エドさん
寒い。
すごく、寒い。
手はかじかむし、耳は痛いし、魔鎧を使ってても疲れは別物で体は重くなる。
「はあ、はあっ……はあっ……」
もう、どれくらい、歩いただろう。
方向感覚は一向に掴めずにまっすぐ進めているかも分からないし、近くに人の気配がないのも魔影で確認済みだ。レストの笛も定期的に吹いてはいるけれど、とっくにエンセーラムに帰っちゃっているのかも知れない。
背負っているお父さんの体は冷たいけど、微かな呼吸は聞こえている。
まだ生きてはいるけど、とにかく暖を取らないと危険だとは思う。でもこんな銀世界でどう暖を取ればいいのか。魔法で火を点けるのは簡単だし、魔力の多さにはちょっと自信があるから燃料なしで炎を起こし続けるのもできなくはない。けどゴールも見えず、ただただ魔力を消費し続けるのは悪手だ。
ああもう、雪国なんて二度と来たくない。
吐息が白い。寒い。指先や耳が酷い寒さで痛んでいる。体力も消耗してきている。槍が重すぎる。放り捨てたくなるけどお父さんの大事なものだから、我慢して引きずりながら進む。
ただただ、ひたすらに歩く。目的地の見えない移動は、何だかずっと疲れる気がする。やっぱり旅をするならレストの背中に乗ってぴゅーっと飛ぶのが一番かも知れない。上空も寒いは寒いけど、こうも冷たくはない。お空なんてどんよりしてて、いつまた雪が降るかも分からないし。
「お父さぁん……起きてよぉ……」
泣き言を言ってみてもお父さんはぐったりと動かない。
疲れた。足を止めようか。とにかく、魔法で火でも点けてひたすら燃やし続けていたら目が覚めるかな。でももし、手当てが必要な状態だったら、それじゃあダメだ。
泣きそうになる。
全部、姉ちゃんが悪いんだ。
お腹も減った。何か食べたいけど、動物を狩ってみてもそれをどうやって食べられるお肉にすればいいか分からない。こんなことならラルフに教わっておけば良かった。
でも、食べるだけなら皮とかべりべり剥がすだけなのかな。
何もないよりは、マシかも知れない。
「…………よし」
魔影を使って周囲の魔力の反応を拾う。お父さんはエンセーラム丸ごと感知範囲内にできるみたいなことを言ってたけど、そんなに広範囲を僕はできない。せいぜいが直径で500メートルくらい。この雪じゃあ生き物もあんまりいないかも。木々さえ生えてない凍土の雪山だ。
でも、何かいるかもと思って魔影を広げていった。
「……ダメだこれ」
さっぱり、反応はない。
この雪山には僕とお父さんしかいない。
さっきの雪崩の被害者も僕とお父さんだけとは言えるから、それはそれでちょっと安心かもだけど、でもこの非常時では慰めにしかならない。
今は気持ちの部分のフォローが欲しいわけじゃない。即物的な助けが欲しい。
ともかく魔影を使いながら進むことにして、のろのろと雪を踏みながら歩く。いちいち膝下まで足が埋まってしまうから、ほんの1メートルを進むのでさえも酷く疲れてしまう。
それにしてもお父さんがこうなっちゃうなんて、想像できていなかった。
いつも元気で、うざ絡みしてきて、でもやさしくて、豪快だったり繊細だったり面倒臭くて、だけど――お父さんが弱ってるなんてところは見たことがない。くたびれてる姿は珍しくないけど、あれは弱ってるというか、参ってるという感じだし。大きな病気にかかってるところだって俺は記憶にない。魔力欠乏症とは知ってるけどあれは元気のなくなる病というわけでもないし。
お酒が好きで、俺と姉ちゃんのことが大好きで、音楽も好きで、国の皆が好きで、嫌いなものって何だろうとまで思う。
そんなお父さんが、意識もなくて、息が細い。
怖い。このまま、もしお父さんが――そんな想像をすると、無性に怖くなる。
そんなことを考えて歩いていたら不意に、魔影が何かを感知した。
