷つけかねないと思うと、了承するしかなかった。まあブルーノは単純な子だから、彼が市に夢中になってくれることを期待した方がいい。
ライゼル王国三つの領地に分割されている。
アルドリッジ領、ポーラス領、そしてシンクレア領だ。この3箇所の領地を治めるそれぞれの家はライゼル三大領主と言われている。この三大領主の上にライゼル王室があり、アルドリッジもポーラスもシンクレアも王家の遠縁に当たるらしい。だから王族と言っても差し支えない。
その三大領主シンクレアの次男であるブルーノも、もちろん、家系図は見たことないが王族の端くれには当たるわけで、端くれとは言え歴とした貴族である。だから本来は、そう簡単に屋敷を離れて外をふらふら出歩くことはできないのが普通なのだが――ブルーノは型破りな子で、市井の生活に興味を持っていて、屋敷のあるシンクレアの都の住民とも顔を見知った仲で親しくしている。
市はシンクレアの都の主要な道であるシャンラーゼ通りに出る。
3日に一度、近隣の漁村や農村からたくさんの食材が集められるのだ。海は遠いがハイラヴァルという大きな川が近くを流れているので、そこで穫れた魚が運ばれてくる。土地はそれなりに肥沃――とでも言おうか、それなりに良い作物が収穫することができる。ライゼル王国は近隣の国と比べれば小さいものの、土地に恵まれて食料事情が良かった。
だからわたしは聖女だなんてもてはやされるようになってから、ちょっと魔が差してあれこれと、少なくともこの国にはなかったものを再現して作り出している。
今のところ、1番ヒットしたのは肉まんもどきだ。粗めにミンチにした豚肉をベースに、タマネギ、タケノコ、キノコ、白菜――のような具材をパン生地で包んで蒸し上げたものだ。ふわっとした生地と、少し濃い目の甘辛に味つけした餡、そして具材の食感。これらがうまいことウケた。
小龍包も作ってみたのだが、味見した村長さんが舌を盛大に火傷して恐ろしい食べものだと震え上がったので、こちらは広まらなかったりした。新しいものが受けられる、というのは意外と難しい。
話を戻して。
シンクレアに出る市には近辺の食材ならば季節のものならば大体何でも出てくる。ただ、なかなか前世の記憶通りの食材というのには出くわさない。
出会ったトウモロコシは粒が黄色ではなくて黒だったり紫だったりして食べる気になれなかったし、タマネギめいたものは漏れなく濃い紫色をしている。着色したのか、っていうくらい見事な紫だったけれどこれはまあ大丈夫。やや形が細長い楕円形に近いものの。
とにかくそういった具合で思い通りに食材を組み合わせて、思い通りのものを作るのはなかなか難しい。仮に食材が揃ったとしても前述の肉まんもどき――何故か肉蒸しという名前で定着した――のような、蒸すという調理肯定が必要になると蒸し器が入り用になったりと弊害は多い。そこでブルーノのような好奇心の強い人が力になってくれた。何かもう最近は遠慮する気持ちが強くなっているけれど。このまま頼り続けていたら近い将来、何か良からぬことが起きそうな気がする。
「ん? おい、ティアよ。あそこに見慣れぬ行商人がいるぞ。覗いてみようではないか」
大勢の人で賑わう市場を歩いていたら、不意にブルーノが何かを見つけたようでわたしの手を引っ張って小走りになった。人にぶつかってもお構いなしで突き進むブルーノと、ブルーノだと気づいて気さくに声をかけてくる都の人達。
「早く落とした方がイイぞ、坊ちゃん。女の心は気まぐれだからな」
「小さな聖女さん、坊ちゃんをよろしくね」
「デートかい、仲がいいねえ」
そんな声が聞こえてきたけど気にしないでおく。
ブルーノが露骨すぎるのは最早、都中に知られている。こうして外堀を埋めている作戦なのだとしたら、10歳児とは言え侮れない。かと言って、今さらつき合い方を変えようにもブルーノが捨てられた子犬みたいに悲しそうな顔をする画づらが浮かんじゃってできそうにない。
