008現実世界
……ピピピピピピピピピ。
アラーム音で俺は目を覚ました。
携帯を手に取り、アラームを止める。
時計の指し示す時刻は5時。
身体を起こして周りを見れば、見慣れた自分の部屋の景色だ。
いつもより1時間早いこと以外は何も変わらない、現実世界の朝。
……とはいえ数分前までは異世界で浅尾さんや都築さんと今夜の打ち合わせをしていたことを考えると、かなりの違和感を感じてしまう。
ベッドから降りて軽く伸びをした。
身体能力がゲームの世界に比べると劣るため、若干身体が重く感じるが、疲労はなく頭もすっきりしている。ゲーム中は脳も身体もしっかり休んでいるというのは本当みたいだな。
試しに勉強机に置いていた参考書をぱらぱらとめくるが、昨晩勉強した内容はアルフ・ライラで過ごした7時間の記憶に邪魔されることなく、問題なく頭に入っていた。便利な仕組みだ。
参考書を置くと俺は洗面所に向かい、顔を洗って軽く口をゆすぐ。
冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し、飲みながらリビングに行くとテーブルの上に書き置きがあった。
母親からだ。「冷蔵庫にお弁当を入れておきました。忘れずに持って行ってください。母より。」とのこと。確かにさっき冷蔵庫に弁当らしき包みがあったな。
仕事で疲れているにもかかわらず、昨晩家に帰ってから作ってくれたのだろう。
今日の晩ご飯のおかずまで、すでに用意してあった。
ありがたい話だ。
本人は余裕のあるときだけ作っていると言い張り、事実昼食代が置いてあるだけの時もあるのだが、それでも一般的な主婦の基準に照らし合わせてほぼ遜色のない頻度で作ってくれていると思う。味も絶品とまでは行かないが充分美味しい。
母親のメモの後ろに「いつもありがとうございます。創一郎。」と書き、そのまま部屋に戻って1時間ほど勉強する。
その後は寝ている母親を起こさないよう、そっと支度をして家を出た。
通学鞄を背中に背負い、マンションの駐輪場に止めてあるスポーツ系のチャリ(ロードバイクという)にまたがる。
学校の最寄りの駅まで電車で行くと歩く時間も含めて大体40分程かかるのだが、これなら飛ばせば20分ちょっとで着くし、朝の良い運動になる。
早朝の心地良い風を受けながら俺は自転車をこいだ。
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駅の出口付近で自転車から降りて腕時計を確認する。
7:20。
ちょっと早かったようだ。
この時間、まだ駅から出てくる生徒はほとんどいない。
俺は携帯をとりだし、軽くニュースサイトを閲覧する。
さすがにここで単語帳を出したりするほどガリ勉ではないし、家では新聞を取っていないので情報収集に丁度良い。
少し暇でもつぶすか。
そう思って画面に意識をうつした矢先、
「あ、あれ?高津くん? お、おはよう!」
声をかけてきたのは都築さんだ。服装は当然冒険者の格好ではなく制服で、しっかり眼鏡をかけている。こちらが普段の姿のはずなのに違和感を感じた自分が若干可笑しくて、ふっと笑みがこぼれた。
「おはよう都築さん、ずいぶん早いね。」
「あ、いつもはもう少し遅いんだけど、今日はほら、早めに起きちゃったから学校来て勉強しようと思って。」
「ああ、そうなんだ。確かに朝の学校は勉強にもってこいだからね。」
「……ほんとは家でしようと思ったんだけど、ちょっと気持ちが落ち着かなくて。なんかすごい体験だったよね!色々あったし、やらかしちゃって迷惑もかけちゃったけど、私すごく楽しかった!」
昨夜の冒険の興奮さめやらぬ様子で都築さんが話してきた。
さすがに声のトーンは抑え気味だが、それでもその様子に何人かのサラリーマンが通りがけにちらっと視線を向ける。
都築さんもそれに気付いたのか、ちょっと恥ずかしそうに口元を押さえた。
「ごめん、興奮しちゃって。高津くんはどうしてここに?」
一瞬どう返答すべきか迷ったが、極力さりげない風で事実を伝えることにした。
「人を待ってるんだ。7:28着の電車で来るはずだから、もうそろそろかな?」
