表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

WISH

 西暦二三六五年――。

 世界は再び、戦争の影に脅かされていた。

 二三四〇年より立て続けに発生した国際粉争、その中心は、東アジアであった。中国の三分割、カンボジアとタイの戦争、フィリピンの内紛、そしてもっとも大きな事件は、極東アジア戦争と呼ばれるものであった。

 二二〇八年に日本領となったサハリン、その中心都市豊原で発生した新しい社会体制『新社会主義』。全ての思想文化を否定し、超科学主義とマルクス経済絶対主義に基づいた社会を築くため、シベリア連邦、アメリカ合衆国、朝鮮共和国、東北中華民国、そして日本に次々と戦火を広げた。

 結果、シベリアはその東半分を、朝鮮は沿海州の一部を占領された。アメリカは、アラスカに上陸を許したものの国境線を守り、東北中国も黒龍江を渡らせなかった。この戦争でもっとも大きな被害を受けたのは、日本であった。

 二三四九年、日本は北海道から敵の侵入を許し、あっと言う間に全島を占領された。日本は国連とアメリカ、アジア各国に応援を求めたが、敵は一週間で東北地方を制圧し、関東に進撃してきた。日本の不運はさらに続く。埼玉南部決戦のまさにその瞬間、関東は大型地震に襲われた。東京にいた日米国連合同軍は壊滅し、敵はあっさりと首都を奪取したのだった。

 その後日本は停戦条約を結び、フォッサマグナを停戦ラインに定めた。首都は大阪に移し、とりあえず国家としての体裁は守ることはできた。

 世界は、この事件により、大きな不況に見舞われた。ヨーロッパや中東は何とか復興したが、特にアフリカでは大打撃を被り、戦乱が発生した。また、アジアには恐怖と緊張の時代が続いた。

 物語は、その緊張の原因、世界の不幸の原因である新しい国家、『極東アジア連邦共和国』のある地方都市で始まる。

 かつて東京と呼ばれていたその都市は、地震により倒壊したビルの残骸がいまだ残るありさまであった。もはやあの物質集積都市の面影はなく、ゴーストタウンと化していた。

 唯一、都市として整備された地域があった。昔の新宿副都心、そこは大きな近代的ビルディングを中心に、城郭都市を形成していた。いや、都市と呼ぶには少し語弊がある。それは巨大な研究所なのだ。

 都市の住人は、研究所の所員とその家族である。城郭の中にはあらゆる生活物資がそろっており、また最新の都市福利設備も完全に整っている。その都市にいれば生活の全てが保証されているのだ。

 研究所は前述のビルディングである。どんな研究にも支障がないよう、世に存在する研究設備が完備されてある。したがって外部との接触は、一切必要ないことになる。食糧や日用品その他必要なものは、全ては国家によって支給されるのだ。

 では、ここではどんな研究をしているか。それは、これより始まる物語の中で説明することになるだろう。この研究は国外には一切知られていない。もちろん、国内にもだ。それだけ、この研究には『危険』がある。危険――これまでに科学によって生み出されたすべての危険よりも、もっと危険なもの。あらゆる意味で、それは人類の脅威となる。

 しかし、それは人類が手にするにはまだ早すぎた。


     ☆     ☆


 ビルディングの八十二階。この階は、一階にある案内図には存在しない。その図では八十一階が二フロアを占めている。エレベーターも八十二階は通過する。

 その八十二階に、少女が一人で生活していた。フロアの一角にある彼女の部屋は、その都市の中では高水準の設備が整えられている。

 二十畳ほどもあるリビングとダイニングキッチン、少女一人には広すぎる寝室、一般の家庭には少ない浴槽型の広いバスルームもあった。リビングには絨毯が敷かれ、ビジュアルシステムを寝ころがって楽しめるようになっている。観葉植物が部屋の隅々にあり、壁の色調も自然な色合いになっている。採光も明るく、空調も完全に管理されている。

 リビングにはさらに、大きな窓があった。南東方向にあってよく陽が入る。眼下には、城郭都市の町並みと工場群が見え、外壁の向こうには荒涼とした大地が広がっている。そして、東京湾が見えた。

 少女は、午後の時間を窓の景色を眺めて過ごしていた。少女の年は十二歳。際立った特徴はないが、二次性長が始まったと伺える丸みが見て取れた。髪は短くカットしており、イメージとして活発な印象がある。

 白い薄手の布一枚だけの室内着は何の飾りもなく、すぐに脱ぎ着できるという実用一点張りのものだった。が、少女にとって生活上の支障はないのだから、それは何でもないことだった。少女はビルの外へ出たことはない。八十階より下にも降りたことはない。一日の大半を今いる自室で過ごし、そこと研究室のあいだの廊下を往復するだけの毎日だった。

 ビジュアルシステムのモニターには、少女が数日前にリクエストしていた大海原の映像が流れている。しかし、少女の興味はそれにはなかった。窓の外に見える、東京湾。快晴の空の下に見える、深い青色の海。映像ではなく、実物の海だけに少女の好奇心が注がれていた。

 この頃の東京湾も、決して美しいものではなかった。戦前の巨大都市によって汚染された海は、十五年では浄化されない。しかし、少女はそれでもよかった。海が見たい。実物を、そして、じかに。海水を両手ですくい、両足で感じたい。混じりっけのない純粋な夢だった。

 そしてそれは、今夜、実現する予定になっていた。

 もちろん、まず先にこのビルから抜け出し、囲まれた巨大な壁を脱出しなければならないのだが、少女はすでにそのルート、および方法について準備は万端に整っていた。

 コン、コン。

 ドアがノックされ、すぐに女性がドアを開けて入ってきた。柔らかい若草色のワンピースに白衣をまとったその女性は、部屋の奥へ進み、窓辺にいる少女の下へやって来た。

「なつみちゃん。すぐに研究室へ行ってくれる?」

 海を見つめていた少女――なつみは、女性に振り返った。

「どうして? 今日は午後からは何もない筈じゃなかったの?」

 普段ならば、このように突然呼び出されることはなかった。研究が入るなら午前のうちに知らされているのだ。今日はなにも言われていない。従って、なつみは午後からの時間をシーウォッチングにあてていたのだが。

