暗黒時代その1
物心ついた時には身体に傷が出来ていた。
火傷、刺傷、根性焼き痕、青く腫れた痣、その他諸々……。
一つの傷が治りかけてきた頃にまた新たな傷が増えていく。
小学生時代は遊びの範疇でいっぱい転んでいたから気にされなかった。目立つようになったのは、中学生になってからだ。
「海凪って、厨二病?」
挨拶程度にしか会話をした事の無いクラスメイトから不意に言われ、なんの事だか首を傾げていると「ヲタクなの?」と分かりやすく聞き直された。
「そういう訳では……」
「あれ?てっきり、コスプレの延長してるんだと思ってた」
クラスメイトは不思議そうに、私の包帯が巻かれている首元と両腕を見ながら可愛らしく笑った。
この子の名前は何だったか……。
「コスプレはした事は無い……。けど、興味はある」
「本当?そしたら今度の土曜日に一緒に行かない?コスプレ喫茶」
「……そういうのがあるの?」
「今は色々あるよ。執事喫茶もこの前行ったけど、めっちゃお嬢様気分味わえた」
「……面白そう」
「でしょう?!ね?一緒にどうかな?」
「……うん。行きたい」
「ありがとう!」
満面の笑みを向けられ、私も慣れない笑顔で返す。
確か生徒会役員だった気がする……。名前はまだ思い出せない……。何故。
「あ、そうだ!さっき、海凪って呼んじゃったんだけど、良いかな……?」
「うん」
「良かったー!あたしの事も姫月って呼んで」
「……わかった」
とりあえず解決したことに内心ほっとした。
「あんた名前なんだっけ?」とは流石に聞きづらい。私がもたない。というより大分失礼な話だ。
「姫月は……コスプレするの?」
「しないしない。あたしは見るの専門。現実逃避しないと受験なんてやってらんないからさ」
中学2年生。私もそろそろ受験を考えないといけない。でも、行きたい高校も惹かれる職業も無い。それなのに親が中卒だったから私はその無念を晴らす為に高校へ進学しなければならないなんて、大人は勝手が過ぎる。
「海凪」
クラスの中でも私は地味で友達も率先して作るような人間ではなかった。そもそも何故学校という箱の中では友達を作らなければいけないという暗黙のルールがあるのだろうか。
「これ。土曜日のチケット!」
朝、登校するとすぐに姫月が私の席までやってきた。
「……チケット?」
「そう。コスプレ喫茶はチケット制なんだ」
「そうなんだ……。あ、じゃあチケット代……」
「あぁ、大丈夫。チケットは整理券みたいなものだから。予約取れると送られてくるんだよ。勿論無料」
「……そういう制度なんだ」
「うん。今までは彼氏と行ってたんだけど、この前別れちゃったから。正直、一人で行くの微妙だったんだよね」
「あの……今更だけど、中学生が行ってもいい所なの?」
「小学生から利用可能だよ。モールの中にあるお店だから、怪しいとかは無いし、大丈夫」
「なるほど……」
私と話している姫月を、窓際の席にいた女子達が静かな視線で眺めていた。
姫月はクラスの中でも可愛くて人気のある生徒だ。狙っている子も多数いるとのこと。いつも女子達の中心にいて、楽しそうに笑っているのを私は視界の端に留めていた。
「気になる?あの子達のこと」
「えっ……」
私の気まずさが伝わってしまったのか、姫月は心配そうに私を見ている。
「姫月のこと待ってるのかなと……」
「後で話すだろうし、海凪は全然気にしなくて大丈夫だよ」
「そうかな……」
「あ、もしあの子達に何か言われたら受け流して良いからね」
「うん……」
嫌な予感は察した時にはもう起こりうるものなのだと後に知った。その日の放課後、私は女子達に呼び止められ、教室から出られなくなってしまった。
「言いたい事、分かるよね?」
リーダーっぽい子が皆の前に出て冷たい声で聞いてきた。
「……何でしょう?」