その俺の答えを聞いて、はっとした表情をする都築さん。
先ほどまでの親しげな雰囲気から、一気に気まずそうな、よそよそしい態度に変わる。あ~、これは失敗したかな。何となくは知っていたみたいだ。
「ご、ごごごごごめん!わ、私ここにいたらお邪魔になっちゃうね!ま、またね!」
目線をそらすとこちらの返事も聞かずに反転して猛ダッシュする都築さん。
……お~い、そんな勢いで走り去ったら、なんだか周りの人たちが妄想をたくましくするじゃないか。
俺はそこから少しの間、サラリーマンのおっちゃん達の好奇の目線にさらされる羽目になった。
でも都築さんには変な気を遣わせてしまった。あとで謝っておこう。
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「ソウくん、おはよ~。お待たせ~!」
手を振りながらこちらに近づいてくるのは、新城絵里奈(しんじょう・えりな)だ。
大きな瞳に整った鼻梁、日本人離れしたすらりとした容姿は道行く人々が思わず振り返るレベルだ。俺の反応を待っているのか小首をかしげるその仕草に、ふんわりとした髪が肩にかかる様子もまた男達の心を奪う魔力に満ちあふれている。
俺は「おはようエリナ」と返すと右手で自転車を押し、左手で彼女の手を握って歩き始めた。
他の生徒の目に触れない早朝の時間、駅から学校までの10分ほどの距離をこうして歩くのが俺たちの日課になっている。
「ソウくん、昨日うちのクラスの女子達でさ~……」
エリナが上機嫌で話してくるのを俺は相づちを打ちながら聞く。
彼女が話し好きなので基本的に俺は聞き手に回ることが多いがまあ退屈ではない。
「今男子って体育何やってるの?」
「サッカー。」
「え~、いいな~。ソウくん大活躍じゃん!」
「いや剛力先生の目があるし、そんなに目立つことは出来ないよ。」
「あはは、確かに。顧問が授業担当って嫌だよね~。ウチはさ~……」
エリナとはつきあい始めて半年近くになる。
クラスは違うが、彼女は俺が所属するサッカー部でマネージャーを務めている。
中学まではバスケをやっていたそうだが、高校では人を支える裏方の仕事がしたくてマネージャーを志望したとのこと。
ところが「新入生で一番かわいい子がサッカー部のマネやってる!」と噂になり、一時グラウンドが見学者でごった返したり、同じ一年部員や先輩から毎日のように告白されてりしてたらしい。本人はさぞ迷惑だったことだろう。
その状況にうんざりした彼女が出した結論が「彼氏を作ればもう騒がれずにすむ!」だったのは本末転倒な気がするのだが、「自分の周りにいる男の中で一番マシなのは誰か?」と考えた末、部活終わりの俺を強引に連れ出し、「たぶん好きです!つきあってください!」と告白するに至ったのは、俺にとって幸運だったというべきなんだろうな。
……いや「たぶん好きです!」は告白の文言として相当間違っていた気がするが。
ともあれ俺たちはそこから今に至るまで、なんだかんだで仲良くやっている。
「ソウくんさ~、いくらテストが近いとは言っても10時に寝るのはさすがに早すぎない?ただでさえ勉強してるときはメッセージ返してくれないし、ようやく返ってきたと思ったらすぐに『ごめんおやすみ~』っていささか傷つくんですけど~?」
「あ~、ごめん。昨日は放課後からずっと勉強してたからさすがに疲れてさ。」
あまり言い訳するのも良くないが、かといって「おとぎの国に行ってました!」とも言えない。エリナは「そうなの?なんか学年一位も楽じゃないね~」と少しずれた感想を洩らす。学年一位は別にどうでも良いのだが、それを言っても話が面倒になるだけなので軽く流した。
今日もまた10時にログインする約束なのだが……今こうして俺との時間を大事にしてくれるエリナに対して申し訳ない気持ちもある。
テスト期間が終わったらログイン時間を見直すのもいいかもしれない。
そうこうしているうちに学校が近づいてきて、俺たちはつないだ手を離した。
さすがに先生に見咎められることになったら面倒だ。
ふと横の陸上グラウンドを見てみると陸上部が朝練をしている最中だった。
あそこにいるのは浅尾さんかな?
