前編
喋るパンツを拾った。
深夜1時前、三日月が綺麗な夜のことだった。
連日のサービス残業でくたびれきっていた俺は、帰宅途中にあるコンビニで買った缶ビールを片手に、トボトボと歩いていた。
無心で永遠と続くアスファルトをぼんやり見つめながら家路を辿っていると、小さく震える何かが視界に映った。
猫でも捨てられているのか、と思い近づいてみると、それはまごうことなきパンツだった。
薄汚れてはいたが、白い綿のオードソックスな女性物のパンツだった。フロントにはなんの役にも立たない小さな白いリボンがお情け程度についたパンツだった。
風にでも飛ばされたのだろうか、と思いながらパンツを眺めていると、
「さむい……あぁ、さむい……」
とパンツが震えながら呟いていた。
俺は缶ビール一本で酔っ払ってしまったのだろうか。
周りに誰もいないことを確認し、パンツを摘んで匂いを嗅いでみた。汚れてはいるが臭くない。俺はパンツを持って帰ることにした。別に変態だからというわけではない。ただの気まぐれだ。
築25年の賃貸アパート二階が俺の家だ。この時間になると、もうほとんどの家の明かりは消えている。
食べ終わったカップラーメンの容器と、酒の空缶、中身が少しだけ残ったペットボトル。ろくにゴミ出しも出来ず散らかった部屋で、拾ったパンツを手洗いした。手洗いしたパンツは適当にハンガーで吊るし、風呂に入って寝た。
朝6時、目覚まし時計が鳴ると同時に起きる。頭がすっきりしない。さっき帰ってきて寝たばかりのような気がする。ここ数日、仕事をしている夢ばかり見る。
毎日同じことの繰り返し、自分に使う時間もなく楽しみも何もない毎日だ。
くたびれたスーツを身に纏い、家を出た。
*****
23時15分。
ここ最近では一番早い時間に帰宅が出来た。沈んでいた気持ちも多少明るくなる。今日は奮発して缶ビールを二本買ってきた。一本は帰り道で蓋を開け、後三分の一程残っている。
電気のスイッチを入れると、
「おかえりなさいませー! ご主人ー!」
と元気いっぱいの声が聞こえた。しかし狭い部屋を見渡しても誰もいない。
不思議に思っていると、そういえば昨日拾った喋るパンツのことを思い出した。すっかり忘れていた。
「ご主人のおかげでパンツはすっかりキレイなパンツになりましたよー!」
心なしかパンツがイキイキしているように見える。俺は疲労で幻聴が聞こえるようになってしまったのだろうか。
「でもですね、この干し方だと右足部分のゴムが伸びてしまうのですよ! 早く降ろしてくださいな!」
そう言ってパンツはぷらぷら揺れている。ハンガーがブランコのようだ。
「それにパンツを連れ込むにはちょっと汚すぎるお部屋じゃないですかね〜?」
幻聴にしては生意気過ぎないだろうか。
「何でパンツが喋る?」
「はっはっは、そんなこと! パンツだって喋るくらいできますとも!」
日付が変わる時刻、パンツと会話する男って絵面的にヤバすぎる。とりあえず俺は喋るパンツを無視して持っていた缶ビールの残りを一気に飲んだ。
「晩酌とは羨ましいですな〜!」
吊るされたパンツが俺に話しかけてくる。パンツが相手、とは奇妙なことだが、仕事以外で会話をするのは久しぶりだった。
「なんで道路に落ちてたの?」
「それはパンツにもわからないのですよ! こうしてご主人と出会えたのですから、運命じゃないですかね!?」
「ふーん」
昨晩道路で震えてたとは思えない程、明るいパンツだ。皺だらけの背広をハンガーに掛け、ネクタイを緩めながら
「で、君……は、使用済み?」
一番気になっていることを聞いてみた。
「使用済みとは!? 誰かに履かれたことがあるか否かということでしょうか!?」
「まぁ」
「なんってデリカシーのない!!」
パンツにデリカシーを問われても、痛くも痒くもない。てゆうか、これはデリカシーの問題か?
