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大聖樹の悪童物語  作者: 如月雑賀/麻倉英理也
第1章 悪童とお人好し
3/47

その2 ファーストコンタクト






 エルフの集落から森の奥に、小一時間ほど歩いた場所に、小さな湖が存在する。

 大きな木々に囲まれる森の中、ぽっかりと存在する湖は驚くほどの透明度を誇り、湖底までハッキリと確認出来る。日本で暮らしていた頃の記憶を思い返しても、ここまで透き通った湖に、レインツェルは出会ったことが無かった。


 風が殆ど無い所為か、湖面に波紋一つ無く、まさに明鏡止水。覗き込めば、キラキラと陽光を反射する向こうに、大小様々、色とりどりの魚達が優雅に泳いでいる姿が確認出来た。


 湖のすぐ側。周辺で一番太い大木の下に、レインツェルの隠れ家がある。

 隠れ家と言っても、大工仕事の経験など皆無のレインツェルが、見よう見まねで作ったお粗末なモノ。大木を壁に支柱を四本立て、天井と床板を張り合わせただけ。大木を壁にしている奥以外の三方向は、吹きさらしだ。


 一応、正面以外には大きな布を垂らしているので、嵐でも来ない限り、雨風は十分に凌げる作りになっていた。

 隠れ家の中からレインツェルは、テーブルと板を抱え、外へと出る。


「よっと」


 テーブルを安定する場所に設置すると、そのまま板を持って湖の方へ。

 水辺にしゃがみ込むと、以前設置しておいた小さな桶で、湖の水を掬い、板の表面についた汚れを落とすように、水を掻けて濯ぎ洗いをする。

 飲料水としても使える綺麗な水なので、これで十分綺麗になるだろう。


「ついでに、ナイフも洗っておくか」


 腰のナイフを抜き、刃を湖に直接浸して付着した血液を洗い落とす。

 汚れが落ちたらテーブルの方へと戻り、水で湿った板をその上に置いた。

 そして取り出したのは、ここに来る途中で仕留めた兎もどきだ。


「それじゃ、パパッとやりますかね」


 ナイフを右手で軽く弄びながら、レインツェルは兎もどきの下処理を始める。

 後脚の足首の皮にナイフで切れ込みを入れたら、そこにグッと親指を突っ込み、引き剥がすよう思い切り、一気に頭の方まで皮を引っ張った。前脚の方まで剥がしたら、ナイフを使い首の付近の皮を切り落とす。


「よっ、ほっ!」


 景気よく声を発しながら、勢いのまま後脚も切り落とした。

 事前に血抜きをしているので、血は殆ど流れない。

 続けて腹を裂き、内臓を綺麗に取り除くと、皮、肉、内臓と三つに分けて板の端の方へと置いた。

 勿論、肝臓の周りについている油も、きちんと取り除いた。


「……ふぅ。ま、とりあえず下処理は完了、かな」


 実に慣れた手捌きで、五分とかからず兎もどきを綺麗に切り分けられた。

 今でこそ手際よく行えるが、最初は相当苦労したモノだ。

 血がちょっぴり流れるだけで、大袈裟に騒ぎ立ててはテーブルを引っくり返したり、おっかなびっくりナイフを扱う所為で、誤って指を切ったりと、それらの失敗は一回や二回では済まないだろう。

 それが今ではこの通り。

 何事も練習や積み重ねが大切だと、重々思い知らされた。


「日本じゃ、仕留めた獲物を捌く機会なんか無いからな。今じゃ、結構大きい獣だって綺麗に捌ける自信があるぜ」


 言いながら、ドンドン下処理をした肉を捌いていく。

 骨を切り離し、肉を切り落とし、余分な脂を削いでいき、あっという間に兎もどきだった物体は、美味しそうな肉の塊へと変化する、このままパック詰めして、スーパーに並んでいてもおかしくは無いだろう。