「政府の偉い方々がやって来られて、なつみちゃんに会いたいと言ってるの。十分くらいでいいから」

 なつみは、露骨に嫌な顔をした。海を見るのを邪魔された上に、中央政府から来た中年のおじさんに会わなければいけないのが、その原因だった。以前に一回だけ中央政府の人間に会ったことがあるのだが、その時の舐め回すような視線と余りにも不快な思考に、幼いなつみは泣きだしてしまったという経験がある。

「ごめんね、わたしが物を言える立場にないから、断りきれなかったの」

 女性はなつみの反応に罪悪感を覚えて謝った。なつみは慌てて笑顔を作った。

「篠原さんのせいじゃない。その……、突然だったから」

「本当にごめんね。で、すぐに着替えてくれる? この前研究発表会で着ていったワンピース、これを着て」

 女性――篠原は手にかけていた服をなつみに見せた。なつみは室内着を脱いで、膝丈スカートの淡い赤色のワンピースに袖を通した。篠原に背のファスナーを上げてもらい、髪を素早く解かして赤いリボンを結んでもらう。なつみはそれをすべて篠原に任せてじっとしていた。服を着ることは普段は全く必要のない行為だからだ。こうして身支度を整えるのは、二ヵ月前の学会での研究発表会に出向いたとき以来だった。

 なつみの支度が終わり、篠原の後ろについて、二人は部屋を出ていった。


     ☆     ☆


 二人の行く先は、八十一階の研究室だった。空調で温かいけれども、一面クリーム色の廊下は冷たい印象を持っている。八十一階と八十二階のあいだだけを行き来する専用エレベーターを降りた二人は、その廊下を奥へ進み、研究室の中へ入っていった。

 部屋の中には五人の人がいた。一人は研究所所長である白髪の男、深見謙二。次にこの八十一階の研究室室長で小柄な中年男、富沢春樹。そして、その部下である研究員で細身長身の若い男、久川修一。残りの黒い軍服を着た二人の男に、なつみは見覚えはなかった。どちらも細身だが力強い体格をしている。

 なつみは部屋の中央にある簡易椅子に座らされた。

「この子が“E25号”です」

 室長富沢が軍服の男らになつみを紹介した。彼らは表情を一切変えずになつみを見た。その視線に、なつみは背筋が震えるのを覚えた。彼らのなつみを見る目が、無機的な物体を品定めするようなものだったからだ。

 嫌な人だ。なつみの心では、軍服の男らに対する嫌悪感が次第に増してきた。嫌な人だ。それは昔の、舐め回すように見た男に抱いた感情とは少し違う、もっと根本的な嫌悪感。だが、なつみにはそれが具体的に何なのかはまだわからないでいた。

 しばらくして、軍服の男の一人が室長に尋ねた。

「能力はどれくらい?」

「お見せしましょう。久川君、準備を」

 富沢に言われ、久川は部屋の隅のテーブルの上に、重さがゆうに二十キログラムはある鉄のブロックを三つ置いた。なつみからテーブルまでは、十五メートルはある。

「では、なつみ、やってくれ」

 なつみは、富沢に言われて素直に従った。鉄のブロックに意識を集中し、拳を強く握る。

 一秒も立たないうちに、鉄のブロックに変化が現れた。積み重ねてあった三つのが上から一つずつ浮き上がりはじめたのだ。三つのブロックはそれぞれ全くばらばらな軌跡を空中に描き、テーブルから三メートルの高さで横一列に並ぶと静かにテーブルに着地した。

 なつみは全身に入っていた力を緩め、大きく息を吐いた。額に多少汗がにじんでいたが、なつみには特に変化はなかった。

「かなりの高レベルには達しておりますが、残念ながらまだ実用的ではありません。まだまだ研究の余地は十分ありますし、また新しい発見もありましょう」

 富沢は笑顔で軍服の男に説明した。男らは軽く頷き、そして深見所長に向いた。

「過程には満足できた。もちろんだが、より高度な能力の開発に全力を注いでほしい。予算のほうも去年の倍額を計上している。今後も十分な研究をしていただきたい」

「ありがとうございます。この研究も十二年の歳月を費やしておりますが、ようやく半ばの段階まで達し、当初の予定より早めに進んでおります」

「だが、一つ気になる点があった」

 この言葉に、深見所長の笑顔が止まった。

「なつみ、というのは、これの名前か?」

「は、そう呼んでおりますが」

 答えたのは富沢室長だった。

「何か意図でもあるのか?」

「いえ、特に意図というものは……。25号では言いにくいところがありまして、所員の提案によりなつみという愛称をつけたのです」

「ふん」

 軍服の男らは、富沢の答えに不満な様子で、なつみを見下ろした。

「これに名前など必要ないだろう。実験体に愛称など……」

 呟き声ではあったけれども、それは部屋にいたものすべての耳に届いた。もちろん、なつみにもだ。

 だが、なつみは反応しなかった。提案者である篠原や久川は強く反応したが、なつみには感情の変化はなかった。それは、なつみが理解していないのではない。すでに自分が実験の道具であることは知っていたのだ。だれもなつみにそんな言葉を漏らしたことはないのだが、なつみはすでに、漠然とではあったけれど、知っていた。

「ひどいわ、そんな……!」

「篠原君! 25号を部屋に戻しなさい。早く」

 軍服の男に反論しようとした篠原の声を深見所長が遮った。篠原は物言いたげに拳を震わせたが、深見の強い視線に押さえつけられた。なつみは立ち上がり、篠原と久川とともに研究室を出ていった。

