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1.

私は昔からその人の、「恋の終わり」が視えた。

未来視とはまたちょっと違う。

相手に振られてしまったり、婚約を破棄されたり……

殺されたりなんてこともある。一言で言うなら、物騒なのだ。

そんな恋の終わりが視える能力が、彼だけは視えなかった。

そう……目の前にいるこの男だけは。

ーーー

「世の中、金さえかければ手に入るものと、どれだけ金をかけても手に入らないものがある。お前はどちらだ? いくら出せば俺のものになる?」


婚約当日。急に部屋に押しかけてきたかと思えば、またお金の話。この人の口からは、お金のことしかでてこないのかな。


「……私のこと、お金で買おうとしてるんですか?」

「そうだ。金があればなんでもできる。物も人も買える。お前も貴族なら、それくらいわかるだろう?」


(……離縁したい)


本気でそう願った。

そうしたら、神様のイタズラなのか、昨日食べた星占いのクッキーの運勢がよかったからなのか。

本当に、その通りになってしまった。


◇ ◇ ◇


「二十九日後に、お前とは婚約破棄をする。二度と俺の前に現れるな」


今日は四月三十日。

窓の隙間から、涼しげで、どこか青葉の香りが孕んだ薫風が、部屋の空気を変えた。

低く威圧的な声で離縁を突きつけてきた男、ルビアン・クロード。三十一歳。

黒髪はセンター分けにし、きっちりと整えられている。

瞳の中は赤いのに、どこか冷たい印象の男。

彼はこの国の第一王子で、私の婚約者――のはすだった。


「ふん、どうした。驚きすぎて、声も出ないか」


私が何も言わずに黙っていると、ルビアンはおもむろに口角を釣り上げる。人を見下した、嫌な笑い方だ。


「いえ、ただ……真面目な人なんだなって」

「……は?」


私の答えが予想外だったのか、彼の赤い瞳が一瞬見開かれた。


「だって、普通は婚約破棄当日に言うものじゃないですか。新しい結婚相手が見つかったとかなんとかで」


私たち貴族にとって、政略結婚は当たり前のこと。だから、性格や価値観が合わなくて、離縁する人が後を絶たない。

けど、婚約破棄をする人たちって、みんなパーティー会場とか人前で言う人がほとんど。

こんな誰もいない部屋で、それもわざわざ日にちまで言うなんて彼くらいだろうな。


「婚約破棄に普通も何もあるか。俺は今、伝えるべきだと判断した。それだけだ。話はしたからな。後で駄々をこねるなよ」


そうしてルビアンは、こちらを一瞥することもなく部屋を出て行った。


(止めるべきだったかな。でも、私がルビアンの人生に口出しする権利なんてないし)


彼のことは嫌いではない。好きかと言われると微妙なところだけど。

この結婚も、政治的なもの。いわゆる大人の都合だ。私に拒否権なんてない。まぁでも、この国は第一王子の言うことが全て。彼が婚約破棄をすると言うなら、私はそれに従うだけ。……だったのに。

婚約破棄まで二十九日。


◇ ◇ ◇


「……おい」


"二度と俺の前に現れるな"昨日、たしかに彼はそう言っていた。私は受け入れた。だから、もう二度と会わないものだと思っていたんだけど。


「お前、貴族のお偉いさんに、魔法で傷をつけたそうじゃないか。この国の掟を知らないわけではないよな?」


彼のいう掟とは、魔法による私闘のことだろう。

私たちの住んでいる国、「ルビウス帝国」では、魔法での私闘、及び喧嘩や相手を傷つける行為などは一切禁止されている。


「はい」

「では、何故そんなことをした」

「実は……」


◇ ◇ ◇


昨日、ルビアンと別れた後、夕食を取ろうと会食パーティーに参加した。

会食パーティーとは、数ヶ月に一度開かれる、貴族だけが入場を許されているパーティー。

豪華なドレス、煌びやかな装飾品。貴族の男女が食事をし、結婚相手を探す、婚活のような場所。だが、それは表向き。

裏では、相手方の貴族の粗探し、没落貴族の悪口、罵り合い……

そんなクソ野郎が集まる、クソみたいな場所に何故自分から行ったのかというと……

理由は簡単。

美味しいご飯が食べられるから。

やっぱり、表では結婚相手を探すパーティーなんて言われてるくらいだから、会場で出される料理は全て、一流シェフの手作り。普段は食べられないA5ランクの黒和牛が食べ放題!

ケーキやタルトなどのスイーツもあるし、見た目も綺麗だし。女の子は好きなんだよね、こういうの。

てことで、一言で言うなら、食べ物に釣られたというわけ。

だから、虫のようにうじゃうじゃといる奴らからなるべく離れて、隅っこで一人静かに美味しいご飯を楽しんでいたの。

だけど、ここはクソ野郎がいっぱいいるところ。

特に私は、普段から評判があまりよろしくないということもあり、一人のおじ貴族に絡まれてしまった。


「おい、このビッチ!」


会場中に響き渡るほどの大きな声に下品な言葉。

それが誰を指すのか。考えなくても、すぐに私のことだって分かった。

私の名前は、レオナ・エメラルド・ローヴィッチ。今年で十九になる。

人を傷つける魔法を使用することが禁止されているこの国で、魔法で人を弄んだと、身に覚えのない言いがかりをつけられた。貴族は噂話が大好き。瞬く間に、嘘は真実となり、私は「悪役令嬢」として、有名になってしまった。

そして、私の苗字である「ローヴィッチ」から取り、ヴィッチ=ビッチというあだ名をつけられた。

貴族だけじゃない、使用人も裏で私のことをそう呼んでいる。

私は男性経験がないどころか、異性とキスもしたことがない。貴族同士が集まるパーティーだって、ご飯を食べるだけで、男性と会話すらしない。

それを周りの人達は知っている。それでも私のことを、ビッチと呼ぶ。

何故なら、彼らにとって、私が本当にビッチかどうかなんて、どうでもいいことだから。

彼らはただ、私を傷つけたいだけ。真実を知ろうともせずに、表面上の情報だけで人を決めつける。でも、もう慣れたし、どうでもいい。

私はただここに、食事を楽しみにきただけ。何を言われても気にすることない。


「聞いているのか!」


私が淡々と目前にあるスイーツを口に運んでいると、男が梅干しのような顔をして、こっちに近づいてくる。

男は、ガシャンッとテーブルを強く叩きつけた。


「あの、大きい音、出さないでください」

「黙れ! お前のようなものに話しかけただけでも感謝しろ!」


唾が飛んできそうな勢いでまくし立てられる。


「あの人、大丈夫かしら……?」

「放っておきなさい。アイツ、何の罪もない人に魔法を使ったらしいのよ。自業自得だわ」

「えーそうなの? 怖いわねぇ」

「うわ、ビッチだ。エメラルド、ローヴィッチ!」

「ずっと真顔じゃん! 怖くね?」


遠くで談笑している貴族たちが、こっちを見ているのが分かる。でも誰も助けようとしない。当然だ。私は彼らにとって、悪役令嬢なんだから。

だから、自分の身は自分で守るの。助けてくれない男なんて必要ない。私はそう学んだ。


「少しは愛想よくできんか! 女だろ!」

「……女は笑顔でいるべきですか? だったら、貴方が私を笑わせてください」

「貴様……!」


愛想良くしろと言われたから、じゃあ笑わせることを言えばいいじゃない、と思ったんだけど……彼の機嫌を損ねてしまったみたいだ。

男は、先程の梅干しよりも赤い、紅しょうがのような顔で私の腕を掴む。


「ぃっ……。離してくださいっ……。――やめて!」


私は護身用として身につけている、ネックレスの中央に魔力を貯めた。そこには、エメラルドグリーンの宝石が埋め込まれてある。

いつもここに、魔力を溜めているの。

ビリッビリリッッと、電力が発動する。それを、掴まれていない反対側の指で軽く操作をした。


「ひぃぃっっ!!」


男の体に当たらないように、私は彼の周りに電気魔法を数発放つ。

電気は、少しでも動けば感電する恐れがある。

そのことを理解しているのか、男は身動き1つ取れずに、その場で蹲った。


「きゃぁぁっ! やっぱり野蛮人よ! 誰かあの女を捕まえて!」


私が魔法を使ったから、会場中は大騒ぎ。


(美味しいご飯も甘いスイーツもいっぱい食べられたし、もういいや。部屋に戻ろ)


野次馬たちの声を無視して、私は会場を後にした。


◇ ◇ ◇


「ということでして……」


私は昨晩起きたことを、ルビアンに説明した。

すると彼は、頭を抱えて深いため息をつく。


「はぁ……そうか」


それだけ言うと、ルビアンはこめかみを抑え、黙ってしまう。


(やっぱり怒られちゃうかな)


いや、国の掟を破ったんだから、怒られるだけでは済まないだろう。


(……やりすぎたかも)


「分かった。俺が話をつける」

「えっ、どうして」


思わず、驚きの声を上げてしまう。

だって、昨日婚約破棄をされたばかりなのだから。

ルビアンには関係ないはずなのに。


「お前の言っていることが本当なら、その貴族の行動は、褒められたものではない。たとえどんなことがあったとしても、女性に対して、ビッ……。――そのような言葉を使うのはよくない。お前のしたことは、正当防衛として認められる可能性がある」


(怒られると思ってたのに。庇ってくれてる? でも、なんでそんなことを)


「私が悪いって、思わないんですか? 魔法、使ったんですよ。政府の条約として禁止されているのに」

「禁令されているのは、"魔法で相手に傷をつけること"だ。魔法そのものは使用を許可されている。お前は、自分の身を守るために、使ったのだろう。なら、問題はない」

「そう、ですか」


意外だった。もっと理不尽に怒鳴りつけるのかなって思ってたのに。


「だが、お前の言っていることが真実だとはまだわからない。だから、あの日のことを確認する。あの場にいた貴族たちと、お前に暴言を吐いた男の特徴を言え」


「ええと、梅干しのような男で……」


あの場に誰がいたかな。あの梅男しか覚えてないかも。


「……おい。梅干しのような男とはなんだ」

「私に悪口を言ってきた人です。梅干しみたいに顔が赤かったから」

「はぁ……。もういい、続けろ。その梅干し男の特徴は?」

「蜂蜜みたいな黄色いマントをしてました。性格は全然蜂蜜じゃなかったけど。髪はなくて、卵みたいでした。体つきは……餅?」

「ぷっ……くく……お、お前」


ルビアンが急に笑いだした。口元を抑えて、肩を小さく震わせている。

男の特徴をそのまま言っただけなのに。


「お前は、人のことを食べ物で例える癖でもあるのか」

「だって、ご飯って美味しいじゃないですか。なので、暇な時に今日の夕飯は何が出るかなぁとか考えてたら、いつのまにか人のことが食べ物に見えてきて」

「くく……そうか。だが、分からなくもない。最近……と言うべきか。私闘魔法が禁止されてから、人々は戦うことではなく、食や衣服などの生活のために、魔法を使う人が増えたからな。梅干しなんて、俺が小さい頃にはない食べ物だった。蜂蜜や卵も、昔は高価なものだった。こいつらのせいで、どれだけ金の管理に苦労したか。だが今では、手に入れやすくなっている。いいことだ。貯金がしやすくなった」


(な、なんだこの人。いきなりペラペラ話しだしたんだけど。それに貯金って、あんた王族でしょ。どれだけお金が好きなんだか)


私の視線に気づいたのか、ルビアンはハッとして小さく咳払いをした。


「……まぁいい、話を戻すぞ。とにかく、昨日のことについては、俺個人で調べる。分かり次第、報告する」


それだけ言うと、ルビアンは踵を返して、扉を閉めた。


(いい人なのか、悪い人なのかわからないなぁ)


婚約破棄まで二十八日。


◇ ◇ ◇


あの日から、三日。王族は忙しいのか、ルビアンからの連絡はない。

私はというと、やることもないため自室で暇を潰していた。

暇つぶしといえば……そう、人間観察だ。

正しく言うなら、"相手の恋の終わりを視る"

それが、私の固有魔法。

この世界では、大なり小なり、自分だけが使える特別な魔法が存在する。魔法の発現は人それぞれ。存在するだけで、使えるのとはまた別だから、一生自分の固有魔法が分からない人もいる。

そして、私の固有魔法は、恋の終わりが視える。

正直、意味ある魔法なのかと言われると微妙なところ。でも使わないのも、なんかもったいないから、たまにこうしてその人の恋の終わりを覗いてるってわけ。


(今日は誰にしようかな)


私は窓際の小さなテラスに腰掛けて、紅茶を嗜む。

今日のお供は、うさぎ型のクッキー。

うさぎといえば白のイメージだけど、抹茶味とかチョコレート味など、様々な色のクッキーを作ってみた。

白いうさぎのお腹部分には、ピンクのハートマークも書いちゃったりして。


(ふふ、我ながらいい出来栄えね)


使用人から忌み嫌われている私は、従者の人たちに準備してもらうんじゃなくて、自分でお菓子を作ってるんだ。

昔から、お菓子とかぬいぐるみを自作するのが好きで、それは今でも変わってない。


(ん、美味しい。砂糖の量もちょうどいいし。ルビアンの言う通り、食材が安く手に入るのはいいことだよね。……ん? あそこにいるのは……)


ふと、下の方へ目を移す。

そこには、大きな庭園が広がっていた。全体的に深緑色の森林たちに、薔薇が咲き乱れている。

とっても綺麗……と、言いたいところだけど、私が気になったのは花の色。色とりどりの薔薇の中でも特に目立つ、黒い薔薇。赤や青などの薔薇もあるけど、そのどれよりも本数が多い。


(庭で黒い薔薇を育てているなんて、珍しいな)


私が花から目を離せずにいると。


「あ! ローヴィッチさんだ!」


ニコニコと片手をぶんぶん振る男。


(確か名前は、ジェイド・アパタイトだったよね。歳は二十一歳だった気がする)


彼は、新しく屋敷にきた庭師。

使用人の中で、唯一私のことを苗字で呼んでくれる人。その事実が珍しくて、彼のフルネームを覚えている。


「こんにちは、アパタイト! 今行くから、少し待っていてね!」


二階の自室にいた私は、庭にいるアパタイトに届くよう、声を張り上げた。


「お待たせ!」


ふふと小さく微笑むと、アパタイトは大型犬のように駆け寄ってきた。


「もう! ジェイドでいいって言ってるのに」

「じゃあ……ジェイド?」

「へへ、やった! あ、そうだ。このお花、どうぞ!」


彼が渡してくれたのは、一本の黒い薔薇。


(あ……私が気になってた花だ)


「ありがとう。でも、どうして私に?」

「一本の黒い薔薇の花言葉は、一目惚れですから」


アパタイト……ジェイドは、照れくさそうに頬をかく。


「僕、ここでお仕事してた時にたまたまローヴィッチさんのことを見かけたんですけど、お花みたいに綺麗な人だったから、すぐ覚えられました」

「へ、一目惚れ?」


(私のこと、す、好きってこと!? そういうことなの!?)


「へへ、照れてるんですか? 赤くなってて、可愛い」

「ちょ、ちょっと、ジェイド! 可愛いとか、そんな簡単に言っちゃダメだからね!」


(男の人に可愛いなんて、初めて言われちゃった。キスもまだ未経験なのに!)


「だって、本当のことですから。それに、一目惚れって意味だけなら、赤い薔薇でも同じ意味なんです」

「えっ、そうなの?」

「はい。でも……黒い薔薇の方が、少しだけ愛が重いんです。死ぬまで一緒とか、狂ってしまうほど執着している、なんて意味も……あ、すみません! つい! ああ、どうしよう。こんなんじゃ、ローヴィッチさんにまで嫌われちゃうよ!」


急に両手で頭を抱え込んだジェイド。


(ジェイド、大丈夫かな?)


彼は、使用人の中でも初めて優しくしてくれた人だから、役に立ちたい。

どうしたものかと、悩んでいると。

チカッチカッッと目の前が光った。


(あ、これって……)


人の恋の終わりが視える時、目の前がチカチカと光るのがいつものパターンだ。

そして、私の頭の中には、ジェイドの恋の終わりが視えた。


ジェイドside.


「好きです! 僕、貴女に一目惚れしました!」

「え、な、なんなの。私たち、初対面だよね? なんか……気持ち悪い」


どうして。どうしてそんなことを言うんだ。

僕が好きになった女性は、みんな僕を拒絶する。

ただ好きなだけなのに。


※ ※ ※


「きゃあ! 人が倒れてる!」

「落ち着いてください。少し痛めつけただけです」

「は……? なに言ってるの」

「この男は、貴女という女神がいながら、他の女にうつつを抜かす男ですよ。だから、二度とそんな気を起こさないように――」


パァンッッと乾いた音がする。

僕が言い終わる前に、彼女が僕を殴りつけたのだ。


「だからってこんなことするなんて最低っ! ねぇ、大丈夫!?」


何故だ。何故僕じゃなくて、その男に近づくんだ。

好きな人のためになんでもしたいと思うのは、自然な感情でしょう? 誰だって、好きな人の苦しんでる姿や傷ついてる顔なんて見たくない。そうでしょう? 僕は何も間違ってない。悪いのは僕じゃない。

悪いのは、僕を理解しないお前らだ。


※ ※ ※


「はぁ、君はクビだ」

「えっ、どうしてですか」

「どうしたもこうしたもあるか! 客を殴ったんだ、もう店にくるな!」


大好きな花屋にも行けなくなった。

どうしてだろう。なんでみんな、僕を分かってくれないんだろう。

人間って汚い。綺麗な花とは全然違う。

僕は花が好きなんだ。だって、僕の愛を受け取ってくれるから。

種に決まった分量の肥料と水を与えてお世話をすれば、花は綺麗に咲いてくれる。僕を癒してくれる。でも人間は違う。僕がどれだけ肥料や水を与えても、綺麗な花を咲かせてはくれない。振り向いてくれない。好かれるために努力してるのに。


※ ※ ※


初めてローヴィッチさんを見た時、僕の中で何かが変わった。

みんなと同じ、一目惚れだった。でも、他のみんなには好かれたいって思っていたのに、彼女にだけは"嫌われたくない"と思った。自分でも分からない。分からないけど、本当の僕は隠さなきゃいけない。花みたいに、綺麗なところだけを見せたい。

ローヴィッチさん、ローヴィッチさん。僕の――


「え……」


お腹が生暖かい。血。血が出て――


◇ ◇ ◇


ジェイドの過去が頭の中に流れ込んできた後に――無惨に刺された彼の姿があった。


(これが、ジェイドの恋の終わり……最後は殺されちゃうんだ……)


初めて能力を使ったわけじゃないけど……人の恋の終わりを視るのは、なんとも言えない気持ちになる。彼のやり方は間違っている、と思う。でも、今の彼にそんなこと言えない。ジェイドは、人に否定されることを、極度に恐れているんだ――


「――さん! ローヴィッチさん!」


頭上から、ジェイドの声がした。


「えっ、あ、ジェイド」

「ローヴィッチさん、大丈夫ですか?」

「あ、う、うん」


(あのままじゃ、本当にジェイドが殺されちゃう……?)


