チャイニーズ・ボックス
「かずき、電話よ。おりてらっしゃい」
僕はキーボードをたたく指をとめ、視線をパソコンの画面から木製のドアへ移した。
こんな時間に電話……、誰だろう。
眼鏡をはずし、天井を仰ぎ大きく伸びをした。
一階へおりると、通話口を手でふさぎ不安げな表情を浮かべた母が、
「根岸って男の人からなんだけど、かずき知ってる人?」
と、耳元に口を寄せてささやいた。
いや、そんな人は知らない、と僕は即答する。
「なんか、すごく怒っているような話し方なんだけど……、なにか思いあたることある?」
ないっ、と首を横にふる。
そっけない返事を受けた母の顔つきが一段と暗くなる。
とにかく貸して、話してみるから。
僕は保留解除ボタンを押し、受話器を耳にあてた。
――もしもし。
――おまえ、二階堂だな? 『チャイニーズ・ボックス』の作者、二階堂隆一だな?
――そうですけど……、どちら様ですか。
――貴様、よくも娘を殺したな! ふざけんなッ、今すぐ原稿を書き直せ。
――はい? あの、おっしゃってる意味が分からないのですが……。
――よく聞け二階堂、俺の名前は根岸祐也だ。俺が誰だか分かるだろッ?
一瞬、呼吸がとまった。太い鉄槍で心臓を貫かれたような強い衝撃が体中をめぐる。
――おい、二階堂、俺の話をよく聞け。おまえ、小説のなかで娘の真里を殺したよな?
はい……、と蚊の鳴くような声で返事をする。僕は根岸の娘を殺した事実を認めた。殺した、という言葉が妙に生々しく、まるで男がすぐ後ろに立っているような錯覚に陥る。
――今すぐ原稿を書き直せ。絶対にだれも殺すなッ。わかったか?
――わかりました……。すぐに原稿を直します。
――いいか、とにかく急げ、時間がないんだ。
二階の自室にもどり、印刷した原稿の束を手にとってベッドにからだを投げた。
なんだ、あの電話は……。
一体どうなっている……。
頭のなかで考えれば考えるほど胸が苦しくなり、視界がうっすらとぼやけてくる。
あの男の言っていることがすべて真実なら、僕たちのいるこの世界を創り出した高次元の作者がどこかにいる、ということになる……。
僕という人間は、根岸祐也と同じ、別の世界の誰かが書いた小説の中の登場人物に過ぎないのかもしれない。