「所長、少し25号に感情を入れすぎだと思ったが」

 男の言葉に、所長も室長も押し黙ってしまった。


     ☆     ☆


「無茶だよ、あの人たちに言い返そうだなんて」

 なつみの部屋の、床に座った久川は、篠原の行為をたしなめた。篠原はなつみの服の整理の手を止め、不満そうに久川に言った。

「だって、腹が立つじゃない。なつみって呼ぶのがどうしていけないの」

「中央政府の人間に理解されるわけがないだろ。まして軍人なんだから、なつみを爆弾の一つとしか見てないんだよ」

「ちょっと、なつみちゃんの前でしょ!」

 篠原は声を潜めて久川を制した。が、なつみは気づいてない様子だった。

 なつみは室内着に着替えると、また窓辺に座って海を眺めていた。篠原はさっきまで着ていたなつみのワンピースをウェアラックへしまい、なつみの側へ寄っていった。

「なつみちゃん、最近窓の外ばかり見ているのね」

 篠原の呼びかけに、なつみは軽く頷いただけだった。

「何を見ているの?」

「……海」

 陽は大きく西に傾いていた。暖かいオレンジ色の光が遠くの東京湾に降り注ぎ、水面は黄金色に色づいていた。その反射の光はなつみの部屋にも届き、すべての空間をみかんのような甘い空気が包み込んでいた。

 なつみの、海を見つめる瞳の中に、みずみずしい『力』が溢れているのを、篠原は気づいた。恐らくこのような瞳は、普段の生活や実験の最中には見られないだろう。今のなつみにとって海が何よりもなつみを普通の少女らしいものにしている。

「……海かあ。もう何年行ってないかな」

 篠原は、昔家族で海水浴へ行ったことを思い出していた。現在他の研究室の室長をしている彼女の父親がこの研究所に招かれる前、彼女が七才の時、一度だけ行ったことがあった。夏の盛り、太陽が強く照りつける海岸。砂浜が白く輝き、踏みしめるたびに足の指の隙間まで熱い砂が入ってくる。吹きつける海からの季節風。遠くに土用波の白い破線がながれ、海は空の色に呼応したように青く、空気の透明さにつられたように透き通っていた。

「……行ってみたいな、そんな海に」

 それは全く無意識になつみの口から漏れた。篠原は驚いてなつみの顔を覗いた。

「驚いた。なつみちゃんがそんなことを思ってたなんてね」

 これまでどこかに行きたいと言ったことがなかったからだが、篠原はなつみの発言にこれまで彼女が考えてきた思いが口について出た。

「そうよね、今まで外に出たことがないんだもの、行ってみたいと思うわよね」

「おいおい、滅多なことを言うなよ」

 その篠原を、久川の声が止めた。

「どこに誰がいるかもしれないんだぞ。それに、どうしたってむりだよ、そんなこと」

「だって、可哀相じゃないの。生まれて一度もこの八十二階から出たことがないのよ。海に行ってみたいって言ってるんだから、行かせてあげたいと思うでしょ?」

「思わないこともないさ。だけど、無理なものは無理なんだよ。恵だって、犯罪者にはなりたくないだろ」

 久川の言葉に篠原は口をつぐんだ。国家的最重要人物であるなつみを外へ連れだそうものなら、大げさでなく、命がいくつあっても足りない。国内で無事に生きていくことは出来ないだろう。

 なつみは二人の会話を聞いているあいだ、海を見続けていた。誰に連れていってもらわなくても、今夜自分で海へ行くのだ。夜も更けた午後二時、一人で出掛ける。その計画は篠原にさえ言っていない。もちろん、誰にも迷惑を掛けないためだ。

 やがて太陽は富士山の見える山々に沈んでいった。


     ☆     ☆


 夜十時が消灯時間である。なつみは見回りにきていた篠原におやすみの挨拶をして、いつもどおりにベッドに入った。三十分後、起き上がったなつみは誰にも気づかれないように準備を始めた。ウェアラックから、今日着ていたワンピースと、以前一度だけ着た厚手のコートを出し、着替えた。外はなつみの部屋とは違いかなり寒いらしいことを聞いていたからだ。

 なつみはすべての準備を整え、あとはひたすら二時になるのを待った。抑えられない高揚感と緊張で、眠気は全く無かった。ただ、一分一秒が過ぎるのが待ち遠しく、気を落ちつかせるために窓辺で海を見ていたものの、落ちつかなかった。

 やがて、時計の針は二時を指した。

 なつみはPKを部屋のドアの電子ロックに集中した。電子回路の解析の訓練はつい一ヵ月前から行われている。今回のお出かけ脱出作戦も、その訓練中に思いついたものだった。

 電子ロックは二度火花を散らしたあと解除された。なつみは音を立てない様にドアノブを回し、ドアを開いた。

 廊下には監視装置があった。生まれて以来十二年生活しているため、どこに何があるかはほとんど熟知していた。監視カメラや熱源感知装置などは壁の中に埋め込まれているが、位置などはなつみが見てもわかった。なつみは再びPKでそれらをショートさせ、廊下に出た。

 快適な暖かい空気が満ちているはずの廊下も、昼に比べてさらに寒い印象があった。五メートルおきに常夜灯があったけれど全体的に暗く、なつみは背筋に冷たいものが吹きつけられているような気がした。

 なつみは廊下を進み、エレベーターの前にたどり着いた。

 エレベーターは下、つまり八十一階を表示していた。八十一階に降り立つとまず廊下があり、三つの研究室のドアが見えるだけで、さらに下へ向かうエレベーターはない。八十一階は二つの空間にわかれており、下へのエレベーターは研究室の中にある別のドアから隣の部屋へ行かなければならない。

 なつみの計画では、階下に降りて研究室を抜けることはしないことになっていた。なぜなら、それにはリスクを伴ってしまうからだ。そのあいだに多くの電子ロックを外さなければならなかったし、この時間でも研究室に誰かがいないとは限らないからだ。

 なつみはエレベーターを離れ、右手の非常階段口に向かった。ここならばドアは容易に破壊できるし、誰かに出会うこともない。

 しかし、非常階段も八十一階で一度中へ入らなければならなかった。

 PKの力で、なつみは非常階段の電子ロックを外した。ドアを開け、外のタラップに出た。

 夜の湿った風がなつみに襲いかかってきた。

 なつみにとって生まれて初めての外気は、不快なものを含んでいた。月のない夜、湿気を多く含んだ風は、完全空調のビルの中と比べればまさに雲泥の差がある。しかも、闇がなつみを恐怖の渦へ陥れようとしていた。

