変革された未来
戻ってきたのはクライテの森の中だった。過去へ飛んだ時、出た場所がここだったからだろうか。静かな森で生き物の気配がたくさんある。風のそよいだ木々が葉を揺らし、かすかな音を立てる。
「…………」
ディーが命を繋ぐ未来を創れた。
わたしが行ったことで分岐した未来がその後どうなるかは分からないが、お父さんなら、お父さんの時代でナターシャを倒してくれるはずだ。平和なエンセーラム王国が、もう手の届かない過去で始まっているはず。
けれどわたしはそれを見ることができない。
『全部終わったらさ……お前、寂しくならねえか?』
ジョアバナーサでお父さんと話した夜を思い出す。
自分がこの時代に留まるとまでお父さんは言ってくれた。それを必要ないと断ったけれど、想像していたよりも寂しさがあった。
きっとあの時代は救われた。
またディーを目の前で見て、お母さんに会うこともできた。
色々な懐かしい顔を目の当たりにして、それから、わたしだけが帰ってきた。
残れるものならば残りたかった。
だがそれは決してできないことで、この胸に去来した寂寥は決別の証拠でもある。
もう心残りはない。
これまでずっと過去を見続けてきた分、これからは未来を見据えて生きるだけということ。
「クォォォッ!」
聞き慣れた声がして空を見上げた。
バサバサと木々の間に割って入りながらレストが下りてきて、近くに着地をして翼を畳む。
「クォォォ……」
「レスト……どうして、こんなところに」
「クォォッ」
この子は人の言うことを理解しているのかどうか、分からない。
ただ呼びかけていることは分かったのか、こちらの調子とは外れた嬉しそうな声で鳴いて頭を擦り寄せてきた。
そう言えばジョアバナーサの道具屋に行けとお父さんが別れ際に言っていた。
レストも来てくれたことだし、のんびり行こうと決めた。鞍へ跨がると翼を広げ、助走をつけてからレストが大空に飛び出す。ひとりで乗っていると、お父さんとリュカがいないせいかレストの背が広く感じる。時空跳躍のリバウンドで体が縮んでいたお父さんが前に座って手綱を取り、わたしはその後ろについた。そして、わたしの後ろにはリュカがいてくれた。
少し窮屈なこともあったけれど楽しかった。
ちょっとリュカにくっつくだけでお父さんはレストに曲芸飛行をさせて邪魔をしてきた。けれどそれでスピードを出した分だけ、わたしはリュカに支えてもらえて近くに感じられたというもの。きっと気づかずじまいだったはずだ。お父さんは敏くない。たまに抜け目なくなっても、基本的に節穴の目をしていたから。
夕刻にジョアバナーサへ到着して、その足で道具屋へ行った。
何ということはない、日用品や、旅人のための道具を販売しているような雑貨店。
「レオンハルトという人が、ここへ来なかったか教えてほしい」
眠そうに肘をついて欠伸をしていた店主に声をかけると、来たよ、と気のない返事をして背筋を伸ばした。
「あんたは?」
「……フィリアという」
「あいよ、預かりものだね。ええと……ちょっと待ってておくれ」
預かりもの――?