 一通り捌き終えて、レインツェルはふぅと息を付く。


「我ながら見事な出来栄え……何だけど、焼き肉パーティーをするには、ちょっとばかり物足りないかな?」


 兎もどきがやや小ぶりだった為、捌いた肉の量は四、五人前程。

 レインツェルは小柄な割に食欲は旺盛なので、これでは少し物足りないし、味付けも限られているので、食べ飽きてしまう可能性もある。


「……んじゃ、もう一狩り行きますか」


 朝、野菜をたっぷり食べた上で獣肉を食すのだから、次に狙うのは当然魚だ。

 それを見越して、湖の側に隠れ家を作ったのだから。


「この前、新しく作った銛も試してみたいしな」


 使用したナイフを湖の水で洗い、皿に乗っけた捌いた肉を手に持つと、レインツェルは隠れ家の中へと引っ込む。

 目的の銛は奥の巨木の壁に立てかけてあったので、それを手に取り、皿は中に設置してあるテーブルの上に置いて、虫や汚れが付着しないよう、近くにあった布を上から広げるよう被せた。


「これでよっしと」


 そして銛を片手に、レインツェルは表へと戻る。

 長い木の棒の先端には、返しの付いた鋭利な金属が取り付けられていた。

 先端の金属は尖ってはいるが、槍のように刃は無い単純な作り。けれど、上手く突き刺されば、返しによって抜けなくなり、湖に入る魚程度なら問題なく、簡単に捕まえられるだろう。

 親指の爪先端の鋭利さに問題の無いことを確認すると、準備は完了だ。


「よっしゃ! 行くぜ!」


 レインツェルは気合を入れてから上着とズボンを脱ぎ捨て、パンツ一枚になる。

 そして手に持った銛を、軽く振り回してから肩に担ぐと、勢いよく湖の方へと走りだし飛び込んで行った。


 ばしゃばしゃと水を掻き、一気に深い場所にまで進む。

 森の中は一年中、温暖な気候ではあるが、流石に水遊びをするには、もう少し気温が欲しいところ。必然的に水温も低く、勢いよく飛び込んだまでは良かったが、肩まで水に浸かると途端に、水の冷たさが骨まで染みわたる。


「~~~ッ!? が、我慢、我慢ッ!」


 脳天を突き抜けるような寒さに、全身の肌が一斉に粟立つ。

 けれどレインツェルは、奥歯を噛み締め強引に耐え抜くと、寒さを振り払うように大きく息を吸い込み、湖の中へと頭から潜っていった。

 潜る勢いで周囲が激しく泡立ち、水泡がレインツェルを包み込む。

 緩くバタ足をして頭から湖底を目指して潜水すると、水泡も直ぐに消え去り、辺りを三百六十度、澄み切った水による絶景が広がった。


(……何度潜っても、凄い光景だなぁ)


 思わず獲物を探すのを忘れて、周囲に見入ってしまう。

 レインツェルの反応も当然だろう。

 透明度の高さ故、湖面から降り注ぐ陽光が、湖の底まで照らしている。砂やユラユラと踊る水生の植物だけで無く、何百年も前に朽ちて沈んだのであろう大木や、何処の巨木の物なのか謎の太い根っ子が、湖底からニョキッと顔を出したりしていた。


 左右をグルリと見渡せば青く霞む湖の中を、見たことも無い魚達が優雅に泳いでいる。

 流石に漫画のように、人を襲うような肉食の巨大生物は、この湖には存在しないが、カラフルな色合いの魚などを見ると、ここがまるで熱帯のサンゴ礁かと錯覚させるほど鮮やかだった。

 魅惑的な光景を堪能したいところだが、腹にも息にも限界がある。

 湖底にある岩に寄ると、出っ張りに掴まった。


「…………」


 そろそろ潜り始めて一分ほど立つが、まだ呼吸は大丈夫だ。

 息を止めるだけならまだしも、潜って泳ぐ、更には銛で魚を突こうと思ったら、その道のプロでも無い限り、シュノーケルや足ヒレが無ければお話にならないだろう。


 だが、そこはやはり慣れ。

 最初は湖底まで潜るだけで精一杯だったのが、今では三分近く素潜りが出来るようになった。

 これが大自然で育つということなのか、エルフの肉体が特別なのか。

 鍛えれば鍛えるだけ、目に見えて成果が出るということは、何と面白いことだろう。


(……よし。アレを狙うか)


