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大聖樹の悪童物語  作者: 如月雑賀/麻倉英理也
第5章 天下への架け橋
45/47

その45 利用される者達






 大平原を旅立ってから早十日。

 他国への侵攻だと言うのに、ただの一度も戦闘は行われないまま、遂には首都まで後二日という場所まで来てしまった。

 大将であるハオシェンロンの統率が行き届いているから、だらけ切ったり油断した雰囲気こそ少ないけれど、緊張感までは持続できない為、ふと気が付くとここが敵地だということを忘れてしまいそうだ。

 拍子抜けこそするが、無駄な人死にが出ない事は悪いことでは無いだろう。

 問題が存在するとすれば、それは別の事。


『英雄になって欲しい』


 冗談やペテンの類では無く、本気の口調でハオシェンロンは言った。

 いや、ある意味で言えば、それに近しいかもしれない。彼女の語る英雄とはすなわち、自分達にとって都合の良い、偶像たる英雄を指し示している。つまり、担ぐ神輿の神輿役を聖女の異名を持つ、レインツェルに押し付けようと言うのだ。


 何より性質が悪いのは、そのことをハオシェンロンが隠そうとしないこと。

 気づかないようなら、そのまま都合よく利用するつもりで、気づいていたとしても、ここは敵地のど真ん中。何が起こったとしても、不幸な出来事の一つで、片付けられてしまうだろう。

 何の考えも無しに「やっぱりやーめた」という訳にもいかない。

 手段を講じる策を考えている内に着々と、ハオシェンロンによって外堀を埋められつつあるのが現状だ。


 その日の夜。

 本格的に首都近辺に侵攻を開始する前に、ハオシェンロン一団は最後の調整ということで、町並みから離れた平原に陣を作成する。ここに部隊の一部を置いて、後方からの支援を行う拠点とするつもりだ。

 明朝、ここより西方に進軍しスィーズ王が居城を構える首都近辺に到着したら、目前に本陣を布いて戦闘準備を開始する。


 その時は流石に、無血開城とはいかず、激しい戦いが予想されるだろう。

 戦を前にした高揚感からか、緩みかけていた緊張感も何処となく張り詰め、自らの仕事を全うする兵達の横顔も何処か険しい。


 ハオシェンロン達が腹心と共に首都攻略の作戦を練る中、レインツェル一行は用意された天幕内でランプの薄明りを囲みながら、コソコソと人目を忍ぶように集まり、膝を付き合わせ密談に興じていた。


「不味いな……実に不味い」


 胡坐をかき両腕を組んだまま、レインツェルは渋い顔で呻る。

 円形に座る彼の仲間達、ドロッセル、カタリナ、エリザベスも神妙な顔つきだ。


「確かに、面白く無い状況よね。行く先々で聖女様を熱烈歓迎……こりゃ、完全に嵌められたわ」

「聖女様のお名前を利用するなんて、やっぱり許せません!」


 呆れた様子のカタリナに対して、聖女レインツェルを信奉するドロッセルは、その名を都合よく利用されている現状に怒りを露わにした。

 と言っても、両手を握ってぷんぷんと頬を膨らませる姿に、勇ましさの欠片も無いが。

 エリザベスは表情こそ平静を保っているが、敬愛するレインツェルをかどわかし、利用しようとう現状に、内心には怒りの炎が灯っているのだろう。

 それでも怒りを押し殺し、エリザベスは冷静に状況を分析する。


「そもそも、聖女レインツェルの名は、通常ならここまでこの地方に浸透している筈はありません。恐らくは、事前に自前の兵を使って噂を広めていたのでしょう。何しろ実際は既に故人で、詳しく知る人物も少ない国です。都合の良い話は、作りたい放題でしょうね」

「有力者に対する根回しといい、全てが手の平の上ってわけか。これが全部、計画通りって言うんだから、ハオシェンロンは随分と頭が回る……何てレベルの人間じゃないな」


 薄笑みを浮かべる眼帯姿を思い浮かべ、レインツェルは背筋に悪寒を走らせた。

 優秀なのはハオシェンロンだけでは無い。彼女の抱えるイザベルやガエンなどの幹部連中を筆頭に、一平卒まで非常に高いレベルで練度と統率力を誇っている。欠点らしい欠点を述べるなら、数が少ない事くらいだろう。