一瞬目があったような気がしたが、浅尾さんはすぐにトラックを走り出した。
テスト前だというのに陸上部は次の大会に向けて練習に余念がない。
がんばれ浅尾さん。
そう心の中で応援して俺とエリナは正門をくぐった。
「おはよ~」
挨拶とともに1-4の教室のドアを開ける。
時刻は7:45。まだ生徒が登校するのには早い時間だが、今日は先客がいた。
都築さんだ。
「お、おはよう高津くん、さっきはごめんね。」
見ていた単語帳を閉じ、慌ててこちらに身体を向ける。
「いや、こっちこそごめん、変に気を遣わせちゃって。」
都築さんのような真面目な子にとって、「恋人待ちのところを邪魔した」というのはかなりの罪悪感を感じる行為なんだろう。申し訳ないことをした。
俺は気にしてないよ、という態度でひらひらと笑顔で手を振り、自分の席に鞄を置く。その様子を見てほっとした様子の都築さん。
「そっか、良かった。」
「うん、勉強の邪魔してごめん。俺はちょっと他クラスの友達の所に行ってくるから、気にしないで続けてて。」
二人で教室にいても都築さんに気まずい思いをさせるだけなので、俺は教室を出ることにする。といっても行く当てはない。
……エリナを誘って購買あたりに行くかな。
エリナも俺も始終べたべたするのは苦手なので、学校にいる間は(部活を除いて)あまり接点を持たないようにしているのだが、たまにはいいだろう。
そう考えてエリナのクラスを覗くと、「あ、ソウくん!珍しいね」と満面の笑みを浮かべて駆け寄ってきてくれた。
たまには「らしくない」マネもしてみるものだな。
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「お~い、創一郎。ちょっとリフティングの手本を見せてやってくれ。」
「はい。」
体育の剛力駿雄(ごうりき・はやお)先生、通称ゴリ先生に言われるまま、前に出てきてリフティングを始める。
別に変わったこともしないし、今ここにいる3組4組にはあわせて6名もサッカー部がいるので俺じゃなくても良いと思うのだが、顧問の指名とあっては仕方がない。
「いいか~、リフティングの基本はな……」と、剛力先生が解説を続けるなか俺はグラウンドの奥の方で活動している女子の方に目を向ける。
あっちは幅跳びみたいだな。距離が離れていてもきゃあきゃあ盛り上がっているのがわかる。
たぶん浅尾さんの独壇場だろう。都築さんは……苦手だろうな。
「このように視線は常にボールに……っておい創一郎!よそ見するな!」
「あ、すみません。」
素直に謝罪する。もちろんボールは落としていないのだが、手本としてはふさわしくないのだろう。視線をボールに戻して集中することにした。
その後簡単なパス練習を挟み、残り時間はグラウンドで2面コートをとっての3組vs4組のミニゲームになった。
チーム分けは出席番号の偶数・奇数なので正直かなり偏りがある。
俺たちのチームは10人中サッカー部が俺と内田と山本で3人、他にも野球部やバスケ部などばりばりの運動部系が3人いる。
「へい、創一郎!パスくれ!」
空気を読まずに山本が攻めあがる。確かに絶好の位置にいるので仕方なくロングパスを送ると、嬉々としてドリブルで切り込みシュートを放つ。
もっとも普段は部活でBチームの山本にとって、サッカー部として注目を浴びる機会は貴重なのかもしれない。その辺は本職がDFの内田にとっても同じようで、先ほどから前線に張り付きっぱなしだ。
他にもめぼしい運動部系は軒並み攻めあがっているため、俺は数人の地味系男子とともに後ろを守ることにした。
「やっべ!カウンター!」
先ほどの山本のシュートはポストにはじかれ、そのあと混戦から相手チームが大きくボールをけり出す。
その先にいたのは小川くん。
ウチのチームのメンバーだが、正直運動は苦手で、てんてんと転がってくるボールにどう対処して良いのかおろおろしてしまっている。
それを見越してダッシュで迫る相手チーム。
「小川くん、こっち!」
俺はフォローに走り、手を挙げてパスコースを示す。
「え?あ、うん!」
パニック状態の小川くんも俺に気づき、ボールを俺の方に蹴ろうとするが、
すかっ
擬音が聞こえそうなレベルで空振りをしてしまう。
そこを詰めてきた相手チームがボールを奪い、ゴールに向かってドリブルを開始した。
「何やってんだよ小川!」
山本の怒号に小川くんは顔を青ざめ、立ちつくす。正直気の毒だ。
人間には得手不得手があり、小川くんがサッカーに苦手なことは山本も知っているはず。フォローもせずに前線にあがっているのならば、非難するのはお門違いというものだ。
俺はボールを持った相手チームの男子に追いつき、身体を寄せてボールを奪いに行く。抵抗する相手男子。しかし確かテニス部の奴だったと思うが、身体能力はともかくボールキープはそれほどうまくない。
すかさずボールを奪うと安全圏までボールを運び、これまたフォローのためにきてくれた野球部の斉藤くんにボールを渡した。