 狙いを定めたのは、正面にある岩陰。

 十秒くらい、岩に掴まりジッと気配を殺す。

 すると油断した鯉に似た大き目の魚が、ぬらりと岩陰から現れた。

 天敵の存在しない湖で育った為か、警戒心が薄く、此方に気づく様子も無い。

 岩を掴みながらゆっくりと移動し、銛の射程範囲内へと納める。


(ちょっと、遠いか? なら……)


 レインツェルは手を岩から離すと、代わりに足の指で器用に出っ張りと掴む。

 身体を伸ばして距離を稼ぎ、何とか獲物を射程内に納めることが出来た。

 まだ呼吸には余裕がある。

 足の指で確り身体の向きを固定し、両手で銛を構える。ゆっくり気取られぬよう鋭い先端を、パクパクと口を開閉しながら泳ぐ大きな魚に向けた。

 握る手に力を込めた瞬間、遠くの方から獣の咆哮が響く。


『――きゃぁぁぁぁぁぁッ!』

「――ッ!?」


 同時に絹を裂くような少女の叫び声に、驚いたレインツェルは、解き放とうとした銛をあらぬ方向へと投げてしまう。

 魚は狙いを外した銛に驚いたのか、さっさと逃げてしまったらしく姿は消えていた。

 レインツェルは舌打ちを鳴らすと、岩に弾かれ水中に漂う銛を掴むと、口から息を吐きながら、両手足で水を掻いて一気に水面まで浮上した。


「――ぷはっ!」


 新鮮な息を肺へと送り込み、そのまま岸辺まで泳ぐ。

 泳ぎながら視線で周囲を見渡すと、先ほどまで穏やかな静寂に満ちていた森の空気に、ピリピリと張り詰めた緊張感が充満しているのがわかった。

 少女の悲鳴も気になるが、その前に聞こえた獣の咆哮。


「……ありゃ、古代熊の鳴き声だな」


 呟いて急いで岸に上がったレインツェルは、右手の銛を地面へと突き刺す。

 そのまま足を止めず全速力で、隠れ家の中へと飛び込んだ。

 全身びしょ濡れなのも構わず、半裸のレインツェルは椅子の背もたれにかけてあるベルトを引っ掴むと、何か長い物が繋がっているソレを腰に巻き付けながら、クルリと向きを変えて再び外へと飛び出していく。

 腰のベルトに繋がっているのは、一本の古びた剣だ。


「古代熊相手に剣一本じゃ心許ないなぁ……けど、やるしか無いか」


 緊張感を表情に滲ませながら、地面に突き刺した銛を引き抜き、声が聞こえた方を目掛けて走り出した。

 素足なので足裏に小石などが刺さり、チクチクと痛いが、構わず全力疾走する。

 古代熊はエンシェントエルフの結界により守られ、邪悪で凶暴な魔物は生息出来ない森の中において、非常に強力な肉食獣だ。


「けど、縄張りに踏み込まなきゃ、大人しい熊だってオリカ姉が言ってたっけ……誰だぁ? 無警戒に森の奥へと踏み込んだ奴は」


 走りながら、ジト目で呟く。

 集落のエルフ達が、そんな間の抜けたマネをする筈が無い。

 いるとすれば、それこそレインツェルくらいだろう。


「まさか、外から来た奴か?」


 あり得ない話では無いが、結界で守られた森は、一定の条件を満たさねば集落の方まで辿り着けない。だとすれば、何らかの理由で森に迷い込んだのか、道に迷ったと考えるのが妥当だろう。


「悲鳴の声は、確かに女の子だったな」


 何気なく口にすると、不意に胸の奥が高まるのを感じる。

 女の子だから、という訳では無く、外からの来訪者。そんな今までに無かったシチュエーションを目の前にして、久しぶりにレインツェルの冒険心にメラメラと、火が付き始めたのだ。


