旅は道連れ、世は情け
「旦那、何してるんですかい?」
背中に声がする。ヴィクトルの声だ。
墓石の前で腰を上げて振り返ると、半分以上海に沈んだ夕陽を背にヴィクトルは立っていた。
「この墓に……レオンハルトを育てた漁師が眠っているそうだ」
「ああ、チェスターとかいうじいさんですかい。漁師だってえのに腕っ節が強かったそうで。にしても意外でしたねえ、旦那があんな風に誰かに頭を下げちまうなんて」
軽口を叩きながらヴィクトルが墓の前にしゃがんだ。
「もう、これでお前への用は済んだ。どこへなりとも好きに行くといい」
「どこへなりともってね、旦那……。俺をこんなとこに放置してくってんですかい?」
「ここに居着けばいい。――牛もいるのだろう」
「おっとと、バレてました? まあ、あいつはちゃっかりしてるやつだから、けっこうここで楽しい生活してるようですが、俺はちいと馴染みにくいもんでね」
「お前の好きなものが山ほどあるだろう」
「だけども、日陰暮らしが長かったもんでねえ……こうもお日様がギラギラしてると落ち着かねえってもんでさ」
嫌味のつもりだろう。
腰を上げるとヴィクトルが夕陽を振り返った。とうとう日が沈むと、辺りはすぐに暗くなる。
「でもって、これから旦那はほんとに何をするんで?」
「クセリニアにでも渡って、人の少ないところで隠居でもしよう」
「ああ、そいつはいい。旦那にゃ似合いの隠居先だ。いっそ、アイウェイン山脈ってえとこに住み着いたらどうですかい? 寒さで凍えてる間に天寿をまっとうできちまいそうだ」
「お前はどうするつもりだ? ディオニスメリアへ戻るならば路銀はくれてやる」
「んんー……俺ぁ、ヴェッカスタームにでも行ってみますかねぇ。あすこもまたうまい酒があるし、この国とも近いもんで清酒も手に入りやすいときた。いい塩梅じゃあねえかとも思ってはいますが……」
「この日差しには落ち着かないのではないのか?」
「そいつぁ言いっこなしってことにしときましょうや」
高台を降り、ミシェーラの家で眠った。
ヴィクトルはその晩はふらりとどこかへ消えたが、翌日に王が見知らぬ者と騒ぎ、飲み明かしたという話があった。
身支度を整えてクセリニアへの直行便を船着き場で待っていると、ミシェーラがクラウスとともに息を切らして走ってきた。後から赤毛もついてきた。
「お父様、もう行っちゃうの? 何で事前に言ってくれないの?」
「大した別れでもあるまい。……長く、離れて暮らしてきたのだ」
「でも、もう年なんだから……。もう一晩くらい」
「……いや、もういい」
出港準備をしていた船への乗船時間となった。
ミシェーラとも、クラウスとも、もう会うことはないだろう。最後にクラウスを抱くと、髭を引っ張られた。
船へ乗り込んでから港を見渡すと、埠頭の小屋のそばにイザークがいた。あの男も随分と老けた。無口で一度も声を聞いたことはない。だがわたしが目を向けると騎士流の敬礼をしてきた。
その近くにマノンもいた。ドジばかりでわたしがクラシアの屋敷へ帰る度、顔を青ざめさせながらバケツやら何やらをひっくり返しまくっていた。彼女もまた、わたしに深々とお辞儀をした。
いつもの見送りと違うのは距離があることと、もう会うことがないということだろう。
船が出航する。
エンセーラム王国はすぐに小さくなり、別れを惜しんでいた乗客も各々の船室へ戻っていく。
わたしも船室へ向かおうと踵を返すと、薄汚れたマントを纏ったヴィクトルが立っていた。旅支度も整えてある。ヴェッカースタームにでも渡ると言っていたはずだというのに。
「やあ、旦那。奇遇だねえ」
「どうしてこの船へ乗っている?」
「やだなあ、忘れちゃったんですかい。路銀ならくれてやるって言ったのはおたくでしょう。そいつを回収するつもりだったんですがねえ、旦那を見つける前に船が出ちまった。いやあ、こいつは仕方ねえからもうしばらくだけ、たからせてもらいましょうかね」
適当なことを言う。
だが、こういうやつだったか。
「大方、これまでの給金を酒と煙草と博打で溶かしたのだろう」
「あ、バレてます?」
「役に立つなら同行させてやろう」
「はっはっは、この老骨にまだ無茶しろって言うんですかい、人使いの荒いお人だなあ、まったく。でもって、船室は何番で? いやあ、若者と一緒に飲んでると昔を思い出してばかばか飲む割にゃあ辛くなっちまって。とっとと寝たいとこなんですがねえ」
