旅した領主
「ダリウスって、リアンの弟でソーウェル領を継いだっていう?」
「ええ、そのダリウスです。領地の外を見てきたいと懇願したそうで、父がまだ元気な内に最初で最後の遠出だから、と押し通してエンセーラムを目的地に旅をしてくるんだとか。それでですね、ダイアンシア・ポートから手紙が届きまして、港の周辺を見てからエンセーラムへ来ると。大体、あと3日もあればこちらへ来るというようなことが書かれていました」
ラルフに作った離乳食を木の匙ですくい、口元へ運ぶ。
早くもものをかじるのが好きになっているようで、喜んで口を開け、まだ満足に生え揃ってもいない歯で匙をしゃぶって離乳食を食べてくれる。
「3日……」
「ですが、丁度、明日からわたしはダイアンシア・ポートに行かなければならない用がありまして」
「仕事?」
「ええ」
「早ければ10日ほどで戻れますが、船の都合もあってどうなるかは分かりません。このままだとダリウスと行き違いになってしまうんです」
「確かに、そうだね。もうあと少しで来るってことは、今ごろ船に乗ってるかも知れないし、リアンとは海の上で行き違っちゃう」
「はい。ですので、ダリウスのことを頼んでもよろしいですか? もちろん、ラルフのことも……ですが、まあそこは男同士でよろしくやってください。では、仕事に行ってきますので」
「行ってらっしゃい」
ラルフの小さな手をリアンに振らせて見送る。
戸口でこっちを振り返り、ほほえんでからリアンは今日も軽やかに仕事へ出ていった。
「忙しいお母さんだね、ラルフ」
「あんぶ」
「……はいはい」
まだ残っている離乳食を催促され、口元へ運ぶ。
夢中になって匙をしゃぶるラルフはこの世で一番かわいいと思う。見ているだけで自然と口元が綻ぶのを感じた。いい子に育ってくれている。どうしても仕事で忙しいからとリアンは早めにおっぱいを卒業させたけれど、離乳食を嫌がりもせずによく食べてくれる。ラルフのほっぺについた離乳食を指ですくい取ろうとしたら、その指までぱくりとくわえられてしまった。
「おいしい?」
「あぶ」
「おいしくないよね。じゃあ、こっち食べようね」
どうしてこんなに我が子というのはかわいいんだろう。
リアンが宰相として船へ乗って島を出ていった翌日にダリウスはやってきた。
暇な時間を見つけてラルフに船を見せようと玄関港に来ていたら、そこへダイアンシア・ポートからの旅客便が帰港してきた。降りてきた人々の中から嗅ぎ覚えのある匂いがしたのですぐに分かった。僕とリアンの結婚式にダリウスは残念ながら来られなかったけど、リアンの両親と4人の姉妹はやって来ていた。その時の匂いがしたので手紙とも合わせてダリウスと分かった。
「はじめまして」
「っ……あなたは?」
「ロビン・コルトー。この子が僕とリアンの息子のラルフだよ」
「どうして、僕がお分かりに?」
「匂いが似てたから。家族って自然と同じような匂いを振りまくようになるんだよ」
「匂い……」
「長旅ご苦労さま。リアンは仕事で、入れ違いでダイアンシア・ポートに行っちゃったんだ。10日くらいで戻れるって言ってたんだけど、それまではここにいるといいよ。大したもてなしはできないけど」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
リアンと一緒に暮らしたことはないと聞いているけれど礼儀正しいところはそっくりだった。
ディオニスメリアの人だということで獣人族への偏見がどれくらいあるかと少しだけ不安があった。結婚をした時にリアンの家族と会う時も正直、気が重かったけれど僕を獣人としてではなくて、リアンを娶った男として嫉妬にも似た恨みを感じさせられた。それだけリアンが大事に――というか好かれていたのだろうとは分かったエピソードだ。
しかし、ラルフが獣人族として生まれてきたことで血統が穢されたという風に思いはしないかと、今になって不安が胸に渦巻く。リアンの家族だから酷い蔑視をすることはないはず、だとは思う。けれど、目の当たりにしたことでそういう気持ちが強くなることもあるんじゃないかとも邪推してしまう。