 古代熊は恐ろしいが、こんなにわくわくするのは、初めて森に足を踏み入れた時以来だろう。

 岩を飛び越え、朽ちて倒れた巨木を駆け上りながら、頬をニヤッと吊り上げる。


「何だか、面白いことになってきたッ!」


 楽しげに高らかに、レインツェルの声が深い森に響いた。




 ★☆★☆★☆




「――ハァハァハァッ――ッッッ!」


 短く荒い息遣いが途切れると、激しく咳き込む音が周囲に響く。

 積り重なった落ち葉や枯れ木、でこぼこと地面から突き出た根っ子に、苔むして滑りやすい岩などがそこら中に転がる森の中で、何度も足を取られ転びそうになりながらも、必死の形相で少女は走る。


「――ゲホッゲホッ……ひっ!?」


 背後から轟く、怒気に満ちた咆哮に、顔を青ざめさせながらも振り向かず、がむしゃらに足を動かし続けた。

 年の頃は十六くらいの、人間の少女だ。

 淡いピンク色の長い髪の毛を激しく振り乱し、深い森の中を歩くには、些か不釣り合いな白のロングスカートに、ポンチョのような物を纏っていた。


 まるで、近所を軽く散歩するかのような軽装。

 辛うじて履いている靴が、丈夫そうな革のブーツだというくらいだ。

 見るからにお嬢様といった風の美少女が、息苦しさと恐怖から表情を歪める。


「足が、足が痛い。息も、苦しい……でも、止まったら……」


 泣き言を口にしながらも鼻を啜って、少女は懸命に足を動かした。

 既に体力は限界を迎え、息を吸う度に肺が痛む。

 足の方も、慣れない森歩きに酷使された上での全力疾走だ。白いスカートは泥で汚れ、筋肉が千切れそうな程の痛みが走っている。


 それでも足を止めないのは、湧き上がる恐怖心に、背中を突き動かされているからだ。

 背後から迫る殺気から逃れたい一心で、藪の枝や葉で肌が傷つくのも構わず、ひたすら森の奥へ奥へと逃げていく。

 逃げること十数分。終わりは唐突に訪れた。


「――あッ!?」


 少女の足が止まり、表情が絶望に染まった。

 目の前には幾つもの大木が倒れ重なり、ちょっとした崖のようになっていた。

 表面は緑色の苔に覆われている所為か、よじ登ろうにも滑り落ちてしまい、足を引っ掛けることが出来ない。


「ど、どうしよう……ッ!?」


 焦る気持ちに思考が空回りしていると、背後からグルグル喉を鳴らす音が。

 纏わりつくような殺気に息を止め、少女が後ろを振り向く。

 獲物を追い詰めた余裕からか、のっそりと落ち着いた動きで、巨大な四足歩行の古代熊がゆっくりと姿を現した。

 灰色の毛並を持つ古代熊は、真っ直ぐ少女を見定めると、威嚇するよう喉を鳴らす。


「グルルルッ――ガウッ!」

「――ひぃっ!?」


 牙を見せ唾液を撒き散らしながら、噛みつくような動作を見せ威嚇する。

 追い詰められ、逃げ場を失った少女は古代熊に睨み付けられ、全身を指一つ動かせないほど硬直させた。


「た、助けて……誰かッ……」


 震える唇から、掠れた声が零れる。

 人間など軽く押し潰してしまえるであろう、古代熊の巨体に気圧され、身動きが取れないにも関わらず、恐怖と絶望から全身がブルブルと痙攣するかのよう震え、噛み合わない歯がカチカチと音を鳴らした。