「本当に大丈夫ですか? 顔色、真っ青ですよ? なんかブルーベリーみたいで……あ! すみません!」

「ふふ、ブルーベリって」

「だ、だって、ローヴィッチさんがいつも人を食べ物で例えるから、僕も癖づいちゃったじゃないですか」


(もう、急に人のことをブルーベリーって言い出すなんて。肩の力が少し抜けちゃった。……でも、今のままだと、ジェイドが――)


「おい、探したぞ」


(この声は……)


「部屋にいないかと思えば、こんなところにいたとは」


声のする方へ振り返ってみると。そこには、長剣を布で拭きながら、歩み寄ってくるルビアンの姿。まだ成長途中の、小さな植物や花などを避けている動作を見ると、やっぱり真面目な人なんだなと思う。


「な、何してるんですか」

「見れば分かるだろう。武器の手入れだ」

「もしかして、人を殺したんじゃ」

「阿呆が。そんな一銭にもならないこと、するわけないだろう。預金残高を眺めている方が、まだ有意義な時間を過ごせるというものを」


(相変わらずだなぁ)


「……そこのお前。たしか、新しく入った――」

「ジェイド、アパタイトです!」


ジェイドは、背筋を伸ばし、緊張した様子でルビアンを見上げている。ルビアンと頭一個分の差はあるであろうジェイドを見ていると、彼の大きさに今一度驚かされる。


(そりゃ、第一王子の前だもんね。それに、この人って全然笑わないし。余計怖いって思っちゃうよね)


「何をしていた」

「えと、ローヴィッチさんに花の説明をしてました! 黒い薔薇の花言葉とか……」


ルビアンの眉がピクリと動く。


(ジェイドの態度、普通だと思うんだけどな。失礼ってわけじゃないと思うし)


何か気に障ったのか、ルビアンは剣を一振りすると、カチャリとそれをしまい込んだ。


「来い」

「えっ、ぁっ」


ルビアンが、私の腕を掴んだかとおもうと、抵抗する暇もなくズンズンと歩いていく。

後ろには、呆気にとられたジェイドが視界の端にうつる。

―――


自室に着いてからようやく、ルビアンは私の手を離した。


「あのっ、何か……」

「先程の男と何を話した?」

「ジェイドの言う通り、花言葉の意味を少しだけ……」

「他には?」

「何もないですよ」


矢継ぎ早に質問をするルビアン。ジェイドが、何か気の障ったことでも言ったのだろうか。でも、彼の話し方は、怒るような失礼な態度じゃなかったと思うんだけどな。

聞かれたことの意図が分からなかった私は、首を傾げてルビアンを見上げる。


「本当に分からないのか?」


コクリと小さく頷く。


「あの男、黒い薔薇をお前に渡したのだろう?」

「そうですけど……それが、どうかしたんですか?」

「はぁ、お前は世間知らずなのか? それとも、男に言い寄られたことがないのか」


(え、ジェイドよりも、この人の方がよっぽど失礼なんだけど)


彼の口は止まらない。


「世間一般的に、男が女性に花を贈るのは、特別な意味合いがある。あの男は、お前に俺という婚約者がいると、分かっているはずだ」


たしかに、この屋敷……この国では、第一王子である、ルビアンと私が婚約していることは知れ渡っている。それなのにも関わらず、一目惚れしたと花を渡すのは、よくないことかもしれない。


(まぁ、ルビアンとはもうすぐ婚約破棄になるんだけどね……)


「それに、一番問題なのは、色だ」


ジェイドに貰ったのは、一本の黒い薔薇。黒の薔薇の花言葉は、執着とか、死ぬまで一緒らしい。私は花言葉に詳しくないけど、庭師のジェイドがそういうのだから、間違いじゃないはず。その言葉を聞いた時は、ちょっとびっくりしたけど、悪い意味じゃないんだよね……?


「黒い薔薇って、駄目なんですか?」

「駄目というより、縁起がよくない。本来、花はめでたいときに使用するものだ。プレゼントなりプロポーズなり、使い道は人それぞれだが、そこに"黒"を選ぶのは普通の感性ではありえないことだ」


そこでルビアンは、やっと一息つく。


「はぁ……俺の考えすぎならいいのだが。とにかく、あの男には近づくな。俺の勘が正しければ――大変なことになるだろうな」

「なるほど……?」

「その顔、本当に分かっているのか? まったく……まぁいい。今日は、話があってきたんだ。あの件、覚えているだろう?」


頭の中を必死に整理しようとしているのに、彼はもう本題へ入るようだった。


「お前の言っていた梅干し男についてだが、厳重注意をしておいた。もうお前に、下品な言葉を言うことはない。多分な」

「多分なんですか?」

「反省している様子はなかった。多方、俺に逆らえないんだろう。その場では、了承を得たがな」

「反省しているかどうか、分かるんですか?」

「これでも一応、この国の王子だからな。人を見る目は、多少なりともあるつもりだ」


ルビアンは小さく、ふぅと息を吐く。

その瞳には、疲労が溜まっているように見えた。


「お疲れ様です。すみません、忙しいのに」

「なんだ、労わってくれるのか?」

「まぁ……原因を作ったのは、私なので」

「ふっ、そう思うなら、そこにあるうさぎのクッキー、一つ貰えるか?」


一瞬。ほんの一瞬だけ、ルビアンが微笑んだ気がした。


「ぁ……」

「なんだ?」

「い、いえ! うさぎのクッキーですよね! 色々味がありますけど、どれがいいですか?」

「それ」


短くそう呟いたかと思えば、顎でクイッと指し示す。

彼の目線の先には、白いうさぎのクッキー。お腹にハートマークが描いてある。

もっとシンプルなものもあるのに、ルビアンは迷わず選んだ。


(意外と、ロマンチストなのかな?)


「……これは、お前の手作りか?」

「えっ、そうですけど、なんで分かったんですか?」

「お前のそばには、一人も使用人がいない。普通は、主人の目が届くところに待機しているはずなんだがな。調理場まで行くのも面倒だろう。後は……」


彼がチラリと見たのは、部屋に備え付けられている小型キッチン。ルビアンの言う通り、私のそばには誰もいないし、使用人が何かしてくれることはほとんどない。加えて、私がよく料理をするということもあり、部屋に一式、道具が揃えられている。

そして、そこには……

クッキーの材料として使った、白い粉の残骸が飛び散っていた。ボウルは出しっぱなし、シンクにもお皿が溜まっている。


(普段は誰も部屋にこないから、油断した……!)


「あ……! すみません、すみません! すぐ片付けます!」

「俺が手伝おうか?」

「へ……?」


ルビアンの唐突な発言に、間抜けな声が出てしまう。


「そんなに驚くことないだろう。駄目か?」

「い、いえ。後片付けをしてもらえるのは助かりますけど、賃金は発生しませんよ?」

「ふっ、なんだよ、それ」


(え……今……)


砕けた話し方に、くしゃりとした笑顔。

いつもの威厳のある感じとは違う、親近感のある態度。

思わず、じっと、ルビアンを見てしまう。


見られていることに気づいた彼は、コホンッと咳払いをする。


「なんだ」


(あ、戻っちゃった)


「いえ……なんでもないです」


「おかしなやつだな。まぁいい。それより、まだ昼間だろう。節電のために電気を――」


ルビアンが部屋の明かりを消そうとするのを慌てて止めた。


「あっ、待ってください! そのままにしてくれませんか?」

「……お前は、暗いのが苦手だったな」

「子供扱いしないでください!」

「そうか。ほら、こちらへこい」


やわらかに微笑んだかと思えば、すぐに元に戻し、目線で、「早くしろ」と催促しながら、キッチンに立つルビアン。彼の頭上付近には、吊戸棚があり、少しでも頭を動かせば当たりそうな距離だ。


「あ、上、気をつけた方が……」


私が言い終わる前に、案の定、頭をぶつけた様子。

ゴンッと、鈍い音が辺りに響いた。


「上? ――ぃっ」

「大丈夫ですか!?」


慌てて駆け寄る私に、彼は何事も無かったかのようにスッと背筋を伸ばす。


「ふん、問題ない」


(めっちゃ痛がってたけど……変な強がりする人)


「それにしても……本当に小さいな」


ルビアンは、粉末粉をテキパキと処理しながら、キッチンを見渡した。私は袋を取り出して、ルビアンの手持ちの粉をパッパッと、中に入れていく。


(なんか、こうやって一緒にキッチンに立つと……新婚の夫婦みたい。……って、何考えてるんだろ、私! ルビアンとは婚約破棄することになったんだから。そう、婚約破棄……)


「私の身長で作られているので」

「ほう、たしかに、お前にピッタリなサイズだな。――そういえば、同年代の子より背丈が低いんじゃないか、お前」


自分の手元に集中しようとしたその時。

彼がグイッと、顔を近づけてきた。


「えっ、うわっ!」


(目線は、いつもルビアンの胸元だったから、こんなに近くにいるの、初めてかも)


「こんな、ちんちくりんじゃ、学校でも舐められているんじゃないか? いいか。貴族たるもの、市民に下に見られてはいけない。何かあれば、すぐに俺に報告を――」

「あの、私、学校には行ってません」

「……は?」


時が止まったかのように、ルビアンがピタリと動かなくなる。

数秒間のあいだ、じっとしていたルビアンだったが、なんとか喉から声を絞り出した。


「いつからだ」

「学校には行ったことがありません」


私の返答に、ルビアンは魂が抜けたかのように、壁に体を預けた。

ここルビウス帝国では、二十歳までの人間は、市民、貴族問わず学校へ通う義務がある。

私はまだ十九なため、当然、学校へ行っていると思っていたのだろう。


「たしかお前は、幼少期に家庭教師をつけていたな? あの時は騒がしかったな。だがまさか、あの後もずっと学校へ行かず、家庭教師から勉強を教わっていたとは。てっきり俺は――」

「ぁ……」


視界が、ぐわんと一回転する。


(あれ……なんで)


「おい、どうした」


グッと、ルビアンに腕を引っ張られ、彼の体に身を委ねる形になる。


「すみません……なんか、変というか」

「……分かった。とりあえず、安静にしていろ。こっちだ。歩けるか?」

「はい……すみません」


ルビアンに手を引かれ、重い足取りで、一歩ずつベッドへ歩みを進めた。時折、足元がふらついては、ルビアンが背中を抱きしめて支えてくれた。


「体調でも崩したか?」


声色が普段よりも優しい気がする。

低くて、落ち着く。


「大丈夫、です」

「大丈夫なわけないだろう。ほら、着いたぞ」


ルビアンは、枕に手を添えて、衝撃を和らげてくれた。


「少し、待っていろ。水でも――」

「王子殿下!」


彼が私のために、水を汲もうとコップを手に取るのと同じタイミングで、部屋の扉が勢いよく開いた。


「ここにいたのですね、殿下!」

「今は立て込んでいる。見て分からないのか」

「申し訳ございません! ですが、殿下のお父上からでして……」

「またか。次から次へと……ったく。すまない、すぐ戻ってくる。動くなよ」

「ん……はい、分かりました」


ベッドの上で、かろうじて返事を返す。

ルビアンは名残り惜しそうに、私の頭を軽く撫でてから踵を返した。


バタンと、扉の閉まる音が虚しく響く。


(幼少期、家庭教師、騒がしかった……)


ルビアンの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。

でも、何も思い出せない。


(幼少期……幼少期……幼少期、何があったっけ)


婚約破棄まで二十五日。


◇ ◇ ◇


「――レオナ」


(誰かに、呼ばれてる……?)


「レオナが好きなお菓子、いくつか持ってきたから、一緒に食べよう。ほら、こっち」


(腕を引っ張られてる? 強くて、優しい。誰だろう)


◇ ◇ ◇


「――おい。起きろ」

「ん……? お菓子……」

「まだ寝ぼけているのか、お前」


重いまぶたが、徐々に開かれていく。

そこにいたのは、水の入ったコップを持っているルビアンと、医者らしき人が一人、傍らに立っていた。


「あれからお前、一日中寝ていたんだぞ」

「え、そんなに、ですか?」

「よっぽど疲れていたのか? それとも何かのストレスか。どちらにしろ、安心するといい。コイツは腕利きがいい。金は少しばかり、かかるんだが」


ジロリと、医者を睨みつけるルビアン。

「は、はは、すみません、殿下」

「まぁ、腕がいいのはたしかだ。コイツによく診てもらうといい」

「ありがとうございます……えと、よろしくお願いします」


男は、ルビアンの機嫌を取るかのように、猫なで声で話しかける。


「いやーまさか、殿下の奥様の診察が出来るなんて。自分もついに、出世コースですかね。ね? 殿下」

「貴様次第だ。早くしろ」

「へ、へい」


男は三十代ほどの歳だろうか。うっすら髭が生えている。体格は普通よりで、髪も、着ている服も全て白。特に、髪の毛はふわふわとわだけのようだ。


(綿菓子みたいで美味しそう……ルビアンを洋菓子で例えるなら、この人は和菓子って感じがする)


そんなことを考えていたからか、「ぐぅぅ」と、大きくお腹が鳴ってしまった。


「あ……!」

「ふん、食欲はあるようだな」


(人前でお腹鳴っちゃった。恥ずかしい……)


私は羞恥心から、布団をグイグイと肩上まで持っていき、体を小さく丸める。


「はっはっはっ、元気な音ですね。うちの弟そっくりですよ」

「弟さんがいらっしゃるんですか?」


毛布の中にくるんだまま、チラリと二人を見上げる。


「ええ、いますよ。たしか歳は……二十歳くらいで、奥様と歳が近かったかと」

「おい、無駄話をするな。さっさとしろ」


「はっはっはっ、殿下はせっかちな方ですねー。そんなに急がなくても、病は逃げたりしませんよ。まずは、お腹を満たすことから始めましょうか。昨夜は何も食べていないのでしよう?」


医者の言葉に、私は頷く他なかった。

昨日の朝、自室で一人食事を済ませた私は、趣味で作ったうさぎのクッキーを食したあとから何も食べていない。あれは、ちょうどお昼時だっただろうか。そして、現在の時刻は昨日とほぼ同じ時間帯。昨夜どころか、一日何も食べていないため、私のお腹は空腹を訴えてしまったということだ。

窓から差し込む光が、ジリジリと私の額を照らしている。

眩しさから、瞳を軽く細めると、ルビアンが私の頬に手を当てた。ひんやりとした、骨ばった大きな手のひらに少しばかり安堵感を覚えたのは気のせいだろうか。


「熱はないな」


(どうして、優しくしてくれるんだろう)


「コイツの言う通り、胃に何か入れるべきだ。俺が作ろう」

「殿下が作るのですか!? いやはや珍しい」


驚愕の声を上げたのは、ルビアンの隣にいる医者。

大袈裟に体を動かして驚きを表現しているが、その声にはひそかな動揺を感じた。


「そうだ。それともなんだ。お前が作ってくれるのか?」

「えっ、自分が!? 殿下の奥様の私物に触れるなど出来るわけないでしょう!」


医者の男が勢いよく飛び上がり、後ろに後ずさる。猫みたいだ。

ルビアンはそんな彼に小さく息をつき、部屋に備え付けられているキッチンに立つ。まるで、男の態度に慣れっこといった様子。そして、ルビアンに対しての男のひょうひょうとした振る舞いは、城の中でも非常に稀だろう。何せ相手は、国の第一王子。ルビアンの気分次第で、いつでも処刑できる立場にある。普通なら、怯えるか目も合わせられないかのどちらかだろう。でもこの男は、驚いたりペコペコと頭を下げるようなことはあっても、ルビアンに恐怖しているようには見えない。


(さすが、ルビアンが連れてくるだけあるなぁ)


「ああ、殿下。そこ、頭ぶつかりますよ」

「分かっている」


二人のやりとりを後ろに、ほのぼのとした気持ちになる。


(昨日、当たったばっかだもんね)


「おい。何か食べたいものがあれば言え」


ベッドの上で、二人が会話しているのをのんびりと聞いていると、ルビアンに唐突に話しかけられた。


「えっ、あ、じゃあ、うさぎの形をしたパンとか」


咄嗟のことに、すぐには料理名が思いつかず、うさぎモチーフの食べ物を口にする。


「ふっ、本当に好きだな、うさぎ」

「へー! 奥様、うさぎが好きなんですね。初見です!」


相槌を打ちながら、料理をするルビアンを隣で眺めている男。


「でも、殿下にうさぎのパンなんて作れるんですか? 自分も、弟に動物の見た目をした食事を作らされたことありますけど、意外と難しいんですよ、これが」

「うさぎは慣れている、問題ない。他は知らん」

「なんで他の動物は作れないのに、うさぎだけ作れるんですか?」

「関係ないことを話すな。気が散る」


王子として忙しいだろうに、こうして私のために料理を作ってくれるルビアンを見ていると、真面目で優しい人なんだなと思う。


「そういえば、先程から思ってましたけど、お二人は名前で呼び合わないんですか? 婚約者同士ですよね?」


料理中のルビアンの後ろ姿をボーと観察していたが、医者の男の発言にピタリと手を止めた。


「えっ、どうしてそのようなことを」

「いやー気になるじゃないですか! 王国の未来の夫婦のこと!」


(そうだった。私とルビアンが婚約破棄することなんて、誰も知らないもんね)


「それでそれで、どんな感じですか? マイハニーとか?」

「名前は呼ばれない、ですね」

「え!? それじゃ、なんて呼ばれてるんですか、普段」

「おいとか、お前、ですかね」

「……熟年夫婦みたいですね」

「次、余計なこと口にしたら追い出すぞ」


私が、男の言葉に平常心を保てずにいるのに、ルビアンは少しも心を乱していない。彼は再び、手を動かし始めた。

ルビアンの後ろにいる私からは、彼が今どんな顔をしているか分からない。


(怒ってるかな、急に熟年夫婦なんて言われて。婚約破棄するほど、私のこと嫌いなのに)


さっきまでのほんわかした空気とは正反対に、誰も一言も発しなくなった。ルビアンは、ずっと無言で手を動かしている。私は、なんとか言葉を探すが、頭には何も思い浮かばない。部屋の中は静まりかえっていて、調理器具の音だけが響いている。そんな場の雰囲気を察したのか、それとも気まずくなっただけなのか。医者の男は我にかえったかのように、大声を出した。


「あー! いやー自分、これから用事あるの忘れてました。これで失礼します、殿下、奥様。また何かあったら、呼んでください」


反応するひまもなく、男は部屋を出ていった。


(私たちは、本当の夫婦じゃないんだ)


ベッドシーツをギュッと握りしめる。今更自分が何を言えるだろう。


(恋愛経験がないから、少し優しくされただけで勘違いしちゃう)


「出来たぞ」


静寂を破ったのは、ルビアンの落ち着き払った低い声。


「アイツの言うことは気にするな。元からあのような感じだからな。あの言葉も、深く考えずに口から出たものだろう」

「いえ、大丈夫です。……あの、ご飯作ってくれてありがとうございます」

「これくらいで礼を言うな」


コトリと、ルビアンがベッド横の小テーブルにお皿を置く。


「俺はもう戻る。後は一人で、出来るな?」

「はい、ありがとうございました」

「今日は診察が出来なかったな。近いうちにあの医者を連れてくるから待っていろ」

「そんな、大したことじゃないですから」

「本当に平気か?」


ルビアンの顔を見れずに、俯いたまま頷く。


「そうか。また体調悪くなったら言え」


そうして、ルビアンも部屋を後にする。

残ったのは、生暖かなうさぎ型のパン。端に野菜が添えられている。でもなぜだか食べる気がおきなかった。


(せっかく、ルビアンが作ってくれたんだから。後で。少し休んでから、後で食べよう)


私は食事に背を向けて、目を瞑る。

辺りには、ひそかに料理後の甘いパンの香りが空気中をさまよっていた。

婚約破棄まで二十四日。


◇ ◇ ◇


(あれから数日後。あの日、倒れたのはたまたまだったのか、寝たら回復したのか。体の具合は悪化していない。むしろ、体全体が軽いくらいだ。


(ルビアンの作ったご飯を食べたからな)


彼の作った、うさぎの形をしたパン。見た目も、もちろん可愛かったけど、口に含むと、甘酸っぱいベリーのソースが舌を刺激したことに驚いた。


(うさぎの形も崩れていなかったし、ルビアンって料理出来るんだ、意外かも。また作ってほしいな、作ってくれるかな)


自室でそんなことを考えていると、部屋の扉がノックされた。


(誰だろう。ルビアンかな? 料理のお礼、もう一回伝えようかな。美味しかったって)


使用人は、ほとんど私の部屋にはこない。貴族の中でも特に嫌われている私は、友達もろくにいない。だから、時間帯関係なく、私に会いにくるといえば、ルビアンくらいだ。

そう思っていたのに、扉の先にいたのはルビアンではなく、ジェイドだった。


「こんにちは、ローヴィッチさん!」

「ジェイド、どうしたの?」


ジェイドが手にしているのは、この前彼から貰った黒い薔薇だった。あの時は一輪だったけど、今日は数が増えていた。


(四、五、六……七。七本の黒色の薔薇か。これも何か意味があるのかな)


「最近、ローヴィッチさんの元気がないなぁって思って、お花持ってきました! 僕の気持ちも込めて、お花の色は、黒い薔薇にしたんです!」

「ふふ、ありがとう。でも、私の部屋に花瓶がなくて」

「え! そうなんですか。じゃあ、後で一緒に、街に行きましょう! ちょうど、新しい種とか、お花とかを買おうと思ってたんです」

「そうね、たまには街に出掛けるのもいいかも。でも、ごめんね、ジェイド。実は、お昼ご飯がまだなの」

「大丈夫ですよ! 僕もお昼、まだなんです。よかったら一緒にどうですか?」


ジェイドの申し出はとっても嬉しいことだった。

いつも一人でご飯を食べていたから、誰かと食事をすること自体、あまりない。

私は喜んで、彼の提案を受け入れることにした。


「うん、もちろん!」

「よかった! じゃあ、僕が作りますね!」


ルンルンと、キッチンに立つジェイド。

調理道具をせっせと並べている彼を横目に、このまま突っ立てるわけにもいかないと思った私は、「私も、手伝うよ」と言ってみたものの、「ローヴィッチさんは、座って待っていてください!」と言われてしまった。

手には、先程彼が持っていた黒い薔薇がある。

机の上に散乱させておくわけにもいかなかったため、私が手に持つことになった。


(それにしても、綺麗だな。黒い薔薇ってあまり見かけないかも)


七本の薔薇を、代わる代わる賞翫していた私は、とあることに気づいた。


(黒い薔薇って、どれも真っ黒なのだと思っていたけど、そうじゃないのかな?)


