誕生-1
暗闇の中から意識が浮かび上がってくる。冷たい空気が肌をかすめ、体がどこかしら違和感を訴えている。周囲は静寂に包まれており、ただ、自分がそこに横たわっているという感覚だけが残っていた。
「……ゆっくりでかまわない。」
低く、落ち着いた声が聞こえた。その声に少しずつ意識が引き戻される。誰かが隣にいる――だが、自分の体が重く感じ、声を出そうとしても喉が詰まるような感覚がして、声が出ない。
「……どこ……だ……」
ようやく掠れた声が漏れる。だが、その声は自分のものではない――いや、自分のはずなのに、全く違う響きを持っていた。柔らかく、か細い。どうしてこんな声が自分から出ているのか。
体を動かそうとするが、動かない。全身が鉛のように重く、目だけがかろうじて動く。隣にいる男の姿がぼんやりと視界に映る。彼は、こちらをじっと見つめていた。
言葉が出てくるのを待っているかのように、男はただ静かに見守っている。彼の目に浮かぶのは、確信ではなく、探るような不安の色。自分が何者であるのか、その答えを口から聞き出したいのだろう。
「……俺は……」
自分の名前を言おうとするが、声にならない。頭の中で名前が何度も浮かぶが、口にするのが恐ろしかった。
男は、焦らずに待っている。その静かな視線が、少しずつ重圧を与える。
「……俺は……」
声が途切れそうになる。やはり、何かが違う。だが、これ以上逃げることはできない。変わってしまったものがあったとしても、魂はここにあるということを確かめなければならない。
「……俺は……リューガだ。」
その言葉が、ようやく口から漏れた。
瞬間、目の前の男は、わずかに表情を動かした。彼もまた、この現実を信じられないでいたが、今名乗ったことで、確信を得た。
「やはり、そうなのか……」
男は、ため息をつきながらこちらをじっと見つめた。彼の表情には、まだどこか信じられないような複雑な感情が見て取れる。
「違和感は、あるか?」
ある。違和感の塊だ。返事をしようとするが、うまく声にならない。大きな身振りとともに男は続ける。
「俺も信じられないんだが……お前の体、どっか行っちまったってよ。」
どういうことだ?俺はここにいるじゃないか。その言い草はまるで、自分が幽霊でもあるかのような。
「何を……言ってるんだ?……俺は……ここに」
なんとか言葉を紡ぐ。だが、体の中に反響するその声は、よく知っている自分の声じゃない。気づきたくなかった違和感の正体が襲いかかってくる。自分が今動かしている体が、それまでの自分ではないということ。
改めて自分の手を見る。細く、一回りも二回りも小さい手。体を確認する。
「……おん……な……?」
ここにいるのは。少女だった。
「落ち着いて聞いてくれ。……お前は、リューガなんだな?」
かろうじて頷く。さっき改めて確認したんだ、自信なんて欠片もない。自分が自分であったはずのものが何もかも無いのだ。かろうじて記憶が、魂という形のないものだけが、自分がリューガという戦士であったことを告げている。
「わけ、わかんねーな……」
思わず声が出た。頭だけは理解していた。だが体も、心も、なにもかもがその現実についていけていない。もう一度自分の体を見る。触れる。触られた感触はある。間違いない、これが自分だ。
「わけわかんねえよな。」
男は少女の言葉を繰り返した。そうだ、知っている。こいつは自分が知っているユージーンという男で間違いない。
「俺は、誰なんだ?」
改めて尋ねてみる。
「さっき、リューガだって言ってたぞ」
ユージーンはそう言いながら、リューガの肩に手を置いた。その手には確かな重さと温かさがあった。リューガにとって、それが唯一の「現実」だと感じられる感覚だった。
ふと、その温かさを感じた瞬間、リューガは思わず口を開いた。
「この体は…おっさんの趣味ってことなのか?」
その瞬間、ユージーンは驚愕し、慌てて手を引っ込めた。彼の動きは、今まで見たことがないほど素早く、顔が明らかに引きつっている。リューガはその様子を見て、少し気まずい気分になったが、同時に、自分が何を言っているのかさえよくわかっていなかった。