 確実に仕留める為か、古代熊は一歩一歩確実な足取りで、少女へと近づく。


 もう、駄目だ。

 絶望と恐怖、そして緊張感が頂点に達した時、少女はフッと糸が切れるよう脱力し、その場に倒れ込んで気絶してしまった。


「――グガァァァッ!」


 少女が倒れたのを切っ掛けに、今まさに地を蹴り、その柔肌に牙と爪を突き立てる為、古代熊が飛びかかる態勢を取った瞬間、飛来してきた一本の銛が、古代熊と少女の間を阻むよう地面に突き刺さる。


「――ッ!?」


 驚き身を震わせ、古代熊は瞬時に飛び掛かるのを止める。

 ほぼ同時に、崖の上から小さな人影が一つ、気絶した少女を庇うように、地面へと降り立った。

 現れたのは、パンツいっちょの半裸の少年。


「――よっ、と」


 左右、白黒で非対称な髪の色をしたエルフ、レインツェルだ。

 レインツェルは着地した衝撃を、膝を屈伸させることで受け流し、顔を上げると同時に腰の剣を抜き放った。


 右手に握る両刃の片手剣。

 随分と古い物らしく、表面には薄ら錆が浮いていた。

 睨み付けてくる古代熊の眼光を制するよう、レインツェルは剣の切っ先を向ける。


「……おおう。怖い、怖い」


 一足で飛び掛かれるほどの距離で相対して、レインツェルは胆を冷やす思いで、ひゅうと口笛を鳴らした。

 剣で牽制しながら、チラッと背後で倒れる少女を確認する。


「人間の女の子? 生まれ変わって、エルフ以外の女子を初めて見るな……ってか、こんな普通っぽい娘が、何でこんなところに?」


 疑問にも思うが、今の問題は目の前にいる古代熊だ。

 レインツェルの登場によって、古代熊は警戒心を増し、此方を伺うような雰囲気で身を低くしている。

 出鼻は挫けたようだが、次の瞬間にでも、襲い掛かってきておかしくは無い。


「さぁてと。古代熊と戦うのは初めてだけど、何とか出来るかな?」


 軽い口調で手首を捻り、右握った片手剣を舞わせる。

 余裕のような態度だが、笑顔を浮かべる表情は引き攣っていた。


 睨み合うレインツェルと、古代熊。

 乗用車とほぼ同等の巨体を前に、怯み萎えかける魂を必至で奮い立たせる。

 数秒睨み合いは続き、グルグルと鳴らす喉の音が、唐突に止まった。

 ゆっくりと前脚を地面から離した刹那、古代熊の上半身が、伸びた。


「――ッ!?」


 いや、実際に伸びたわけでは無い。

 巨体からは想像もつかない速度で距離を詰め、身体を前へ限界まで突出し、同時に掻き切るように大きく右腕をスイングさせた為、視覚的にそう錯覚させられたのだ。

 早いが反応し切れないほどでは無い。


「ギリギリで……避けるッ!」


 横目を真横から襲い掛かる古代熊の右手に向け、触れる寸前のところで、重心を後ろに傾けて、スウェーの形で回避する。

 鼻先を掠めるように、ギリギリのところを文字通り熊手が通り過ぎるが、避けれたことにホッと安堵の息を吐く。


 次の瞬間、背筋が凍りつくような悪寒に、レインツェルは呼吸を止めた。

 頭や状況を理解するより早く、レインツェルの本能が危険を察知し、反射的に膝を折り思い切り頭を沈め、真下に倒れ込むよう動く。


「――痛ッ!?」


 すぐ真上を轟音が打ち抜いたかと思うと、レインツェルの左肩に激痛が走った。

 頬に生温かい液体が飛び散った。

 燃え上がるような痛みに顔を顰めながら肩の方を見ると、二の腕の筋肉がざっくり抉られ、血が噴き出していた。

 ジワジワと痛みが広がると共に、レインツェルは状況を理解する。


「一撃目は囮で、左の二撃目が本命だったのか。クソッ。獣の癖に、頭のいい戦い方しやがるじゃないか……けど!」


 真下に倒れ膝を付くレインツェルは、右手の剣を逆手に持ち変え地面に突き刺す。


