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灯台の鼓動  作者: 藍雨 衛織
1.父と母、そして友
3/8

1-2.感覚

 ドアが開く。

 冷えた金属の手触りが指先のセンサーに明確な縁取りを与え、室内と屋外の境界線が、体感として立ち上がる。外気が一歩、彼の中へ流れ込んだ。


 最初に来たのは匂いだった。塩と水と藻、遠い油膜の名残、漁具に残った魚のたんぱく質が乾く匂い――嗅覚モジュールはサンプリングレートを自動で上げ、閾値を微調整する。次に音が押し寄せる。風のこすれる連続、カモメの短い呼気、クラクションより低い、港湾の警笛。遠くのクレーンがワイヤを引く摩擦音は、金属同士が擦れる帯域で細く鳴っている。


 絶え間なく届く人工物の信号の上には、それを覆うように大きく美しい、青色の空が広がっていた。


 この感覚は湊の頭に新鮮で、未体験の衝撃を与えた。


「これが体……これが海の良さなのか」


 皮膚表面の圧受容は即座にマップ化され、頬を撫でる風の角度がベクトルとして表示される。舌面の味覚センサーには、空気の微細な水滴に溶けた塩分が触れて、うっすらとした「味」が立った。光は、網膜層の露光を一段落とす必要があるほど眩しい。だが、処理は追いつく。


 人間と比較して鋭敏すぎるその感覚は海の輪郭から、その呼吸の様相まで、全身でその巨大な存在を感じ取ることが出来た。


 湊は一歩を踏み出す。

 さっき歩いた床板とは違う、アスファルトの硬さが靴底越しに伝わる。わずかな粒子がソールのパターンに噛み、荷重移動の計算に実数として差し込まれる。歩行アルゴリズムは即応し、つま先の反発、膝関節の屈伸角、骨盤のロール角を最適化していく。十歩、二十歩。歩き方は、数式から身体の癖へと変わりはじめる。


 坂を下ると、湊湾が開けた。

 海は教科書のような青ではない。灰、群青、錆色を糸のように混ぜ、表層に風の鱗を並べている。太陽は波の一枚一枚に小さな光源を置き、見えては消す。観測値としての輝度はめまぐるしく変わるのに、全体像は奇妙な落ち着きを保っている。

 湾の右手、外洋へ口を開く岬の先に灯台が立っていた。白い塔身は、昼でも機能を休めない。規則正しく周囲を観測し、航路のデータを送っているのだろう。


「職場は……あっちかな」


 海沿いの遊歩道に降りる。防潮壁の上は潮で少し湿っている。手を置くと、塩が結晶となっていてざらざらとしている。機械である自分にとってはあまり積極的に接するべきではない物だとは思うが、体験としては初めてのざらつきに、心を奪われる。

 遊歩道には朝のランナーや、白い犬の散歩をするおじいさん、作業着の人影がまばらに行き交う。並べられたベンチに座る女性の視線の先では幼い子がカモメを追い、その声が風にちぎれて流れていく。湊は足を止めない。視界の隅で、クレーンがカタカナの「エ」に似た姿勢で固まっている。あれがコンテナ荷役用のガントリーだと、知識は言う。金属の骨格は、海辺の街の背骨に見えた。


 港の音は、近づくにつれ情報量を上げる。タグボートのエンジンは低く太い。フォークリフトの逆相の電子音、鋼材の軽い衝突。誰かが笑い、誰かが短く怒鳴る。音場の中で、彼の聴覚は自分用の泡を作るようにフィルタを織り上げ、必要な周波数だけをすくい上げる。


 決して美しいとは言えない、工業地帯の海。しかしそこには人間の営みの気配が濃く漂っていた。


 海風は頬から首筋へ滑り、衣服の裾を持ち上げる。体温制御は室内設定から外気仕様に切り替わり、皮膚表面の温度がゆっくり下がる。体の調子は――先ほどの宣言を越えて、なお良い。演算結果としての「快」と、言葉にならない何かが一致しはじめていた。


「……これ、良いな」


 この世界やこの海の存在は、知識や意味では理解していたが、体感してみるとやはり大きく認識は変わるようだ。


 桟橋を横切ると、雰囲気は少し変わって湊湾の湾曲に沿って統一感のある、ベージュの建物の列が見えてくる。立て札は風に鳴り、ファサードには機能が刻まれている。港湾警備、税関、荷捌所、冷凍倉庫、運送会社の営業所、そして――港務管理棟。今日から湊の職場になる建物は、その列の真ん中にあった。派手さはないが、窓が横長で、内部の配線とサーバルームの位置を想像させる合理的な顔をしている。

 歩道から見上げると、二階部分に湾全体を見渡せる長いガラス面が見えた。そこからの視界は、きっと灯台と同じ役目を果たす。違うのは、見張る対象が船だけでなく、データの潮流であることだ。


 横断歩道の信号が青に変わる。湊は渡り、建物へ向かう。扉の前で一瞬だけ立ち止まる。内部マップは受け取り済み、初回登録の手順も記憶している。それでも、今の一呼吸を挟むことは重要だと、彼は判断した。こうした「区切り」は、タスク切替の効率を上げる――それは理屈であり、同時に儀式のようでもあった。