「……なんだ、それは……!そんな趣味はない!」
ユージーンは顔を真っ赤にして、一歩後退する。その姿を見て、リューガは自分の中で生まれた違和感と、体が変わってしまった現実との狭間で、少しだけ息をついた。
「そうだよな。あんたの趣味はもっとこう…」
リューガは、自分自身の言葉に苦笑した。まったく理解できない状況にいるのに、冗談を言う自分が信じられなかった。しかし、それが逆に、この異様な状況を少しでも和らげる助けになった気がした。
「納得はいかねえけどな……どうやらこれが現実ってやつらしい。」
その言葉にはまだ抵抗の色が残っていたが、少しずつ、リューガは目の前にある現実を受け入れようとしていた。ユージーンは、リューガの冷静さを取り戻しつつある様子を見て、ようやく落ち着いた表情を取り戻す。
「全部、あの子の言う通りだったってことか…」
そのとき、部屋のドアが静かに開いた。入ってきたのは一人の女性。
「やっぱり、そうでした?」
女性の名前はチェルシー。よく知っている。
「……チェルシー、俺は、どうなってるんだ?」
リューガが掠れた声で問いかけると、チェルシーは肩をすくめ、少しだけ強がるように微笑んだ。
「わからないです。でもどうやら、死に損なったみたいですね。」
ひどい女だ。リューガはその態度に反応し、わざと大げさに肩をすくめてみせた。
「悪かったな。」
言葉と共に、リューガは少しオーバーリアクションを取った。チェルシーはその反応に、すぐに微笑んで軽く息をついた。
二人の間には、普段通りのやり取りが戻ってきたかのような感覚があり、そのことでリューガも少し気が楽になった。
ふと、チェルシーの表情が真剣なものに変わった。彼女は静かに息を整え、慎重に話を切り出した。
「ひとつ、いい話があるのですが。」
リューガは少し構えたように彼女を見たが、すぐに肩をすくめ、皮肉を交えて返事をした。
「今なら、何を聞かされても驚かねえよ。」
チェルシーは静かに頷き、少し言葉を選びながらゆっくりと話し始めた。
「私、見たんです。あなたの肉体を。眉間にしわを寄せて、森の中へ帰っていくのを。だから、おそらく……あなたの体はまだ生きていると思います。背中から剣が生えていましたけど。」
その言葉を聞いた瞬間、リューガの記憶が鮮明に蘇ってきた。背中から剣――それは、最後に彼の意識を奪った一撃だった。チェルシーの話が、彼の中で繋がりを持ち始める。
「……つまり、それの中には、あいつが入っているってことか……!」
リューガはその事実に気づき、胸が鳴った。今の自分の体――最後に戦ったあの少女の姿そのものではないか。彼は、なぜ今までそのことに気づかなかったのかと、自分に問いかけた。
「おそらく、そうなんでしょうね。」
チェルシーは、冷静に答えた。彼女の言葉は、リューガの気づきを後押しするものであり、同時に現実を突きつけるものであった。
リューガは唇を噛みしめ、冷たい現実を受け止めると同時に、内に燃え上がる決意を新たにした。
「……そうか、そういうことかよ……」
彼は拳を握りしめ、かつての自分の体を取り戻すため、そして今の体の謎を解き明かすための決意を固め始めた。
「でも私、アレを相手に何もできませんでした。軽くなってしまったあなたを連れて帰ることくらいしか。」
チェルシーは、目を伏せながらそう言った。リューガを救い出したこと自体、彼女にとっては精一杯の行動だったのだろう。だが、その背後にあった無力感を押し殺すような声が、リューガの胸に響いた。
「俺だからな、強いに決まってる。」
リューガは、彼女の言葉を軽く受け流すように冗談を飛ばす。しかし、チェルシーの表情は変わらなかった。彼女は、そんな言葉では解決できない何かに向き合っている。
「そういう次元の話ではないです。後を追うことも、何もできませんでした。ただ……怖かった。」