「――ぬぅん!」


 突き立てた剣を思い切りプッシュし、反動で膝立ちの状態から、古代熊の懐へと一気に入り込んだ。

 顔を此方に向けた古代熊は、まさか踏み込んでくるとは思わなかったのだろう。

 怯む様子を見せ、僅かに動きを鈍らせた。


「――ガアッ!」

「――遅いッ!」


 威嚇するように牙を見せる古代熊の鼻目掛け、逆手に握った剣を真上へ斬り上げた。

 浅いが、確かに鈍い感触が手に届く。

 一瞬遅れて、小雨でも降るかのよう、鼻から赤い鮮血が撒き散らされる。

 斬り上げた一撃が、古代熊の鼻をバックリと裂いたのだ。


「くっそ! あのタイミングで、後ろに下がりやがったのかこの熊ッ!?」


 驚く声に反応するよう、古代熊は身体を大きく跳ね上げ、激しく鳴き声を上げた。

 ビリビリと森全体と鼓膜を震わせる咆哮に、レインツェルは顔を顰めながら、素早くバックステップで離脱する。


「グガァァァァァァッッッ!!!」


 鼻を斬り裂かれた怒りから、古代熊は後脚で立ち上がり、レインツェルを睨み付けるよう見下ろした。


「うっわ、デカッ!」


 身の丈を遥かの超える大きさに怯みかけるが、レインツェルは深呼吸して、片手で剣を構えた。

 肩の傷は深く、血が止めどなく流れ続けている。

 痛みはあるが感覚が鈍くなってきている所為で、上手く動かすことが出来ない。


「これはちょっと不味いな」


 チラッと視線を向けると、少女はまだ気絶していて、起きる気配は無い。


「抱えて逃げるのも、この腕じゃ無理っぽいし……どうすっかな?」


 オリカの話では、古代熊は下手な魔物より恐ろしい存在だと聞く。だが、気性はどちらかと言えば温厚な方で頭も良く、縄張りに足を踏み入れた程度では、執拗に相手を追いかけるようなマネをしない筈。

 だとすれば、古代熊が追いかけ回す理由は……。


「……ん?」


 不意に古代熊の背後にある藪が、がさごそと音を立てて動く。

 チラッと見えた灰色の影に、レインツェルの脳裏にある考えが閃いた。

 素早く剣を地面に投げ、地面に突き刺すと、レインツェルは傷口から流れる血を右手に擦り付け、それを古代熊に突き付けるよう掲げた。


「下がれ! ここより先は我らエンシェントエルフの領域! 迂闊に踏み入れば、容赦はしないぞ!」


 張りのある、少し芝居がかった声で、威圧するようレインツェルは叫ぶ。

 すると、僅かだが古代熊の殺気が緩んだ。


「……グルル」

「…………」


 喉を鳴らす古代熊の背後を、レインツェルは無言のまま指差す。

 背後の藪の中には、数匹の小さな子供の古代熊が。

 巨大な親熊とは違い、子犬のようなサイズで、ぬいぐるみのような愛らしさがあった。


 古代熊はとても情の深い獣と、オリカに教えられている。迂闊に子供に近づけば、敵意があろうと無かろうと、守る為に容赦なく襲い掛かってくる習性があるらしい。

 恐らく少女は、外見の可愛さ惑わされ、小熊に近づいてしまったのだろう。


 暫し睨み合いが続くと、古代熊は持ち上げた前脚を地面に下ろし、クルッとレインツェルに尾を見せた。

 そのまま振る返ること無く小熊達を連れ、森の奥へと引き返していった。

 姿が見えなくなると、ようやく森は緊張感から解き放たれる。


「……ふぅ。どうやら、納得してくれたみたいだな」


 一か八かの作戦が成功し、レインツェルは安堵からドッと冷や汗を掻いた。

 頭がいいからといって、レインツェルの言葉を古代熊が理解したわけでは無い。

 ここら辺でよく狩りをしている為、レインツェルの匂いが自然と染みついているのだろう。だから、古代熊は血の匂いからここが、レインツェルの縄張りだと判断し、引き下がってくれたのだ。


