その12 黄金の虎
商業ギルド・ディクテーターは、連邦都市の至る箇所に支店と呼ばれる場所がある。
ディクテーターは一つの町に、複数の店を出店させている。土地柄により店の種類は様々だが、商人ギルドのように認定を受けた商人、商家が自由に商売を行うのでは無く、本部に任命された補佐官が、全ての店を統括する仕組みになっている。
日々、売上や客入りの状況に目をやり、必要あれば店の責任者を呼びつけ、色々と指導を促す。
売り上げが極端に低かったり、信頼を損なう不正行為を行っていなければ、基本的に商人は自由に商売を行うことが出来るし、ディクテーターの持つ流通も扱うことが可能。更には何かトラブルが発生しても、後ろだてとなるギルドが対処してくれるので、単独で商売を行うよりずっと、リスクは低く済むのだ。
そんなディクテーターの支店の一つが、ここトムスの町に存在する。
古代の森から北西に行った場所。
規模としては小さ目の町なのだが、複数の国に連なる街道が近くに存在する為、思いの外賑わっている。
その町にある一際大きな建物が、ディクテーターの支店であり、その一室にドロッセル・ラウンゼットが囚われの身となっていた。
「ふぅ~。さっぱりしたぁ。やっぱり、お風呂は最高ですね♪」
囚われの身であるドロッセルは、バスローブを身に着け、上機嫌に全身からホカホカと湯気を上げながら、湿った髪の毛をタオルで拭っていた。
閉じ込められている部屋も、地下牢などでは無く普通の客間。いや、寝心地の良さそうなベッドや見るからに高そうな化粧棚が、普通に設置されていることから、普通より大分ゴージャスかもしれない。
この一見、高級ホテルの一室に見える部屋に、ドロッセルは今朝方連れてこられた。
当初は身代わりであることの緊張や、これから先の不安で硬くなっていたドロッセルだったが、ジョセフが何かと気を使ってくれたおかげで、ここまで正体がばれること無く、むしろVIP待遇と大変丁重に扱って貰えた。
これには、任務を達成してご満悦のクラフトが、指示を全部ジョセフに丸投げにしたことも、功を奏しているだろう。
何よりも、久しぶりに水では無く、お湯で身体を洗えたのだ。
「わたしも女の子ですから、やっぱり汗臭いのとかは困り者です」
そう言いながら、仄かに漂う石鹸の香りに、ドロッセルはご満悦で髪の毛をタオルで丁寧に拭う。
すると、不意に扉が静かにノックされた。
「――ひ、ひゃい!?」
『レインツェル様。お着替え、お手伝い致しましようか?』
驚いたドロッセルは飛び上がり、慌てて拭っていたタオルで自分の頭を耳ごと隠す。
しかし、返事をしてもドアは開くこと無く、廊下の方から世話役の女性が声をかけてきただけ。
安堵に胸を撫で下ろしてから、ドロッセルは口を開く。
「だ、大丈夫ですから一人で! ええ、ええっ、大丈夫ですとも!」
『……そうですか。ああ、それと、今日はお早めに明かりを消し、お休みになられるよう指示を受けていますので、どうかよろしくお願いいたします』
「わ、わかりました。もう少ししたら、消しますから」
『ありがとうございます。では、何かご不便がりましたら、お呼び下さい。では』
少し安心したような声色で、女性は必要なことだけを述べると、あっさりとドアの向こうから遠ざかって行った。
もう一度、ドロッセルは安堵する。
同時に胸に湧き出したのは、女性の態度に対する苦い感情だ。
「……あの人、わたしをエルフだと思ってるから、本当はお世話なんか、したくないって思っているんでしょうね」
ドロッセルは、そう悲しげに呟く。
連邦都市に差別は少ないと言っても、皆無では無く、中にはクラフトのように過剰なまでの差別主義者が存在する。その理由として大きいのが、基本的に町も都市も国家も、人間を主体とした社会構成が基本だからだ。
廊下にいた彼女も、別に差別主義者というわけでは無いのだろうが、エルフに対する怯えにも似た感情が、ドア越しに伝わってきた。