チェルシーのその一言には、彼女の内心がすべて込められていた。目の前で起きた異常な事態、そしてリューガを守るために何もできなかった自分――その恐怖と無力感が彼女の顔に浮かんでいた。
「そうだな……。」
リューガは、初めて静かに頷いた。彼女が感じた恐怖を軽く扱ってはいけない。今、彼女と共にこの現実に向き合うしかなかった。
3人とも無言のままだった。そのまま少しの時間が流れた。
「探すか。」
リューガがポツリと言った言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるかのようだった。その短い言葉には、彼の内に燃える決意が詰まっていた。
「まあ、そうなりますよね。でも……手がかりも何もないですよ?」
チェルシーは、冷静な口調で現実を指摘する。彼女が抱える不安もまた、理に適っていた。彼らには、あの存在を追いかけるための手がかりが一切なかったのだ。
「目撃証言はあるだろ。」
リューガは彼女に言い返すが、チェルシーはすぐに冷ややかに返す。
「嘘かもしれませんよ?」
その言葉には皮肉が含まれていた。だが、リューガはそこで引き下がることはない。
「お前はそんなやつだったか?」
リューガの言葉に、チェルシーはしばらく黙り込んだ。彼の言葉が彼女の信念を揺さぶる。彼女はため息をつき、肩を少しすくめた。
「……ずるいです。」
チェルシーは顔を背けたが、その声にはわずかに微笑が含まれていた。リューガの意志が、彼女の心を動かしていた。
「夫婦漫才は他所でやってくれないか。」
不意に割り込んできたのはユージーンだった。彼は腕を組み、二人の軽口のやり取りに呆れたように首を振っていた。
「名前が必要だな。それと、身分もな。」
リューガは、今の自分の姿を見て、淡々と事実を口にした。彼はもう「リューガ」として生きることはできない。新しい名前と身分が必要だと分かっていた。
ユージーンはそんな彼の言葉に頷きながら、軽く肩をすくめて笑った。
「俺の権力の見せ所だな。紛いなりにも領主代理をやらせてもらってる身分だ。」
だが、リューガはすぐに冗談めかした言葉を返す。
「顔が悪い。」
その言葉に、ユージーンは少しムッとした表情を浮かべたが、すぐに笑みを戻して言い返す。
「顔のいい男が悪い顔をしている、と言え。」
二人の軽いやり取りに、チェルシーも静かに微笑んでいたが、突然思いついたように口を開いた。
「名前なら、いい案があります。」
チェルシーの言葉に、リューガは少し構えるようにして彼女を見つめた。彼女の表情はいつもの穏やかさの中に、何かひらめきを感じさせていた。
「リュカ。」
チェルシーがその名前を告げた瞬間、リューガは一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに笑みを浮かべた。
「なんですか、その顔は。」
チェルシーは少し疑念を浮かべたが、リューガは笑みを抑えきれずに答える。
「いいセンスじゃねえの。」
その言葉を聞いて、チェルシーも軽く頬を赤らめながら、うっすらと微笑んだ。ユージーンも、リューガの反応を見て満足げに頷いた。
「なら、身分は俺のお墨付きにしておこう。リュカ=オレオス。」
その名前はユージーンの、ユージーン=オレオスの家のものだということを示すものだ。
「養子ってことになっちまうが……文句あるか?」
ユージーンは誇らしげに言い放ったが、リューガはすぐに笑いながら軽く頷いた。
「いや、文句はねえよ。リュカ=オレオスか……まあ、悪くない。」
リューガはその名前を噛みしめるように口にした。新しい名前と身分――それが彼にとって、新しい道を歩むための第一歩となった。
突然用語説明コーナー
魔女
魔女は、この世界における最も強大で神秘的な存在です。彼女たちはそれぞれが異なる力を持っています。魔女たちの力は人知を超えており、現時点で人類は魔女を完全に消滅させることができません。魔女たちは災厄をもたらす存在として畏怖されながらも、その圧倒的な力は一部の人々にとっては信仰の対象でもあります。