 なつみの決意にわずかながら陰りが見えてきた。その時。

 エレベーターを動かすモーターの音がなつみの耳に飛び込んできた。

 振り返ると、エレベーターの表示が下から上へ変わるのが見えた。

 セキュリティシステムを遮断しながらやって来たなつみだったが、遮断されると逆に異常事態として感知されることをなつみは知らなかった。

 ここで警備員らに捕まってしまったら、海へ行く夢は永遠に絶たれてしまうかもしれない。なつみは意を決した。ここで捕まるわけには行かない。しかし、階段は一つ下で終わっている。他に方法はなかった。

 エレベーターは八十二階に到着した。

「なつみちゃん!」

 エレベーターの中からは、三人の警備員と篠原がいた。

 篠原の目に信じられないものが写った。

 なつみが、いるはずのない非常階段にいて、しかも柵を乗り越えようとしていたのだ。

「やめて、なつみちゃん!!」

 篠原はなつみを止めようと駆けだした。

 しかし、それは全く間に合わなかった。なつみは頭から暗闇の中へ飛び込んだ。

 篠原はなつみを追っていきそうな勢いで柵から下を覗き込んだ。だがなつみの姿はすでに見えなかった。

「そんな……、なつみちゃん」

 篠原は、目の前で起こった出来事に、自失してしまった。


     ☆     ☆


 壁にかかった時計は、午前三時を示している。

 事件から一時間が経過したが、室長室は不安と絶望の入り交じった重い空気に満ちていた。急遽招集された久川や研究員、富沢室長、そして篠原も、すでに四十分以上まともな会話を交わしてなかった。最後に声を発したのは富沢室長が現れたときだった。

 篠原は部屋の隅で簡易椅子に座り、なつみの無事を祈っていた。八十二階から落ちれば助かる見込みはまずないが、当時風が強く吹いており、体重の軽いなつみが風によって流され落下にブレーキがかかっている、彼女はそのわずかな望みを頼りにひたすら祈り続けていた。

 だが、彼女の心にはそれ以上に深い傷を負っていた。なつみは、自ら闇の中へ飛び込んでいった。まるで……、いやあれは自殺ではなかったか。もしそうだとして、その動機は何なのか、篠原には十分すぎるほど分かっていた。これまでの拘束された生活に嫌気がさして、というのならば、その原因に自分も加担している。それを思うたびに彼女は身を縮めた。

 部屋の誰もがモニター電話のコール音に耳を集中させていた。現在地上では、警備員等によるなつみの捜索が行われていた。だが、既に一時間経過しているのに発見の報告はいまだない。風の影響説も考慮に入れ捜索範囲を広げているにもかかわらず、なつみの痕跡すら発見できないでいた。

 ――プーッ、プーッ、プーッ……

 そこへ、待望の連絡が入ってきた。全員が室長のデスクに駆け寄る。富沢は緊張した面持ちでモニター電話の受信スイッチを押した。

「どうだ、見つかったか」

 富沢の声には希望の色は含まれてなかった。彼はすっかり諦めているようだ。しかし篠原はモニターに映った警備員の男の返答にすべての希望を寄せた。なつみは、無事だったんだろうか。

 だが、モニターの中年の男はすべてにおいて違った答えを返した。

「見つかりません、室長」

「見つからない!? どういうことなんだ、いったい」

 そんな馬鹿なといった富沢の口調に、警備員の男も言葉を荒くした。

「どうもこうも、ないものはないんですよ! 本当に落ちたんですか!?」

「私の目の前で落ちていったんだ、間違いない!」

「……ま、もう少し範囲を広げて探してみますよ。とりあえず半径八百メートル以内には見つかりませんでした」

 そういうと男はブツッと電話を切ってしまった。富沢はまだ信じられない様子でこちら側のスイッチを切る。

 部屋に再び静けさが戻ってきた。しかし、電話連絡のある前とは明らかに違うものになっていた。

 なつみの姿が見つからない。この報告の解釈が出来るものはこの部屋には誰もいなかった。そんな筈はない、なつみは自分の目の前で落ちていったのだ。では、夢を見ていたのか? だが、今なつみの部屋には誰もいない。確かになつみは落ちたのだ。にもかかわらずみつからない。篠原は頭を抱えるしか手はなかった。

 と、その時、突然室長室のドアが、ノックもなく激しく開いた。入ってきたのは、昼間研究室を訪れた政府役人の二人と、この研究都市に駐在する陸軍特殊兵器開発部隊長、黒田秀和少佐だった。

 黒田は他の者には目もくれず富沢室長に詰め寄った。

「さて、どういう事か説明してもらおうか」

 その頑丈な胸板に圧倒されて、富沢は椅子の上でのけ反った。事実、彼がこの都市の中でもっとも権力を持つ人物で、若い年齢のわりに厳めしい顔つきをしている。

「し、少佐、どういう事かと言われましても……」

 冷や汗を吹き出しながらしどろもどろに答える富沢を見下ろしながら、黒田は不気味に静かな口調で続けた。

「なぜ逃がした」

「逃がしたとは? なつ……、いや、25号が転落したのは事故だったんですが……」

「なるほど、事故か」

 と言うと、黒田は突然富沢の胸ぐらを掴み、戦く彼をそのまま高く持ち上げた。

「あれが事故だというのか、室長。25号が偶然部屋のロックを解除し、偶然非常階段へ行き、偶然転落したというのか。私を甘く見ないで欲しいものだな。25号は自らの意思で脱走した。それを易々と見逃した室長、貴様の責任は十分果たしてもらう」