「鉱山などで働く、ドワーフの皆さんと違って、エルフは森の中に隠れ住んでいるから、人との交流が極端に少ないですしね」
知らないということは、恐怖に直結する。
人は自らの理解が及ばない物事に、恐怖を抱く傾向がある。人とは違う理の中で生きるエルフ達は、それこそ人間の理解の範疇外にいるだろう。中でもその存在を名前でしか知られていないエンシェントエルフは、何も知らない人間にとって、不死鳥やユニコーンなど伝説上の生物に等しい。
その無知が恐怖となり、彼女は聖女レインツェルを恐れているのだろう。
だが、彼女を責めることは出来ない。何故ならドロッセルもまた、実際に目にするまで、エンシェントエルフは特別な存在だと思っていたのだから。
部屋の光源となっている壁の魔力灯。上の摘みを右に少し絞ると、供給される魔力がストップし、発光は見る間に小さくなり、室内は闇に閉ざされた。
窓は厚いカーテンに覆われているので、本当に暗く、ベッドに戻るにも一苦労だ。
ドロッセルはベッドの上に腰かけ、集落のことを思い出す。
「集落にいた人々は、皆普通でした。それこそ、人間の生活と何も変わらない。仲間を大切にして、家族を大切に思う……わたし、馬鹿でした。エンシェントエルフは、不可能を可能にする、凄い存在だって、勝手に思い込んでいました」
自分の無知を恥じるよう、ドロッセルは唇をキツク結んだ。
聖女レインツェルの逸話を、寝物語に聞いていたドロッセルには、無理も無いことかもしれない。
おとぎ話の存在だと思っていたエンシェントエルフは、人と変わらぬ営みの中にいた。大聖樹に守られ、悠久の時の流れの中を、何度も繰り返し転生しても、その暮らしその心は、人間との差など殆ど無かった。
そして思い出すのは、色々と助けてくれたエンシェントエルフただ一人の少年。
「レイ君は、まぁ、少し変わっていたかな?」
やんちゃの一言では収まらない行動力に、ドロッセルは唇を綻ばせた。
ため息を一つ吐いて、ドロッセルはベッドの上にゴロンと寝転がる。
「……これから、どうなってしまうんだろう?」
漠然とした不安が口を付く。
聖女レインツェルの身代わりになったことに、後悔は無い。けれど、根が臆病で怖がりのドロッセルは、心の中が不安で押し潰されそうだった。
それを少しでも振り払うよう、ドロッセルはギュッと目を瞑り、意識を無理やり眠りへと促していく。
「……レイ君。今頃、どうしてるかな?」
強く閉じた瞼の裏に、屈託のない少年の笑顔が映る。
自然と、滲み出る不安が色褪せたような、不思議な感覚に抱かれる。
まるで、暗い森の中で一人泣いていた自分を、見つけ出してくれたあの夜の時のように。
「……レイ君」
小さく、ドロッセルは少年の名前を呼ぶ。
意識が微睡み始めるまで、ドロッセルは心の不安を打ち消す為、ひたすら少年の笑顔を思い浮かべ続けた。
★☆★☆★☆
レインツェル達が目的の町に到着する頃には、既に日はどっぷりと暮れていた。
宿場町の外に繋げてあった、カタリナの大切な栗毛の愛馬に跨り、走り続けること数時間。慣れない馬上の揺れに、レインツェルの臀部は痛いを通り越して、感覚が殆ど無くなってしまった。
おまけに普段使わない筋肉を酷使した所為で、全身がバキバキと痛く、こんなことなら乗馬の練習もしておけばよかったと軽く後悔した。
ついでに言えば、頭頂部にもタンコブが出来て痛い。
「……何故、馬から降りて早々、拳骨を喰らわにゃならんのだ」
「アンタが人の胸を鷲掴みにするからでしょ!」
顔を真っ赤にしたカタリナが、額に青筋を浮かべて怒鳴る。
別にどさくさに紛れて、スケベ心を発揮したわけでは無い。
馬に乗るなんて行為は、森の中では勿論、遊佐玲二だった頃にも経験したことが無かった。故にカタリナの背後に引っ付いているだけでも一苦労で、振り落されそうになるのを必死に堪えようとして、ついぐわしと鷲掴んでしまったのだ。
正直、しがみ付くのに精一杯で、感触を楽しむどころか、掴んだ感覚すら薄い。
決して、触りがいが無いくらいに、ぺったんこだったわけでは無い……多分。