敢えて惚けてみたのは彼女達の反応を見たかったからだ。これもただの興味であって、別に怒らせたかった訳じゃない。
「姫月と仲良くしないで」
ほらきた。
「馴れ馴れしくされるとムカつくんだよ」
「……何故ですか?」
「あんたと姫月じゃ住む世界が違うってこと。姫月は優しいから、あんたが一人でいたことに同情しただけよ」
「包帯とか巻いて気を引こうとしても無駄な行為なんだよ。今どきそんなの流行らねーし」
「……これは……怪我をしたから……」
「見え透いた嘘だね。厨二病って思い込みも激しいんでしょ?自分を特別だとでも思ってんの?」
女子達は早口で文句を浴びせてくる。よくもまあそんなに舌が回るものだ。
「姫月から言われるなら納得はするけど……貴方達に言われる筋合いは無いと思います……」
バシッ──
私の言葉を遮ってリーダー格の子が私の頬を叩いた。いきなりの衝撃に驚きはしたけれど、大した痛みではない。
「あんたみたいな奴、死ねばいいのに」
吐き捨てるように彼女は言い放ち、今度は私に掴み掛かるようにして押し倒してきた。
「包帯取ってやるよ!大した怪我じゃないんだろ!」
「あ、いや……見るに堪えないからやめた方が……」
「喋るな!ほら、お前らもやって」
戸惑っていた他の女子達も彼女には逆らえないのか、大人しく従った。
くるくると包帯が取られていく。そして、段々と明らかになる私の身体の傷。その無惨な痕に彼女達の顔が青くなっていった。
「……キモ」
「何これ……。汚ったない身体」
「化物みてぇ」
同情ではなく雑言が降り掛かってくる。どんな事を言われたって私には効かない。そんな言葉は聞き飽きている。
「姫月はこれ知ってんの?」
「いや……話してない……ので」
というより聞かれていない。姫月にとってはどうでもいい事なのかと勝手に思っていた。
「クラスの皆に見せたら、あんた居場所無くなるね」
どうしてそういう思考に至るのだろう。
そういう育ち方をしてきたのだろうか。
「明日、包帯してくんなよ!勝手なことしたら姫月にも見せるからな」
気が済んだのか、彼女は女子達を引き連れて出ていった。
結局何をしたかったのか分からないままだ。
包帯も散らかしっぱなしで、ホコリがついて黒くなっている。
この事は家にも知らされてしまうだろうか……。それはちょっと困る話だ。
「──ひっどい傷痕だねぇ」
静かになった空気を破るように入ってきたのは、学年でも有名なイケメンくんだった。いつから居たのだろうか。
「……見世物ではないですよ……」
「あぁ、その包帯もう捨てた方が良いよ。汚れたやつ巻き直すとバイ菌入って炎症しちゃうから」
「……でも……予備を持っていないので……」
「保健室。包帯くらいあるでしょ」
「……え?」
手招きされたので、私はよく分からず彼の元へ歩み寄った。
どうしよう……また名前が分からない……。あんなに皆からイケメンイケメンと騒がれているのに。
もうイケメンでいいかな。
「付き添い必要じゃね?」
「……さぁ?」
「まぁ、一人じゃ上手く巻けないだろ。オレがしてやんよ」
「……いえ。そこまでお世話になる訳には……」
「良いじゃん。優しいことさせてよ」
半ば強引に保健室へと連れていかれた。
保健医は会議だかで居らず、彼が勝手に包帯を見つけ、ぐるぐると手際よく巻いてくれた。
「それ、虐待?」
丁寧に包帯を巻いてくれた後、彼は徐に煙草を取り出しながら聞いてきた。
「虐待……とは違う。兄が暴れてるだけ」
「家庭内暴力か。親は?」
「……怯えてる……。警察も頼りにならないって」
「じゃあ、殺せば?」
意図も容易くその言葉を放つ者がいるとは思わなかった。
まさかこんな所で出逢えるなんて。
「殺したらこっちが悪者になるから……」
「正当防衛になるようにすればいいんだよ」
「どうやって……」
「攻撃されそうになったら包丁で刺すとか」
「……やったことない……」
「手、貸してやろうか?」