「そこの者、行商か? 許可証はあるのだろうな? 余はブルーノ・シンクレア。このシンクレアを治むるシンクレア侯爵家の者であるぞ。何やら見慣れぬ物が置かれているではないか。どこから参ったのだ?」
大人相手でも堂々と臆することなく、いっそふんぞり返りそうな勢いでブルーノは声をかけた。
市場の一角に簡素な店を出していた商人は肉まん――厳密にはこの土地では肉蒸し――を頬張っていた手を止め、ブルーノと、それからわたしに視線を向けていった。
「すっげえ遠い、小さな島国からな」
「ほほう、どれくらい遠いのだ?」
「そうだな……。自分の足で来るんなら、クセリニア大陸を東から西まで横断して、ラサグード大陸に渡ってから南下してこのアイフィゲーラに到着して、今度はアイフィゲーラを西から東へまた横断……っていうところか」
「ほほう! つまり、お主は海を渡って大陸を横断してこんなところへまで来たというのか!? よもや、ひとりで来たのではあるまいな?」
「ひとりだよ、今回は」
「ひとりでか!? ううむ、そんな長距離を歩き通してこられるとはただ者ではないな? 余には分かるぞ、商人とは仮染めの姿――差し詰め、ううむ、さすらいの剣士というところであろう!? そうであろう?」
この世界は飛行機もないし、船の技術もそこまで発達しているわけではない――と調べた限りで知っている。だというのに、そんなに遠くから一人旅をしてきたというのなら確かにただ者ではない。だが、その男性は小さく笑いながら否定した。
「んな大層なもんじゃねえよ。まあ、商人が仮染めの姿ってのは大当たりだ」
「ほう? ではさすらいの剣士ではないと言うのだな? では何だ? 余に言ってみるが良い」
「んー、さすらいの穴空き?」
「あなあき?」
「もしくは、さすらいの王様……ってか?」
「ふふっ……はっはっは、面白いのう、その者は! ティアよ、聞いたか? さすらいの王様と言ったぞ!?」
「さすがに王様っていうのは冗談だと思うよ。ふざけてるんだよ」
「なにっ、ふざけておるのか!?」
「はは、悪い、悪い。坊主がからかい甲斐がありそうなもんでな。お詫びに、このカレーパンをやろう」
カレーパン?
耳を疑っていると男性がそれを2つ差し出した。衣のついたパン。冷めているけれど知っているものと一致した。ブルーノが何の疑問もなくそれをかじると、目を輝かせる。
「んんんっ!? な、何だ、これはっ!? うまい、こんなうまいもの初めてであるぞ!? ティアも食うてみよ」
「う、うん」
確かにかレーパンだ。揚げられて茶色くなっているパン。
一口かじると、ザクザクした食感の衣と、ふわりとしたパンの柔らかい生地の食感がする。それから中に詰められた、やや甘口のカレー餡。少しスパイスの利いた、けれど具材の旨味がよく出ているカレーパン用のカレー。
目を見張る。
知っている味だ。
この世界に来て初めて、わたしが何も手を加えずに完成された状態で、わたしの知っている料理が出てきた。
「どうだ、うまいであろう、ティア? お主、名は何と言う? 興味がある、余の屋敷へ来るが良い。遠慮はいらんぞ!?」
「そうか? んじゃあ、招かれようかね。俺は、あー……穴空きレオンって名乗ってんだ。そっちのお嬢さんは?」
「これはティアだ」
「噂の聖女か」
「おお、ティアのことは知っているのか。有名になったもんだのう?」
「あなたは……何者なんですか?」
「多分、あんたと同じような境遇だよ。――ようやく、会えた」
穴空きレオンと名乗った男性は腰を上げ、早々に店仕舞いをしてしまった。
ブルーノにもうひとつカレーパンを与えて、その足で再びシンクレアの屋敷へ戻る。わたしと同じような境遇、と彼は言った。興味津々のブルーノに手を引っ張られて歩く背中を見る。
もしかしたら、同郷なのだろうか――?
いや、それを彼は確信しているようにしか思えなかった。