たんこぶになった頭頂部を摩りつつ、レインツェルは唇を尖らせた。
「くそっ。殴られるんだったら、もっと確り揉んでおけばよかったな」
「アンタ、マジぶっ殺すわよ?」
目が座ったカタリナが腰の剣に手を懸けたので、レインツェルは慌ててソッポを向き、何も言っていないフリをした。ハッキリ言ってカタリナの拳骨は、酒場で喧嘩した揉み上げ髭より倍は痛かったので、出来ることならもう貰いたくは無い。
誤魔化すようにレインツェルは、さっさと町の中へと進む。
夜の町は日本のように外灯が無い所為か、大通りの真ん中を歩いているのに、真っ暗な上人の姿も見られない。暗い夜道、頼りになるのは月明かりと、建物の窓から零れる光のみだ。
長く馬に跨っていた所為で、まだグルグルと視界が揺らぐ中、レインツェルはカタリナと共にヨロヨロと、人通りの少ない道を進む。
時間的にはちょうど、夕食時なのだろう。
静かな夜の町の何処かから、ほんのりと美味しそうな匂いが漂ってきた。
鼻をすんすんと動かし、興味深げに周囲を見回るレインツェルの姿に、横を歩くカタリナは眉根を寄せた。
「……ちょっと。人が見てないからって、あんまキョロキョロしないでよ田舎者じゃあるまいし……あ、田舎者か」
歩きながらも、忙しなく首を巡らせている姿を煩わしく思ったのか、カタリナが皮肉交じりに言う。
それでも興味の止まらないレインツェルは、ふぅむと自分の顎を指で軽く撫でた。
「いや、あんま、宿場町と変わり映えせんなと思って」
「そりゃ、国の首都とかの大都市に行かない限り、片田舎の街並みなんてそう大差無いでしょうよ。でも、ま、昼間だったらもう少し、賑わってるんじゃない?」
大して興味が無い口調で、カタリナは言う。
旅慣れている風のカタリナは、この程度の景色など見慣れているらしい。
なるほどとレインツェルは頷き、また視線を街並みに巡らせた。
立ち並ぶ建物は当然の如く、全てが木造。当然、電気などは無いのだから、窓から零れる光は蝋燭か何かなのだろう。
エンシェントエルフの集落は、その際立った特殊性故に、あまり意識することは無かったが、こうして改めて人のコミュニティ、街並みを垣間見て体験、体感することにより、レインツェルが持つ自身の感覚とは、乖離があることを実感出来た。
近代文明。とでも言うべきか。
レインツェル……いや、遊佐玲二の知る人の町とはかけ離れた光景に、ギャップを感じずにはいられなかった。
これが映画のセットと言われる方が、まだ実感的に現実味がある。
また、目の前の光景があえて言うなら洋風、とでも言うべきだろうか。慣れ親しんだ日本の文化を感じさせない町並みが、余計に違和感を際立たせる。千年遡っても、ここに似た町の雰囲気を、日本で味わうことは出来ないだろう。
まぁ、かといって中世ヨーロッパが同じ光景なのかと問われても、海外旅行の経験の無いレインツェルには、わからないのだが。
街並みを見回しながら、レインツェルは難しい表情をして問いかける。
「なぁ、カトリーナ」
「カトリーナって呼ぶな……何よ?」
「そこに、裏路地へと続く角があるよな?」
指差す先は暗くて見えにくいが、確かに建物と建物の間に隙間があった。
目を細め確認すると、カタリナは頷いてから、怪訝な顔をレインツェルに向ける。
「あるけど、それがどうかした?」
「そこからプラカードを持った若手芸人が、実はドッキリでした! なぁんてオチには、ならないよな?」
「はぁ? プラカード? 芸人? 何言ってんの?」
馬鹿じゃないの? と言いたげな視線を感じつつも、レインツェルはあるわけないかと、小さく息を付く。
そもそも、自分が遊佐玲二では無くレインツェルの時点で、その仮定は無意味だ。
二人は並んで、黙々と道を真っ直ぐ進む。ディクテーターの支店は、大通りを真っ直ぐ行った先にあると聞いたので、このまま進んで行けば迷うことなく、辿り着くことが出来る筈。迷っても、何処か民家を訪ねて聞けば良いだけの話だ。