ジェイドが持ってきてくれた黒い薔薇をよく見ると、黒に近い赤だったり深い紫だったりと、他の色も混ざっていた。


(ジェイドに聞いたら、教えてくれるかな?)


気になった私は、料理中のジェイドの手元をチラリと覗き見る。

彼は、おたまを勢いよくグルグルと回し、食材をポンポン鍋に入れている。鍋の中はドロドロしていて、泡がぷくっぷくっと弾けていた。


(大丈夫かな……うーん、今はやめておいた方がよさそう)


今のジェイドに話しかける勇気はなかったので、私は大人しく椅子に座って、彼の料理を待つことにした。


(ちょっと食べたくない、かも……なんて、思っちゃダメだよね。人が頑張って作ったものだし、ちゃんと食べなきゃ)


そう意気込んだ私だが、すぐにその考えを後悔することになった。


◇ ◇ ◇


「ローヴィッチさん! 出来ました!」

「う、うん。ありがとう」


ジェイドが満面の笑みで差し出してきたのは、紫色の何か。

鍋いっぱいに入っているその何かは、今にも溢れかえりそうだ。なにかの動物の骨が浮かんでは沈んでいる。


「ジェイド……これ、なにかな」

「カエルの骨です! 庭の葉っぱの上に乗ってたのを捕まえました! こっちは蛇のお肉で、こっちは……」


楽しそうに具材の説明をしている彼の言動を止めるのは心苦しかったが、さすがにこれを食べるのは私の体に影響が出る。


「ごめんね、ジェイド。ご飯を作ってくれてすごく嬉しいんだけど、カエルのお肉は食べたことなくて」


やんわりと断ろうとするが、ジェイドには全く効いていない。

むしろ、更にグイッと鍋を近づけてくる。


「大丈夫ですよ! カエルの唐揚げを作ったことがあるんですけど、とっても美味しかったんです! だから、ローヴィッチさんもきっと気に入りますよ!」

―――

「おい、何か食べたいものがあれば言え」


(ルビアンなら、私の意見を聞いてくれるのに)


無意識に頭の中で、ルビアンの声が響いたことに自分自身でも驚いた。


(あれ、私……なんでルビアンのことを考えたんだろう)


彼は今、ここにいないのに。


「ローヴィッチさん? どうしたんですか? 僕、一生懸命作ったんですよ! 食べてくれないんですか?」


ジェイドは悲しそうに眉を下げる。彼が楽しそうに料理をしているのを間近で見ていたし、彼の気持ちに嘘はないって分かってる。それでも、どうしてもルビアンと比べてしまう自分がいた。でもそんなの、ジェイドに失礼だよね。


(……一口だけなら)


喉をゴクリと鳴らして気合いを入れ、カトラリーを手に持つ。

銀色に光る匙に、自分の顔が反射した。まだ食べてもいないのに、鍋ではなく、私の顔色が紫になりそうだった。


(本当に食べなきゃダメかなぁ)


真正面にいるジェイドは、相変わらずニコニコと嬉しそうに微笑んでいる。

私は覚悟を決めて、ゆっくりと鍋から一口掬ってから口元に持っていく。


(う……や、やっぱりダメ)


口を開くまでもなかった。鼻に、紫色の物体が近づくにつれ、強烈な匂いが鼻にツーンとくる。それは、今までの人生で、嗅いだことのない未知な香り。


「ごめんね、私には合わないかも」


罪悪感が心を蝕むが、どうしてもジェイドが作った食べ物を口にすることが出来なかった。


(はぁ、ルビアンが作ってくれたうさぎのパン、可愛くて美味しかったな。……って、ダメダメ! 人と比べるなんて最低なことなんだから)


再び頭に浮かんできたものを、私は首を振って揉み消した。


「そうですか、残念です。ローヴィッチさんなら、食べてくれると思っていたのに。これは、僕が処分しちゃいますね。――さて、気分を変えて、街に行きませんか? ご飯も、外で食べましょう!」


(よかった、無理やり食べさせられなくて。さすがにジェイドも、そこまでしないよね)


私はホッと胸を撫で下ろす。そしてジェイドと一緒に、街へ出掛けることにした。彼から貰った七輪の花は、部屋に放置するわけにも行かず、私が抱えて歩くことになった。


私とジェイドが歩いているのは、色々な商店が並んでいる繁華街。床には、グレーのインターロッキングブロックがズラリと並んでいる。

商店街はとても賑わっていた。小さな女の子が、両親にりんご飴をねだっていたり、男の子はキツネの仮面を被ったり。まるで小さなお祭り会場のようだ。


「ローヴィッチさん。お腹、空きませんか? お店でご飯にするのもいいですけど、せっかくなら食べ歩きとかどうですか?」

「うん、たしかにお腹空いてきたかな。さっきからすごくいい匂いがするね」


商店街ということもあって、周りにはご飯のお店がいっぱい。

どれも食べ歩き専門の食べ物なのか、片手で口にすることが出来るサイズばかり。

貴族の人達がこの光景を見たら、泡を吹いて倒れそう。

大体の貴族には、専属の使用人が付いている。食事の時は、彼らが出した料理を食べればいいだけ。だから、屋敷から出ない貴族だと、買い物の仕方すら分からないなんてこともあるみたい。私は、毎日一人でご飯を食べていることもあって、食べ歩きには慣れている。人目がないと、ついだらけちゃうんだよね。ご飯を食べながら掃除しちゃったりとか。そういう面では、私は市民の人達と変わらないのかも。


「じゃあ、僕が適当に買ってきちゃいますねー! ローヴィッチさんは、ここで待っていてください!」

「えっ、ちょっと、ジェイド!」


私が呼び止めるひまもなく、ジェイドは走り去ってしまった。


(どうしよう。また、カエルのお肉とかだったら。でも、ここは商店街だし。カエルのお肉は売ってないよね、多分)


さっきあんなことがおきたばかりだから、不安で仕方がない。

カエルのお肉とか、蛇のお肉とか……考えただけでも、ゾッとする。どれも普段、私が口にしないものばかり。いや、私に限らず、大抵の人は食べないだろう。そうであってほしい。

ジェイドの帰りを待つ間、私の脳内では次々に食べ物が浮かんでは消えた。


「そこの、あんた」


ふいに、見知らぬおばあさんに声をかけられた。

歳は初老くらいだろうか。紫色の布で頭を覆い隠している。いかにも怪しい風貌だ。


「は、はい」

「その花、不吉だよ。早く捨てな」

「えっ」


そのおばあさんが指さしたのは、私が手に持っている七本の黒い薔薇だ。


「あの、不吉って……」

「七本の黒い薔薇の花言葉はね、執着だよ」


(やっぱり、意味があったんだ。たしか、一本は一目惚れだったよね。でも、執着って、不吉って言うほどのものなのかな?)


「いいかい、嬢ちゃん。その色の花を贈るのは、普通じゃない。ちゃんとした感性の人なら、まず選ばない色だよ」


(ぁ、ルビアンも同じこと言ってた)



「あれ、ローヴィッチさん? 大丈夫ですか?」


後ろからの声に振り返ると、ジェイドが小走りで走り寄ってきた。手には、串焼きが二つ。


「ジェイド、このおばあさんが――」


慌てて状況を説明しようとおばあさんの方を向こうとする。だが、そこには誰もいなかった。


ジェイドになんて説明しよう。急に知らないおばあさんが現れたなんて言っても、混乱させちゃうだけだよね。


「ううん、大丈夫。ご飯、買ってくれてありがとう」

「いえ、こちらこそ遅くなってすみません。お昼時だったので、思ったよりも並んじゃって」


(お願い、普通のお肉であってほしい)


「ちなみになんだけど、このお肉って……」

「牛肉ですよ! 蛇とかの方が僕は好きなんですけど、売ってなくて」


(よかった。ちゃんとしたご飯食べられそう)


「はい、どうぞ」

「ありがとう」


私たちは、串焼きを片手に街を散策することにした。

でも、周りの人の視線は変わらない。むしろ、さっきより酷くなってきてさえいる。

四方八方から、「おい、あれって、ビッチだよな? 殿下の妻のさ」「あーあの、ローヴィッチね」「隣のやつは? もしかして、不倫とか?」などの声が、無限に飛んでくる。


(こういうことがおきるから、あまり街には出ないんだよね。久しぶりに街の空気を吸うのもいいと思ったんだけどな)


「あの、ローヴィッチさん。もう、帰りましょうか?」


気遣ってくれているのか、ジェイドは心配そうに眉をひそめた。


「うん、ごめんね。お花とか見に行く予定だったのに。花瓶も買えなかったし」

「いいんですよ。ローヴィッチさんと、こうして二人で出掛けられるだけで嬉しいですから」


やっぱりジェイドは優しい。

不吉だとか、そんなの考えすぎだよね。

婚約破棄まで二十日。


◇ ◇ ◇


あの後、ジェイドと別れてから五日。

私は、休まらない日々を送っている。学校には行っていないから、屋敷でのんびり過ごしているんだけど……

後ろから、誰かの気配がした。

振り返ってみるが、誰かがいるわけもなくて。


(はぁ、まただ)


この五日間、毎日こう。

誰かに監視されている気がする。監視はちょっと言い過ぎかもしれないけど、誰かに見られているのはたしか。また、使用人達が私の悪口を陰で言い合っているのかも。

最初はそう思ったけど、使用人のそれとは違う何かを感じる。なんか、プロの視線というか……


(はっ、もしかして私……嫌われすぎて、とうとう暗殺される!?)


こんなこと思いたくないけど、貴族というのは結構大変なもので、毎日贅沢三昧の生活を送っているわけではない。わがままを言い過ぎれば、貴族の中でブラックリスト入りをはたし、処刑されてしまうのだ。

私は何もしていない。していないんだけど、貴族の中でいい評判ではない悪役令嬢だから、いつ殺されてもおかしくない立場にいる。使用人の誰かが暗殺者を雇って、私を殺す手筈を立てている……なんてことになっているかもしれない。

特に私は、言われのない汚名をきせられた時から、使用人や貴族の人達から裏で何か言われることには慣れているから、こういうことには敏感だと、自分でも分かっている。


(私、とうとう殺されちゃう。ルビアンにも嫌われているみたいだし、悪役令嬢として処刑されちゃうんだ)


どうしよう、どうしよう。


朝食を終えたばかりの私は、お庭を散策しようと廊下を歩いていた。だけど、身の危険を感じたため、すぐさま部屋に戻ることにした。

今日は、ビュッフェ形式のご馳走だったから、ついご飯に釣られて貴族たちと同じ場所で食事をしてしまった。

もしかして、どこかで彼らの反感を買ってしまったとか……


(いつもより早く切り上げたんだけどなぁ)


◇ ◇ ◇


(ふふふ、今日はここにあるもの全部、胃にしまって帰るとしよう)


一流の高級ローストビーフに、ワインで作られた魚の煮付け。チョコチップ入りのスコーンに色とりどりのジャム。どれも普段、私が口にしないものばかりだ。

これ以上周りに嫌われないようにするため、贅沢はなるべく控えている。

私は、学校に通っていなければ仕事もしていない。だからお金は国から支給してもらっている。当然、食費もそこからくるわけで、使いすぎれば貴族どころか市民からも顰蹙を買ってしまう恐れがある。だから、毎日節約の毎日ってわけ。節約といえば、あの第一王子を思い浮かべてしまう。……が、今は、そんなこと考えている場合ではない。

ああ、お皿に乗っている食材がキラキラ光っている。まるで宝石のようだ。これ全部私のものだよ。なんという贅沢、なんという至高。


(それじゃあ、さっそく……)


私は、目前にあるスコーンを一口、口に運ぶ。


(焼きたてだ、美味しい。毎日食べたい。誰か作ってくれないかな)


そんなことを考えながら、次々と高級食材を咀嚼する。


(美味しい。美味しいしか言えない。だって美味しいんだもん。

はぁ、幸せ。来てよかった)


そう思っていたのに。

―――

「あそこにいるのは……この中でも一、二を争うお金持ちの貴族様! 絶対、結婚してやるわ!」

「あの女。ふん、大したことない資産の家系か。結婚するに値しない」

「このパーティーで、必ずお金持ちと婚約するんだから! これで私も億万長者よ!」


またか。せっかく食事を楽しんでいたのに。

こういうパーティー会場にくると、人の恋の終わりまでのことが全て頭の中に流れ込んでくる。その人と結婚する理由、その後のこと。私が視えるのは"恋の終わり"だから、ほとんどがハッピーエンドじゃない。私の固有魔法は、その名の通り、恋の終わりを視る魔法。だから、その人達の恋が終わるまでのことを淡々と知っていくだけ。

そんなことの繰り返しだから、いつの間にか恋とは無縁の生活を毎日過ごしている。

人の恋の終わりは視えるけど、自分のは視えない。だから、察してしまう。ああ、これが私の"恋の終わり"なんだろうなって。


(よし、気を取り直して……)


私は再び、食事に手をつけようとする。でも――


「億万長者になってやるんだから! 億万長者、お金、お金……」

「貧相な家柄の女とは結婚しない。この世は、金こそが全てだ!」


彼らの考えが、嫌でも頭の中に入ってくる。

お金、お金って、そればっか。もう、うんざり。


(はぁ、帰ろう)


というわけで……

いつもなら、もっとご飯を食べるのに。あそこにあるもの全部、胃の中にしまい込むって決めたのに!

スイーツも全く食べらなかった。私の唯一の楽しみが……


私はお腹をさすりながら、重いドレスを引きずって廊下を歩く。

はぁ、お腹空いてきた。パーティ会場では全然食べられなかったから、時間差で空腹が……

どうしようかな。自分でご飯作るとして、何にしよう。

朝食をあまりとれなかった私は庭に行く予定を変更して、自室で料理を作ろうと部屋に戻ろうとする。

まただ。後ろから、ゾワゾワと悪寒が走る。誰かに見られてる。そう瞬時に判断した私は、思い切って振り返ってみた。

そこにいたのは、意外な人物だった。

紫色の布を頭に纏っているおばあさん。この前、ジェイドと街へ行った時に話しかけられた人だ。


(どうしてあの時の人がこんなところに)


今いる場所は私の屋敷。ここには、最低限の使用人達と庭師のジェイド。そして、婚約者のルビアンしか入れないはず。なのになんで。


(やだ、怖い)


私は慌てて部屋に駆け込んで、内側から鍵をかける。


(なんで、なんでおばあさんが……もしかして、使用人の誰かが雇った暗殺者!? え、私ってそんなに恨まれてる? はぁ、これからどうしよう)


私は、今日何度目かのため息をつく。

ルビアンに相談しようかな。だけど、最近話してないし姿も見ない。私って、そんなに嫌われてる? まぁ、婚約破棄しようとするくらいだから、当然だよね。

こういう時、同性の友達がいたら……

今、私が頼れる人と言えば、ルビアンかジェイドくらいだ。

誰にも頼らずに自分でなんとかしたいけど、さすがに暗殺者相手に勝てる自信はない。ネックレスの中に溜めている魔力……電気ショックを与えてみるとか。いやでも、それで返り討ちにあったら元もこうもないよね。


(……もう行ったかな?)


私はそっと鍵を外して扉を少しだけ開けた。

辺りはシーンと静まりかえっており、先程のおばあさんの姿はない。


(はぁぁ、よかった)


身の危険を感じた私は、ジェイドに助けを求めようと廊下を走った。だけど、突き当たりで誰かとぶつかってしまった。


「何をしている」


慣れ親しんだ声が耳に届く。その声が誰なのか、すぐに分かった。


(ぁ、ルビアン)


なんて言おう。暗殺者に狙われているから、助けてとか?

ルビアンがそんなこと信じるかな。

「何を馬鹿なことを言っている」ってなるだけな気がする。


「いえ、その、お庭に行こうかな、なんて」

「なんのためだ。まさか、庭師の男に会いに行くんじゃないだろうな」


ドキッと心臓が動くのを感じた。


「この間、その男と街へ行っただろう」

「えっ、どうしてそれを」


ジェイドと街へ出掛けた時、ルビアンの姿はなかった。それなのに、なんで知ってるんだろう。


「あの男には、近づくなと言ったはずだが」

「分かってま――」

「分かっていない。お前は自分で自覚していないのか」


自覚って、私が世間知らずのことだよね。何度も言われてるから、もう知ってるのに。


「危機感だ。お前にはそれが足りない」

「ちゃんと分かってますよ!」


危機感とか、言われなくても分かってるし。それに、暗殺者の存在を知っているから、ジェイドに助けてもらおうとしたのに。


「分かっていないだろう。あの男の元へ行くのは駄目だ」

「じゃあ、貴方が私を助けてくれるんですか」

「助けるとは? 何をだ」

「暗殺者に狙われているので、助けてほしいんですけど」

「何を馬鹿なことを言っている」


頑張って勇気を出したのに。やっぱり助けてくれないじゃん。いいよ、別に。私にはジェイドがいるし。


「そうですよ、私は馬鹿ですよ。だから、もういいです」

「おい、どこへ行く。まだ話は終わっていない」

「貴方と話すことなんて何もないです!」


(ルビアンの馬鹿。婚約者を助けないなんて、薄情者。……分かってたことじゃん。あの人が私を助けてくれることなんてない)


ルビアンとの話を切り上げた私は、ジェイドに会いに行こうと、庭を訪れた。


「あ! ローヴィッチさん!」

「ジェイド……」

「どうしたんですか? 僕でよければ、相談に乗りますよ」


まだ何も言っていないのに、ジェイドは私の顔色を見て、すぐにいつもと違うと気づいたらしい。


「あのね、屋敷に知らない人がいて……」

「えっ、不法侵入ですか!?」

「分からないけど、普段は客人とかこないからびっくりしちゃった。もしかしたら、暗殺者かなって」

「えぇっ!? それ、大丈夫なんですか? 殿下はなんて……?」

「信じてくれなかったの」

「それは酷いですね。よければ、僕の家にきませんか?」


そうして、ジェイドはゆっくりと手を差し伸べてくれる。

ジェイド以外に頼る人がいなかった私は、そのまま彼に甘えることに。背後から、木の葉のかすれる小さな音がした。


「少し狭いんですけど、くつろいでいただけると嬉しいです」


ジェイドに案内されたのは、屋敷からそう遠くないところに佇んでいる一軒の小屋だった。周りは大きな森林に囲まれていて、動物の囀る声が耳に心地いい。疲れた心を癒してくれるような、とっても静かな場所だ。

小屋の中は思ったよりも広くて、木々の香りが鼻腔をくすぐる。最初に目に入ったのは、丸い形をした古びた土色の机の上に飾られている七本の黒い薔薇。すぐ隣には、初めてジェイドに貰った一輪の花もあった。


「綺麗……」

「そうでしょう? ローヴィッチさんのために育てていたんです、ずっと」


彼は嬉しそうに笑った。丹精込めて育てた花を褒められるのが嬉しいのだろう。本当に花が好きなんだなと改めて実感する。


「ここは、隠れ家みたいなものなんです。ローヴィッチさん以外には教えていないんですよ。二人だけの秘密ですね」

「こんなにいいところなのに」

「だからですよ。他の人には、言いたくないんです。僕のお気に入りのところなので。好きなだけいていいですからね」

「ふふ、ありがとう」


彼にすすめられて、二人がけのソファーに腰掛ける。見た目の予想からは異なり、意外にも柔らかい素材だ。


「――ローヴィッチさん、僕のこと覚えてますか?」

「えっ」


突然のことに、驚きの声が口から溢れ出る。

ジェイドは、私の手を両手で包み込んで目線を合わせた。


「昔、一緒に遊んでたじゃないですか。もしかして……忘れちゃいました?」


小さい頃の記憶。何故だかほとんど思い出せない。でも、たまに夢に見る。誰かに名前を呼ばれている、ただそれだけ。相手の顔も分からない。手を引かれて、お花畑を走って。一緒にご飯を食べる。ありふれた日常の一欠片を切り取ったような夢。


「ごめんね、ジェイド。私、小さい時にジェイドと遊んでたの?」

「そうですよ、ローヴィッチさん。ほら、これ。ローヴィッチさんの好きなお花でしょう?」


ジェイドは花瓶の中から一輪の黒い薔薇を抜き取り、そっと差し出してくれる。


(たしかに、私の好きな花だったかも……? じゃあ、夢で見た花畑は、なんだったんだろう)


「僕たち、ずっと二人で一緒にいたじゃないですか。お花見たり、勉強したり……」


勉強……私、ジェイドと勉強してたっけ? たしかルビアンは、家庭教師がいたとか、なんとか言ってたような……

あれ、なんだっけ。


「ねぇ、ローヴィッチさん。こっちを見て」


私が視線を上げると、花を手にしながら微笑んでいるジェイドの姿があった。

黒い薔薇、ジェイド。黒い薔薇、ジェイド。

交互に二つを見ていた私は、気づいたら意識を失っていた。


「ふふ、ローヴィッチさん。可愛い、可愛い……僕のローヴィッチさん。ずっと、一緒にいましょうね」



(……ん、私、寝てた?)