 彼は富沢を宙に持ち上げた状態からその手を離した。床に崩れ落ち咳き込む姿に向かって、黒田は命令を発した。

「室長。25号の研究は本日只今をもって終了する。研究室は撤収作業にかかり、一週間後に解散とする。いいな!」

 まさに寝耳に水の命令だった。篠原ら研究員は動揺を隠しきれなかったが、黒田に反抗は出来なかった。しようものならどのような処遇を受けるかわからない。

 だが篠原にはさらにショックな言葉が黒田から出た。

「富沢春樹、貴様は只今をもって陸軍新宿駐屯大隊に所属し、25号捜索隊長に任命する。至急25号を捜し出し、抹殺しろ」

「抹殺!? 少佐、どうしてなつみちゃんを殺してしまうんですか!? 何も殺さなくても……!」

 言いだして、しまったと後悔した篠原だったが、乗りかかった船で黒田に意見した。彼はやはり表情一つ変えず、静かに篠原に体を向き変え、鋭い視線をぶつけた。

「何者だ」

「この研究室員の篠原です。お願いです、なつみちゃんを殺さないで! あの子は何もしてないじゃないですか!」

 ここまで言ってしまえば、もう歯止めはきかない。篠原にとっても命懸けの発言であることは身に沁みてわかっていた。

「ずいぶん私的な感情だな、女。私に意見することだけでも褒めておこうか。しかし、それ以上の発言は許さん」

「なつみちゃんを殺さないで! あの子だって普通の子供のように表に出たかっただけじゃないですか。なのに、それだけで殺してしまうなんて、あんまり――」

 そこで彼女の台詞は途切れてしまった。視線は黒田の取り出したレイガンの銃口に注がれる。エネルギー充填のキューッという音が部屋に響く。

「女、何か知っているようだな。25号がどこかに行きたがっていたとしたら、それはどこだ。答えろ」

 黒田の質問に、篠原は顔を背けた。答えれば、軍はなつみを捜索しに海へ向かっていくだろう。教えるわけにはいかない。

 部屋に緊張が走った。恐ろしいほどの緊迫感が全員の体をこわばらせている。誰一人として行動しようとはしなかった。

「答えろ」

 充填の終わったレイガンを、黒田は篠原の顔へ向けた。五秒待って、答えようとしない彼女に、彼は容赦なくレーザーを発射した。

 光線は篠原の右側にそれた、が、彼女の右の頬に一筋の火傷ができ、髪の毛の焦げる匂いが漂った。

「次は外さん。答えろ」

 再び顔へ銃口を向ける黒田に、彼女はまさに死への恐怖を覚えた。どんなになつみのことを思っていても、銃を目の前に向けられれば、どんな人間でもくじけてしまう。篠原はそんな自分を恥じながらも、黒田に答えてしまった。


     ☆     ☆


 その頃、なつみは研究都市から約二キロメートル離れた場所を歩いていた。

 なつみの能力には果てし無いものがあった。ビルから飛び下りたのもレヴィテーション能力が発現していたからだ。宙を飛び、研究都市の回りを囲む高い壁も難なく越えて、瓦礫の山に降り立った。

 そこは、廃墟の都市だった。十五年前の地震によって破壊されたそのままの状態の都市には、有機的な物体は全く存在していない。砂礫とガラス、人工的な物質だけで、わずかな草木も小さな動物もここにはいない。ゴーストタウンと呼ぶにふさわしい場所だった。

 月のない夜、研究都市からのわずかな明かりだけで前が見えないほど暗く、なつみは何度も転びそうになった。幹線道路だった場所も障害物が至るところにあり、歩きにくいことこの上ないありさまだった。

 なつみは大きく息をつくと、傍の手頃な瓦礫に腰を下ろした。長時間のレヴィテーションは体力をかなり消耗している。それにこのまま闇を進んでは海の方角を見失いそうだった。なつみはここで夜が明けるまで待つつもりだった。

 湿気を含んだ不快な風は、次第に収まりつつある。空の星々は都市の中で見たそれよりも遥かに数が多く、激しく瞬いていた。なつみは具合のいいように地面に寝ころがり、見たこともないような美しい星空を眺めた。ビルから出た瞬間に感じた外世界の悪い印象は、良いものへと変化していった。

 夏も盛りの季節のため、やや厚着気味のなつみの装いはそのまま寝てしまっても害のないものだった。なつみは慣れない夜更かしのためにすぐに睡魔に襲われた。なつみは瞼の下でも瞬く星に安心して眠りに付いた。都市の中では大騒ぎになっているとも知らずに。


     ☆     ☆


「なつみちゃんが新しい能力のことを私たちに黙ってたって言うの?」

 篠原は激しく久川を睨み付けた。けれど、彼の指摘は当然ながら彼女にもわかっている。ただそれを言われるのが悲しかったのだ。

 時間は午前四時半を回っていた。富沢室長は陸軍兵舎へ赴き、篠原らは今日一杯自室謹慎の身となっていた。謹慎とは言っても実際はマンションから出なければいいといった軽いものだったので、久川は階下の篠原の部屋へやって来ることができた。

「少佐は、なつみは逃げたんだって言ってただろ? どうやって逃げだしたか考えれば、なつみにレヴィテーション能力があったとしか考えられないじゃないか」

「それは私も否定はしない。でも、普段実験中には全く見られなかったわ。なつみちゃんが隠していたなんて、考えたくない……」

 部屋の中はきれいに片づけられている。じゅうたん敷きの床に座った二人はテーブルを挟んで、なつみのことを考えていた。窓の外はまだ暗く、しかしいつもと違ってサーチライトが左右に照らしていた。なつみの捜索の手は都市全域へ広がり、そばの道路を緊急自動車がけたたましいサイレンを鳴らして通るたびに、篠原は体を震わせた。

「けど、なつみがどんな能力に目覚めても不思議じゃないんだよ。今までだってそうだったじゃないか。覚えてるだろ、22号の時……」

「ええ、暴走事件でしょ。でもレヴィテーションってPKの応用とは言ってもハイレベル能力よ、なつみちゃんはまだPKをマスターしたばかりなのに」

「だから、隠してたんだよ、能力を」

「……やっぱりそうなのかなあ」

「なつみは強い能力が突然発現する可能性が十分あるんだ」

 篠原は大きく息をついた。それはこれまでの数々の実験でわかっている。遺伝子操作による超能力者開発実験は始まって十四年の歳月を経ている。特に後半は遺伝子操作を精子、卵子の段階で行い、人工受精させる方法が取られている。これにより、生まれる子どもは確実に超能力を発揮するようになる。しかし、最初は長生きせずほとんどが二才の誕生日を迎えることはなかった。その中で残ったのがなつみと22号であった。だが22号は四才のとき、急激に能力が発達したため精神崩壊を起こし暴走してしまったのだ。二日ほど暴れた22号は能力限界を突破して力が消失し、そのまま息絶えた。