「子供の安全を守る為、傷をつけられたことには、目を瞑ってくれたってわけか。ありがてぇ親心だ。そのでっかい器に、感謝しなくっちゃな」


 拾い上げた剣を鞘に納め、去っていた方向に一礼する。

 見逃してくれた感謝と、傷つけてしまったことの謝罪を込めて。


「……う、うぅ~ん……あ、あれ?」


 と、ちょうど良いタイミングで、背後から少女の動く気配が。

 呑気なモノだと、視線を古代熊の去って行った方に向けながら、軽く息を付く。

 危機は去ったので、今度は後のお嬢様から話を聞こうと、レインツェルは振り返った。

 少女は上半身を起こし、何が起こったのか状況が全く理解出来ていない様子で、きょろきょろと大きく目を見開いて、辺りに首を巡らせていた。


「おい。大丈夫か?」

「へっ? ……はうっ!? わ、私、逃げなきゃ……!?」


 声をかけられたことで、追われていたことを思い出したのだろう。

 慌てて立ち上がろうとするが、腰が抜けているらしく、上手く立ち上がることが出来ない。

 何度やっても膝もガクガクと震え、尻もちをついてしまう。


「……あ、あれ? 力が、入らな……それに、古代熊は?」

「もう追っ払ったよ。いいから、落ち着けって。ほら、手を貸してやっから」


 そう言って手を伸ばすと、少女は瞳をパチクリさせ、差し出された手を見つめた。

 少し間が空き、唖然とした表情でポツリ。


「私、助かったんだ」


 ようやく状況を理解し始めた少女は、長く安堵の息を吐くと、助かったことの安心から目尻に涙を浮かべた。

 差し出された手を握り、勢いよくレインツェルの顔を見上げる。


「貴方が助け……ひっ!?」

「あん?」


 顔を見た瞬間、悲鳴を上げるとは失礼なと、レインツェルは眉を潜める。

 手を握り、立ち上がろうとした態勢のまま固まると、見上げる少女の顔が見る間に赤く染まっていく。


「は、はだ、はだだ裸ッ!? おとととと、男の子のッ、裸ッ!」

「おい、誤解を招くようなことを言うな。パンツは穿いてるだろーよ」


 軽いギャグも耳には届かず、少女は赤い顔で、瞳をぐるぐると回す。

 男の半裸程度でこの反応とは、どれだけ免疫な無いのだろうか?

 少女は何とかレインツェルの身体から目を離そうと、錆び付いたロボットのように、ぎこちなく首を左へ顔ごと向けるが、赤かった顔色が今度は真っ青に染まる。


「は、はわわ、はわわわわ」

「今度は何だよ……ああっ」


 視線を追って、レインツェルは納得した。

 二の腕の裂けた傷口を注視して、硬直していたのだ。

 筋肉が裂け、若干骨が見えかかっている深い傷は、確かにショッキングかもしれない。


「痛いは痛いが、まぁ、大丈夫だよ。これくらい、集落に戻れば……」

「……きゅう」


 言いかけた途中で、少女は再び目を回し、後ろに倒れるよう気絶してしまった。

 手を握ったままの所為で、少女の身体はブリッジのように折れ曲がり、脳天を地面につけている。

 何と器用な気絶の仕方だろうか。


「……どうすんだよ、これ?」


 再び気絶してしまった、名も知らぬ少女に、レインツェルは困り顔で空を仰いだ。

 その後。

 結局、放って置くことは出来ないので、少女を抱えて集落まで一時間近くかけて、戻るハメになってしまった。

 大怪我をした上、焼き肉パーティーはお預け。

 勉強をサボり、女の子を抱えて、その上自分はボロボロの大怪我をしている。

 どう説明したモノかと悩むが、どう説明したところで、結果は変わらない。激怒したリリーシャに散々説教を受けた後、何らかのお仕置きが待っているのだろう。

 暗い未来の予感に、レインツェルの重苦しいため息が、森の空気を湿らせた。





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