目を覚ました時には、辺りはオレンジ色に染まっていた。

さっきまでソファーにいたはずなのに。

私を包んでいる白いシーツ。かすかに、花の蜜のような甘い香りがした。


(ジェイドがベッドまで運んでくれたのかな)


ジェイドにお礼を伝えようと、ベッドから起き上がる。


「ジェイド?」


彼の名前を呼んでみるけど、返事はない。


(どこかに出かけたとかかな)


一旦屋敷に戻ろうかな。暗殺者の人、諦めてくれてたらいいんだけど。


私は、扉を開けて外に出ようとする。だけど――


「うわぁ!?」


(暗殺者の人……!)


私の前にいたのは、ローブを頭上まで被ってる"あの"おばあさんだった。


(私が一人になるのを狙ってたってこと!?)


だとしたら、大変なことになった。今ここにいるのは、私しかいない。


(私、ここで殺されちゃう!?)


「あ、あの、こんばんは。見逃してもらえたりなんて……」


なんとか喉から声を絞り出す。だが、おばあさんはズカズカと家の中へ入り込んで、黒い薔薇の花束を片手で鷲掴みにする。


「えっ!? な、なにしてるんですか!」

「この花、回収させてもらうよ」

「え、ちょっ――」


私が言い終わる前に、おばあさんはいなくなってしまった。

あまりにも唐突な出来事に、その場に立ち尽くすことしか出来ない。


(私、まだ生きてるけど。殺さなくていいのかな?)


再び、ガチャリと音がした。


(やっぱり、私を殺すために戻ってきたんだ!)


そう思って身構えていると。


「あ! ローヴィッチさん、起きてたんですね」

「ジェイド……」


街へ行っていたのだろう。彼の手には、両手いっぱいの食材があった。


「まだ寝ててもよかったのに」


(どうしよう、あの暗殺者の人のこと、なんて言おう)


どう声をかけたらいいのか分からなくて、言葉を探す。

ジェイドは、食材を机の上に置く。そして隣にある、空になった花瓶を見て、顔色を変えた。


「……一つもない」

「ぁ、えと、ジェイド」

「ローヴィッチさんが、捨てたんですか?」

「えっ、違うよ! あのね……!」

「じゃあ、なんですか。教えてください」


ジェイドは問い詰めるように、一歩、また一歩と近づいてくる。


(ジェイドのこんな顔、初めて見た)


「落ち着いて、あの、聞いてほしいの」

「何をですか、早く言ってください。僕が花を大切にしているの、知ってますよね? なんで捨てたんですか?」

「わ、私じゃなくて……」

「言い訳は聞きたくありません。ローヴィッチさんのために、買い物してきたのに。罰として、今日は夕飯抜きです」


そこから、ジェイドは一言も話さなくなってしまった。


彼は黙々と一人分の食事を作る。その間も、私のことは一回も見ない。


(ジェイドのこと、怒らせちゃった)


いつも穏やかで優しいジェイド。彼が花を大切にしているのは分かっていた。でも、あの場で私に何が出来たんだろう。怖くても取り返せばよかったかな。

ぐぅぅと、無様にお腹の鳴る音がする。


「ローヴィッチさんが悪いんですからね。あの花、育てるの難しいんですから。ローヴィッチさんが喜ぶと思って、頑張ったのに」


何も言えなかった。

謝ったら、もっとジェイドを怒らせてしまう気がしたから。


「僕は本当に悲しかったんですよ? 分かってますか?」

「う、うん。でもこれには訳が――」

「また言い訳するんですか?」


ジェイドに低い声で制された私は、それ以上何も言えなかった。


このタイミングで暗殺者のこと、伝えるべきじゃないよね。でも、あのおばあさん、私を殺しにきたわけじゃなさそう……? 花だけ持っていって、後は何もされなかったし。無害なのかな? 今のところは。いや、油断した時に刺されるかもしれない! 背後から音もなくブスッと、みたいな。

こういうのを授業で教えてくれたら、学校へ行くやる気も少しは出たかもしれないのに。「貴族専用授業プログラム。暗殺者に遭遇した場合の対処法三選!」とか。「他の貴族に毒を盛られた時の処置の仕方!」とか。

そういうマニュアルがないと、こっちもどうしたらいいか分かんないよ。ルビアンは信じてくれなかったし。真面目な人だと思ってたのに。いや、真面目なだけでいい人ではないからな、あの人。私、何もしてないのに、婚約破棄してくるし。まさか、ルビアンも他の貴族と同じで、私の家柄を見てるとか? お金があまりないと思われたから、婚約破棄されたのかも。ルビアン、お金大好きだからなぁ。この前も、大量の札束を数えてたし……って、またルビアンのこと考えちゃってるよ。こんな時に、助けてくれない男を思い出すなんて。

でもさ、ちょっとは聞く耳持ってくれてもいいじゃん。こっちは本気で困ってるのに。


(お腹空いたなぁ。ジェイド、まだ怒ってるかな?)


「ローヴィッチさん、そろそろご飯食べたくなりましたか?」


そんなことを考えていたら、突如ジェイドに話しかけられた。いつのまにか食事を終わらせたのか、机の上には空になった花瓶だけ。


「僕はローヴィッチさんを死なせたいんじゃないんですよ。ただ、あの花は本当に大切なものだったんです」

「ごめんなさい。黒い薔薇って、育てるの難しいんだよね。それなのに――」

「どうして、ローヴィッチさんがそんなこと知ってるんですか? 花に詳しい印象はなかったんですけど」

「え、これは、その……知人に聞いたというか」


知らないおばあさんに声をかけられたなんて言えないよ。そのおばあさんが暗殺者かもしれないなんて。


「へぇ、そうですか。まぁ、いいです。今大事なのは、そんなことじゃないんで。ローヴィッチさんが、本当に反省してるなら、ご飯わけてあげてもいいですよ?」

「えっ、本当?」

「はい、いいですよ。ただし、これだけですからね」


そうしてジェイドが袋から取り出したのは、手のひらサイズあるかどうかの小さな一つのパンだった。


「このパンが今日の夜ご飯?」

「そうですよ。はい、どうぞ」

「あ、うん」

「ありがとうは?」

「ありがとう……」

「はい、よく出来ました」


ジェイドから受け取ったパンを口に含む。なんの味もしない、ただのパン。生地もふわふわとはいえず、なんともいえない味。でも、人から貰ったものにケチつけちゃ駄目だよね。このパンしかないなら、食べるしかない。

私は、一口、二口とパンを口の中で咀嚼する。

みるみるうちに、手の中にあったパンは私の胃袋の中に収まってしまった。


「ごちそうさまでした」

「残さず全部食べれたんですね、偉いですよ」


私が食べ終わるまで近くの椅子に座っていたジェイドは満足そうな笑みを浮かべた。

ジェイドとは反対に、私は笑顔になれなかった。

再び、お腹からゴロゴロと音がする。


(また人前でお腹が鳴っちゃった……!)


ルビアンたちの前といい、ジェイドといい。私って、人様の前で恥をかきすぎ! いくら世間知らずといっても、私だって女の子なんだから、羞恥心というものがあるし、こんなのやだよ! ジェイドに気づかれてないかな?

そう思っていたけど、私の願いも虚しく、彼の耳にしっかりと届いたようだった。


「やっぱり、さっきのじゃ足りなかったですか?」

「うん、実は朝もあまり食べれてなくて。もうちょっとだけ、ダメかな?」

「いいわけないでしょう、罰なんだから。その調子だと、反省してないですね」

「そんなことないよ! 私、ちゃんと――」


言い終わる前に、ジェイドは私の正面に座り込んだ。

嫌でも彼と目線があって、逃げ場がない。


「じゃあ、ローヴィッチさんが僕とのことを思い出してくれたら、いいですよ」

「ジェイドとのこと?」

「そうですよ。僕たち、昔一緒に遊んでたでしょう?」


いつのこと、だっけ。昔と言われても、ジェイドとの記憶、ぼんやりとしか分かってないんだよね。

名前を呼ばれて、お菓子食べて、それから……



なんとか過去のことを頭の中に思い浮かべようとするけれど、何故か何も出てこない。「あれがないと駄目か。もう少しで、いけそうだと思ってたけど、手強いな。たしかここに予備用のが……」私が必死に頭を捻っていると、ジェイドがなにやらぶつくさと何かを呟いていた。


「……あった。これで……」

「ジェイド、どうしたの?」

「ふふふ、ローヴィッチさん。ここ、見てください」


ジェイドの手元を見ると、昼間おばあさんが持って行った、黒い薔薇があった。


「僕たち仲良しだったの、忘れちゃったんですか? ほら、あの時とか。かくれんぼして、遊んだじゃないですか。みーつけたって!」


かくれんぼ……うーん、そんなのあったかな。あったような、ないような。

ジェイドの手にある黒い薔薇が風で揺れるたびに、私の視界もグワンとして霞んでいく。

ジェイド……かくれんぼ。ジェイドと……


「もう少し、ですかね。これでやっと、僕だけのものになる。誰にも渡さない。僕は貴女のものですから、貴女も僕のものになってください」

婚約破棄まで十五日。

あれから、ジェイドの家に住み始めて三日が経過した。

私は何度か屋敷に帰りたいと言ってみたけど、「暗殺者がいるんですよね? 今戻るのは危険ですよ」と、止められてしまった。どうして、屋敷に暗殺者がいるかもしれないのに帰りたいのかというと……

ジェイドの言うことを聞かないと、「罰」として食事抜きにされてしまうから。最初は冗談かなって思ってたんだけど、どうやら本気のようで。何も食べていない状態が続いている。最低限の水分補給だけさせてもらっているけど、食べ物はパン一欠片すら口にしていない。

ジェイドは私のことを死なせたいわけじゃないと言っていたけど……

先程から、お腹の音が鳴り止まない。


ルビアンが作ってくれたパン、美味しかったなぁ。うさぎの形で可愛かった。また、食べたいよ。

―――

「レオナ、出ておいで。もう大丈夫」

「お腹、空いてないか?」


回らない頭の中に出てくるのは、何故か知らない男の子のことばかり。私、とうとう変になっちゃったのかも。


どこからかガタンと、音がした。


「最悪だ。あの第一王子」


苛立っているジェイドの声がする。

どうしたのかな。また、私が何かしちゃったのかな。


「ただいま、ローヴィッチさん。いい子にしてましたか?」

「ジェイド……おかえり――えっ、」


私は幻覚でも見ちゃったのかな。ずっと、何も食べてないからかも。

私が幻覚だと思った正体は、ジェイドの左頬の赤み。そこは、誰かに殴られたかのように腫れ上がっていた。


「なんですか、そんなに見て。ご飯ならあげませんからね。僕の許しなく、出て行こうとしたんですから」


そう、ジェイドがこんなにも怒っている理由。それは、私が彼に何も言わず、屋敷に戻ろうとしたから。

私はご飯を食べることが生き甲斐だった。美味しいものを食べている時だけは何も考えずにすむから。特に、うさぎの見た目をしている食べ物には弱い。あの可愛らしい外見に、何故だか惹かれちゃうんだよね。そんな私が今、水しか口にしていないのだから、屋敷へ帰りたいと思ってしまうのも仕方ないことなのかもしれない。それに、最初は少しだけ匿ってもらうだけのつもりだった。貴族の私が家を無断で空けるなんて、あってはならないことだから。でも、私がいなくなったところで、みんな心配してくれるかな。悪役令嬢の私が消えて、清々してるかも。

ルビアンも今頃、私のことを忘れているかもしれない。こんなことになるなら、ルビアンの言うことを聞いておけばよかった。ジェイドは悪い人じゃないって思っていたのに。


「ほんっと、今日は厄日だ。あの野郎、第一王子だからって調子に乗りやがって」


いつもより、ジェイドの機嫌がよくなさそう。

頬の傷と何か関係あるのかな?


「あ、あの。ジェイド、大丈夫?」

「僕のこと、心配してくれてるんですか? それとも、僕に優しくすればご飯を貰えると思っているとか?」

「そんなこと思ってないよ」


何かを話す度、口の中の水分がなくなっていく感覚がする。

古代の人達は、四十六時間断食をしたりしていたらしいけど、私には無理そう。なんか熱いし、体も重い。


「大体、ローヴィッチさんが逃げ出さなければ、こんなことにはならなかったんですよ。今日はもう僕に話しかけないでくださいね。もちろん、食事も禁止ですから」


ジェイドは扉を乱暴に閉めて、自室の中へと姿を消した。

私は、リビング近くにある小さなソファーに横たわっている。ここが私の寝床だからだ。元々、ジェイドが住んでいるところは、一人暮らし用の家らしく、寝室も一つのみ。だから私は、ソファーで寝ることになった。今までずっとベッドで寝ていたからか、ソファーって慣れないな。体のだるさ加減とか、いつもと違うのは、寝る場所が変わったからなのも関係あるのかな。

勝手に冷蔵庫の中を漁ったら、もっとジェイドの機嫌をそこねちゃうよね。

色々思考をめぐらせてみるけど、すぐご飯のこと考えてしまう。

もう寝ようかな。目を瞑れば、空腹も少しは紛れるかもしれない。


(何にも考えない……何にも考えない……)


私は、体を丸めて瞼を閉じる。でも、必死に寝ようとするほど、目が覚めてしまい、寝付けなかった。


どうしよう……少しだけならバレないかな。

そんな考えが脳裏によぎる。今日はただでさえ、ジェイドが苛立っていた。それなのに今、食事をするのはよくないんじゃないか。そんなことも頭に浮かんだけど、どうしても空腹に抗えなかった。


「少しだけ……」


ジェイドは部屋で寝ているだろうし、大丈夫だよね。

私は体をなんとか起こし、足音を立てないように注意してキッチンに立つ。

暗いとよく見えない。それに……

明るいところじゃないと、なんか嫌というか。理由はわからないんだけど、なんだか落ち着かない。

心がキュウッと縮まって、冷や汗も止まらない。


(熱い……)


朝から……いや、昨日からだっけ。

外の空気を吸えてないからか、体がおかしい。本調子じゃない気がする。


(ここに、何かないかな)


ガサゴソと袋の擦れる音が、静かなキッチンに響く。


(早くしないと、ジェイドが起きちゃうかも。早く……)


「何してるんですか、ローヴィッチさん」


背後から地を這うような低い声がする。

振り返らなくても、誰だか分かる。一人しかいない。


「ジェイド……」

「何してるのか聞いてるんですけど。まさかとは思いますけど……ご飯、探してたわけじゃないですよね。ね? ローヴィッチさん」

「ぁ、え、と。これは」


どうしよう、なんて言えばいいのかな。

こういう大事な時に限って、何も口から出てこない。

ジェイドの圧に、無意識に後ろへ一歩下がってしまう。

すると、ガタンという音と共に、さっき食べ物を探していた袋が食材と一緒に足元に転げ落ちる。


「やっぱり、ですか」

「ご、ごめん、少しならいいかなって」


冷めた目付きで、転がっている食材を見下ろしているジェイドに反射的に謝ってしまう。

火に油を注ぐだけのことだと、分かっていたのに。


「何、謝ってるんですか。悪いと思っているなら、こんなことしてないですよね? もういいです。この程度の罰じゃ、駄目らしいので」


ジェイドは、グイッと私の手首を掴んだかと思うと、引きずるようにして歩く。


「きゃっ! ジェイド!?」


突然のことに、口から悲鳴が溢れ出る。

でも、そんなことどうでもいいと言うかのように、彼は歩幅を緩めない。それどころか、更に力を強めているような気がした。私を逃がさないためだろう。だけど、まともに食事をしていないどころか体がずしりとして思い通りに動かない今、私に抵抗する力など残っていなかった。立っているのもやっとでたまに壁に肩がぶつかる。

辺りは闇に満ちていて、前にいるジェイドの姿すら見えなくて。大きな怪物に連れ去られているような、そんな感覚がしてくる。右も左も分からない中、私はただ彼に合わせて足を早めるしかない。「ジェイド! ジェイド!」と呼んでみるけど、返事はない。

床がギシギシと鳴っている。それが徐々に止まっていった。彼はその場に立ち止まり、やっと私の手を解放する。

ジェイドがしゃがみこんだのか、布切れが擦れる微音が聞こえた。かと思えば、耳によろしくないであろう、ギィィーーと扉の軋む音がした。


「こっちです」


ジェイドは再び私の手首を引いた。彼の靴がコツコツと乾いたアスファルトに当たる。一段、一段と降りていく。


(階段かな……? 気を抜いたら踏み外しそう)


無意識に足に力が入る。数段歩いた後、平面が続いた。

さっきよりも暗い道。いつもなら平気なのに、今は少し歩いただけで「はぁ、はぁ」と息が切れた。埃っぽい冷たい空気が肺を刺激する。


(息を吸うだけで、こんなに心臓って痛くなるんだ)


もう体が限界なのか、足がもつれて何もないところでつまづいてしまった。「ぁ……!」と声が漏れ出るも、それとほぼ同時に太ももに冷えた地面の感触がした。けど、頭の上に降りかかってきた言葉はもっと冷たかった。


「大袈裟ですね。そんな、今すぐにでも死にそうな顔されると、こっちも気分悪いんですよね。まぁ、いいです。暴れられるよりマシですから」


彼は私と視線を合わせたかと思うと、どこからともなくロープとナイフを取り出した。ジェイドは、器用にロープの長さをナイフで切って調整していく。それは、どこか慣れているような手さばきだった。そのまま私の両手首をグルッと一回転させ、結び目をキュッキュッッと縛っていく。ザラザラとした縄が皮膚にくい込んで、ヒリヒリと痛む。それらが終わったかと思うと、彼は私の隣にドカリと座り込んだ。私を監視するためなのだろう。彼は自分のいる今の位置から一歩も動こうとしない。