右手側の前方で動いているものがある。動物だろうか。お腹が減った。焼けばきっと、食べられる。でも臭かったらどうしよう――いや、でも空腹は敵だ。
急いで反応のある方へ向かう。一面、綺麗な白い雪。俺とお父さんの他に、誰もいないんじゃないかと思えていた銀世界に、その人はいた。
年老いた男の人だった。毛皮の外套を体に巻きつけるようにして防寒しながら、何かを探っているように周囲を観察して歩いていた。
顔を見られる距離まで近づくと、じっと視線を向けられた。
白い髪で、しわも目立つ。だけど背筋はしゃんと伸びて、顔にはくっきりと威厳めいたものが刻まれている。鋭い眼光で射すくめられて、気圧されるように足が止まってしまう。
「あ、あの……雪崩に、巻き込まれちゃって、お父さんが、意識なくって……助けてください。
もし……あなたも、遭難中とかで、なかったら……」
恐る恐る声をかけてみると、その人は値踏みでもするかのようにその場で僕を観察した。
「こっちにわたしの小屋がある。来なさい」
年の割にはっきりした、どっしりした声だった。
毛皮はワイルドだけど野蛮そうには見えない。むしろ、何か、反対にすごくしっかりしている人のように見える。
とりあえずは助かりそうで安堵しながら、その人の後ろについて歩き出す。
「あの、えと……お名前は? 俺はディーです」
「……エドヴァルドだ」
「エドヴァルドさん? 何か呼びにくい……」
「好きに呼べばいい」
興味なさそうに返される。
「じゃあ、エドさんで」
「……」
特に反応はなかったけど、自分で好きに呼べばいいって言ったんだからいいはず。
心細かったのが何だか解消されて、ちょっとだけ元気になれた気がする。エドさんの後をくっついて雪の上を苦労しながら歩いた。
エドさんの小屋にようやくたどり着いた。
部屋の中央で薪が炊かれていて部屋の中が暖かい。お父さんを毛皮の敷き詰められたベッドのようなところに寝かせると、エドさんは怪我の様子だとかを診てくれた。幸い、大きな怪我はないということだった。自然と目が覚めるだろうという診断にほっとする。
それからエドさんはあったかいごった煮のようなスープをくれた。小屋の周囲は雪に埋もれているけど、その下に野菜があるらしい。それらの野菜と、狩猟でとったお肉なんかを煮込んだものだった。
「モルスポルタまで、一体、何をしに来ていた?」
食事が終わってお腹が落ち着いて、あったかい部屋で体中の緊張もほぐれたところでエドさんはそんなことを尋ねてきた。
「お父さんと、うーん……槍の練習? 足があって、割とどこでも行けちゃうから、人気のないとこに。あと南のあったかい島の生まれだから雪ってあんまり見たこともなかったから」
「……そうか」
「それより、ここ、モルスポルタって言うんですか?」
「そうだ。東クセリニア、アイウェイン山脈でも秘境中の秘境と呼ばれている」
「秘境……へえ……。エドさんはどうしてこんな辺鄙なとこに住んでるの?」
「理由はない。人に交じる暮らしに疲れ、隠居先を求めて歩いてきただけだ」
それにしてはくたびれきった人間には見えないけれど。
隠居とか言ってたし、元々はどこかで偉い立場にいた人とかなのかな。
「父親だったな、その男は。……仲が良いのか?」
「仲良し、だとは思う。まあ、一方的にお父さんが俺のこと大好きなだけなんだけどね。嫌いじゃないし、好きっちゃ好きだけど、うざいからさあ、お父さん。俺、ハーフだから見かけ通りの年でもないのにいつまでも子ども扱いしてくるし……。お小遣いとか無限にせびれそうだから、まあいいんだけど」
「そうか。……近辺の魔物は凶暴だ。病み上がりでは危険もあろう。目が覚めたら、すぐに帰れ」
腰を上げたエドさんは外へ行ってしまった。
顔とかはけっこう、おっかないタイプだけど意外にやさしいのかも知れない。
いい人に出会えて良かった。




