海
海岸に立っていた。鉛色の海が白い曇り空の下に広がっている。はてしなく続く灰色の砂浜は静かに寄せる海の水にグラデーションをなして溶け込み、自分が海の上に立っているかのような錯覚を抱かせる。時々吹く海からの冷たい風の生臭さに思わず顔をしかめた。境界もなく無限に広がる世界の中で、いつか自分の立つ場所を見失っていた。海に背を向けてどこまで歩いても波は私を追ってきた。海に飛び込んで死のうとも思ったが、一歩踏み出すごとに目の前の海はさっと色を薄め砂浜に変わった。本当に海があるのか分からなくなって足下の石を投げ込むと確かに水を打つ音が聞こえた。私はここから逃れられないことを知った。
海の中から足元に手首ほどの綱が伸びている。手にとって引いてみたが綱が軋んだだけでびくともしない。身体を後ろに倒して思い切り引っ張るとゆっくりと動いた。綱の先が気になりそのまま引き続けた。
どれほど引き続けただろうか。いくら続けても一向に日が暮れる様子がない。引き余らせた綱は山をなしている。手の皮が剥け、綱に染みている潮が傷にしみる。周りでは私のほかにも何人もの人が、同じように押し黙ったまま綱を引いていた。
一人の男があきらめて綱を投げ出した。放された綱は巻き戻される掃除機のコードのように海に吸い込まれていった。吸い込んだ先の海から視線を戻すと男はもうそこにはいなかった。
今度は別の男が綱を引ききった。綱の先の網には人間の頭ほどの石塊が入っていた。男はしばらく石を眺めた後それがただの醜い岩だと知るや海に投げ捨てて消えてしまった。となりで見ていた女も後を追った。私はこの綱引きに勝てばクジラか何かが出てきて降参するものだと思っていたから少しがっかりした。
あれから何人もの人が消えていった。気がつくと周りには誰もいなく、綱を引いているのは私だけだった。太陽が高く昇り、澄み渡った紺碧の空は遙か彼方の水平線で海と溶け合っている。波の間に覗く浅瀬はエメラルドグリーンで、打ち寄せる波に洗われた砂浜は白い。波打ち際に残された細かい泡が日の光を反射して輝いている。今では軽い綱を一気にたぐり寄せると、綱の先には七色に光る握り拳ほどの丸い石があった。長く波に晒されるうちに削られて丸くなったのだろう。近くで見ると一点の濁りもなく透き通っていて、それを通せば世の中のすべてが見える気がした。振り返ると眩しい新緑の林が砂浜の先に広がっている。爽やかな潮風が吹き抜け、初夏の訪れを告げた。