風も何もない密封された空間で、火もない。隣にいるジェイドの顔すらぼんやりとして見えにくい。でも今は少し安心してしまう。彼の顔を見たら、今よりも恐怖に駆られていただろうから。そんな私の頭をジェイドは乱暴に撫でた。


「ここなら、もうどこにもいけませんね。安心してください。ちゃんと水分はあげますよ。人間はそんな簡単には死ないので」


明るくそう言い放つジェイドに背筋が凍る思いになる。二日どころか、これからも食事は与えないとそう言っているのだから。


(私はこれからも、ここで過ごさないといけないの? いつまで? ……そういえば、なんで暗いのが苦手なんだっけ、私)


どうしてだろう。家庭教師のこともそうだけど、なんで自分のことなのに何も分からないんだろう。ルビアンは何か知ってるような言い方だった。彼に聞いたら、教えてくれるんだろうか。そもそも、この場所から出られるのかも定かではないのに。手首はロープでグルグル巻きにされているが他は縛られていない。手首だけ拘束しておけば大丈夫なのだと思われてるいるのかもしれない。実際そうだ。この縄がなくても、私はもう外に出る気力はない。息をするのだけでやっとなのだから。

―――

とても静かな夜だ。いや、もう朝なのかもしれない。窓がないから、正確な時間を把握できない。ここにきて何日になるのか。三日、四日。もっと経ってるのかもしれないけど。

あれから私は、食事はもちろんのこと、ここから足を踏み出してもいない。

私が起きた時にコップ一杯の水を渡されて、彼の就寝時間がきたら、私の隣で眠る。その繰り返し。

最近は、意識がなくなることも多い。水を飲んだ後は少し体が楽になる。でもすぐに息苦しくなって記憶がなくなって、気づいたら隣に人の気配がする。

とっくに足腰は立たなくなり、ボーと天井を見ていることも多くなった。たまに吐き気もするが、そういう時は我慢をする。床を汚したらジェイドに何をされるのか想像できないから。もう諦めて、一生閉じ込められる生活を続けないといけないのかな。


(体のあちこちが痛い)


私はちょっとでも負担のない体勢に整えようと身を動かしてみた。すると、カランと軽やかな音がする。ここには、何もないはずなのに。私は両手を伸ばして、手探りで床に触れる。


(ない、ない。たしか、ここから聞こえた気が……――あった。なんだろ、これ)


小さな手のひらに収まる何か。真っ暗な中で、微かな光った気がした。もしかして……と、頭の中に一つのものが思い浮かんだ。

"ナイフ" ジェイドがロープを切って私の腕に長さを合わせていた時に使っていたもの。何故こんなところに落ちているのか。たまたま忘れていったのか。

幸い、ジェイドは寝ているようだった。彼の落ち着いた寝息が聞こえてくる。私はそっとそのナイフを持って、一歩彼に近づく。気力が残っている気がしなかったが、なんとか持ちこたえる。私は眠っている彼の元へ、少しずつ前に進んだ。こんなこと人として良くないんだろうけど、もう無理だった。このままじゃ死んじゃう。だったら私が……

その時。私の靴が、コツンとジェイドの足に当たった。

……あれ。なんだろう、これ。この光景、身に覚えがある。

―――

『これがジェイドの恋の終わり。最後は殺されちゃうんだ』


違う。違った。私は今まで、ジェイドは誰かにナイフで刺されるのだと、そう思っていた。でも今の状況って……


"ジェイドの恋を終わらせるのって私?"



頭の中で一つの答えにたどりつく。あの日見た、ジェイドの恋の終わり。その相手は他の誰でもない、私だった。


「はぁ、は……」


手がガタガタと震え出した。そして、カランコロンと地面にナイフが落ちる音がした。


「ぁ……」


もう遅い。

暗がりの中で、人影がゆっくりと動いた。その影はゆらりゆらりと、こちらに近づいてくる。


「はぁぁぁ。近頃は大人しくしてると思ってたんですけど。まだ起きてるんですか、ローヴィッチさん。僕の手を煩わせないでくださいよ」


そう言いながら、彼は歩みを止めない。そして私が手に持っているナイフを叩き落とした。ポキポキと骨の鳴る音がする。

動けなかった。

その場で固まっている私に、ジェイドはとある提案をしてきた。


「じゃあ、こうしましょうか。今から僕と、かくれんぼしませんか?」

「えっ」



それは、声と呼ぶにはあまりにも嗄れていた。喉の奥から短い息が漏れる。彼は続けて話す。

私がジェイドから逃げ隠れ、彼は鬼役として私を探して捕まえる。とてもシンプルなルールだ。そしてジェイドが勝ったら、私は今よりも更なる罰があるのだという。その内容は、私が負けてから伝えるそうだ。それから……私が勝てば、ジェイドがご飯を用意してくれるらしい。ここから解放するという選択肢はないようだった。彼は、「どうしますか?」と私に判断を委ねていたが、私が断らないと分かっているかのような、自信に満ちた声色だった。それは間違っていない。なんでもいいから食べ物を口にしたかった。私は、彼の言うことを受け入れることにした。制限時間は三十分。それまでに彼に見つからなければ私の勝ちなのだそう。


「では、十秒数えますから、逃げてくださいね。いきますよ?」


私の反応を待たずに、ジェイドは数字を数え始めた。

とてもゆっくりと。


「いーーち。にーー……」


考える時間はなかった。私は鉛のような足を懸命に動かして彼から離れた。

なんで急にかくれんぼなんて始めたのだろうか。たしか、昔にジェイドと、かくれんぼをしていたと彼は言っていた。でも私は覚えていなかった。小さい頃、自分はどうやって過ごしていたのだろう。思い出そうにも、その時の記憶が頭の中で現れては消えてしまう。

度々、脳内に出てくる男の子。その子と遊んでいたのは、少しだけ覚えている。彼がジェイドなのかな。――今は逃げることに集中しなきゃ。

ジェイドの声がどんどん遠のいていく。私は、どこか隠れる場所がないか、辺りを見渡す。

視界に映るもの全てが、黒一色。どこに何があるのか全く分からない。よし……と、私は意気込んだ。そして、両手で首元にある、エメラルドグリーンのネックレスに触れる。ビリッと、そこが小さく光る。バレないように明かりを最小限に……そこでやっと、周りに何があるか確認できた。私がいる場所は、小さな部屋……と言っていいか分からないほど、何もない一つの空間。先程までいた殺風景なところとはちょっと違う。木で出来た年季の入った茶色い壁。ポツンと小さな正方形の机が置いてある。隠れられそうなところは……机の隣に、人一人入れそうな箱があった。装飾品も何もついていない、ただの木箱。

私はさっそく、その箱を開けてみる。古い木材なのか、ギッギッと音がする。そこには何かの紙が大量に入っていた。

私は、近くにあった一枚を手に取ってみる。

ネックレスを近づけ、紙に光を当てるとぽわーんと、文字が浮かび上がる。そこには、黒い薔薇に関しての記述がされてあった。

『黒い薔薇には洗脳効果がある。これでローヴィッチさんを洗脳して過去の記憶を塗り替えれば、僕を好きになってくれるはず』


(これも、これも全部、人を洗脳するための花を作る資料ばかり。じゃあジェイドが私に見せたあの花って、私を洗脳するため?)


私はもう一つの資料に手を伸ばしてみる。だけどその紙には、花のことは記されていなかった。さっきよりも紙が分厚い。文字がぎっしりだ。


(レオナ・エメラルド・ローヴィッチには幼なじみがいる……え、私のこと?)


紙には、私のことが書いてあった。それも、尋常じゃないほどの量。軽く千枚は超えていそうだ。

『幼なじみの男とかくれんぼをしていたらしい。じゃあ僕もかくれんぼをしよう。あの男を忘れさせて、僕だけのものにするために。でも、ただのかくれんぼじゃつまらない。もし、見つけ出したら、四肢を切り落として、ずっと僕のそばに……』


カツンカツンと、乾いた靴の音がする。


(もしかしてジェイド!? 早く隠れなきゃ!)


私は、資料がまだ中にあるのにも関わらず、体をその中に丸めた。膝を抱えて、耳を塞いで。


「ローヴィッチさーん、どこにいるんですかー? 出てきてくださいよ。絶対見つけてあげますからね』


(お願い……こないで……)

―――

「泣かなくていい、怖くないよ。これ、あげる。うさぎさん。可愛いだろ?」

「怖いのがなくなるおまじない。痛いの痛いの、逃げていけー! なんてね」


私、小さい頃に誰かとかくれんぼしてた、のかな?

それで出られなくなっちゃって……


「ここに隠れていたのか。今、出してやるからな。レオナ、もう大丈夫だ」


誰? 私を助けてくれたのは――


「――レオナ!」


ずっと頭の中で響いていた声がすぐ近くにいる。

でも、そんなのありえないじゃん。

だってそこにいたのは――


「……見つけた。お前は、本当に隠れるのが上手いな。おかけで、手間取ってしまった」


少しずつ、てもたしかに彼の姿が見えてくる。

声は穏やかで優しいのに、表情は真逆。汗をかいていて、肩が上下していて……なによりも、目頭が濡れていた。普段は無表情のくせに。第一王子なのに、威厳なんて全然ないじゃん。


「ルビ、アン……」

「……今日は泣いていないんだな。成長したじゃないか。――おいで」


ふんわりと、包み込むように抱きしめられる。焼き菓子のような甘くていい匂い。

私に力が残っていたならば、ギュッて抱きしめ返せるのに。


「熱いな……マーサ」


ふいにルビアン が知らない女性の名を呟いた。私は無意識に、そちらに目線を移す。最初は誰だか分からなかった。だって、格好や立ち姿が全く異なっていたから。

でも紛れもなく、暗闇の中にいたのは、あの時のおばあさんだった。だけど、今はフードを被っていない。洗礼された立ち姿に、シワひとつない執事服。まるで別人のようだった。


「レオナお嬢様。あの日は不躾な態度をとってしまい、申し訳ございません。私は、マーサ。マーサ・クロードと申します。坊っちゃまの専属執事を務めさせていただいております」


自己紹介を終えたマーサさんは、深々と頭を下げる。だけど、すぐには状況を飲み込めずにいた。

ずっと暗殺者だと思っていた人は、私のことを見守ってくれていた……? でもそういえば、今思い返してみるとマーサさんが現れたのってどれも黒い薔薇関連だったな。暗殺されると思っていた時も、お花だけ持ち去って帰っていたよね。それなのに私、殺されるってマーサさんのこと疑っちゃってルビアンのことも、信じきれなかった。迷惑もかけちゃったし……

二人に謝りたいのに、口からは吐息ばかり漏れ出る。

私は、ルビアンの大きな肩に頭を預けて呼吸を繰り返した。すると、ルビアンのでも、マーサさんのでもない足音が聞こえた。二人とは違う音。ドタバタしていて焦っているのが分かった。


「侵入者か!?」

「ふむ、気づかれたか」

「いいえ、坊っちゃま。彼が気づくように仕向けたのです」

「菓子くずで人の家を汚すな!」


そこにいたのはやはりジェイドだった。怒りでわなわなと体を震わせている。手には、お菓子の粉が握り潰されていた。彼はジロリと二人を睨みつけたかと思うと、その目を私に向けた。手の内にはナイフを持っていた。


「なんで僕以外の男と一緒にいるんですか。罰が足りないようですね」


次の刹那。彼は思いっきり、ナイフを振り上げた。ルビアンは動かない。だが、彼の隣に立っていたマーサさんが素早い動作でナイフを所持している手を捻り上げた。そのまま床に、押し倒したかと思うと、内ポケットから拘束具を取り出してジェイドを縛り上げた。

その動きには一切無駄がない。ナイフを向けられた時も動揺していなかった。


「女性に刃物を向けるなんて、教育が不十分とお見受けいたします。坊っちゃまは、そんなはしたないことしませんよ。さぁ、坊っちゃま。ここは私にお任せください。レオナお嬢様をお連れして」

「ああ、助かる」


気づいたら体が宙に浮いていた。ルビアンが横抱きで、一歩ずつ私を運んでくれている。その揺れがなんとも心地よく、眠気を誘われる。彼の腕の中にいて安心したのか、徐々に視界が霞み始めた。思考がままならなくなっていく。その日は、たくさんの子うさぎに囲まれている夢を見た。

婚約破棄まで九日。

―――


うさぎが一匹、うさぎが二匹。うさぎが……

あれ、ルビアンが出てきた。ルビアンが一匹、ルビアンが……


「ルビアンが四匹……」

「おい、何の夢を見ている」


ルビアンがもふもふ。毛玉柔らかい。


「……抱きつくな」


そう言いつつもルビアンは離れようとしない。温かい彼の温度に、私は再び眠りに落ちそうになった。ルビアンの指の背が首筋を撫でた。ひんやりしていて気持ちいい……冷たっ!?

急激に刺激された何かに飛び起きる。

そこにいたのは、ルビアンとマーサさん。そして、あの時のおちゃらけた医者だった。マーサさんは穏やかな笑みを浮かべて微笑んだ。


「お目覚めになられましたか、レオナお嬢様。お医者様をお呼びしましたから、もう大丈夫ですよ」


マーサさんの言葉に返事をしたかったが、声が枯れ果てていた私は、何も言えずにいた。そんな私に、スッとお水の入ったコップを渡してくれる。私はありがたくいただくことにした。久しぶりの水分に、喉が潤されていくのを感じる。


「ありがとう、ございます」

「いいえ、当然でございます。私も、事情を説明せず大変申し訳ございませんでした」

「動くな」


マーサさんが深くお辞儀をしたことで、私は慌てて身を起こして、彼女に近づこうとした。マーサさんは悪くない。私が彼女を信じられずに、暗殺者だと疑念を抱いてしまったのだから。だがルビアンの短い声に、首元に意識が向いた。

そこには、清潔な黒いハンカチが押し当てられていた。端にはうさぎの刺繍がされてある。ハンカチがひんやりしているのは、氷が包まれているからだろう。先程の冷たさは、このハンカチが原因だったのか。彼は真剣な表情で熱を冷ましてくれていた。


「お前が眠っている間に、アイツが軽く診察をしてくれた」

「はっはっはっ、元気そうでなによりですね。これで死んでたら自分、殿下に殺されてるところでした!」


アイツというのは、マーサさんの隣にいる医者のことだろう。すごい物騒なことを言っているが……

相変わらず、全体的に綿菓子みたいにふわふわしている。うさぎの夢を見たばかりだからだろうか、この人もだんだんうさぎの仲間に見えてきた。

――ルビアンが言うには、私は極度の栄養失調らしい。約、一週間何も食べていない状態なため、妥当と言えるだろう。命に関わるような症状はないとのこと。このまま安静にしていれば、二週間ほどで回復するのだという。一週間で通常の食事に戻れると聞き、安心と共に体の力が抜けていくようだった。


(よかった、これで元通りに……ん? 二週間後って、もうルビアンと婚約破棄が成立している状態、だよね?)


冷静に考えれば、もう彼と私に残された時間は少ない。後、一週間くらいで彼と離縁することになるんだよね。

でも、私には関係ないことだし、ルビアンとの婚約破棄を受けいれたのは私だし……にしても、書類を書いたり、市民や他貴族の前で報告もしなければならない。ずっと寝たきりでいるのはよくないだろう。ルビアンとの婚約破棄の手続きを進めないとだし……


「食事は俺が作る。お前たちは下がっていい」


マーサさんと医者が頭を下げ、部屋を出て行ってしまった。辺りは静まり返っている。ルビアンと二人きり。何を話したらいいんだろ、いつも何話してたっけ。彼と目を合わせることが出来ない。

ここは私の自室。ベッドまでルビアンが運んでくれたんだよね。お礼、言わなきゃ。謝らなきゃ。助けてくれたんだから。私が口を開こうとすると。


「おい」

「あのっ!」


私たちは、同時にお互いに話しかけてしまった。気まずさからたがいに、視線を逸らす。


「……話したいことは? 言え」

「え、えと、ルビア――殿下からどうぞ」

「そうか。その、なんだ。庭師の男についてだが、マーサが、一から教育をするそうだ。だから、心配しなくていい」

――そうだ、ジェイドとのこと。

―――

「あの、第一王子。調子に乗りやがって」


ルビアンがジェイドを殴ったって……本当なのかな。

私を助けてくれたルビアンが?

思わず、ルビアンの顔を見つめてしまう。


「なんだ」

「いえ、あの……ジェイドを殴ったのは、事実、なんですか?」

「そうだ」

「……!」


もっと何か言うものだと思っていた。でも彼はあっさりと認めた。私の目を見つめ返して。ルビアンが人を……

洗脳がまだ解けきっていないからか、彼とのことを全て思い出したわけじゃない。それでも、ルビアンが私の話を最後まで聞いてくれたこととか、私のために動いてくれたこと。花を踏まない優しさがあるって知ってる。今回も、彼の話を信じようとせず、ジェイドといる時間を増やしていたのに助けにきてくれた。だから私も、彼の話を聞きたい。頭ごなしに否定するんじゃなくて、ちゃんと最後まで。


「あの、理由を聞いてもいいですか。で、殿下が話したくないなら無理にとは……」


彼は目を閉じて、「ふぅ」と、小さく空気を吐いた。頭の中を整理するような、短い息。そして、何かを決意するように瞼を開けた。


「……本当に聞きたいか。お前にとって、後悔することになるかもしれないぞ」


それは脅しと言うよりも確認に近い問いだった。私はルビアンから目を逸らさずに覚悟を決めて頷いた。

彼はそんな私を見てから、ベッド端にあるコップの縁を指でなぞり、喉の奥にしまっていた言葉を一つ一つ取り出すように話し始めた。

―――

「あの子ってほんと、素直というか。人を疑わないっていうか。黒い薔薇渡しても、喜んで受け取ってくれたし。警戒されない方がこっちは楽なんで、それでいいんですけど」

「花をプレゼントしただけじゃないだろう。彼女に何をした」

「いやー僕は何も」

「嘘をつくな。貴様からは少量だが、魔力の匂いがする」

「わぁ、気づいてたんですか。魔法は最小限に抑えていたのに。流石第一王子! 教えちゃってもいいかなー第一王子の固有魔法って大したことないって聞くし。――僕の固有魔法は、"相手の記憶にある一部を塗り替えること"第一王子とあの子の過去を、僕とあの子の過去にすり替える。その最終手段として、洗脳効果のある花を使うってわけです」

「……人を騙していることになるのだぞ」

「僕の話を簡単に信じるあの子が悪いでしょ? あんな子が、第一王子の妻だなんて、可哀想ですね。この国も終わりなんじゃないですか? 学校に行かず、まともな教育を受けてないからああな――かはっ……」

「人を知りもせず決めつけ、挙句の果てに侮辱する。まともな教育を受けられなかったのは貴様の方だ。最終通告だ。彼女に触れるな、近づくな。以上だ」

―――

ルビアンとジェイドの間に何があったのか。ルビアンが彼を殴った理由。それら全てを話し終えると、ルビアンはコップに水を足した。そのコップを私の口元まで運んでくれる。


「水分を取った方がいい。少しずつだ。――料理道具を借りるぞ」


コクコクと喉を鳴らすたびに水が体全体に染み渡る。

水分補給後、口を開く前に彼はキッチンに立った。ただ淡々と起こったことを話したルビアン。そこには余計な感情をのせないよう、配慮をしてくれている気がした。

一人で考える時間、作ってくれたのかな。そう思うと、ひんやりしている体が温かくなるのを感じた。

――まさか、ジェイドが私に対して、そんなことを思っていたなんて。でも、本当のことだよね。私が学校へ通っていないこと、世間のことも、知識も何も知らない。

ルビアンが庇ってくれたことも。彼の口から聞かなければ、一生知ることはなかっただろう。

ルビアンは何も言わない。慰めの言葉一つ、かけてはこない。事実をそのまま私に伝えるだけ。だけどそれと同時に、私を責めることも何一つ口にしない。彼の優しさを知る度に、判断が鈍ってしまう。

"このままでいいのかな"