「ナイス高津!」
再び前線の連中が盛り上がるのを見て俺はまた後ろの方に下がった。
「ご、ごめん高津くん、ありがとう。」
そこに小川くんが近寄ってきて謝辞を述べる。
「ああ、いいよ。全然気にしないで。ああいうときは落ち着いて1回ボールを止めてから蹴るようにすると空振りのリスクは減るよ。」
手を振りながらついでのアドバイスを送ると、うんうんと頷いて聞いてくれた。
運動が苦手な人にとって体育の授業は地獄かもしれないが、それでも少しずつ出来ることが増えればちょっとは面白く感じるかもしれない。
このミニゲームの勝敗なんてどうでも良いことだし、先ほどの山本の怒号など気にせずやってくれるといいんだけどな。
その後ゲームは点を取っては取られの繰り返しで終わりの時間が近づいてきた。
「高津!」
センターサークル付近にいた俺は味方からパスを預けられる。
ふむ。
みればまた山本がパスを要求しているが、今度はパスを送ってやるつもりにはなれない。ボールを持った俺に対するプレスも無く、皆疲れてきているのか動きが少し鈍い。
そろそろゲームも終わるし、少しは良いか。
俺はドリブルで敵陣に攻め込んだ。
今まで俺があがることがなかったため、敵チームから慌てたように「やべえ、高津が来やがった!」と声が上がり、ボールを奪いに来る。
そこを1人、2人とかわし、3人目が来たところで近くに来た内田にショートパス。目線で壁パスを要求すると、内田は素直にそれに従ってリターンを返した。
若干パスが悪いが本来DFの内田にそこまで要求するのは酷だろう。
トラップでボールの位置を修正して前を向き、シュートコースを見定めると、そのまま右足を振り抜く。
ざっ。
ボールがゴールの隅に突き刺さりネットを揺らした。
「よ~し、じゃあそこまで!整列~!」
剛力先生が終了を宣言し、ゲームが終わった。
「創一郎~、マジで勘弁してくれよ。お前に本気出されたら止められるわけ無いって。」
相手チームにいたサッカー部、三井友宏(みつい・ともひろ)が寄ってきて声をかける。
「お互い様だろトモヒロ。途中まで散々好き放題やってたじゃないか。最後くらいは見逃しておけよ。」
にやりと笑って返すと、三井は「いや~」と頭をかいて誤魔化す。
「でもよ~、最後だから逆に花を持たせてほしかったぜ。ほら、女子がこっちの方見てたじゃないか。俺が良いとこ見せられるのなんてサッカーくらいなんだからさ~。」
言われてみれば女子は一足早く授業が終わったらしく、遠くから男子の様子を見ていたらしい。相変わらずきゃーきゃー盛り上がっているが、都築さんは友達らしき地味系女子と一緒に小さく手をぱちぱちとたたき、浅尾さんはこちらを見てにやにや笑っているのがなんとなくわかる。
昨日までまるで接点の無かった二人の行動が、今日はやけに目につく。他人への興味が薄い傾向にある自分にしては珍しいことだ。『おとぎの国』という秘密やそこで過ごす時間を共有する、というのはやはり特別なんだろうな。
なんだか少し不思議な感じがした。
■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □
放課後、例によって勉強をしに図書館へ向かうと、珍しくエリナが一緒に来た。
普段、学校で二人でいるところをあまり見られたくないはずなんだが……今朝は俺もらしくない行動をとったし、お互い様か。
感情としては意外ではあっても嫌ではない。
俺もエリナも勉強するときには自分のことに集中するので、ただ「同じ空間にいる」という感覚を共有するだけなのだが、それがお互い心地よいのだ。
閑かな図書館で向かい合って勉強することしばし。
今日は浅尾さんも都築さんもいない。
浅尾さんは部活だし、都築さんは家で勉強するそうだ。
ふと思う。昨日もしこういうシチュエーションだったら、俺はエリナとともにアルフ・ライラに行っていたのだろうか。
そうしたらエリナはどのような反応を示したのだろう。
素養は……かなり高かっただろうな。
いや、そもそも俺とエリナだけならばあんな怪しいアプリをダウンロードしようとは思わないか。そのまま二人で無視した可能性が高い。
やはり浅尾さんと都築さんがいてこそだったか。
……ならば昨日、エリナを誘って図書館に来ていれば。
浅尾さんが都築さんに話しかけたとき、エリナが俺とともに助け船を出そうと二人の元に歩み、俺たちは4人でアルフ・ライラへと旅立ったのだろうか。
「ん?どうしたの、ソウくん?」
考え事をしながらついエリナの顔を見つめていたらしい。
穏やかな笑みを浮かべながら、エリナが俺に問いかける。
「いや、ごめん少し考え事をしてた。」
俺もエリナに微笑みを返す。
可能性のことを考えてもしょうがない。
現実的にそれらはすべて起こらなかったことだ。
俺は参考書に意識を戻し、エリナと過ごすこの時間を大事にすることにした。