 それすらもハオシェンロンは、調略という手段を用いて、克服してしまっている。

 これらのことが一から十まで、全て彼女の計算づくだとしたら。


「……怖い人、ですね」


 得体の知れない恐怖感に襲われたのか、ドロッセルは自分の身体を抱き締めた。

 同じくカタリナと、平静を装っているが内心ではエリザベスも、ハオシェンロンに対する畏怖が芽生えつつあるのだろう。

 息苦しい沈黙の中、自然と視線がレインツェルへ集まる。

 彼ならばこの状況を打開してくれるのでは無いかとい、希望を込めて。


「レイ君、どうします?」

「うぅむ」

「このままだと、利用されるだけ利用されて、身動きが取れなくなっちまうぞ」

「むぅん」

「かといって、今更降りると言っても承知しないでしょう……その場合、レインツェル様の御身は、命にかえてもお守りしますが」

「ふぅむ」


 真剣な三人の言葉にも、返って来るのは呻り声ばかり。

 腕を組んだまま首を左右に捻るレインツェルの口から、名案は中々飛び出さない。

 これがただのゴロツキや、汚職塗れの貴族辺りならば、口八丁手八丁で何とでも切り抜けられるのだろうが、ハオシェンロンがただ者では無いことは、この数日の間、身に染みて分からされていた。


「わざわざ俺を引き連れて、村や町を回ってたのは、そういった意図もあったんだろうなぁ」

「そういった意図、ですか?」


 ピンとこないのか、ドロッセルが呟きに首を傾げる。


「大々的に行動を見せつけることで、自分達の優位性を俺達に示したかったのさ。そうすることで、俺達が独断専行で動くことを牽制しようとしている」

「私達に向けての、示威行為ということです?」

「ああ。自分達の用意周到さや内部の結束、調略による外への働き方を見せて、俺らに伝えているのさ。どう立ち回れば特になるか、よく考えろってね」

「……ほへー」

「本当に理解出来てるのかよ」

「り、理解出来てますよぅ」


 ジト目を向けられ慌てて反論するも、焦って言葉に詰まる辺り、ちょっとばかり怪しい。

 見事な推察を見せるレインツェルに、信奉の眼差しを向けながら、エリザベスも同意するよう深々と頷いた。


「ハオシェンロンやその一派は、切れ者揃いですからね。下手な動きや隙を見せれば、状況はより不利に傾くでしょう」

「何処まで行っても手の平の上かよ……あーッ! ウザったい!」


 打開策の浮かばない状況に苛立ってか、カタリナはぐしゃぐしゃと自分の髪の毛を掻き毟った。

 ドロッセルも困り顔の頬に手を添え、重く吐息を漏らす。


「要するに、今は身動きが取れない。そういうわけですか?」

「そうだな」


 渋い顔付きで頷いてから、レインツェルは悔しそうに顎を掻く。


「対応が後手後手に回っちまったからなぁ。せめて事前に察知出来てれば、対処のしようはあったんだが……」


 言いながら、レインツェルは目の前の三人に視線を巡らせる。


「あ、あたしにその手のことを期待しないでよっ」

「ううっ。普通の交渉事なら、得意なんですけどぉ」

「面目次第もありません」

「……まぁ、俺も人の事を言えた義理でもないけどな」


 四人揃ってため息をついた。

 レインツェル達の頭が回らないというわけでは無い。むしろ、そこいらの連中より、よっぽど機転が利き、柔軟な発想が出来るだろう。だが、相手は以前より綿密な計画を練った上で、レインツェル一行をホームへと引き摺りこんでいる。

 最初から不利な立場で、状況がスタートしているのだ。


「ニルヴァーナがいれば、このような事にはならなかったのでしょうが」


 思わずエリザベスの口から、愚痴が零れる。

 正面からの駆け引きではハオシェンロンに後れを取ったモノの、神算と呼ばれるニルヴァーナが同行していれば、事前にハオシェンロンの企みを察知し、身動きが取れなくなる前に対策を講じていただろう。