会話はぷっつりと途切れ、足音だけが妙に大きく響き渡る。
チラリと横目でカタリナの表情を伺うと、何処か不機嫌な様子にも見て取れる。
「もしかして、無理やり引っ張ってきたこと、怒ってるのか?」
「怒ってないと思ってんなら、一度頭をかち割って、中身を洗浄した方がいいんじゃないの?」
ジロッと、怒気の籠る視線を向けてから、大きく息を吐いて額を押さえる。
「ってか、何であたしってば、律儀に付き合ってんだろ。こんな今日会ったばかりの奴、途中で捨ててきてもよかったのに」
「そこはほれ、俺の仁徳って奴じゃね?」
「……その厚かましさが仁徳って言うなら、そりゃ仁徳なんでしょうよ」
呆れ気味に、またカタリナはため息を吐いた。
「厚かましいついでに聞きたいんだけど」
「なによ?」
カタリナの返事には機嫌の悪さが滲みでていたが、レインツェルは気にせず疑問を口にした。
「アンタ。武神ってのの娘なのか?」
「…………」
途端、カタリナは口をキツク結んで黙ってしまった。
表情の険しさが増し、滲み出る不機嫌さの質が、またちょっと変わってきた。
「聞こえてたの? ってか、あたしに聞こえたんだから、でっかい耳してるアンタにも聞こえて当然か」
前髪を掻き上げ、カタリナは大きく舌打ちを鳴らす。
「レインツェル。黄金の虎って知ってる?」
黄金の虎。
宿場町の酒場を出る際、商人達の呟いた会話が偶然、二人に聞こえてしまった。
てっきり、「そんなこと、アンタに関係ない!」と凄い剣幕で怒鳴られるかと思いきや、カタリナは不機嫌な顔つきをしながらも、思いの外冷静な態度で、腰の剣にそっと左手を添えた。
「森で引き籠ってたアンタは知らないだろうけどさ。黄金の虎っつったら、大陸でもそこそこ名の通った自衛組織よ。口の悪い連中には、馬賊だなんて呼ばれてるけど」
「馬賊か。なるほど。だから、馬の扱いに長けてるんだな」
「そ。元を辿ると、あたしらの爺様世代は、大陸東部で活動する騎馬民族だったんだけどね。戦争やらなんやらに関わってる内に、今ではこの界隈ではちょっと顔が利く存在になってんのよ」
他人事のように語りながらも、カタリナは何処か楽しげに唇を綻ばす。
最初は、自身の家や出自に関して、嫌悪感でもあるのかと思っていたが、この様子を見る限り違ったみたいだ。
けど一方で、距離を空けるような物の言い方も、少しばかり引っかかる。
「もしかして、家族と仲が良くないのか?」
「……聞き難いことを、あっさりと聞くじゃん」
流石のカタリナも、これには苦笑を漏らす。
ここまで率直に聞かれれば、無神経を通り越して、清々しさも感じる。
「あたしの親父はさ、そこの頭目をやってんのよ。昔、大陸北部ででっかい戦争があってさ。親父はそこで随分と大活躍だったらしく、武神だなんて大層な呼ばれ方してんのよ。そうなってくると、生まれてくる方の子供は大変で仕方ないわ」
そう言って、カタリナは自嘲するように笑い、ズボンのポケットに両手を突っ込む。
気分が滅入っているのか、背中も僅かに丸まっている。
「それだけだったら、普通に何処にでもありそうなんだけどさ。困ったことに、うちは三姉妹に男が一人。あたしが一番下なんだけど、上の連中の出来がすこぶるよくってさ。剣の腕前も指揮も人柄もカリスマも、あたしなんか足元にも及ばない。ってか、お話にもならないわけ。まさに、天才の中に放り込まれた凡人って感じ」
笑い話のように語るが、歩くカタリナの背は少しずつ曲がっていく。
「要するにさ。あたしは出涸らし、みそっかすなのよ。でも、仕方が無いじゃん。武神の父親に名前負けしない子供が、三人も生まれたのよ? 一人くらい出来損ないがいなきゃ、それこそ不公平ってなモンよ」
「……なるほど」
黙って聞いていたレインツェルは、一回頷いた。
「それで家に居辛くて、こんな風に放浪暮らししてるってわけか」
「そゆこと。でも、ま……」
ふっと、カタリナはレインツェルの方から顔を背ける。