船室もいつの間にか、寝台の他にハンモックが備えられていた。
ヴィクトルは荷物を放り出してからすぐハンモックへ横たわる。
「何でもエンセーラムじゃあ、最近、捨て子が問題になってるそうでさあ。かわいそうなことに、産んだはいいが育てられねえってんで捨てちまうんだとか。あとは旅行に来てる若者が異国情緒にあてられて一晩熱く燃え上がっちゃった挙句、子どもを孕んじまって、生んで身軽になってから颯爽と帰っていっちまうとか。でもって、親も分からねえ赤ん坊だけ取り残されちまうそうで」
「行き場のない子など様々な事情で出るものだ。それをどうにもできぬのでは、国などすぐに滅びる」
「ざっくり言いますねえ……。ふわ、ああ〜……ダメだ、旦那とはもうただの旅の道連れってえもんだと思って雑談のひとつやふたつしてやろうとも思いましたが……体力の限界……。おひとりでどうぞゆっくり過ごしてくださいな、おやすみ〜っと……」
すぐにヴィクトルはいびきをかいて眠り始めた。
うるさいいびきに耐えきれずに客室を出て船内を歩き出すと、不意にどこからか赤子の泣き声した。声のする方へ歩いていくと、船底の倉庫に行き着く。多くの荷物が積み込まれているそこから、ひとつの樽を見つけて蓋を開けると果物をベッドに赤ん坊が大泣きしていた。
『何でもエンセーラムじゃあ、最近、捨て子が問題になってるそうでさあ』
そっと赤ん坊を抱き上げる。それでも泣いていた。
「お前は捨て子か? ……いや、状況を見れば明らかなことだったか」
この拾ってしまった赤子は船員に託すべきか。
エンセーラム所有の船ならば、エンセーラムでどうにかするのだろうが、ヴィクトルの言い分通りならばまだ捨て子対策を確立してはいないはずだ。
「……最早、不要になったこの剣をいずれくれてやろう」
片腕に抱き、船の食堂へと向かう。
腹をすかせているのならば、赤子でも食べられるものを用意させねばなるまい。汚物の臭いはまだしていないが、おむつも用意した方がいい。冷静に考えればひとりきりでの隠居もつまらぬもの。ヴィクトルなどはいずれどこかへふらりと消えるだろうから、このくらいの連れ合いがいれば――。
「旦那ぁ、また赤ん坊捨てに行く気ですかい?」
クセリニア大陸に降り立ち、ヴィクトルが茶化すように言う。
「旦那呼ばわりはよせ。もう立場などはない身だ」
「んじゃ、いい加減こっちもヴィクトル呼ばわりはよしてもらいましょうかね」
「名はどうするつもりだ?」
「もうとっくにランバートなんてえ名前は忘れられてるだろうし、そもそもクセリニアじゃあ万が一にも死人が生きてたなんて騒がれることもないと思うんですがねえ」
「いいだろう。ならばランバートと呼んでやる。
それとランバート、お前に最初の命令をくれてやる」
「は? いやいや、俺はもうヴィクトルでも何でもないんですから――」
「役に立つなら同行させてやると言ったはずだ」
「いやいや、それは――」
「エンセーラムまでこのまま戻って、この赤ん坊を捨てた愚か者を探し出し、手違いでないことを確認してこい。それまでは分かるように行動しながら待っていてやる。路銀だ」
金を分けた巾着袋を投げて寄越すとランバートがしぱしぱとまばたきをする。
「旦那、本気ですかい?」
「旦那はよせと言っただろう」
「ああ……そいつは失礼、ともかく本気? これから戻れって? それはジョークにしちゃあ……」
「わたしがジョークを言うと思っているのか?」
「…………」
「路銀の余りは手間賃にしてやる。また追いついてこい、ランバート」
「そりゃないんじゃないの、エド?」
「好きにしろ」
赤子を腕に抱いて歩き出す。
この年になるまでちゃんとした子育てはしたことがないが、どうにかなるだろう。
騎士団長の座を降り、家督を譲り渡し、全てを清算して空っぽになったと思った矢先に拾ったのは偶然と言うだけでは済ませられないものを感じる。
レオンハルトの時はやり方を間違えたが、いずれこの子が大きくなった時、騎士に興味を持ったのであれば――。
あと20年は生きねばなるまい。
この小さな子が腕の中で動く度、そう思ってしまうのだった。