二本目の缶ビールを開ける。仕事終わりの酒はなんでこんなに美味いのだろう。
「素敵なお姉さんの使用済みだったらラッキーだと思って」
繕う必要がないのであけすけな本音を伝えると、
「パンツはその時が来たらどなたの下腹部だって守ってみせますとも!」
とトンチンカンな返答が返ってきた。何となくだが、未使用っぽいな。
ビールを飲み終わり風呂に入ろうとしたところ、パンツがハンガーから降ろせと騒ぎ出したので、机の上にポイッと投げておいた。その後はパンツに構わずに眠りについた。
*****
次の日、深夜0時30分。
「おかえりなさーい! ご主人!」
帰宅をすると、パンツが元気いっぱいに机の上から声を掛けてきた。俺の幻聴はまだ続いている。
「ただいまパンツ」
とりあえず俺も返事をする。パンツはご機嫌で鼻歌を歌っている。
「ご主人は今日もお疲れですねぇ?」
「まぁな。仕事を馬鹿みたいに振ってくる上司がいるから」
「ほうほう、上司とは?」
「まぁ、偉い人のことだよ」
普通にパンツと会話している自分自身にドン引きだ。
「人間ってやつは大変ですね!」
パンツがいっちょ前に何を言っているんだ。
「パンツには上下関係ないの? 例えばボクサーパンツは人気とか、ブリーフは人気ないとか」
ちなみにこれは俺の偏見である。
「パンツはパンツですから! どのパンツだって下腹部を守ることがお仕事! ご主人の下腹部も偉い人の下腹部も、みんなパンツが守っているのです! つまり、パンツは偉い! パンツは偉いのです!」
パンツはパンツであることを誇りに思っているようだ。
「使用済みと未使用では?」
「なんたるデリカシーのない言葉!! そうゆう配慮のない言葉が全国のパンツを傷つけているのですよ!」
なんのこっちゃわからん。
「お前……が未使用と言うなら、俺が履いてやろうか?」
思いつきでそう言ってみると、パンツは「ヒィエエ」とも「ヒョエエ」とも取れる奇声を上げた。
「有難いお言葉ですが、ご主人のお腹周りのサイズがですねぇ……。パンツにとってゴムが伸びることは致命傷なのでありますよ……」
無償にイラッとしたので、グイグイと左右に思い切り引っ張って伸ばしてやった。
「しかし、俺の家に居る限り、俺が履かないとお前は一生未使用のままだぞ」
「そんな殺生な……」
「だから俺が履いてやるって」
「ヒィエエ〜!」
腹の立つパンツだ。パンツと話していると、会話の内容も馬鹿らしくて不思議と笑えた。腹を抱えて笑うのも随分久しぶりだった。
*****
23時30分
「ご主人おかえりなさーい!」
パンツに帰宅を迎えられることにも慣れてきた。
「ただいま、パンツ」
しかしこんな様子を誰かに見られたら、間違いなく病院に連れて行かれるだろう。
今日はコンビニで缶ビールと夜ご飯の麻婆丼を買ってきた。いつもは会社のデスクで片手で食べられるオニギリやパンで済ませているが、なんだか無性にガッツリしたものが食べたい気分だった。
「ご主人、それは何です?」
「俺の夜ご飯の麻婆丼」
電子レンジで温めを押すと漂ってくる香りに食欲が刺激される。温めが完了し、熱々の状態になった麻婆丼を机の上へ。ビニールを剥がしていざご飯の上へ麻婆を……
「ちょっ、ちょっとちょっと!!」
いきなりパンツが大声を張上げた。
「なんだよ、良いところで」
俺はパンツの制止する声でお預け状態となり少しイラッとする。
「その麻婆丼とやら、汁がはねそうじゃありませんか!? パンツにかかったらどうするんです? 一大事ですよ!!」
ギャーギャー騒ぎ立てるパンツを俺は机の上から払い除け、麻婆をご飯にかけた。実に美味しそうだ。
「パンツにこんな酷い仕打ちをするなんて〜!」
何やら叫んで居る声が聞こえたが、麻婆丼の方が大切だ。
その後は風呂に入って寝た。