この国はどんな人種でも広く受け入れてくれる。けれどディオニスメリアでは獣人蔑視が根強いし、差別している意識がないほどまでに獣人族や魔人族に偏見を持っているということも想定はできる。さらに言えばダリウスはこれまでソーウェル領からは出たことがなかったとも聞いている。変な誤解を持ったまま、それを誰も払拭することもできずに価値観が定まったという可能性もなくはない。
「ロビンさん」
「……うん?」
トト島の海岸沿いを南の方へ歩いていたところでダリウスに声をかけられた。山育ちのために旅に出て初めて海を見たそうで、船にも興味を持っているようだから造船所まで案内をするために移動をしている。
「ラルフを良かったら、抱かせてもらってもいいですか?」
「……ラルフを?」
「はい。実は僕、末っ子長男だったので家族からはちやほやされるばかりで、自分より目下の子をかわいがったことがあまりなくって。一度でいいから、その……赤ちゃんを抱いてみたいな、なんて思ってたので」
はにかみながらダリウスが言う。
その顔を見ると抱いていた不安が全部消えた気がした。
そもそも差別的な感情を持っているのなら、わざわざここまで一人旅で来ることもなかったはずだった。
造船所までの道すがら、ダリウスからはソーウェルの屋敷でリアンがどのように育ってきたのかを聞けた。ダリウスが生まれたのはリアンが学院へ来るころだったので、又聞きにはなるけれど、リアンはなかなか話してくれないことだったから楽しかった。
女の子として生まれてきたのに、男の子が生まれなかったことを嘆いたお父さんのために男として生きることを決めたリアンのお話。愚直に男の子のやることをやって、それが板について領内のどこの家の子よりも腕白だったとか、山ごもりと言ってひとりであまり人の立ち入らない山の中へ入っていって行方不明騒ぎになったとか、初めて聞く話が多かった。
ダリウスは僕の口からリアンの人となりを聞きたがった。
お姉さん達も両親も、リアンを好きすぎて色眼鏡をかけてしか語らないから率直な話が聞きたかったらしい。特にこれといった話は生憎と浮かばなかったから、マティアスくんも交えて3人で旅していたころのことを話した。
どんな話も目を輝かせながら夢中になってダリウスは聞く。礼儀正しく、好奇心が強く、快活。ダリウスはリアンのお姉さんが嫁いで生んだ子どもだったけれど双子だったから、養子としてソーウェル家に迎えられたと聞いている。けれどよくリアンに似ている気がした。何でも感心しながら聞く姿勢なんて特にそっくりだと思う。
造船所へ着いてから、教えられる範囲でエンセーラムの造船業がどんなものかをダリウスに説明した。
エンセーラムの造船は魔法的機構を組み込んでいるから長距離の航海でも安全性を確保し、結果として信頼のおける海運ができるようになっている。大勢の船大工に僕が協力して、試行錯誤を繰り返しながら作り上げ、いまだにブラッシュアップを続けている国の一大産業だ。
船は人だけではなく、多くの荷物を一度に運ぶこともできる。
良い船を多く持つことができれば、それだけで海の向こうの世界へ働きかける力が強くなる。造船は小さな島国でしかないエンセーラムの発展になくてはならないものだ。
――しかし、ダリウスが造船所で一番興味を示したのは船の模型だった。
「この帆船は何て言うんですか? こっちの船は?」
船が完成し、港を出ていく際にどんな船を造ったかを記録する意味合いで同じ形に作った小さな模型を作製している。それが並べられた棚にダリウスは食いついて目を輝かせていた。
「模型、欲しい?」
「もらえるものならば欲しいですけれど、見ているだけでも。この角のように突き出ているところが格好いいですね。いくつものヒモ……いえ、ロープですか。これが張り巡らされているのも何だか胸をくすぐってきて」
あまり熱心にダリウスが眺めていたから、いつも模型を作っている職人が適当に用意すると請け合ってくれた。ダリウスはそれに感激していた。19歳でとうに成人はしているはずだけれど、その喜びようは純真無垢な子どものようだった。