「……どうして?」
「ただの暇つぶし」
中学生で煙草に手を出している位だから、人を殺す事にも躊躇いは無いんだろうなと勝手に納得してしまった。
それよりも、暇つぶしでどうにかしてくれるなら有難いことこの上ない。もう、彼に全て任せてみよう。
「兄さんはいつ暴れるの?」
「……夕飯の時……。いつも怒りながら部屋から出てくる」
「なら丁度いい。料理中に襲われたなら刺しても正当防衛だと認定される」
「……でも……兄は、ボクシング経験者で……」
「大丈夫。オレ、喧嘩で負けた事ねーし」
喧嘩とボクシングは同等だったかなと考えていると、彼が煙草を片付けながらゆっくりと近付いてきた。
「あんた、名前なんだっけ?」
「……海凪……。吉原海凪」
「2年生?」
「うん……」
「タメか。見たことねぇと思ったけど」
「地味ですので……」
「わざとだろ?」
「……何故」
「ちゃんとしたら美人だ。姫月より可愛い」
「……姫月のこと知ってるんだ」
「付き合ってたから」
「なんで別れたの?」
「うーん……性格の不一致?あと、緩いから新鮮味が無かった」
「緩い?」
「服のボタン、簡単に外すし。他の奴ともヤッてんだろうなって思ったらすれ違った」
「あぁ……人気あるからね」
「誰彼構わずニコニコしてっからだよ。お前はそういう風になるなよ」
「……はい」
流れで返事をしてしまった。
まぁ、経験もなければこれからも経験しないだろうけれど。
「──で?オレの名前、思い出した?」
「エスパーですか?」
さっきから心を読まれているような聞き方だ。なんで分かったんだ……。顔に出ていただろうか。
「すみません分かりません」
「素直でよろしい。オレは、透花。恵海 透花だよ」
「何と呼びましょうか」
「透花でも恵海でもお好きなように。みなぎって海に凪?」
「そうです」
「同じ海が入ってるじゃん。奇跡だね」
透花の笑った表情はとても優しい。口は悪いけど。顔が整っているだけに余計目立つ。
「親がサーファーだったから」
「かっこいいじゃん」
「……透花は、一人っ子?」
「うちは妹。小学生だけど不登校。やるだろ?」
「いじめ?」
「加害者の方だって。いじめてた子が自殺しちゃったから。皆に責められて居場所奪われて家の外にも出られない」
「……そっか」
「あれ?自業自得とか言わないの?」
「どうして?」
「友達に話したら、それは妹が悪いって言われるから」
「……理由なんて人それぞれだし……。部外者が決め付ける事じゃないよ」
「……あんたも、そういう経験したきたの?」
「まぁ……家庭が荒れてるから……。周りは煩かったな」
「物事の外側しか見てない奴らは全員死ねばいいと思うんだよね」
言葉の武器を透花は躊躇わず放つ。その姿勢はとてもかっこよく思えた。
「包丁が無理なら、熱湯かけるとか?」
「熱湯か……」
「あんたに火傷させてんだから、文句言えないだろ」
「……分かった。お湯は沸かしておく」
「夕飯の時はどうやって食べてんの?別室?」
「うん……。兄が来たら皆、部屋から出ていく」
「都合良しと。まぁ、後はどうにかなるだろ」
「熱湯かけた後はどうしたらいい?」
「刺しちゃえば?」
「でも……万が一抵抗されたら……」
「分かった。それはオレがやる」
「え、そんな大役を押し付ける訳には……」
「殺らせてよ。一回、してみたかったんだよね。人殺し」
「……あ、した事無かったんだ」
「経験あったら学校に居ないって」
「そっか」
「なんで人殺しって罪になるのかね。虫とか動物を殺しても大した罪にはならないのに」
「人が一番偉いからじゃないの?」
「一番偉いのは、本当の悪をこの世から排除する人だろ。そもそも法律なんてもんがあるからややこしいんだよ」
「そこを指摘しても……」
「世界から金と法律が消えたら、無法地帯になる。無理に規則を引いたから、こんな世の中になってんだよ。おもいやりとか反吐が出る」