 自分で言っておいて、エリザベスは首を左右に振り、愚痴を追い払う。


「いいえ。無いモノねだりをしても、状況は変わりませんね」

「……そうか」


 納得するよう、レインツェルは一回だけ頷く。


「今の俺達に足りないのは頭脳。深謀に長けた軍師役が必要だな」

「確かに、あたしらの中で頭脳派ってタイプはいないか」


 レインツェルを含めた仲間達は、確かに機転は利くモノの、視野を広く持って物事を全体から俯瞰で見る事に関しては長けてはいない。臨機応変に立ち回れると言えば聞こえはいいが、悪く言えば行き当たりばったりで軽薄性が薄い。

 もっと長期的な物の見方が、今後は必要になってくるだろう。


「何処かにいないモンかねぇ。頭が良くて知略に長けてて忠義に熱い、直江兼続みたいな軍師」


 今更、どうにもならないことを呟きつつ、四人のため息だけが重なる。

 あれやこれや議論を重ねるが、結論どころか方針も決まらぬまま時間だけが過ぎ、四人の心情を表すかのよう、深く暗い闇夜だけが更けていった。




 ★☆★☆★☆




 深夜。

 宮殿に住まう者達も寝静まり、篝火の下、見張りの兵がうつらうつらとした眠気に襲われるほど深い時間に、ノエルはすれ違う巡回の兵士に会釈をしながら、マルコット王の寝所の前を訪れていた。

 薄暗い廊下。普段だったら、扉の前には朝まで兵士が交代で見張りについているのだが、今日は誰も立っていなかった。

 サボっているわけでは無く、室内の王自身が、人払いをしたのだろう。


「…………」


 扉の前で足を止めたノエルは、固い表情で首からぶら下げた十字架を握る。

 こんな時刻に、寝所を訪れた理由は一つ。マルコット王に呼び出されたからだ。

 緊張で顔が強張っているのは、王に謁見するからでは無い。言わずもがな、マルコットは好色王と呼ばれるほどの女好き。こんな夜も更けた時間に、しかも閨へと呼び出されたのだから、思い当る理由は一つしかない。


「……ッ」


 想像するだけで、胃の中から苦いモノが込み上げてくる。

 表向きに言えば二人は、義理の父と娘。しかし、実際は主人と臣下の関係だ。

 今までは適度に距離を保って、それとなく避け続けてきたのだが、王自ら口頭で呼び出されれば、ノエルの立場としては素直に従うしか他は無い。

 それが例え、夜伽の命令だったとしても。


「最悪だわ。全く」


 扉を開ける決意が付かないノエルは、嫌悪を露わに奥歯を噛み締める。

 直接的な表現で指示されたわけでは無いが、高確率でそのことだろう。

 才女ではあるが、ノエルとて年頃の女の子。ましてや、男子の寝所に足を踏み入れるなんて、初めてのことだ。二の足を踏んでしまうのは仕方が無いだろう。

 操を捧げるなら、好いた殿方が良い。

 当然の乙女心が、心に躊躇いを生んでいた。


「恐れるなノエル。この可能性があることは、奉公に来た時から理解していた筈よ」


 もう一度、胸の十字架を握り締め、自分に強く言い聞かせる。

 深呼吸をしてから顔を上げ、意を決しノエルは扉をノックした。


『開いているよ』

「失礼します」


 極力、感情を押し殺しながら、ノエルは扉を押し開いた。

 ふわっと、鼻孔を擽る独特な香に、危うく顔を顰めかける。


「良い香りだろ? 貰いモノでね。僕も気に入っているんだ」


 バスローブ姿のマルコットは、上機嫌な様子でノエルを出迎えた。

 寝所内は想像していたよりこじんまりとしていて、真ん中に大きなベッドがある他には、酒類の瓶が並んだ棚とテーブル。今、マルコット王が腰かけているソファーしかないが、床の絨毯や壁の調度品などは、どれも一級品が並んでいる。