自分は何もせずに彼の優しさに甘えて、それでいいのかな。

私に出来ることは限られているけど、それでも何もせずにはいられないほど、私は馬鹿じゃない……はず。

私がベッドの中で頭を悩ませていると、キッチンからいい香りが漂ってきた。

香りを嗅いだだけでお腹が盛大に鳴ってしまう。

彼は出来上がった食事をお皿に盛り付けると、ベッド横のテーブルにコトリと置いた。

小さく刻まれた玉ねぎやにんじんが入っているスープにおかゆ。そして、以前彼が作ってくれたうさぎの形のパンがあった。


「ふっ、無理もないな。一人では食事もままならないだろう。俺が食べさせてやる」

「えっ!? ひ、一人で大丈夫ですよ!」


慌てて否定するも、彼の手にはすでにカトラリーが握られていた。そのままグイッと押し付けてきた彼に、私は断れずに口を開けた。じーと見てくるルビアンに、内心ドギマギしながらも久しぶりの食事に止まれず、次々と彼に食べさせてもらうことに。


「どうだ?」

「味がある……」

「良かったな」


ルビアンは微笑みながらパンの耳をちぎり、スープにひたした。貴族の人ならば絶対にしないであろう食べ方。私はよくやるんだけど……

ルビアンが、気にせずにスープにつけるのに驚いてしまう。


「こうしないと、食べられないだろう? 今のお前に固形物は胃に良くないからな。それに……この前は一人にしてしまっただろう」


この前って……もしかして、ルビアンが料理を作ってくれた時の…あの時もたしか、うさぎのパンを食べたな。途中で彼がいなくなっちゃって、自分で食べる気にもなれなくて、結局次の日に食べたんだっけ。覚えてくれてたんだ。


「だから今日は一緒に食べないか?」


そうして彼は、照れくさそうに追加のうさぎのパンをお皿に置いた。手前にいるうさぎはニコッと笑っていて、奥にいるうさぎはしょんぼりしていた。一つ一つうさぎの表情が違って、彼が頑張って作ってくれたんだなって分かるのが嬉しかった。


「じゃあ……お返しです」


私は目の前のニコニコしているうさぎを一口サイズにして、彼の口元へ持っていく。


「どうぞ、殿下。あーん」

「な……!」


あれ、ルビアンの顔がりんごみたいに赤くなっちゃった。

彼は中々口を開けず、しどろもどろになっている……と思ったら、急に早口で喋りだした。


「俺はお前が一人で食べられないと思い食事を手伝っただけだ。お前は俺にあーんをする必要はない」


(ふふ。ルビアンってこんな表情豊かだったんだなぁ。いつも仏頂面だけど。こういうところもあるんだね)


私は彼のそんな姿に思わず笑ってしまう。

そうしたら、ルビアンがりんごよりも真っ赤になってしまった。


「何を笑っている! さっさと食べろ!」

「私はまだ殿下に、あーんしてないです」

「……好きにしろ」


ルビアンの応えに、私はそっと彼の口の中にパンの欠片を入れる。彼は口元を手で覆い隠し、耳まで真っ赤になっていた。

私とルビアンは、お互い食べさせ合いっこをして食事を続けた。こんなにも賑やかな食卓は子供の時以来で、とても新鮮だった。今だけはこの穏やかな時間がずっと、続けばいいのに。

婚約破棄まで八日。

―――


ルビアンが看病してくれてから三日。

あの日から、毎日欠かさず食事を用意し、医者への経過報告もしてくれている彼。第一王子としての仕事もあるはずなのに、忙しい素振りは決して見せない。自分から婚約破棄をしてきたくせに、どうして今更私に優しくするんだろう。

きっと彼が真面目な人だから、かな。第一王子としての責任感から私に……いや、真面目な人はあんなこと言わないし! 私、まだ忘れてないからね。あの人は私のこと、お金で買おうとしたんだから。


"世の中、金さえかければ手に入るものと、どれだけ金をかけても手に入らないものがある。お前はどちらだ? いくら出せば俺のものになる?"


でも、その後すぐに婚約破棄をしてきたんだよね。私をお金で買う価値がないって思ったから?

わざわざ二十九日後なんて、何を考えているのか……

……あ、その日、ルビアンと結婚する日じゃん。

今の今まで忘れていた。

何故ルビアンが二十九日後なんて具体的な数字を言ったのか。そうだった。結婚を祝す日として、パーティーをするからだ。

貴族だけじゃなくて、街のみんなも見に来る。

そこでルビアンとの婚約を解消するのか……

はぁ、なんでだろう。受け入れたはずなのに、こんな気分になるのは。

ルビアンが優しくするからだ。もっと冷たく突き放せばいいのに。病人にご飯作って、毎日会いに来て。それもあるかもしれないけど、やっぱり―――

―――

「レオナ!」


私のこと助けてくれたから――

私の名前を呼んで、抱きしめてくれて……

私も、ルビアンって呼んじゃった……!

そ、それから、それから……す、少しだけ彼との過去を思い出したから。小さい頃、ルビアンと何があったのか。ちょっとだけ、頭に残ってる。

なんか、前から変な感じがする。ジェイドに監禁された時も、かくれんぼしてた時も、どうしてか、ルビアンのことが頭の中に流れてきた。なんでルビアンばっか……

ルビアン、ルビアン。


「……ルビアン」

「なんだ」


はぁ、ルビアンのこと考えすぎて、とうとう幻聴まで聞こえてくるようになっちゃった。私、重症かも。もしかして、病気の後遺症とか? ストレスの溜まりすぎとか。

とりあえず、ルビアンのことを脳から追い出さなきゃ!

ご飯のことでも考えよう。よし。そうだ。ご飯、ご飯。

今日のご飯は何かな。昨日は野菜たっぷりのスープで、ルビアンがにんじんをうさぎにしてくれたんだっけ。食べやすいように食材を小さくカットしてくれて、笑い合いながら食卓を囲んで。楽しかったなぁ。


「ルビアン……」

「何度も言わなくても聞こえている。どうした、腹でも減ったか、レオナ」


(あ、脳内にいるルビアンが私の名前、呼んでくれた。もっと呼んでもいいのに)


「へへへ」

「おい、人を無視するとはいい度胸じゃないか」


(……ん? 声が近くなってる? 幻聴なのに、随分リアルだなぁ)


「レオナ」


急にぐいっと顎を掴まれた。この部屋、私しかいないのに。

てことは……


「いやあっ! おばけーーー!!」

「様子を見に来た人に向かって何を言っている」

「え、あ、ルビアン?」


なんとか色んな意味で高鳴っている心臓を落ち着かせて、まじまじと男を見つめる。そこにいたのは、王国の紋章を付け、金の装飾を眩しいくらいに彩っている男、ルビアンの姿があった。


「い、いつからそこにいたんですか」

「ついさっきだ。お前が俺の名を呼んでいたのが聞こえたからな」

「ぁ、えと、すみません、殿下」

「構わない。呼べばいいだろう、あの頃のように」


あの頃って、私がまだ幼い時のこと……?

その時の私は、ルビアンって名前で呼んでたのかな。どうしよう、全く思い出せない。

それに、ずっと殿下って呼んでいたのに、名前でなんて。


「……呼びにくいのなら、無理にとは言わない」


(ぁ、今ちょっと寂しそうにしてた?)


「私のこと、れ、レオナって呼んでくれますか、ルビアン……」

「ふん、気が向いたらな」


せっかく勇気を出したのに、当の本人は私の名前を呼ばずにふいと顔を背けてしまった。まぁでも、今日は二回聞けたからそれで満足かな。また明日、呼んでくれるといいな。


「それで……体調の方はどうだ」


顔をこちらに向けないまま、彼はいつもの質問を投げかけた。ルビアンは三日間、毎日こうして私の体を気遣ってくれている。

彼が渾身的にお世話をしてくれたおかげで、みるみる体は回復していった。ルビアンから聞いた話だと、順調に良くなっているらしく、想定よりも早く体が快方に進んでいるとのことだ。

多分、日頃からご飯をいっぱい食べてるからかな。栄養のあるお高いお肉とか、糖質がたくさん入っているスイーツとか。それに、病は気からって言うし、私が元気もりもりにルビアンの食事を完食しているから、良くなるのも早いのかも。医学的根拠はないけど。


「大丈夫ですよ! 最近、体が軽くなってますし、ルビアンのご飯のおかげです!」

「そうか、それならいい。今日も食事を作ろう。何がいい?」

「うさぎの見た目のチキンライスとか……!」

「ふっ、本当にうさぎが好きだな、お前は」

「お前じゃないです! レオナです!」

「ふん、すぐ作るから座って待っていろ、お前」


これみよがしに、ニヤリと口角を上げて、"お前"を強調してくるルビアン。彼は、私が何か言う前に、どこからともなく持ってきた食材をキッチンに置いて、調理を始めた。

優しいのか優しくないのかどっちかにしてよ!

私は殿下じゃなくて、ルビアンって呼んでるのに!

意地悪言うくせに、こうしてご飯は作ってくれるし。なんなの、もう。

心の中でぶつくさ言いながらも、私は彼の言う通り大人しく椅子に座って待っていることにした。

体が徐々に良くなっているとはいえ、まだ完全には治っていないから安静にしておくのが一番だ。私が無理をして悪化したら、なんだかルビアンに悪いし。

彼の広い背中をボーと眺める。

くやしいけど、かっこいいんだよなぁ。料理出来る男の人。

貴族なのになんで料理出来るの、この人。私は、普段から自分で作ってるから、生きていて困らない程度には出来るけど。ルビアンは、普段使用人に作ってもらってるんじゃないのかな?

料理経験なんてなさそうなのに。料理しなくても生きていけるのに。

もしかして、私のため……? なんて、流石に考えすぎだよね。

料理中のルビアンを後ろから見つめていると、窓から夏を感じさせる爽やかな風が頬を撫でた。

それと同時に、私がこの三日の間に集めていた数枚の紙がぶわっと宙を舞う。その紙たちは、料理をしているルビアンの方へと向かっていく。一枚の紙が、鍋の中に入りそうになった瞬間。私が声を上げるよりも早く、ルビアンが素早い動作で人差し指を立て、くるりと空気を撫でるように一回転させる。すると、彼の周りで動いていた用紙が数センチ横にずれ、床にひらりと舞い落ちる。その中の一つを手に取ったルビアンが、まじまじと、それを上から下まで読み始めた。


「あ! それは……」

「面接案内、日時指定自由。なんだこれは」


鍋をかき混ぜるのを止め、本格的に文字を追い始めたルビアンに、私は声をかけることが出来ずにいた。

彼が見ているのは、学校へ入学するための面接や試験などが書かれている紙だ。

ジェイドとの一件があった数日の間、当分動くのを禁止された私はベッドの上でゆっくり過ごしていた。だけど、あんな強烈なことがあった後に、気ままに体を休ませることなんて出来なかった。

自分への知識不足の痛感はもちろんのこと。ルビアンの言う通り、危機感が足りないとも思ったし、彼に迷惑をかけてしまったことへの罪悪感もあった。

何より、このまま変わらない自分は嫌だと思った。

今までの私は、毎日部屋でゴロゴロして、お腹空いたらご飯を作って、寝たい時に寝る。そんな日々だった。

でもそれって、すごく自堕落なのでは!? 貴族としてあるまじき行動。いや、街の人たちでさえこんな生活の人はいないのではないかとすら思う。

親に甘えて、自分でお金を稼いだ経験もない。今のままだと、自分はダメ人間になってしまう気がした。そうしたら、ルビアンと上手くいかないどころか、一生独身貴族になるんじゃないか。それだけは避けたかった。

そりゃ私だって、出来ることなら、ただ美味しいご飯を食べて何も考えずに生きていたい。楽をしたいと思う。だがそうすると、私の悪役令嬢としての評判はもっと下がってしまう。そうしたら私は、今度こそ暗殺者に殺されるかもしれない。

私にはやりたいことがたくさんある。まだこの世の中で食べていないご飯があるし、本物のうさぎにも会ってみたい。出来ることなら、ルビアンとの過去も思い出したい。だから、殺されるのは少し困る。

知識や経験を身につけたい。ルビアンの役にも立ちたいな。助けてもらってばかりだし。私も何かお返しをしたい。そのためにもまず第一歩として学校へ通うために、ここ数日、マーサさんに頼んで紙を収集していたのだ。


「学校へ行きたいのか?」

「行ってみたい、です」


全て目を通したルビアンが顔を上げた。私は、緊張しながらも自分の意思を伝える。彼は、鍋中にあるスープをお皿によそい、端にうさぎ型のチキンライスを盛り付けると、窓際の席までお皿を持っていった。


「食事をしながら話そうか。まだ万全ではないのだからな」


彼の意見に同意し、私はルビアンの反対の席に座った。

こうしてルビアンと顔を合わせてご飯を食べるのも、幾度目になるのか。一人での食事に慣れてしまっていたから最初はどきまぎしていたけど、今では彼とのご飯が、少しだけ楽しみになっている。

ルビアンは誰が見ても品がある人だと思う。食べ方とか、カトラリーの使い方とか。姿勢一つとっても、無駄がない。

ちゃんとした教育を受けてきたのだと一目で分かる。

これで節約しなければ一気に貴族って感じなのに。

彼のことをじっと観察していたら、ふと目が合ってしまった。


「なんだ」

「いえ……! なんでもないです!」

「そうか」


彼との会話なんてほとんどないのに、何故か気まずさを感じない。それは、ルビアンが自然体でいてくれているからなのだと思う。

彼と一緒にいる空間はなんだか穏やかな気持ちになる。無理して会話をする必要もなく、顔色を伺ってビクビク怯えることもない。とても心落ち着く時間だ。


「先程の話だが、学校へ行くのは大変なのではないか。体のこともそうだが、学校とは集団行動を強いられる場所だ。個々の個性を伸ばす場ではなく、目立たないこと。普通であり続けること。問題を起こさないこと。出来るか?」


そう言われると自信がない。今までまともに学校へ行っていなかったというのに、急に周りに溶け込めるのだろうか。

第一、私は悪役令嬢として、貴族たちに名前を知られていることが多い。ただでさえ、ルビアンの婚約者ということで変に注目されている。

大丈夫かなぁ、私。自分で決めたことだけど、今更ながらに不安になってきた。


「無理して行かなくてもいい」

「えっ、それはどういう……」


彼から発せられたのは意外な言葉だった。

私の体を心配してくれているのもあるかもしれないけど、それだけではない気がした。


「学ぶだけなら家庭教師をつければ問題ない。どうしても学校へ行きたいのなら、家庭教師から勉学を教わり、試験を受けることも可能だ。知り合いに一人優秀な人を知っているが、紹介しようか?」


たしかにルビアンの言う通り、基礎的な学問を教えて貰ってから、編入するのもいいかもしれない。私の目標は知識を身につけることだから、家庭教師から勉強を教わるのもいいのかも。

それに、ルビアンがそこまで言うなら、本当に優秀なのだと思う。マーサさんみたいに、優しくていい人なのかな。

私は、ルビアンからの申し出をありがたく受け入れることにした。


「では、手紙で連絡するとしよう。早ければ、明日には屋敷に到着しているころだろうな」


食事を終えたルビアンは、サッと空になった食器を片付けた。

そして軽く服装を直すと、一瞬だけこちらを見る。

私が不思議に思うのも束の間、彼は口早く言葉を紡いだ。


「先に言っておくが、あの家庭教師は相当高いぞ。俺は出さん。自己負担だ。お前を診察してくれた医者についても同様だ。ああ、それと迷惑料も追加だ。ここ三日のお前への世話と食費代、俺の忠告を聞かずに突っ走った挙句、最後は俺が助けに行くまで監禁されていたのだから、当然だろう。合計諸々……そうだな、一千万といったところか」

「い、いっせんまん!?」

「そうだ。難しいなら俺が代わりに払ってやるが……」

「え、いいんですか?」

「ああ、少し待っていろ」


それだけ言うと、彼は扉を閉めて出て行ってしまった。

だが、数分も経たないうちにすぐにそこは開かれた。

彼が手にしているのは何らかの紙。詳しくは分からないがすごく高級そうなことだけは分かった。

ルビアンは立ったまま、そこに何かを書き込む。


「それ、なんですか?」

「借用書だ。お前は俺に借金をすることになったのだから、借用書を作るのは当然のことだろう。安心しろ。無利子、無期限のある時払いにしといてやる。頑張って返済するといい」


それだけ言うと、ルビアンは紙を机の上に置いて部屋を出て行った。突然のことに私は何も出来ないままその場に立ち尽くす。

え、ちょっと待って。私、ルビアンの役に立てるようになろうと思って勉強始めようと思ったのに!

な、なんか知らない間に一千万の借金が出来てしまったんだけど。

(え、これからどうしろと……?)

婚約破棄まで五日。

小鳥がチュンチュンと囀るいい天気の朝六時頃。

私は、微睡みの中にいた。脳が覚めかかっているが、まだ眠っている状態。あの一番リラックス出来る時間。

少しでも瞼を開ければ、起きてしまう。

だけど、今は風も太陽の位置もちょうどいい場所にいる。もう少しだけこの時を堪能していたい。

それなのに、リンリンリンとけたたましい鈴の音が鳴る。

部屋からではない。もっと遠くから。

来客なんてこないうちの屋敷に何しにきたのだろう。

新しい使用人とかきてくれないかな。優しくて頼りになる人、私の悪口を言わない人。そんな人がきてくれたら――


「おい、いつまで寝ているつもりだ。さっさと起きろ。効率が悪い」


誰かに話しかけられた。こんなにもいい気分で寝ているというのに。一体誰なの。ルビアンかな。でもあの人、こんな朝早くに部屋にきたことあるっけ。それに、声が微妙に違う。

ルビアンが塩だったら、この声の人は胡椒って感じ。


「起きろ」


布団をガバッとめくられる。

私、一応女の子なんだけど。ルビアンってこんなことしないよね?

私は億劫そうにしながらも仕方なく目を開けると……

そこにいたのは、スーツをきっちりきこなしていて、眼鏡をかけている、いかにも風格のある人物。背丈もルビアンとそう変わらないくらい。

誰、この人。

当たり前のように部屋に入ってきているけど、知らない人だ。


「………え、不法侵入!? まさか、暗殺者!?」


私はベッドから飛び起き、すぐに男と距離を取る。


「誰が暗殺者だ。お前が、いつまで経っても寝ているから起こしてやったんだろうが。いいか。俺は、サフィール・レオナルド。今日から俺がお前の家庭教師だ。理解したな? さぁ、始めるぞ」


(不法侵入なのは認めるんだ……)

―――

この男――サフィール・レオナルドは、スパルタの鬼だった。

歳は二十八らしい。その整った顔立ちと、絶対に生徒が成果を出すとのことで、今一番の人気家庭教師なのだそうだ。

まだ病み上がりだというのに、ご飯もそこそこにして、私は貴族としての作法や敬語の学び方をサフィールさんに叩き込まれた。


「本日はお忙しい中、ご出席賜り、心より御礼申し上げます。復唱」

「ほ、本日は忙しいところ……」

「違う! もう一度!」

「本日はお忙しい中、ご出席賜り、心より御礼申し上げます!」


早朝からビシバシ鍛えられた私は、ヘトヘトになりながらも必死にくらいついた。

そして、休憩を貰えたのはお昼すぎ。私が疲れすぎてベッドに突っ伏していると、サフィールさんが綺麗な銀箱を取り出した。中に入っているのは、色とりどりのクッキー。

いつのまにか紅茶も入れられていた。


「食べろ」

「お菓子……食べていいんですか?」

「ああ。教育において大切なのは、飴と鞭だ。飴ばかり与えては、それに甘えて何も行動に移せなくなってしまう。逆に鞭ばかりでは自尊心が削られ、やる気もなくなるだろう。大事なのはバランスだ。どちらかが偏ってはいけない」


さっきまで怖くて鬼だと思っていたけど、意外としっかりしている人なのかも。これは、ルビアンに優秀って言われるだけあるなぁ。

そう感心していた時、サフィールさんは「だが」と言葉を続けた。


「お前を見ていると、やり方を変える必要があるだろうな」

「やり方? 飴と鞭以外ってことですか?」

「ああ。自覚しているかどうかは定かではないが……お前は、自己肯定感が低い。限りなくだ」


彼の口から紡がれた自己肯定感という単語。それは教育を変えるのと、何か関係するのだろうか。


「まだ出会って数時間しか経ってないと思うんですけど、どうして分かるんですか?」

「簡単な話だ。見知らぬ人が朝方、勝手に屋敷に侵入すれば文句の一つ……いや、通報するのが一般的だ。だがお前は、文句を言うどころかあっさりと受け入れ、昼まで俺の講義を行儀よく聞いていた。要は、流されすぎだ。自分の意見というものを、持っているのか?」


"自分の意見"

言われてみれば……ルビアンに婚約破棄をされた時、私は承諾した。自分の言いたいことも何も言わずに。

それだけじゃない。ジェイドの時もそうだ。彼のやり方は、良くないと分かっていたはずなのに、私は何も言わなかった。

結果、あんな大事になって、ルビアンにまで迷惑をかけた。

私があそこで彼を止めていれば、結末は変わったのだろうか。


「それだけではない」

「え、まだあるんですか?」

「お前の部屋に着くまでの間、一人も使用人を見かけなかった。そして、柱の隅には、埃も溜まっていた。人が出入りしていない証拠だ。加えてお前は、"悪役令嬢"として散々周りから、求めてもいない有難いご助言をたんまりといただいてきたのだろう?」


な、なんだろ。悪口を柔らかく言ってくれているのだろうか。ただの皮肉な気もしなくはないが……


「自分の意見を言えず、周りに流されやすい。世話も放置され、普段から他人に見下されている。これで、性格がひん曲がっていないのが、奇跡と言ったところだな。お前の自己肯定感が低い原因はまだまだあるが……続けるか?」

「い、いえ。もういいです……」

「とにかくだ。今のお前に、鞭をやったところで逆効果。"優秀"な教育者とは、生徒一人一人にあった対応をすること。自分の教育方針を押し付けることではない」


まともなことを言っているのはたしかなんだけど、優秀という言葉を強調しているのは気のせいだろうか。


「さて、これでお前の課題が分かったな。まずはその、自己肯定感をマシにすることからだ。お前の婚約者……ルビアン・クロードだったか。あの男の知人に、最適な人がいる。時間は有限だ、効率よくいくぞ。庭に出ろ」

「え、ええ」


私が何か言う前に、サフィールさんは部屋を出て行ってしまった。私は慌てて彼について行く。


庭に着くと、サフィールさんの隣に知らない男の人が立っていた。なんだか見覚えがある気がするけど、思い出せない。もしかして私、また忘れちゃった?