「アンタからスリをしようとしたことは、謝るわ……正直、一人で町を飛び出して来たモノの、面白いことが無くって、すれ違う連中はお気楽面ばかりで、不貞腐れてたんだと思う……わ、悪かった、わね」
落ち着かない素振りで、カタリナは後頭部を掻きながら、消え去りそうなほど小さな声で謝罪を口にした。
別にレインツェルが、何か特別だったわけでは無い。
胸の内を蝕んでいたもやもやしたモノを口に出して、多少すっきりした。そんな単純な理由だ。
素直な言葉を吐いたのが気恥ずかしかったのか、カタリナは無言で歩く速度を上げた。
何かと文句を言いながらも、ここまで律儀についてきてくれたのは、スリに手を出した罪悪感が、根底にあったのかもしれない。口も態度も手癖も悪いが、根っ子の方にある素直さの所為で、悪人には徹しきれないらしい。
レインツェルも軽く笑みを零してから、置いて行かれないよう、その背中を追いかけた。
★☆★☆★☆
大通りを歩き続けること数十分。
変わらぬ薄暗い町並みにそろそろ見飽きてきた頃、ようやく目的地であるディクテーターの支店まで辿り着いた。
支店といっても店構えがあるわけでは無く、大きな建物がデンッと目の前にそびえ立っている。大通りに並ぶ店や民家が木造ばかりだったからか、石材で作られた支店は一際大きく、見る者に威圧感を与えていた。
建物は三階建てほどで、高い塀で周囲を囲われている。
レインツェルとカタリナが並んで立っているのは、ちょうど正門部分。
門柱には商業ギルド・ディクテーターを表すであろう、天秤を表す紋章が掲げられていた。
当然、固く閉ざされているので、外から開くことは出来ない。
「どうすんの? 素直にノックして、応対してくれるのを待つ?」
「勿論、待たない」
カタリナのジョークにそう答えつつ、レインツェルは周囲の様子を伺う。
夜道に人の姿は無く、気配も感じられない。これなら、多少怪しい行動をしていても、見咎められことは無いだろう。
この人気の無さに、違和感を覚えないことも無いが。
「やっぱ、壁を乗り越えるしかないか」
そう言って見上げる高さは、三メートルくらいか。
そっと壁に触れると、やすりのようにザラザラと表面が荒い。これならば、何とかなるかもしれない。
とりあえずやってみるかと、レインツェルは壁から少し距離を取り、助走をつけて思い切り地面を蹴る。
「――ふッ!」
身軽なレインツェルの身体がふわりと跳躍するが、それでも壁の上にまでは届かない。
跳躍が最高地点に到達したのを見計らい、足を突出し爪先で壁を踏み込む。靴底と表面の荒い壁の摩擦、そして跳躍した勢いを利用して、身体を上へと強引に持ち上げると、ギリギリ中指の第一関節が壁の上に引っかかる。
「ふうっ、ギギッ!」
引っ掛けた指一本に全体重がかかる前に、もう一方の手で壁の上を掴み、バランスを整えると、一気に腕の力だけで身体を持ち上げた。
「……アンタ、本当に身軽ねぇ。猿かっ」
下から呆れ半分、感心半分といったカタリナの声が聞こえた。
何とか上まで昇ったレインツェルは、とりあえず一息つく。
そして素早く次の行動に移る為、装備しているマントを外して、持ちやすいよう細長く丸めながら、下にいるカタリナの方を見下ろした。
「よっし、カトリーナ。ロープ代わりにマントを垂らすから、これに掴まって昇ってきなよ」
「はいはい……ってか、カトリーナって呼ぶなッ!」
お約束となりつつあるツッコみを叫んで、カタリナは怒りながらも垂らされたマントに飛びつくよう、地面を蹴る。
両手で確りマントを握り、身体は宙に浮く。
思いの外レインツェルは腕力があるようで、バランスを崩すことなく、カタリナは壁を足場にして素早くよじ登ることが出来た。
猿かと言いつつ、カタリナも中々に身軽な動きをしている。
壁の上に座り、ほっと息を付きながらも、カタリナは自らの状況に首を傾げた。
「……何であたし、律儀にこんなことに付き合ってんだろ?」
自分で自分に呆れながらも、カタリナは壁を飛び降り、支店の敷地内を進むレインツェルの後を追い駆けた。