 もっとも良好に成長したなつみは成功例として実用化実験へと段階が進んでいた。後に大量生産ができるよう、マニュアルも作成されている。しかし、この実験も黒田少佐によって、ついさっき、終了させられた。

「……本当に海に行ったのかな、なつみちゃん」

 なつみの姿を思い浮かべながら、ふと篠原は呟いた。なつみが逃げだしたのは、モルモットの生活に嫌気が差してだと思っていたが、でも、海へ行きたいと言っていたなつみの表情を思い出すと、もっと単純な理由であったようにも思えてくる。ただ、海へ行きたかった。もしかしたら、海へ行ったあとは戻ってくるつもりだったのかもしれない。

「ねえ、もしそうだとして、黒田少佐は許すと思う?」

「もしって?」

 突然の篠原の質問に久川は焦って聞き返した。

「まったく純粋に海に行きたかっただけなんじゃないかってこと。それでも少佐はなつみちゃんを殺すと思う?」

 久川は少し考えて答えた。

「多分ね。実験を中止にまでしたんだ、本気だろうよ」

「でも、それはなつみちゃんが悪いわけじゃないわ。殺すことはないわよ」

 テーブルを飛び越えてきそうな勢いで話す彼女に久川も押され気味に言い返した。

「そうかもしれないけど、なつみが自分でオートロックを破壊して脱出したところに問題があるんだよ。そんな大きな力を持った奴がいつ国家に背いて牙を剥きだすかわからないだろ。そうなる前に殺してしまうつもりなんだよ」

「そんな、そんなの軍の勝手な考えで殺しちゃうなんて……、許せないよ……」

 篠原の瞳から涙が溢れてきた。十八才でなつみの世話役に任じられ、以来自分の妹のように可愛がってきたなつみが、軍の都合だけで殺されてしまうことの腹立たしさ、それを止めることのできない自分に対する悔しさが入り交じった複雑な心境のまま、彼女はこの後とんでもないことを口走った。

「……なつみちゃんを連れて、この国を脱出する」

「……え?」

 久川は自分の耳を疑った。まさか今の台詞が篠原のものだと思えなかったからだ。が、彼女の潤んだ瞳は決意を示す力強いものに変化していた。

「なつみちゃんはこの国にいちゃいけないのよ。だから、私があの子を連れて、日本へ脱出する。そうよ、私が助けなくちゃ……」

「おい、自分が何言ってるかわかってるのか!? 言うだけで死刑ものだぞ」

「覚悟の上よ。なつみちゃんを殺されるくらいなら、死んだほうがマシ、でも何もしないで死んじゃうのは私が納得いかないもの。だから、この国から逃げてなつみちゃんと暮らすの」

「無茶なことを簡単に言うなあ。どうやって国境を越えるんだよ。それより前に、研究所から出るのだって無理だ。軍より先になつみを捜し出すのも……」

 と篠原に言い続けて、久川は途中で止めた。彼女の瞳を見ればそれが無駄だということに気づいたからだ。

「いいのよ、久川君は関係ないもの。私だけで何とかする」

「……そこまで話してそれはないよ。俺もついていく。君一人じゃ心配だ」

「でも、研究があるでしょ? 出世コースに乗ってるんだから、迷惑はかけられないわ」

 彼はそんな彼女の言葉に大きくため息を突いた。

「出世なんてしようとは思わないし、第一亡命した君と親しいってだけでもう出世なんてできないだろうよ。それに僕もこの国には嫌気がさしてたんだ。できることなら日本に行きたいって思ってた。いい機会だ、亡命してみようじゃないか」

「でも……」

 久川を巻き込んでしまうことに篠原は罪の意識を覚えていたが、彼は一向に介さない様子で彼女を励ました。

「大丈夫だよ。なつみに本当の海を見せてあげようじゃないか。東京湾なんて言わず、高知とか宮崎とか沖縄とか。そのためには、日本に行かなくちゃいけないよ」

 なつみに本当の海を見せてあげよう。その言葉は篠原を勇気づけた。東京湾は確かにまだ汚れている。南の海を見せてあげたい衝動が彼女の心に沸き上がった。

「……ありがとう、久川君」

 外を再びサイレンの音が通りすぎていった。しかし二人はおびえることなく、立ち上がった。


     ☆     ☆


 なつみは人の気配を感じて飛び起きた。

 午前五時半。もうすぐ日が昇る。空は白く輝き、気温は上昇を始めた。

 まだかなり遠い位置にいるが、嫌な感情をなつみは察知していた。背筋が凍るほどの嫌な感情――それはまさになつみを殺さんとする軍の一団のものであったが、それを殺意と理解するのはなつみにはできなかった。けれど、本能的に自分を危機に陥れる悪しき感情であることはわかっている。

 もう行かなければ。なつみは立ち上がった。


     ☆     ☆


 マンションから脱出に成功した篠原と久川は、なつみ殺害のための特別部隊の中へ潜入した。

 奪ってきた軍服に身を包み、帽子を深くかぶって正体がばれないように部隊と行動していた。が、しかし、二人の姿は部隊長である富沢元室長にあっさりと見つかってしまった。

「……止めはせんよ。できることなら私だって亡命したいさ」

 陸軍駐屯兵舎の裏で、三人は秘密に話をした。篠原の亡命するとの言葉に富沢は心臓が飛び出るほどの衝撃を覚えたが、引き止めようとはしなかった。

「だが、この話は私にしなかったことにしてくれ。私も聞かなかった。あくまで私の関知外のことだ。そのほうがお互いにいい、わたしが頭を突っ込むほうがややこしくなるし、足を引っ張りかねないからね」

 今の生活を必死に守ろうともがいている富沢の様子が伺えた。たしかにここで富沢の協力を得ようとは二人も考えてなかった。実際に行動を起こすときには、個人で何とかしなければならなくなる。人が多ければ多いほど失敗の確率が高くなる。