「はっはっはっ! 貴女がレオナ様ですね!」


なんだろう。すごい既視感のある笑い方。

それに、この綿菓子みたいな白くふわりとした感じは……以前お世話になった医者の人にどことなく似ている。

でも、どこか違うような……

雰囲気とかも違うけど、一番はやはり体つきだろうか。

半袖短パンで筋肉質。いかにも体育会系といったところだ。おまけに声も大きい。男が話す度、伸びのある太い声が庭全体にこだました。

貴族社会ではあまり見かけない、関わったことのない人種なため、どう反応したらいいか迷っていると……

男は気にも止めていない様子で自己紹介を始めた。


「自分は、キアン・ダイヤモンドって言います! 歳は二十四っす! よろしくお願いします!」

「あ、どうも。キアン……さん? レオナ・エメラルド・ローヴィッチ、です」

「キアンでいいっすよ! いやあ、それにしても、貴女がレオナ様っすか! 噂には聞いてましたけど、めっちゃ悪役って感じっすね!」


キアンのハイテンションについていけず、置いてけぼりを食らう。その上、悪役みたいと言われてしまい、尚更どうしたらいいか困ってしまった。

だが、悪役というのは私が気にしている部分。なので勇気を出して、どこが悪役なのか聞いてみることにした。


「んーードレスじゃないっすか? 黒とか深緑中心で……全体的に暗いっすね! あと、目のクマ! 自分、兄が医者なんすよ! 睡眠薬とかもらっておきましょうか?」


自分から聞いたものの、すごいストレートに指摘されてしまった。色々言いたいことはあるが……兄が医者というのは、私を診てくれたあの時の医者なのではないかと思った。笑い方似てるし。ちょっとチャラい部分と、初対面でズバズバ言ってくるところも一緒かも。

私は、もしかしたらキアンの兄と知り合いなのかもと言ってみると……


「えっ!? レオナ様、うちの兄と知り合いなんすか! いやーうちの兄貴すごいっしょ? ああ見えて、意外と仕事できるんすよ!」


テンション高いなぁと思いつつ、兄の話をするキアンは、どこかいきいきしているように見えた。

悪い人じゃないのは、なんとなく伝わった。でも、私の自己肯定感を上げるのとキアンにどういった関係があるんだろう。

この状況を作り出した張本人が先程から黙っているため、私は助けを求めるような視線を彼に送る。すると、腕を組んで見守っていたサフィールさんが、眼鏡を人差し指の背でくいっと上げて口を開いた。


「見ての通り、コイツは馬鹿だ。デリカシーのかけらもない。考えなにしに動くことも多い。頭の中は、常に筋トレや生卵のことばかりだろうな。効率を気にする俺とは正反対の人間で、正直理解に苦労する。だが、人を貶すようなことは決して言わない。弱音も吐かない。そこが、気に入らねぇほどに気に入っている」

「はっはっはっ、褒められるのは悪い気がしないっすね!」


たしかに、サフィールさんの言うようにキアンからはどんよりとした空気がない。むしろ、お日様のような温かなものを感じる。それは、単に彼が明るいだけでなく、他人を悪く言わない真っ直ぐなところがそうさせるのだろう。


「そこでだ。お前の課題は自己肯定感を上げることだと言ったな。まずは、カウンセリングからだ。コイツに話を聞いてもらえ。その間に、道具を準備してくる」


そうして彼はその場を去ってしまった。残ったのは、ニコニコと笑っているキアンと私だけ。

この男がカウンセリングなんて出来るのだろうか。


「あの、カウンセリングって具体的には何を……?」

「んーー、難しいことはよく分かんないっすね! 兄貴みたいな医療知識ないんで!」


(ダメじゃん! 人選ミスだよ!)


あっけらかんとそう言い放つキアンに呆然とする。

何か意図があると思っていたんだけど。サフィールさんも、どうしてキアンにこんなことを……

考えれば考えるほど、答えは出てこない。

自己肯定感の上げ方も、どうしたらいいんだろう。すぐ何かいい案を思いつければいいのに。

私、ダメダメだなぁ。もっと賢くなれたらよかったのに。


「レオナ様、どうしたんすか?」

「あ、いえ、その……私、考えるのが苦手みたいなんです。何が正しいのかとか、間違ってるとか。自分がどうしたらいいのかも、何も分からなくて」

「考えるのが苦手だって自分で分かってるのに、なんで頭を使おうとするんすか?」

「え、それってどういう……」

「レオナ様を見てると、自分から不幸に突き進んでいっているように見えるんすよね。苦手なことを、自分からやろうとしなくていいじゃないっすか」


それはそうなんだよね。誰だって、自分の不得意なことはできるならしたくないよ。

だけど、今の私には考えること以外の方法が思いつかなかった。私は、キアンにどうしたらいいのか意見を求める。


「簡単なことっすよ。考えても分からない時は、考えなくていいんです。自分はサフィールのやつに、もっと頭を使えとか、効率よく動けって言われますけど、出来ないものは出来ないんすよ! でも、自分はそれでいいって思うんです」


どうして、どうしてそう言えるの。

自分で、重い話題を振ってしまったと自覚していた。

だから、キアンが困って何も言えなくなっちゃうんじゃないかって思った。

けど、本人はずっと笑顔で。なんてことのないように私の目を見て話してくれる。

キアンはそこまで言うと、一呼吸置いた。そして、大きく息を吸い込んで、一気に話し始めた。


「だって、俺はこんなにも優れた男なのに、知性まであったらもう完璧っすよ!? サフィールの出番、なくなりますよ!」


す、すごい自己肯定感高い。想像してた倍はある。

でも、サフィールさんがなんで私をキアンと二人にしたのか。その理由が、今少しだけ理解出来たような気がした。

状況は何も変わっていないのに、彼と話していると心が軽くなる。


「おい、持ってきたぞ」


思わず、頬が緩んだその時。

ガタンッガタンッッと大きな音がした。何事かと後ろを振り返ると、サフィールさんが手に何かを持ち、引きずっていた。

なんなのか見当もつかないけど、あんな雑に扱っていいのかな。


「それは……?」

「喋る人形だ」


サフィールさんがそう呼んでいる、「人形」は、とてもではないが人の形をしていなかった。目も鼻も口も、どこにあるのか見えない。何かの物体としか思えない。


「何処に売ってたんですか……?」

「自作だ」

「え、誰の?」

「俺以外誰がいる」


サフィールさんが手にしている人形らしきそれは、本当に彼の手作り……なのだろうか。サフィールさんって、器用そうというか。なんでも、「効率重視だ」って言って、そつなくこなすイメージな気がしたけど、意外と不器用?

彼は、その人形を木に寄りかからせる。そしてこちらを向き、人形を指さした。


「今からこいつを倒せ。魔法は使うな」

「うわっ、これ、本当に人形っすか? すげぇ不気味っすね」

「効率のためだ。人形一体に時間をかけてはられん」


私は人形をまじまじと見た。

倒すって言われても、私の自己肯定感向上に何か繋がるのかな。

そんな疑問を持っていたけど、サフィールさんの説明でそれは解消された。

彼は、人形に備え付けられているボタンをポチッと押す。

すると、人形は機械のような音声で私を罵倒し始めた。

「性悪女ーー」「悪役令嬢ーこの屋敷から出ていけー」などなど。


「な、なんですか、これは」

「先程も言ったが、喋る人形だ。この人形は、使用人や貴族。お前の陰口や悪口を言葉にする奴らを模倣したものだ。お前の自己肯定感が低いのは、他者から蔑まれていることが一つの原因だ。ならば、その原因となるものを排除するのが、一番効率がいいだろう」

「そうそう! サフィールの言う通りっすよ! ムカつくやつなんか、ぶん殴っちゃえばいいんです!」


人を殴るなんてこと、前までの私ならすぐに断っていた。

物騒だし。私、これでも女の子だし。

だけど、変わりたいと思った。変わらなきゃ。

今の自分じゃ、私は周囲に舐められっぱなしだ。

でもやっぱり不安は尽きない。本当に自分に出来るのだろうか、変われるのだろうかって、そればかり。

私のそんな考えを感じ取ったのか、サフィールさんは腕を組み、話を聞く体勢に入った。


「お前が思っていることを言ってみろ。そのために俺たちがいる」

「そうっすよ! 悩みがあるなら、人に話すのが一番っす! 自分で考え込んでも、答えは見つからない時があるっすから」


人に相談するのは慣れていないし、ちょっぴり怖い。でも、変わるって決めたんだから。

私は意を決して、二人に話を聞いてもらうことにした。

変わりたいけど、変われるか分からないこと。今のままの自分では嫌なことを。

今度こそ言葉に詰まるかなって思っていたけど、二人の顔色は変わらない。


「なんだ、そんなことか」

「え、そんなことって」



大したことないような口調のサフィールさんに拍子抜けしそうになる。そして隣にいるキアンは、サフィールさん以上に何も思ってなさそうだった。


「レオナ様ってば、また難しいこと考えてるっすね!」

「だって……変わるってそんな簡単なことじゃないですし、もうすぐ……」


もうすぐ、ルビアンと一緒にいられなくなる。

日が経つにつれ、彼のことを思い浮かぶ時が多くなっていく。

それは、借金についてのこともあるけど……

彼の笑顔とか手料理とか。そういう些細なことを思い浮かべてしまう。


「なに言ってるんすか、レオナ様! もう変わってるじゃないっすか」


変わってる……私が?

どこが変わっているというのだろうか。私はまだ何も出来ていないのに。

私の思いとは反対に、サフィールさんもキアンに同意する。


「たまにはいいこと言うじゃないか、脳筋馬鹿め」

「うげ、酷いっすね。大体、あんたも……」


サフィールさんに小言を言い始めるキアンを無視して、彼は言葉を続ける。



「変わるというのは、何も行動だけではないだろう。皆が、そう大層なことをしているわけではない。歴史に名を残せない人は何もしていないのか。結果を出していない人は何もしていないのか。違うだろう。"変わりたい"というその思考が、昨日のお前、今日のお前を確実に変えている」


ずっとルビアンの役に立ちたいと思っていた。彼が行動で示してくれたように、私も何かしなきゃって。

でも私、変われてる……?


「もうーサフィールは話が長いんすよー。レオナ様、正しいとか間違ってるとか、そういうのは気にしなくていいんすよ! レオナ様のしたいことをすればいいんすから!」


――私は昔から、色んな人の恋の終わりを視てきた。それは決して幸せなことじゃなくて。むしろ、人の嫌なところばかり視えて、嫌になって。恋をするのも、いつしか遠ざけちゃった。ルビアンの恋の終わりを視るのも怖い。でも、もう逃げたくない。

ルビアンと会って、話したい。

私の能力のことも、彼と向き合いたい。


「ルビアンに会いたいです」

「ルビアン……クロード様っすか!」

「ふん、惚気か」

「ち、違いますよ!」

「分かっている。行ってこい。その代わり、明日からみっちり修行だからな」


サフィールさんは、あの喋る人形を一瞥する。

今度は今朝のように彼に流されたわけではなく、自分の意思で頷いた。

―――

私とルビアンは同じ屋敷に住んでいる。もちろん部屋は別々だが。

私が廊下を歩くと、メイドたちが私をチラチラと見ては何かを言い合っている。普段なら何も言わない。でも今日は――


「いつも屋敷を綺麗にしてくれて、ありがとう」


私が彼女たちに微笑むと、みんなギョッとして顔を見合わせる。当然だ。前までの私なら、もう慣れているからと自分に言い聞かせて、何も言わなかっただろう。

だけど……昨日の私より、今日の私より、そしてさっきまでの私より少しでも変わっていたい。もう、うじうじ考えたりしない。私は、自分のしたいことをする。

彼女たちからの返事はない。それでもいい。

私は、最後にもう一度笑いかけるとその場を後にした。

目指すべき場所は一つ。ルビアンの部屋だ。

―――

私は、ルビアンの部屋の前で立ち止まると一回、深呼吸をした。言いたいことは何も決まっていないけど、それでも……

私はコンコンと、部屋の扉を軽くノックをした。

少し待ってみたけれど、人がいる気配はない。

もしかしていないのかな? 忙しそうだし、仕事でもしてるのかな。そういえば、朝からもルビアンの姿を見ていないな。何処かに出かけているとか?

もしお仕事なら、彼が帰ってくるまでここにいるわけにもいかないし一旦戻ろうかな。

そう思い、ルビアンの部屋から離れようとすると。


「レオナお嬢様?」


後ろから、穏やかな声が聞こえた。マーサさんだ。

私が暗殺者と間違えてしまった人。あの日から話していなかったら久しぶりかも。


「マーサさん、こんにちは」

「ええ、こんにちはお嬢様。坊っちゃまは、今屋敷を空けておりまして。なにせお父様とお話があるとか」

「そうだったんですね、ではまた後ほど……」


マーサさんに会釈をしてまた出直そうとすると、「お待ちください」と彼女に呼び止められた。

マーサさんは最初、どう言えばいいか迷っていた様子だった。だけど、このままにしてはおけないと思ったのか重々しく口を開いた。

その内容は――「ジェイドが私に謝りたい」とのことだった。

マーサさんは私がジェイドとの間に何があったのか分かっているため、無理して会わせようとは思っていないようだ。ジェイドにどうしてもと言われ、私に伝えたという。

彼に会うかどうかは私の判断に任せると。

私は迷わなかった。あの日、はっきりと自分の意見を言えなかったことを後悔しているから。

私の思いをマーサさんに話すと、彼女はほんのわずかに目を見開いた。そして、「かしこまりました」とだけ言い、ジェイドの元へ案内してくれた。

―――

「こちらでございます」


ジェイドのいる部屋は、ルビアンのところからそう遠くはなかった。彼がジェイドを監視するためらしい。だが、マーサさんが言うには、ここは私とルビアンが婚約者として仲を深めるための屋敷らしい。そのため、ジェイドは今日限りで自分の家へ戻り頭を冷やす期間を設けるとのこと。

そのため、今日私に謝りたいと申し出たとのことだった。


私が部屋の中へ足を一歩踏み込むと、ジェイドは一目散にこちらに駆け寄った。しかし、寸前のところで立ち止まり、後ろに数歩下がった。


「あの、ローヴィッチさん……僕、言いたいことがあって……その、貴女を傷つけたこと謝りたくて。遅いことは分かってます。でも、僕は貴女のことが本気で好きなんです。その気持ちに嘘はありません。だからといって、僕のしたことが許されるわけじゃないですけど……」


ジェイドは視線を右往左往に動かしていた。途切れ途切れに言葉が紡がれる。

私の知っているジェイドは、もっと元気で強引で、私の目を見て話す人。でも今、ここにいる彼はそのどれでもなかった。

そして、ジェイドは許しを乞うように床に座り込んだ。


「僕、好きな人が出来ると、その人以外見えなくなっちゃうみたいなんです。好きな人がいなくなるって思うと、怖くなっちゃって。どうしたら僕のそばにいてくれるのかなって考えちゃうんです。……ローヴィッチさん、ごめんなさい。貴女が望むなら、このお仕事辞めて、貴女の前から消えます」


地面に這いつくばっている彼の姿は、あの時のジェイドとは別人のようで、マーサさんがどんな教育をしたのか気になるところではあった。

だが、ジェイドがこうして自分の本音を言ってくれたなら、私も彼に伝えよう。ずっと言えなかった言葉を。

私は、ジェイドと目線を合わせるようにしてしゃがみ込む。


「ジェイド、貴方のやり方は間違ってると思う」

「そう、ですよね。本当にごめんなさい。僕、今日で仕事を――」

「でも、使用人の中で初めて私の名前を呼んで、優しくしてくれたのはジェイドだよ。だからね、もう自分を責めないで。その代わり……貴方が間違ってることをしたら、今度はちゃんと止めるから。ダメなものはダメだって言う」


私はジェイドのやっていることを正しいとは思わない。でも彼自身を否定しない。

だって、庭に咲いている花はどれも本当に綺麗だったから。彼が手を抜かずに仕事をしている証拠だ。

笑顔で挨拶してくれたこと。私のためを思って、料理を作ってくれたこと。そのどれもが、本物だって信じたい。やり方はちょっとまずかったかもしれないけど。


「僕のこと、許してくれますか……?」

「許すか許さないかで言われたら、簡単に許せるとは言えない。だってあの時の私、すっっこぐお腹空いてたし! 本当に死んじゃうって思ったんだから!」

「本当にごめんなさい……」


私がそう言うと、ジェイドはまたシュンとして俯いてしまう。

そんな彼と無理やり視線を合わせることはせず、私はジェイドの手をそっと両手で包み込んだ。


「でもね、たった一度失敗したからってそれで全部おしまいなんて、私は嫌なの」


私がそうだったように。

――私は魔法で相手を傷つけたと嘘の噂を流された。それが周りの人からして真実だったとしても、挽回のチャンスも与えずにその人を、「自業自得」だと嘲笑い、罵る。私は、そんなことしたくない。


「……だけど、また同じようなことしたらその時はクビにするからね!」


私が人差し指を立ててそう宣言すると、ジェイドは涙ながらに微笑んだ。そして、私のことをギュュッと抱きしめた。


「誓います。貴女に二度と酷いことをしないと、誓わせてください」

「そこまでです」


後ろからパンパンと手を叩く音がした。マーサさんが、耳栓を外しながらこちらへと優雅に歩いてくる。

私たちの会話内容を聞かないようにしてくれていたのだろう。


「レオナ様に触れることは許可しておりません。それと……レオナ様。坊っちゃまがお見えになっています」

「え、いつのまに……」

「先程、坊っちゃまの気配を感じました。足音の動きを察するに……丁度部屋に向かっている頃かと」


気配。足音。この人は一体何者なのだろうか。

だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。私は、マーサさんにお礼を伝え、ジェイドに向かって手を振った。


「またね!」


去り際、ジェイドが優しく微笑んでくれた気がした。

―――

私は早足でルビアンの元へ向かう。

彼と話したい。それだけのために。

――あ、いた!

