初めての遠吠え
晩餐が終わってからは風呂に入っていけとレオンに言われたので、王宮の露天大浴場へ行った。
ダリウスは泳ごうと思えばできてしまうほど広い風呂と、開放的な野外での入浴というものに驚嘆していた。昼間ならば星空の代わりにどこまでも見渡せそうな海と空が見えるとレオンが自慢すると、それにも興味を持っていた。
「素晴らしいです。ただ体を清潔に保つだけでしかないと思っていた入浴に、こんな楽しみを見出せてしまうなんて。日中にもここへ来て、湯に浸かりながらの景色を見てみたいですね」
「んじゃあ来いよ、朝風呂もいいんだぜ。あ、なんならこれから飲み明かすか?」
「レオン」
「はいはい、自重します……。
んでも、風呂がただ体を清潔に保つだけって……そんなもんか、世間の認識は。こうやってちと熱いくらいのお湯に浸かってるだけで、リフレッシュされるってもんだろうに」
言いながらレオンは浴槽の縁に頭を乗せ、だらりと脱力をする。
「確かに、意外とこういうのはいいかも知れません……」
「いいだろう? いいんだって」
「そう言えば領内に熱いお湯が出るところがありましたし、そこに入ってみるのも……」
「えっ?」
「ああ、あるよね、そういうところ。飲み水にするにはちょっと濁ってたりして嫌だけど」
「は?」
「……レオン、どうかした?」
ダリウスの言葉に同調していたら、レオンが嘘だろうとばかりに驚いた顔を見せていた。
「……地面から、お湯?」
「はい」
「熱いやつ?」
「うん」
「変な匂いとか」
「しますね」
「何か嫌なんだよね、あの匂い……。腐ったみたいな」
「…………それ温泉? 天然?」
「おんせん?」
「天然、というのは?」
「それ、欲しい……。エンセーラムに欲しいやつ、俺が」
「?」
がっくりとレオンが肩を落としたので聞いてみたら、その地面から出てくるお湯に浸かると体に良いらしい。場所によって効果は違うそうだけど肌が綺麗になるとか、患っている病を多少は癒してくれるようなこともあるんだとか。
「ダリウス、お前それ、観光資源だぞ。整備しろ。
石とかを敷き詰めて、そこに湯が溜まって、循環させながら綺麗にするようなシステムを作れ」
「は、はあ……」
「鶏の卵とかをな、カゴか何かに入れて突っ込んでおくんだ。そうするとお湯の温度でいい具合に火が通って、生に近いけどほっかほかの絶妙な半熟の卵になるんだ。そうなれば腹痛とかにもなりゃしねえから、安心して食える。醤油垂らしゃあ、べらぼうにうめえぞ。騙されたと思って、まずは卵だけでも食ってみろ。そいつを売物にして、温泉そのものもいいもんだってアピールしてけ。ソーウェル領の人気待ったなしだ。ちゃんと整ったら俺も浸かりに行く」
「わ、分かりました……」
「ああ、クソっ、何でエンセーラムにゃあないんだ……。温泉入りてえのに……。
あれ? つうか……ディオニスメリアにもあった気がするな? そうだ、スタンフィールドからカハール・ポートに行く途中で、どっかの山間にあるって聞いたことあんだよ。行ってみたら山賊どもに荒らされてて入れなかったんだけどな。ダリウス、とりあえず帰りにそこ立ち寄ってみろ。どうすりゃいいか分かるだろ」
すっかりレオンは温泉というものにときめいているようだった。
ここのお風呂みたいにただ水を温めたのとやっぱり違うんだろうか。同じにしか思えないけど。
「ついでに頼んで申し訳ないですが、お父様とお母様、それに姉さん達への手紙を持っていってもらってもよろしいでしょうか?」
「もちろんです」
過ぎてみればあっという間のもので、ダリウスが帰る日が訪れた。
旅装に身を包み、少なくない荷物を背負い込み、帽子を被る。旅に出た当初は何かも真新しかったそうだけど、エンセーラムへ辿り着くまでに汚れ、もう見た目だけは立派な旅人だ。
「ロビン殿、色々とお世話になりました」
「いいんだよ。リアンの弟なら家族だ。姿は違っていてもね」
「はい、ありがとうございます。
それにラルフも元気な様子を見せてくれてありがとう。キミのおじいちゃんとおばあちゃんが合いたがっていたから、良い土産話ができるよ」
ラルフの頬を指で軽く撫でてダリウスが目を細める。
その手をラルフが掴んで引っぱり、自分の口へ運ぼうとする。ほほえんでからダリウスが手を引くとぐずりそうになったが慌てて抱いたまま揺らしてあやしておいた。
「リアン姉様、お体に気をつけてください」
「あなたもですよ、ダリウス」
「はい」
挨拶だけは家で済ませて、トト島玄関港に向かった。
水夫が旅装のダリウスに気づいて、もう行ってしまうのかと残念がっていたけれど、トト島玄関港ではもっと大勢が出立を惜しんでいた。
「ほらよ、若造」
その中には初日にダリウスが足を運んだ造船所の船大工も混じっていた。
模型作り担当の職人だ。彼が持ち手のついた平たい箱を差し出すとダリウスは目を輝かせて、その場で開ける。箱の中に横たわっていたのは一隻の船だ。