「ありがとうございます。迷惑を掛けてしまうかもしれませんが……」

「構わんよ。私もついていきたいところだが、家族を守らなければいけないんでね。とにかく気をつけるんだよ。亡命は見つかったその場で銃殺だ」

 そう言って、富沢は篠原らの感謝の言葉に軽く手を挙げただけで早々に立ち去った。

「室長、疲れてるみたい」

「ああ、人工エスパー開発研究をライフワークにしたいって言ってたからな。無理もないよ」

 富沢の去り行く背中には、数々の苦労と一生の仕事とする夢が実らなかった悲壮感が漂っている。そして、自らの手で育て、成長を見守っていた娘を殺さなければならない哀しみもそこにはあった。

「ところで、何の用意もしないで軍に忍び込んじゃったけど、大丈夫なの?」

 声を潜めながら篠原は尋ねた。久川は満面に笑みを浮かべて言う。

「いや……、とりあえず軍より先になつみを見つけられればいいかな……って」

「ええ……! じゃ、先に見つけられなかったらどうするのよ!」

「その時はしょうがないさ。でも、壁の外へ脱出するにはこれしかないんだ。外に出たらなるべく気づかれないように抜け出してなつみを探しにいこう」

 なんともいい加減な計画だが、たしかにそれ以上確実な方法はなかった。不安の色は隠せないものの篠原は頷いた。

 と、そこへ兵員集合の合図のベルが鳴った。

「とにかく出来る限りのことをしようよ。駄目なときは運がなかったと思えばいい」

「……うん、そうね」

 いったん動きだしたのだ、今更元には戻れない。こうなったら運を天に任せひたすら突き進んでいくしかない。

 二人は隊の集合場所へ向かい、列のいちばん後ろにそっと並んだ。


     ☆     ☆


 太陽はその全貌を表し、なつみの体を熱く照らしはじめた。紫外線フィルターのかかった窓ガラス越しではなく、直射日光に当たったなつみは、鋭い熱さの中に自然的で気持ち良い感触を覚えた。

 しかし、なつみはしばらく続いている悪寒――殺意に満ちた集団の気配にさいなまれていた。背後から襲いかかってくる気になつみは何度か振り返った。

 もう何度目かの瓦礫の山を越える。すっかり息も上がり、頬は紅潮して汗が吹き出していた。普段運動と呼べることはほとんどやったことのないなつみの足の筋肉は固くなってしまっている。体は痛い、海は見えてこない、嫌な気配はするで、なつみの決心は崩れそうになっていた。

 すると、微かに匂いがした。

 いままで匂ったことのないものだった。鼻腔をくすぐる微かな香り。全く自然な香りは、海の方向から流れてくる空気に乗ってやってきていた。

 あれは、きっと海の匂いなんだ。

 なつみは心の中でそう確信した。そして、それがもうかなり近い場所にあることも直観した。

 瓦礫の山を下り、そこからは広い道路が続いている。回りの風景は次第に変化していた。転がるビルの残骸の中に木片や発泡スチロールやあるいはボートの残骸が混ざっているのを見かけるようになった。

 極東アジア独立戦争の決着をつけた東京大地震では、実に高さ三十メートルもの大津波が東京湾岸を襲った。特に埋め立て造成の盛んだった地盤の緩い京浜海岸は地震によって海底に沈み、津波によって

遠浅の海岸を形成した。

 いま現在の海岸線は二十世紀中に埋め立てられた築地沖にまで後退した。なつみのいる位置から海岸までまっ平らな土地が広がっている。そして、彼女の瞳に輝く地面が見えてきた。

 海だ!

 なつみは打ち寄せる波の音の方へ駆けだした。


     ☆     ☆


 どこにいるの、なつみちゃん。

 篠原らは研究都市を出ることには成功したものの、捜索隊から抜け出すチャンスがなかなか見つからず、そのままなつみ捜索を続けていた。品川から築地までやって来たが、まだなつみは見つからない。しかも海に近づいてくるに連れなつみが別の誰かに発見される可能性が高くなっていて、篠原は内心非常に焦っていた。何としてでも自分が先に発見し、ここから脱出しなければならない。

 本当ならばなつみの名を叫びながら探したいところだが、さすがにそれはできない。その衝動を抑え、目を皿のようにしてなつみの姿を追った。しかし。

「見つけたぞ!」

 遠くから捜索隊の陸軍兵の声が聞こえてきた。篠原の回りにいた隊員らがその声のほうへ駆けていく。だが彼女はその場から動けないでいた。

「……運がなかったな」

 そばへ久川がやって来る。諦めの言葉を呟き深くため息を突く彼に、篠原は強い口調で言った。

「まだよ。まだ終わってない」

「でも、先に発見されたら万に一つも助かる可能性はないよ」

「ううん。まだチャンスはあるはずよ」

 そう言って彼女はなつみの発見された場所へ走って行った。すっかり諦め、出来ることならなつみが銃殺されるシーンは見たくないと思っていた久川も、篠原について行くことにした。


 砂浜は全部が砂ではなく、石やコンクリートのかけらやその他いろいろなものが散乱していた。太陽光の反射している海も青く透き通ってない。青とも緑とも言えないような暗い濁った液体がなつみの前に横たわっていた。

 イメージが違いすぎた。たしかに香りは潮のものであったが、目の前の海はビジュアルシステムで何度も見た青い海とはほど遠い。

 なつみは悲しくなってきた。期待していたものに裏切られた気持ちになった。ここにある海は、海じゃない。海はもっと青くて透き通ってて、魚が一杯泳いでいる。この海には小魚の姿すら見えない。

 波打ち際に、なつみは座り込んだ。海は凪いでいて、波は静かに浜に寄せている。のものかもしれない。そう思っていた。

 でもそうしたら、今の海の姿はかわいそうだとなつみは思った。そして、もう見ることは出来ないのだと思うと涙が溢れてきた。果てし無く自由な大海原がこんなどろどろとした海だと思うと。