「……透花が手を貸してくれるのは?」
「暇つぶし。あと、感覚を掴むため」
「捕まったりしないかな?」
「だから、正当防衛で事を済ますんだよ」
「……分かった」
言うのは簡単だ。透花も初体験みたいだし、一抹の不安が過ぎる。でも、どこかで手を打たないと兄は止められない。
「じゃあ、今夜。夕飯何時頃?」
「大体7時前後……」
「その時間帯に外で待機してるから、合図して」
「お皿割る」
「了解」
「あ、家の場所送った方が良いよね……」
「携帯携帯……」
まさか、イケメンと連絡先を交換するとは思わなかった。こんな展開になるとも予想外だったし、こんなに透花がノリノリなのも意外だ。
「何かあったら連絡よろ」
「わかりました」
「あ、一人で帰れる?」
「大丈夫……。ありがとうございます」
「気をつけて帰ってね」
透花が帰った後、私は暫くしてから校内から出た。
もう陽も暮れていて空は薄暗い。学校近くの公園ではまだ元気に小学生達が遊んでいる。歩道には犬の散歩をしている人が行き交っていてそこらじゅうで挨拶やら犬の鳴き声やらが響いていた。
学校から家までそんなに距離はない。だからぼーっとしていてもすぐに着く。親は定時で帰るのでもう夕飯の支度はしているだろう。早く中に入って割る皿を用意しなければ。
──バリン
ドアを開けようとした時、2階の窓が割れ、兄の椅子と思われるものが降ってきた。
今日は椅子か……。この間は本棚が飛んできたからな。
溜息をつきながら家の中に入ると、事態は予想外な方向へ傾いていた。
「海凪……」
リビングに入ると、血塗れの母親に出迎えられた。
食器棚が破壊され、床には色んなものが散乱している。その光景に不釣り合いな肉じゃがのいい匂いが漂っていた。
何より驚いたのは、兄を足蹴にして包丁を構えている弟の姿だった。
「何がどうしてこうなった……」
「夕翔が暴れ出して……。父さんが体当たりして、夕翔が倒れた隙に稀が襲いかかって……」
体当たりした父はその辺に転がっていた。太り気味なので、その反動でバランスを崩したのだろう。父はドジな所がある。止めに入ろうとした母はとばっちりを受けたらしい。どんなに兄が暴れても母は絶対に手は出さなかった。
「──稀」
「海凪、ごめん……。こいつ、俺が殺していい?」
「弟に犯罪者になって欲しくない」
「……構わないよ……。こいつのせいで学校でも虐められる。もう懲り懲りなんだよ!この機会を逃したら後悔する!」
弟の稀は小学5年生だ。内弁慶で外では臆病な性格になる。友達もいないんだろうなとは思っていたが、まさかいじめの被害者だったとは。私と同じで稀も身体に包帯を巻いている。兄からも沢山暴力を振るわれていた。積年の恨みは晴らしたいだろう。
「勢いで殺したら一発じゃ死なないよ」
「即死なんてさせない。痛い思いを味わわせながら殺すんだ」
兄は大学生だ。稀の力じゃそう簡単には死なない。
「……やってみろよ……。弱虫が」
煽ったのは劣勢な兄だ。倒された位ではダメージは少ないみたいだ。それにボクシングもやっていた身だ。多少の受け身は取れているだろう。そこまで考えて欲しかったけど。
「五月蝿い!いつも俺をバカにして……!お前だって愚かなクセに!」
「言ってろ、愚図。どうせお前には大した事は出来ねぇ」
「黙れ!」
怒りはMAXの筈なのに、稀はなかなか包丁を振り下ろさない。恐らく、その勇気が持てないでいる。人を殺すのに勇気もクソも無いけれど。
その間に、私は透花にメールした。短く、【緊急事態】だと。
多分、透花にとっても緊急事態だ。殺してみたい相手が殺されてしまうかもしれないのだから。
「度胸も無ぇクセに、獲物なんか翳してんじゃねぇよ」
ボキッと折れる音が聞こえた。瞬間、稀は泣き叫び、包丁を持っていた手はぐにゃんと折れ曲がっていた。