マーサさんの言っていた通り、ルビアンが部屋に入ろうと扉を開けていた。


「ルビアン!」


私が声をかけると彼は驚いたように眉を上げる。

そして、そのまま部屋に招き入れてくれた。


「……珍しいな。お前から俺に会いにくるなど」

「そ、そうですね」


私は当たり障りのない返事しか出来なかった。

彼と会うのはいつも私の部屋だったから、ルビアンの部屋にいるというのはなんだか落ち着かない。

それに勢いできちゃったから、何を言えばいいのか決めてなかった。

でもやっぱり、ルビアンとの恋の終わりについてだよね。

恋の終わりなんて視えない方がいいに決まっている。だって、今まで視てきたものはどれも良いものとは言えなかったから。

だけど、物事には始まりと終わりがある。

当たり前のことだが、始まりがあるから終わりがあって、終わりがあるから始まりがある。

私とルビアンには始まりがないから、終わりもない……ということなのだろう。

部屋にはなんの音もしなかった。ルビアンから私に話しかけることはない。

……分かっていたはずなのに。彼が私のことを嫌っていることなんて。最初から、彼が婚約破棄をしてきた時から。

……もう、部屋に戻ろう。

私は、話すことを忘れたとルビアンに嘘をついた。それに対して彼は、「そうか」の一言だけで私を引き止める素振りはない。

今日はいつも美味しいと感じるご飯の味がしなかった。

婚約破棄まで四日。

―――

あの日から二日。

一刻一刻と時間は迫ってきているのに、ルビアンの顔をまともに見れない日々が続いた。

彼も私に会おうとはしなかった。むしろ、前よりも屋敷を空ける時間が増え、やはり私は彼に嫌われているのだと再認識せざるを得なかった。

そして私は、約束通りサフィールさんとキアンから修行という名の特訓を受けた。

サフィールさんはとても厳しく、少しでも気を抜くと、「遅い! もっと効率よくやらんか!」などと言葉の鞭が飛んでくる。私に鞭を使わないのではなかったのか。

反対に、キアンはちょっとのことでも私を褒めてくれる。「すごいっす! 今のパンチいいっすね!」と。

その特訓内容とは、魔法を使わず物理での攻撃のやり方を彼らに教わっている最中だ。

私の足元には、死体の山のようにサフィールさん自作の喋る人形が転がっている。


「はぁ、はぁ……すみません、ちょっと今日はもう……」

「ふむ、まぁいいだろう」

「お疲れ様っす、レオナ様! 生卵飲むっすか?」

「要りません……」


ここ数日、ルビアンといる時間が減ったと同時に彼らと一緒にいる機会が多くなった。私は、貴族に見立てた人形を二人の指示を聞きながら、殴り続ける日を送っている。なんの役に立つかは定かではないが、屋敷に閉じこもっているよりは幾分マシだろう。

でも……


「はぁ……」

「え、どうしたんすか、レオナ様。そんなに疲れてるっすか? 生卵をどうぞっす!」

「……結構です」

「そうっすか。じゃあ、自分が……」


キアンはどこからともなく持ってきた生卵を飲み干した。

大丈夫、通常運転だ。最初、彼が生卵を取り出した時は正気かと疑ったが、昨日も同じことをしていたから問題ない。多分。私が二人から修行を受けた後、彼は決まってそれを飲む。もう見慣れた光景だ。

それに、今はこの空気感にちょっぴり救われている。屋敷に一人でいたら、絶対色々考えちゃうからなぁ。うじうじしないって決めたのに。

まさか、ルビアンに恋の終わりが視えないなんて思わなかった。もう彼との婚約破棄までの日数は少ない。今日を含め、あと二日。数週間前まではなんとも思っていなかった。それなのに、日が進むにつれてもっと彼と過ごしたいという気持ちになるのはどうしてなのだろう。


「また考え事か」


サフィールさんがお茶菓子を庭のテーブルに並べてくれている。彼はティーカップを三つ同時に持ち上げ、一気に注ぐ。それが彼のやり方だ。見てるこっちは零さないかハラハラするのだが、彼からすればこの方法が一番効率がいいのだとか。

頑張ったご褒美にこうして甘いものを用意してくれる彼に、「意外といい人」と思って、次の日に痛い目を見るのが私の日課になっている気がする。要は、飴と鞭の使い方が上手いのだろう。

私は、椅子に座りサフィールさんが淹れてくれた紅茶を口に含む。爽やかさとその中に少量の甘さが加わって、ホッと一息つける味だ。


「何かあったのか」

「話を聞いてくれるんですか?」


この前もそうだが、サフィールさんは私の話にきちんと耳を傾けてくれる。


「生徒の悩みを聞くのも教師の仕事だろう。中には、授業をするだけのつまらない人もいるが、俺は違う。自分の持っている知識をひけらかしたいだけなら、他に最適な職業はいくらでもある」

「たしかに……?」

「知ってると思うが、俺は効率を重視する。何故ならそれが一番、時間を無駄にしないからだ。逆に言うとな、俺は時間を疎かにしている奴が嫌いだ。やるべきことがあるのにやらない。物事に対して真面目に取り組まない。そのくせ、他人が努力して手に入れた栄光に嫉妬する。その醜さが、俺は反吐が出るほど嫌いだ」


こんなふうに感情を出すサフィールさんって珍しいかも。というか、この人に感情あったんだ。

私がお菓子をつまんでいる間も彼は話を続ける。


「人というのはな、効率、効率と口にしながらもその通りに動ける人間は少ない。そこに必ず、思考が邪魔をするからだ。本当はこうしたいのに、失敗したらどうしよう。結果が出なかったら今やっていることは全て意味がないんじゃないか、なんてな。そこに伴う、圧倒的非効率。俺はそれがたまらなく好きだ」

「非効率なのに、ですか……?」

「そうだ。もっと分かりやすく言うとな、自分の今いる場所が泥沼だと知っていても歩みを止めないやつが好きだ。どうせ結果なんて出ない。誰にも認められない。そう頭では分かっているのに止められない、とかな。――俺はひたむきに努力を重ねる人間は嫌いじゃない。たとえ効率が悪くてもだ。そして、俺が求める非効率が一番表に出るのが……教師を必要としている生徒だ」


サフィールさんはそう言って、私のことを見てくる。

彼のいう圧倒的非効率って、もしかして私?


「うわ、出た。サフィールの長話。これ、中々終わらないっすよ。人って年取ると、話長くなるっすよね?」

「ほう。それについてはお前も大概だがな」

「いや、自分はサフィールほどじゃないっすから!」


やいやいと言い合う二人。これにも慣れてきたころだ。

そんな彼らを黙って眺めていると、今度はキアンが口を開いた。


「ねぇ、レオナ様。多分、レオナ様は考えるなって言っても考えちゃうタイプだと思うんすよ。まぁ、考えること自体悪いことじゃないっすけど。でもそういうのって、頭を使えば使うほど、疲れちゃうでしょ? 世の中、悪い出来事なんてたくさんあって、毎日幸せ、ハッピーになんてなれないじゃないっすか。嫌なことがある度に落ち込んで、考え込んでたらキリがないっすよ。だから、考えてもいいですよ。自分の思うがままに。そんで最後に、なんとかなるって自分に言い聞かせるんすよ。そうしたら、大抵なんとかなりますから。少なくとも、自分はそう信じてます」


いつもの元気な声のキアンではない。声のトーンを落として、まるで心に直接聞かせてくるような。そんな感じの声。

思わず、私は彼の言うことをじっと聞いていた。


「ふん、お前も大概話が長いじゃないか。年を取ったのはお前の方かもな」

「なっ! こっちは真剣に話してるんすよ! それに俺はまだ若いっすから!」


……また始まってしまった。

でも、キアンの言う通りかもしれない。私って、すぐ考え込んじゃって悪いことを想像しちゃう。だけど、なんとかなるって思ったら……ちょっとだけ、さっきより楽になったかも。

私は、お茶菓子を口に運びながら二人の言葉を自分なりに整理してみた。

サフィールさんは、多分不器用な人なのかな。少し皮肉な部分もあるけれど、頼れって意味なのかも。

そして、キアンの考え方。とても参考になるな。あの楽観的とも言える発言。物事全部がキアンのマインドでどうにかなるわけじゃないけど……それでも、なんとかなる。そう自分の中で唱えてみたら、不思議と本当にそうなる気がした。

―――

そうして、今日の修行は楽しいお茶会をして解散となった。

さっきの二人の言葉や甘いお菓子がいっぱいのお茶会に、私の気分は少しばかり上がっていた。だけど、キアンの言った通り、たくさんの悪いことの中の一つが起きた。

それは、私がルビアンへ会いに行こうと廊下を歩いていた道中のこと。前に私が、掃除のお礼を伝えたメイドたちがまた私の悪口を言っていた。あの時よりも声が大きく、彼女たちの話している内容が聞こえてしまう。

彼女たちは私を気味悪がっていた。普段何も言わない私がお礼を言ったことで、何か企んでいるのではないかと思われているようだった。

悪口は言われ慣れているけど……ここで何か言い返したら、またありもしない噂を立てられてしまうかもしれない。だったらこのまま何も言わない方がいい。そう思い、私は気にしないふりをして通り過ぎようとする。だけど……「うわ、見てよ。あのビッチ。さっき庭でイケメン二人とお茶会していたのよ。婚約者がいるのに、これはねぇ……浮気じゃないのかしら? 王子殿下も可哀想に」彼女たちの言葉は容赦がなかった。

私が、悩ましくその場に立ち尽くしてしまっていると。


「口を慎め」


低く、威圧的な声が廊下に響く。

そこにいたのは、今日も朝から家を空けていたはずのルビアンだった。

彼女たちは、突然のルビアンの姿に戸惑いをあらわにした。何故彼がここにいるのかと、お互い顔を見合わせている。そんな中、一人のメイドがおずおずと前に出る。その顔には苦笑いが漏れていた。


「あのぉ、殿下殿。悪いことは言いません。その女はやめておいた方がいいかと……いい噂を聞きませんし」


彼女がそう言い終わった後、続けて他のみんなもそれぞれの言葉を口にした。一人、また一人と。止まらずに。


「口を慎めと言ったのを聞こえなかったのか。お前たちが侮辱しているのは、俺の婚約者だ。……不敬であるとは思わなかったのか?」

「ですが……!」

「お前たちに支払っている給料は、なんのために存在する。彼女に不快感を与えるためか? 自分がどれだけ不利益なことをしていると思っている。口を動かしている暇があるなら、一銭でも金になる働きをしろ。己の立場を弁えないならば、今すぐ無給で叩き出してやってもいいのだぞ」

「その女になら、こっちも言いたいことがあるんだ!」


ルビアンのあまりにも強い圧に、彼女たちが何も言えずにいたその時。どこからともなく現れた、一人の男。彼は、私がパーティー会場でご飯を食べている時にビッチと罵ってきた男だ。ルビアンが注意をしてくれたはずなのだが……どうしてここにいるのだろうか。


「ここの警備は一体どうなっているんだ。この間にも、一秒、二秒。十秒もすぎている。今この時間だけでも、一つの仕事を終わらせられるだろう。数日前に、溜まっていたあの書類もだ。はぁ、俺が得られていた金が……」


……この状況でもお金の心配をしているルビアン。まぁ、彼はそういう人だ。

でもまさか、あの男が屋敷にまでくるとは思わなかった。よほど私に鬱憤でもあるのだろう。


「このビッチはな、法を犯したんだ! すぐに捕まえるべきだろう!」


男の言う法とは、私が魔法で人を傷つけたことを言っているのだろう。私はそんなことをしたこともないのだが、どこからそんな話が……

男は尚も続ける。「そんな女を第一王子の妻にするのはどうなのか」「第一王子の面子が潰れる」など。

一見、ルビアンを心配しているようにも聞こえるかもしれないが、そこには自分の意見を押し付けようとする浅はかな欲望が見え隠れしている。

それだけではなく、男はルビアンの固有魔法すら馬鹿にし始めた。「第一王子のくせに、大したことのない魔法だ」と。

男が言うには、ルビアンの固有魔法は"対象のものを数センチ動かすことしか出来ない"子供みたいでなんの役にも立たない魔法とのこと。

たしか……あの時、ルビアンが紙を空中で操っていたな。

学校の話でそれどころじゃなかったけど、まさかあそこでルビアンが固有魔法を使っていたなんて気づかなかった。


(だけど、いくらなんでも、言い過ぎだよ……! 私は、慣れてるからいいけど、ルビアンにそんな酷いことを言うなんて……)


男は、ルビアンに対して悪口を言い続けている。

さすがに度が行き過ぎているんじゃないかと思った私は、止めに入ろうとする。だが……男が発する一言。

「そんなちんけんな力でこの国を背負っていけるのか。父親の方が王として優れているんじゃないか」

その一言がルビアンの地雷を踏んでしまったのか。彼は指を一回クルッと回す。前にルビアンが私の前で扱っていた魔法だ。

ルビアンが男に指を突き立てた。その途端。男が急に苦しみ出したのだ。


(え、どういうこと……何が起きてるの……!?)


ルビアンは何もしていない……はず。ただ指を男に向けただけ。それなのに、男はたしかに苦しんでいた。突然のことに、その場にいたメイドたちが立ちすくんでいた。私も、何が何が起きているのか分からなかった。

だが、ルビアンは汗一つかいていない。その目は冷酷そのものだった。


「貴様が言ったのだろう。俺の固有魔法はちんけんで子供のようだと。……貴様の言った通り、俺の固有魔法は"対象のものを数センチ動かすこと"しか出来ない。とても弱い魔法だ。だが、その対象となるものはな。なんでもいいんだよ。そう、なんでもだ。……俺は今、貴様の"心臓を動かしている"」


心臓を動かす。その言葉に辺りは騒然となる。メイドたちは悲鳴を上げ、男は真っ赤になった自分の首を掻きむしっている。


「貴様は俺を侮辱するだけでは飽き足らず、俺の婚約者に向かって、「ビッチ」と、罵ったな? 一度は許したが……二度はない。貴様は調子に乗りすぎた」


手は冷たくなって、体全体、恐怖で震えている。でも――


「ダメ……!」


私は、気づいたらルビアンの体を抱きしめていた。

彼の体が少し身じろいだのが肌に伝わる。


「……離せ。コイツを庇うのか」

「ひ、人殺しはダメ……! ――今日も、私は心のどこかで諦めてました。悪口なんて言われ慣れてるって。だけどルビアンは……そんな私を助けてくれた。だから、この人を庇ってるんじゃないです。ルビアンを……ルビアンを助けてる……! ルビアンがこの人を殺したら、一緒にいられなくなっちゃう」


フッと、ルビアンが手を下ろしたのが分かった。

ルビアンに解放されたと同時に、男が激しく咳き込んだ。だが、彼はそれを見ようともせずに私を抱きしめた。


「ごめん。怖かっただろ。……もうしない。お前が怖がることはしたくない」


彼はそのまま、私の手を引いた。騒ぎを聞きつけたマーサさんが駆けつけ、その場を収めようとしているのが見えた。

ルビアンは何も言わず、目線で、「頼んだぞ」と彼女に合図を送った。そんな彼を、やれやれと首を横に振っているマーサさんの姿を最後に、私はルビアンの部屋へと案内された。

扉が閉まると、ルビアンが私に向き直る。


「何故お前が、使用人から暴言を吐かれているか分かるか?」


――使用人に悪口を言われている理由。

そんなの一つしかない気がする。

"私が悪役令嬢だから"

けど、それをルビアンに伝えたら、彼は真剣な表情で首を横に振った。


「違う。お前が、今の現状を甘んじて受け入れているからだ」

「でも、私が何か言っても……」

「聞いてもらえないならやり方を変えろ。残念ながら、言葉だけで、言動や行動を変えてくれる人は少ない。何故なら、相手の言うことを素直に聞くようなやつは、最初から人を蔑んだりしないからだ。いいか。お前には、第一王子の婚約者という肩書きがあるだろう。その立場を利用しろ。立場も権力も、利用してこそ、その存在意義を発揮する。――要は、俺を頼れと言うことだ。分かれ。――傷つくことに慣れるな。他人がお前を傷つけていい権利なんてない」


そう言い終わると、彼はふいと顔を背けた。耳元がほんのり赤くなっている。

……ルビアンはやっぱり、優しくてしっかりしている人。

私はもう一度彼をギュッと抱きしめた。


「……! おい、何をしている!」

「さっき、嬉しかったです。助けてくれて、ありがとうございます」

「……ふん、当然だ。また何かあれば言え。俺がなんとかしてやる」


私がルビアンの部屋で彼を抱きしめ続けていると――

後ろから、バンッッと大きな音がした。

肩をビクリと震わせながら音のする方へと振り返ると、知らない男の人がそこに立っていた。

私は、慌ててルビアンから離れる。


「あ、あのどちら様で……」

「まだその女と婚約していたのか、ルビアン」


男がルビアンの名を呼ぶ。それだけで、ただ事ではないと察した。この国でルビアンの名前を呼べる人など数える程しかいないのだから。マーサさんでさえルビアンのことを、「坊っちゃま」と呼んでいる。

そんな私の戸惑いを感じたのか、ルビアンは小声で私に耳打ちをした。


「父親だ」


ルビアンの父親――

てことは、国王だ。この国で一番偉い人。

ルビアンの父はそんな私たちを一瞥する。その眼差しは、今まで見てきたどんな人よりも冷たかった。

私はその場に縫い付けられたように動けずにいた。

何も言えなかった。何を言えばいいか分からなかった。


「その女とは婚約破棄しろと言ったはずだがな。お前も同意しただろう」

「……気が変わった」

「ふん、そう言うだろうと思っていた。――いいだろう。関係を続けるといい」


あっさりと彼は引き下がった。もっと怒鳴ったり、絶対に認めないとでも言うと思っていたのに。

だけど、なんだろう。すごい不気味だ。張り詰めた空気は依然として変わらない。

ルビアンの父は、懐から一枚の紙を取り出した。それを、ルビアンに突きつける。


「そんなにその女との婚約を続けたいなら、今の立場を捨てろ」

「え、それってどういう……」


思わず声に出てしまう。

そんな私をどうでもいいかのように、彼はルビアンから視線を外さない。


「言った通りだ。関係を続けたいならサインをしろ。だが、ここにサインしたと同時にお前の地位、立場。全てなくなると思え」


そんな……どうしたら。私のせいで、ルビアンは……

私のせいだ。どうにかしなきゃ。どうにか――今からでも、婚約を破棄した方が……

コツコツと靴音がする。

ルビアンは一寸の迷いもなく父の元まで歩みを進め、その紙にペンを走らせた。


「これでいいか?」

「ふん、そんなにその女が大事か」

「ああ、大事だ」


ルビアンは真っ直ぐ、父親を睨みつける。その視線に動じることなく、彼はサインされた紙を眺めた。

そして、もう満足したとでも言うかのように踵を返した。

バタンと扉の閉まる音が響く。

私もルビアンも一言も会話を交わさなかった。

私の頭の中では、先程の彼の言葉が残っていた。

大事――彼はたしかにそう言った。

私のことが大事……?

私が嫌いだから婚約破棄したんじゃないの?

もう分からない。自分から婚約破棄を突きつけてきたくせに、私を庇うその優しさが分からない。

私が思考を続けている間も、時間は残酷に進んでいく。

ルビアンと私に残された時間は少ない。

婚約破棄まで二日。

―――

婚約破棄前夜。

ルビアンが熱を出した。

おなじみの医者からは、ストレス性のものだろうとのこと。最近、第一王子としての仕事や父親との騒動で心落ち着かない日々だったらしい。

何も知らなかった。ルビアン、貴方が何を考えているのか私は何も知らない。知りたい。

私はそっと彼の熱い手をギュッと握りしめる。

何度かタオルを替え、首筋の汗を拭う。時折、水を飲ませては顔色を伺う。

あの日、ルビアンが看病してくれたように。今度は私の番だ。

――その時。チカッチカッと視界が明るくなる。

え、これって……いつもの……

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