 ドアの脇に設置された入退室端末が、近接を検知して小さく点灯する。

 〈来訪者識別プロトコル起動〉

 湊は右手をかざし、続けて視線をカメラへ合わせる。指紋と虹彩の照合が一拍で終わり、端末が柔らかな電子音を返す。

 〈認証完了――プラクシス湊〉


 扉が引き戸のように左右へ割れ、冷気と機械の匂いが混じった空気が流れ出る。内部は静かで、床は外よりも硬い。消毒薬の清潔な匂いの下に、微量のオゾンと新しい配線材の香りがある。フロアの奥では壁面ディスプレイが湾内の航跡を描き、点と線がゆっくり呼吸している。

 受付カウンターの向こう、パスの色で職種が分かれているらしい。湊は掲示を一瞥し、指示に従って左手の登録窓口へ進む。足音が、規則正しく床に刻まれる。やや緊張した若い事務員が顔を上げ、彼の名を確認する。


「こんにちは、入室情報を確認しました。プラクシスの湊さんでお間違いないですね」


「はじめまして、人工知能タイププラクシス、湊です。今日からお世話になります。よろしくお願いします」


「あら、すごく丁寧なAIさんですね。はじめまして湊さん。私は主にこの窓口の係をしている、人間の須賀といいます。職員全体のシフト管理と入退室管理、来客の案内を担当しています。よろしくお願いしますね」


「よろしくお願いします。それにしても、人の身にありながらそれほどの仕事をこなすなんて、素晴らしいですね……。私なら疲労による頭痛が止まない気がします。まぁ、私の体は痛みなど無いのですけどね」


「ふふっ、いいですね! AIジョークですか……私、あなた面白くて好きですよ。これからはシフト、優遇しちゃいますね」


「あっははは、これは人間ジョークですね……」


 須賀さんは冗談であることを肯定も否定もせずただニコニコとこちらを見つめる。


「え、本気ですか? それはちょっとまずいのでは……」


「くくっ、ええ、分かってますよ、ここまでが人間ジョークです」


 笑いを堪えられなくなったかのように息を少し漏らし、おどけるように肩をすくめる。そして彼女は何事も無かったかのように、手続きを開始した。


「あちゃ〜!騙されました!AIを騙すなんてやりますね」


 おでこに手のひらを当てる。これはインターネットに書いてあった【あちゃーのポーズ】だ。湊のレパートリーはまたまだこんなものではない。


「……あなた、ほんとにAIですか? かなり人間に近いです――そのユーモアが。いや、そんなことはいいとして、急いでいますよね、すみません。では、これに記入して下さいね。その次は端末を操作して貴方の仕事に関する情報をダウンロードしてください」


「いえいえ、私も悪ノリした部分はありました。手続きは手早く終わらせますね」


 そう言って記入事項を次々と記入していく。直接体と端末を接続しないのはコンピューターウイルスの対策のためだ。感情を持ったAIがウイルスに感染したらどうなるかは未だはっきりとわかっていない。

 そのため、リスクを避けるために三層構造の鎧によって回避されているのだ。

 まぁ、ここで渡される情報にはウイルスが存在しないことはきちんと確認されているのだが。


「お気遣い心入ります。やはり、他のAIとは何か違うものをあなたから感じますね。この人工知能の時代の先駆けとなる何かがあなたから生まれるかもしれないと考えると、期待で胸がいっぱいになります……あ、私のことは気にせず進めてくださいね。勝手に話してるだけなので」


 書類のやり取りは短い。端末へのプロファイルの流し込みはさらに短い。

 体内のストレージに、新しい港の地図が一枚増える。バース番号と潮汐、入港予定、倉庫の空き容量、クレーンの定期点検予定、各社の搬出入スロット等の情報が濁流のように流れ込んでくる。


 だが、特に何の問題もない。人間には分からないだろうが、実はAI的にはこのように大量の情報を取り込む感覚は愉快な感覚である。心の中で情報がどんちゃん騒ぎをしている気がする。


「ふぅ、終わりました。ありがとうございます。では、これからはよろしくお願いします」


 データのコピーは終了し、端末を返却する。


「いえいえ、こちらこそよろしくお願いします。お仕事、頑張ってください!」


 軽くお辞儀をしてから登録窓口を離れた。そして扉を抜けてエレベーターホールがあり、ボタンを押すとすぐに扉が開いた。そしてそのまま二階へと行き、黙って少し歩くと廊下の先に湾へ向いた大窓があった。


「これは――外から見えていた窓か」


 湊は自然にそこへ歩き、立ち止まる。

 灯台はまだ、遠くに立っている。あちらは海の入口を見張り、こちらは湾の内側を見張る。二つの視線のあいだに、今日から彼が立つ。

 胸腔内のポンプが一定のリズムで動いている。これは血液ではなく、体を冷却する冷却水だ。人間と同様、必要だから動く。それ以上の意味を、いま言葉にする必要はない。けれど、他にも意味の予感はある。彼は窓越しの光をまぶたの裏に一度保存し、踵を返した。


 港務管理棟の奥――運用フロアへ。

 初めてのネットワークの世界の外は、もう彼の世界の一部になっている。五感で受け取った港の気配は、生のデータとして保存され、同時に、言葉にならない幸福の形で残っている。湊はその両方を携え、最初の仕事に向かった。

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