 マルコット王はニコニコと笑みを此方に向けながら、ソファーに腰かけて、グラスに注がれたアルコールを楽しんでいた。

 敵が首都の寸前まで迫っているというのに、何と呑気な姿だろう。

 内心で毒づき、ノエルは扉を閉め一礼する。


「お呼びでしょうか、陛下」

「うん。まぁ、座ってくれよ」


 促されて、ノエルはマルコット王の対面に腰を下ろす。


「飲むかい?」

「いえ。お酒は嗜みませんので」

「そうかい」


 残念そうにマルコットは、用意しようとしたグラスを下げる。


「それで、ご用件な何でしょうか」

「せっかちだよねぇ。もう少し世間話とかさぁ」

「ご用件は何でしょう」


 憮然とした様相で突っぱねられ、マルコットは残念そうに肩を竦めた。


「う~ん。要件と言うのはねぇ。まぁ、そのぉ……」

「……?」


 言い淀みそわそわと足を組み替える姿に、ノエルは様子がおかしいと眉根を潜める。

 夜伽を命じるだけならば、好色なマルコットが、こうも言葉を濁す事な無い。

 グラスに注がれた酒で喉を潤しながら、忙しなく視線を動かす姿に、ノエルは予想が外れ安堵したのもつかの間、別の意味で嫌な予感を抱き始めていた。

 急かすわけにもいかず、黙って待っているよ、ようやくマルコットは口を開き始める。


「兵がね。その……思ったより集まらないんだよ」

「はぁ」


 それは当然だろうと、心の中で付け加える。

 ノエルが止めるのも聞かず、あれだけ無茶苦茶な方針を打ち出したのだから、地方貴族達が王家に対して非協力的になっても致し方あるまい。

 馬鹿正直にそれを伝えたところで、今更マルコットが考えを改めるとは思えないが。

 ため息をつきつつ、ノエルは素早く脳裏で情報を整理する。


「……陛下。陛下の元にも既に、反乱軍が首都バルデラに向かっていることは、お伝えしてるはずですが?」

「うん。そうなんだけどねぇ」


 数日前から、反王政派の一部が徒党を組み、反乱軍を結成したという情報を得ている。

 実際にはハオシェンロンが主導しているのだが、上手くカモフラージュされている為、王家の人間は勿論、ノエルですらその存在を掴み切れていない。既に抱き込まれ、王都まで素通りさせているのだから、反乱と言い替えても間違いでは無いだろう。

 反乱を鎮圧する為に至急、兵を集め軍隊を編成しなければいけないが、先の無茶な提案もあって、地方が兵力を出し渋っていた。


(帝国と手を結ぶという噂も、日に日に大きくなっていて、友好的だった貴族の王家への不信感は、益々募るばかり……これには作為的なモノが感じられるわ)


 反乱軍の早すぎる動きも相まって、ノエルは早々にこれは仕組まれたことだと察するモノの、立場の弱い彼女の言葉に、耳を貸す者は存在しなかった。

 いや、正確に言えば、やりようは幾らでもあるし、愛国心が強くノエルに対しても敬意を払ってくれるパヴェ・ド・ショコラならば、ノエルの主張を信じて各方面に働きかけてくれただろう。

 それをしなかったのは、ノエル自身が抱える心の虚無感故だ。


(こんな国、滅びてしまえばいい……心のどこかで、そんなことを思っている自分がいる)