何かをここにあらかじめ注文しておいたということだろうか。
店の奥に店主は引っ込んでいき、ややして戻ってきた。一抱えもある箱を持って。それをテーブルに置いて、ふうと額を拭ってから蓋を開ける。
「じゃあ中身の確認をさせてもらうよ」
「……して」
「まずは画板が4つ」
「画板?」
「ん? 何か違ったか?」
「いや……何でも。続けてほしい」
そもそもこっちは、何を注文しているかなんて知らない。
画板に続いて、色とりどりの顔料、それに何本かの絵筆、その他、絵描きの道具が一式、出てきた。これだけ揃えるとかなり高くつくはずだと言うのに、何をどうやって大金を調達したのか分からない。
「それじゃあ、これは渡したから」
「ありがとう。……ところで、このお金は?」
「もうもらってるよ」
「……ここに来たのは、これくらいの子どもだったと思うけれどどうやって大金を?」
「ああ、それなら……この指輪と交換してね」
店主が取り出したのは、銀色の指輪だった。
記憶を辿ってみれば確かにお父さんの指にはまっていたものかも知れない。いつの間に外れていたかは思い出せない。
「年季は入ってるが、これはただの銀じゃない。聖銀さ。だからこう古くても綺麗な色を保ってるんだな」
「聖銀の指輪……。そ、それを、買い戻したい。お金ならいくらでも出すから」
「え? いや、そうは言ってもこいつの値打ちは――」
「いくらでも出すと言っている」
「じゃ……じゃあ、金貨10枚、なんて――」
「分かった」
即座に取り出して見せつけると、店主は目を剥いた。
こうして画材と、お父さんの指輪を手に入れた。彫刻されている模様はディオニスメリアで昔に流行したものに似ている。これが流行ったのは確か、100年は昔だったはずだ。聖銀は加工が特別に難しいが、それをしてしまえばいつまでも褪せない輝きを持つと言われていて、これだけの立派な模様を持った聖銀の指輪ならば金貨10枚なんて安すぎるほどだ。
こんなものをどうやってお父さんは手に入れていたんだろう。
いや、だけどお父さんのことを調べていた間、この指輪をしていたという話はちゃんと聞いたことがある。これにまつわる話は聞いたことはないけれど、悪童伝説の悪童レオンも指輪をしていたという描写があるから、入学以前から――?
そうなると考えられるのはレヴェルト卿にもらった、とか。いや、レヴェルト卿が指輪を贈るにしたってこういうものを贈るのは少し不自然だから、さらに遡ると、おじいちゃん……?
「……まさかな」
確か漁師だったはずで、それくらいしか覚えていない。そんな人がどうしてこんな値打ちものを持っていたのか分からない。いや、だけどもしおじいちゃんのものだったとして、100年前に流行していたのだしあるいは手に入れる機会がどこかにあったのかも知れない。
それにしても、指輪に気を取られたが……画材か。
そう言えば関心してくれていた。色をつける顔料は貴重で高額ということもあって手に入りづらいのがほとんどで、わたしも手を出そうとしたことがなかった。それでこうして、こんなものをずっと見につけていた指輪と引き換えに用意しておいてくれたんだろうか。
こんなの、嬉しくないはずがない。
ジョアバナーサの宿屋を取り、部屋で画材を広げる。
まだ脳裏に残っている光景を薄くスケッチする。それが済んでから、絵筆で色を塗っていく。
ディーがいて、お母さんがいて、お父さんがいて。
どこまでも青い空と、陽光を反射して煌めく青い海が広がっている。
もう二度と拝めない、戻ることのできない――わたしが守ったものを描き上げる。
部屋にこもりきりで絵を描きあげていく。途中何度か、宿の主人に食事はどうするのかとか声をかけられたが、何度も後でいただくと繰り返しながら絵に取り組んだ。たまに携行していた干し肉をかじって、小腹を満たして、ずっと続けた。
細部の色使いが気になり、修正の作業を続けている時、また部屋にノックの音がした。もう少しだから無視をしておく。あとちょっとだけで、終わるのだから。
「やっと見つけたよ」
知らない声がした。若い男の子の声だが、その口調は親しげだった。
振り返るとあきれ顔をした少年がそこにいて、青い髪をくしゃとかいてから無遠慮に近づいてくる。
何で、どうして。
「うわあ……何これ、姉ちゃん、絵ぇ描いてたの? しかも、これ、何か……若いよ。これ、俺でしょ? 若いっていうか、幼いくらい――」
「ディー……?」
「何?」
「……ディー!」
腕を広げて飛びつく。
尻餅をついてディーは倒れ込んでしまうが、紛れもなくディーだと一目で分かった。
理屈はどうでもいい。
未来を変えた。そして奇跡が起きた。
30年続けてきたひとりの戦いが実を結んでいた。