 しばらくじっとしていて、急に、なつみは立ち上がった。

 すさまじい思考が頭の中になだれ込んできたのだ。

 その思考はなつみを大きく囲んでいた。さっきから続いている悪寒がさらに強くなっている。この思考が悪寒の原因だということにすぐに気がついた。

 25号を見つけた、殺せ、殺せ、殺せ――。

 中央政府の役人の思考を読み取ったときよりも、もっと気持ちの悪い思考。なつみは体の震えが止まらなかった。自分を殺せと言っている、しかも、もう囲まれて逃げだせない。後ろはイメージと違った海。三十もの殺意がなつみの頭の中に入り込み、なつみは体を強く縛りつけられる間隔と強い嘔吐感に目眩がした。

 やがて、その思考の主たちが姿を現した。なつみが逃げださないように隙間なく円を描き、じわりじわりと迫ってくる。

 なつみはその一団の中に富沢室長の姿を見つけた。

 激しいショックが彼女を襲った。富沢の思考には多少の迷いはあるもののなつみを殺そうとしていることには変わりない。実験中いつも優しく話しかけ、まるで自分の娘のように気づかってくれていた富沢が、自分を殺そうとするなんて……!

 捜索隊の一団はなつみと三十メートルの間隔を置いて足を止めた。そして、富沢が手を挙げて合図すると一斉にレイガンを構えた。これだけの数のレイガンであれば、たとえ威力を弱くしても人一人の命を奪うには十分だった。

 なつみは何とか助かる方法を考えた。レヴィテーションを使い、包囲の中から脱出するしかないようだったが、覚えたての能力なのでスピードがなく、一度目の攻撃はかわせても宙に浮いた状態で狙い撃ちされるのは容易に考えついた。海に逃げても泳げる自信はない。レヴィテーションにかけてみるしかない、そう思ったなつみは気を高めていった。

 富沢が手を下ろそうとした、その瞬間。

「やめて!!」

 囲む捜索隊の中から、二人飛び出してなつみにすがりついた。富沢の手の動きに集中していたなつみは突然の出来事に戸惑ってしまう。

「なつみちゃん! なつみちゃん、私よ!!」

 篠原の声になつみの意識が戻っていった。軍服に身を包んでいたが、紛れもなく篠原だった。なつみの瞳は必死の表情の彼女と、たまらず一緒に飛び出してきた久川の姿を交互に追った。

「篠原さん、どうして……」

「ごめんね、なつみちゃん! あなたを殺す命令を止めることが出来なかったの! でも、大丈夫、私が絶対守ってみせるからね!」

 なつみを強く抱きしめた篠原は、囲むレイガンからなつみを全身で隠した。その状態のまま、篠原はなつみに言った。

「なつみちゃん、私たちと一緒に海に行きましょう。こんな汚れた海じゃなくて、もっときれいな海へ!」

「そんな海、あるの?」

「もちろんよ。それにはね、この国を出ていかなくちゃいけないの。日本に行けば、もっともっときれいな海も見れるわ」

 篠原が嘘偽りなく真剣に語っていることはなつみのテレパシー能力を使わなくてもよくわかった。汚い海しかないと思っていたなつみに、あの青い海が見れる期待が持てた。日本に行けば、きれいな海がある。行ってみたい、日本へ!

「打ち方、止め!」

 富沢はレイガンを下ろすよう兵士らに命じた。この状態で発砲命令を下すことは彼には出来なかった。軍兵は戸惑いながらも銃口を下げた。

 が、富沢の視界の背後から銃口が現れ、オレンジの光が網膜に焼きついた。

 その光は、篠原の背中に直撃した。


     ☆     ☆


 篠原の体重がなつみにかかってくる。背中から肉の焼けた煙を昇らせ、篠原は砂の中に膝をつきたてた。

 彼女を撃ったのは、黒田だった。彼は静かな表情で富沢を横に突き飛ばし、なつみにゆっくりと近寄ってきた。

 なつみの意識は、篠原の真っ赤にただれた背中に注がれていた。理性は心の中で激しく沸き上がってくるものに消えていった。いちばん信頼していた人が、いちばん気持ち悪い思考の持ち主に撃たれた。なつみの受けた衝撃は計り知れないものがあった。

 黒田は再び銃を構え、一歩一歩近づいてくる。その間へ久川が体を楯に割り込んできた。

「近寄るな、この野郎!!」

 と叫んだ直後、久川は閃光とともに倒れた。その左胸に重度の火傷と血溜まりがあった。

 黒田はさらに歩いてくる。久川の死体を見てしまったなつみは、何かが激しい音を立てて切れるのを感じた。

「……な、つみ、ちゃん」

 振り絞るようになつみに声を掛ける篠原は、朦朧とした瞳で笑顔を作った。

「がんばって、逃げようね、一緒に」

 黒田が銃口を篠原に向けた。

 なつみは、すべての力を開放した。


 一帯が瞬間、光に包まれた。


     ☆     ☆


 その被害は甚大なものとなったが、そもそもゴーストタウンの東京では関係なかった。

 築地にあった海岸には、直径五十メートルのクレーターが出現した。また、爆風は新宿研究都市にも到達し、品川方面の建物が一部崩れた。

 その場にいた捜索隊と富沢は無事だった。また、黒田は全治二ヵ月の重傷を負ったが、奇蹟的に命は取り留めた。

 その後の研究で、なつみの使った力はまだ誰も使用したことのないPKの究極応用であることが分かった。理論的には出来ることが証明されていたが、膨大な精神力を要することから通常では限界突破現象(自己能力を超えて使用したために能力が消滅してしまう現象)を起こしてしまうと考えられている。

 なつみと篠原の姿を見たものは、その後誰もいない。常識的にはなつみの能力は消えてしまったものと考えられるが、二人の死体すら見つからなかった。あるいは能力は残ってしまって国外脱出に成功したとの噂も流れたが、真相は闇に包まれたままとなった。

 しかし、もしもこのままなつみの研究が続き、なつみがあの能力をコントロールできるようになって、軍の言いなりに使用していたとしたら、極東アジア連邦は世界を手にすることもできたかもしれない。

 その後も新宿研究都市では人工超能力者開発の研究は積極的に続けられた。

<了>


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