第十八話 母と娘
美衣奈は自分の家の玄関前でもうかれこれ5分以上も佇んでいた。何度も玄関の扉をに手をかけては離す、その動作を延々繰り返し続けていた。
「まったく、今更私は何怖気ついているのよ。お母さんと話し合うって決めたんでしょ」
ここまで来て日和る自分を叱咤しつつ、この家での自分の過ごして来た日常を思い返す。
AV女優となった母は基本的に仕事の無い日は自宅に居る。今日も仕事が入っていないので家の中で今頃は夕食の用意をしている頃だろう。帰って来る娘の為にと思い……。
そこまで思考が働くと美衣奈の胸がきゅっと痛んだ。
母を糾弾して以降、自分はまともに口さえ利こうとしなかった。だがそんな不愛想な自分に母はいつだって食事を用意してくれた。汚れている服の洗濯だっていつも母がしてくれた。毎月お小遣いだって渡してくれた。
考えれば考えるほどに自分は母に面倒を見てもらっている。それなのに一時の激情で家族扱いをしなくなった。
「なによ……私って最低じゃん」
もしかしたら自分が母と向かい合う事を避け続けた理由は罪悪感もあったのかもしれない。あれだけ母という人間を全否定しておいて、一体どの面下げて話し掛ければよいか分からなかったのも事実だ。
「(この玄関の扉を開けてお母さんの顔を見た時、私は昔見たく『お母さん』って言えるのかな?)」
覚悟を決めたはずなのに足がすくんでしまう美衣奈であったが、その時に自分を真っ直ぐ見つめながら言ってくれた心太の言葉を思い出す。
――『言葉ってのは伝えたい相手には伝えられる間に話しておくべきもんだ。そうでなきゃ後悔する事になる』
彼の言ったこの言葉は美衣奈の胸に深く響いていた。それほどまでに心太のあのセリフには自責の念が込められていたと肌で感じたのだ。
彼は祖母との悲しき別れという古傷を抉ってまで自分の背中を押してくれた。それなのにここで尻込みなどしてどうするというのだ? このまま血の繋がった母親と壁を作った日常を維持する事が最善だというのか?
「そんなわけ……ないじゃん……」
自分の胸の内に渦巻く葛藤に対して美衣奈は声に出して否定をした。
そして彼女は大きく深呼吸をして覚悟を固めて玄関の扉を開いた。
「あ……お帰りなさい美衣奈」
なんとタイミングの良いことだろう。玄関を開けると同時、洗濯籠を運んでいた母が視界の先に立っていた。
帰宅した自分に対して母は力ない笑みと共に出迎えの挨拶をしてくれる。
そんな母に対して美衣奈は一瞬の間を置きながら返事をする。
「ただ…いま……お母さん」
「え……美衣……奈……今ただいまって……それにお母さんとも……」
挨拶を返すと母は驚きのあまり持っていた洗濯籠をその場に落としてしまう。無理も無いだろう、当たり前の挨拶すらもう長い間ずっとしていなかったのだから。
ただ挨拶しただけで涙を流す母親の姿に美衣奈は胸を更に締め付けられる。
「うん、ただいまって言ったよ〝お母さん〟」
「あ……ああ……」
無気力そうな母の瞳に光が宿り熱い雫がポロポロと零れ落ちた。
そんな母親の姿に美衣奈も感情が激しく揺さぶられる。もう訳も分からずボロボロと涙を零していた。
「お母さん…お母さん……おかあさん……」
「うぅ……美衣奈…みいな……」
気が付けば二人はどちらからともなく相手を抱きしめていた。
まずは落ち着いて話し合おうと思っていた美衣奈の当初の考えはもう霧散していた。自分を抱きしめてくれる母の体温にもう言葉が出て来ず、代わりにとめどなく両の瞳からは涙が溢れて止まらなかった。
母親の方もずっと他人行儀の娘からまた〝お母さん〟と呼ばれた喜びに言葉が出ず、娘同様に同じくすすり泣く事しか出来なかった。
「ごめんなさい……私……ずっとお母さんに酷いことしてた。本当にごめんなさい……」
「いいのよ美衣奈。私こそ独りで抱え込まずあなたにもっと相談するべきだったわ」
「お母さん……私、お母さんと本当は話したい事がいっぱいあるんだ。ぐすっ、まだ……遅くないかなぁ?」
「遅くなんてないわ。私だって……ずっとあなたと……」
長年すれ違い続けて来た母と娘、凍り付いていた二人の時間はこの瞬間に融解した。
母親の温もりを感じながら美衣奈は自分を後押ししてくれた心太に心からの感謝をしていた。きっと彼が背中を押してくれなければ自分と母がこうして和解する事もできなかっただろう。下手をすれば一生すれ違い続けていた可能性だってある。
これまで美衣奈にとって自宅は息が詰まって仕方のない空間だった。だがこの日以降からありふれた家庭と同じく彼女は母に対して笑顔を向けられるようになった。もう母と共同で生活する空間で気を張る必要もなくなったのだ。
そして……長年の苦しみから解き放ってくれた心太に対してこの日から美衣奈は特別な感情を持つようになる。
「(ああ……私とお母さんを元の家族に戻してくれた優しくて男気溢れる心太♡ 私にとってキミは白馬の王子様だよ♡ 一途には悪いけど彼の隣を譲りたくない。私もここから本気で彼の事を……♡♡♡)」
こうして心太の知らないところで新たな恋する乙女がまた1人誕生したのだった。