「すごい……! 本当にいただいてしまって、いいんですか?」
「おう、持っていきな」
「ありがとうございます。このご恩、一生忘れません」
「大袈裟ですねえ、ダリウス。……いいデキですが。あ、ここの船底のところに魔法的機構が搭載されているんですよ、ほら」
「ここのところですか?」
「ええ」
「リアン、ここでそういうのを教えると長引いちゃうよ」
「おっと、失礼」
興味を持つと一直線な姉弟にストップをかけると集まっていた人達が微笑ましそうに笑った。
やがて出港を告げる鐘の音が鳴らされ、ダリウスがダイアンシア・ポートを経由し、ジェニスーザ・ポートまで向かう定期船に乗り込んだ。
「皆さん、ありがとうございました!」
船が動きだし、ダリウスが手を振った。
港から大勢がそれに応える。声をかけたり、手を振ったり。ラルフの手を持って振らせる。だけどいつもとちょっと違う状況が怖かったのか、泣き出してしまった。元気な声だから、この方がダリウスには届くかも知れない。
水平線の向こうに船が消えるころには見送りに集まっていた人々もまばらになって解散していた。
僕らももう行こうと踵を返すと、上空をレストが――そしてレオンが船の向かった先へと飛んでいくのが見えた。出遅れたからレストで追いついて挨拶しようってことかも知れない。レオンらしい。
「ロビン、ダリウスのこと、ありがとうございました」
「いいよ、大したことはしてないから」
「いえ……あの子はどうも、前から外を旅したいと強く思っていたきらいがありました。正直、最初に手紙をもらって読んだ時はそのまま領主の任から逃げて風来坊にでもなってしまうんじゃないかとも思っていたんです」
「そ、そこまで?」
「はい。いやはや、血筋なのか、偶然なのか、たまにそういうのが出てくる家系なんですよ」
「自分のこと、棚上げしてる?」
「はっはっは、何を仰るのやら」
露骨にとぼけたなあ。
「ともかく……そういう懸念があったんですよ。
もっとも真面目な性分ですから、そう簡単には放棄しないだろうとは思っちゃいたんですが……そういう欲求を溜め込んで、いつか爆発しないものかという心配もありまして。そこは父も懸念していました。だから、こっちへ到着したらうまいこと、領主としてのやりがいを分からせてやってくれないかと、父からも手紙を受け取っていたんです」
そこまでは知らなかった。
でも、エンセーラムに来た当初は何にでも目を輝かせていたし、あのころくらいまでは胸の奥でそういう想いがくすぶっていたのかも知れない。
「タイミングが悪く、丁度留守中にくることになってしまったんで少し考えてしまいましたが……ロビンに任せて大正解でしたね」
「大したことはしてないよ」
「いえいえ、わたしが出しゃばっていたらボロでも出したでしょう」
それはどうかとも思う。
商会の代表をしていた時はディオニスメリアの大商人や貴族と交渉をして、今じゃ国単位での交渉ごとまでしているのだ。
「正直、わたし個人としては好きなようにやりなさいというのが本音ですからね、余計なことを口にするんじゃないかとも思っていました」
「ああ、そういう……」
「けれどロビンに案内されてエンセーラムを見て、ダリウスはソーウェル領を預かる者としての使命感を芽生えさせられたようです。あそこは難しい土地ですから、ただ今までのやり方で存続させようとするのは愚策でしょうが、きっとダリウスならより良いところにしてくれるでしょう」
結局、リアンは何もかもを見通していたのかも知れない。
ダリウスの胸中も、背負っているものも、好奇心の対象も。けれど、尚のこと、個人的な勧めというものにさえ目をつむって心を固くすれば自分でどうにかできたのではないかとも思える。
「いやはや、やはりロビンに任せて正解でしたよ」
「僕じゃなくても良かった気もするんだけどなあ……」
「そんなことないですよ。ロビンの言葉には飾ったことも気取ったところもありませんから、素直に耳を傾けることができるんです。これがわたしやマティアスでは、腹を探りたくなってしまうというものですからね。だからダリウスも素直に物事を感じて、考えて、ああいう結論に至れたのでしょう」
「……照れるな、そうやって言われちゃうと」
「ふふ、そういうところが好きですよ」
「ありがとう」
「では今日も仕事がありますから、一足先に」
小舟の乗り場でリアンと別れた。
天を仰げば、今日も晴れ渡った青い空が広がっている。
不意に、うずいた。
月はまだまだ出ないのに、吼えたくなる。
こんなところで吼えるのは迷惑だろうと思って我慢しかけたら、ラルフが遠吠えをした。まだ練習のいる、かわいい声での遠吠え。
喉を震わせ、手本となるように僕が遠吠えするとラルフもそれを真似た。
空へ広がり、この遠吠えがダリウスのところまで届けばいい。親しい仲間の無事を願う、僕らのこの声が。