 つらつらと語るマルコットの貴族達に対する恨み言を聞き流しながら、ノエルは無表情を貫く。

 マリーゴールドや貴族達の嫌がらせや、マルコットの無茶難題。十代の少女には過酷過ぎる重圧や軋轢に、ノエルの心身は摩耗し限界が近づいていた。

 擦り切れ鈍くなる心に、マルコットの薄ら寒い言葉が上滑りする。

 言いたい事を言い終えて、満足したのか、マルコットはほっと息を吐き出した。


「さてノエル……実は君に、お願いしたいことがあるんだが」


 来たか。

 表情は変えず、身体だけ強張らせる。

 マルコットは真っ直ぐと此方を見つめ、悪びれない表情でにっこり笑った。


「兵が集まるまで時間がかかる……君さ。ちょっと、反乱軍まで行って交渉してきてくれる?」

「――なッ!?」


 予想外の言葉に、平静を貫き通していたノエルは絶句してしまう。

 馬鹿か。

 危うく不遜な言葉が飛び出しかけた。

 腰を上げかけるノエルを、まぁまぁと両手を突き出しマルコットは落ち着かせようとする。

 仕方なしに、ノエルは腰を戻した。


「反乱と言っても数は少数だから問題は無いんだけど、もしもってことがあるからね。出来れば君に、兵が集まるまでの時間を稼いで欲しいんだよ」

「……そ、それは」

「兵を解散させろとまでは言わないからさ。一週間くらい、交渉で引っ張ってくれないかなぁ?」

「は、はぁ。出来なくはありませんが、交渉の為の資金は如何ほど?」

「これくらい」


 備え付けの羽ペンで、紙に記した予算をノエルの方へ差し出す。

 手に取って確認したノエルは、思わず「えっ!?」と声を漏らして凍りつく。


「たっ、たったこれだけですか?」

「交渉の為、反乱軍に大金をはたけるわけないじゃないか」

「確かに、そうですが……」

「方法は任せるからさ、口八丁手八丁で時間を引き延ばしてくれよ。得意だろ君、そういうの?」

「…………」


 軽すぎる提案に、ノエルは押し黙ってしまう。

 自然と、顔も青ざめていた。

 時間稼ぎが目的の交渉など、挑発と差ほど変わらない。与えられている予算も少なく、具体的な和平案も提示しないのだから、相手が馬鹿にされていると思っても、仕方が無いだろう。

 そんな使者が、無事に帰れる筈が無い。


「……こんなの、死刑宣告も同然じゃないか」


 我慢ならず恨み言が口を付くが、聞こえているのか、それとも無視しているのか、マルコットはニコニコと笑顔を崩さない。

 お世辞にも、マルコットや王家に対して、忠誠を尽くして来たとは言い難い。しかし、それでもスィーズ王国はノエルにとって祖国であり、故郷の家族や村人だけでは無く、国全体の民を守りたいという使命感を持ち続けていた。

 第一王妃や他の貴族達に煙たがられても、陰湿な嫌がらせに耐えてこられたのも、王国に対する愛情があったからに他ならない。

 その結果がこの仕打ちだということに、ノエルの心は折れかけてしまった。


 もういい。どうだっていい。

 肩を落とすノエルの思考が自棄になる中、たった一つだけ心残りがあった。


「どうだい? 僕の命令、快く引き受けてくれるかい?」

「……一つだけ、お願いがあります」


 感情が籠らない声に、マルコットは「なんだい?」と首を傾ける。


「私の身に万が一のことが起こった場合には、マーサを……故郷の母を」

「水臭いことをいうモノじゃないよ。マーサは僕にとっても、大切な妻の一人だ。任せておきたまえ……ただ、その為には君にも、確りと仕事をこなして貰わないと、ね?」


 念を押すように、軽く顔を此方に近づける。

 これでいいと、ノエルの唇に微かな笑みが宿った。

 女性関係などを含めて、色々と問題が多き人物ではあるが、フェミニストであるが故に、女性との約束を違えるようなマネはしないだろう。


(素直に物事を考えよう)


 夜伽を迫られなかっただけ、マシだと考えるべきだろう。

 交渉が失敗した時に、あっさりと殺してくれるかは、わからないが。

 母親が無事なら、この身などもうどうなってもいい。

 自嘲気味な笑みを浮かべつつ、ノエルは立ち上がると、マルコットに向けて深々と腰を折り曲げた。


「謹んで、お受けいたします」

「そう、それは良かった!」


 ホッと安堵するように、マルコットは胸を撫で下ろす。


「じゃあ、交渉の成功を願って乾杯をしようよ。なんなら朝までだって……」

「失礼します」


 グラスの用意を始めるマルコットを尻目に、ノエルはさっさと寝所を出て行ってしまう。

 呼び止める声を無視し、最後に一礼して扉を閉める。


「…………」


 無言のまま、歩いてきた廊下を戻る。

 交渉を執り行うにあたって、急ぎ計画を練らねばならない。速足で廊下を進みながらあれこれと、今後のスケジュールをまとめていたノエルは、ふと足を止めて何かに耐えかねたよう、壁に寄りかかった。

 薄暗く、人の気配が無い静かな廊下に、すすり泣く声が聞こえる。


「……うっ。うう、ぐすっ……ああっ」


 これでいい。もうどうだっていい。

 何度自分に言い聞かせても、ノエルの涙と嗚咽は、止まってはくれなかった。





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