「稀……!」
母がすぐに弟に駆け寄り、兄から引き離す。子どもの手を折る位、兄には造作もない事だ。鍛えた筋力は伊達ではない。
「こっちだって痛いんだよ」
文句を言いながら兄がゆっくりと起き上がった。
「……なんだ。帰ってたのか、海凪」
冷たい視線を投げられ、私は恐怖に包まれた。
兄は怖い。憎しみとか苛立ちとかよりも、何を考えているのかが分からないのが怖い。読めない。何をしたいのかも。
「煙草取って」
命令され、近くに落ちていた兄の煙草を渡した。受け取った兄は、ゆっくりと煙草を味わう。
「イライラする……。海凪、こっち来い」
「えっ……」
「いいから。はよ」
「……な、何をしたいのか言って欲しい」
「──ちっ。めんどくせぇな」
今度は刺すような眼で睨まれ、兄の方から近付いてきた。
「包帯だらけじゃねぇか。取れ」
「い、嫌だ……」
「今日はやけに抵抗するな。何考えてんだ?」
「こっちが聞きたいよ。何で乱暴な事するの?」
「おれの勝手だろ?」
一瞬の隙を突かれ、兄は私の両手を片手で持ち上げる様にして塞いだ。もう片方の手が私の制服に伸び、そのままワイシャツを引き千切られた。
「今度抵抗したら、犯すよ?」
ジュッと胸元に煙草を押し付けられ、耳元で囁かれた。熱いのと痛いのと怖いのとで感情がぐしゃぐしゃだ。悲鳴を上げる事すら出来ない。
「この身体に焼印、付けていってやるよ。人前に出られないくらい、たくさん」
兄はどこで壊れたんだろう。以前はこんなんじゃなかった。私と弟と一緒に遊んでくれた。勉強も教えてくれた。優しくて自慢の兄だった。憧れて好きになって心酔した。
何が間違っていたんだろう。何がきっかけだったんだろう。こんなにあっさり家族を苦しめる怪物になるなんて。
「──それは困るなぁ。おにいさん」
不意に聞き慣れた声が降ってきて、私は声の主に視線を向けた。そうだ。鍵を閉めるのを忘れていた。彼はラッキーだな。
「なんだお前。不法侵入だぞ」
「DV男に言われたくないんだけど」
「喧嘩売ってんのか?」
「だったらなに?」
気付いた時には兄の腹に彼の腕が嵌っていて、私はその衝撃で解放された。急所に食らったのか、兄は膝を着きながら嗚咽している。
「悪ぃ。遅れた」
「ありがとう、透花」
「……あーあ。また傷増やされちゃって」
「一応、見えない所だからまだマシだけど」
「何言ってんの。エッチする時、目立つじゃん」
「……ん?」
誰と?
「痛って……」
腹を押さえながら兄が透花を見上げた。
「悪いんですけど、おにいさん。オレの実験台になってくれない?」
「……は?」
透花は兄の横を通り、ガスコンロにある肉じゃがを手に取った。
「なにすんだよ……」
「決まってんじゃん」
徐に鍋をひっくり返し、熱々の肉じゃがが兄の頭から流れた。
途端、兄の凄まじい叫びが家中に響いた。諸に地肌に食らっている。その痛みと熱さは相当なものだ。
「透花……」
「お粗末にしてごめん、海凪」
辺りを見渡し、転がっている包丁を拾うと透花は悶えている兄の前に座った。
「今、楽にしてやんよ」
ザシュ──
何の躊躇いも無く、透花は兄の首を切りつけた。紅い雫が物凄い勢いで噴き出し、兄の動きは完全に止まった。
こんなに人は血を噴くのかと感心までしてしまう私も、イカれているのだろう。兄がどうなろうが構わなかったし、どんな結末になろうが大した痛みにはならないと思っていた。
後処理が大変だなぁなどと呑気なことばかり浮かんで、哀しみに暮れる母のことも差程気にしていなかった。
それから警察が来たのは30分位経っての事だった。
私達家族と透花は事情聴取を行われ、兄はどこぞの病院へと運ばれていった。
母は放心状態で弟は折れた腕の処置をされていた。ただ転がっていただけの父は言葉を失い、状況把握も出来ていなかったのでさっさと解放されていた。
一番長くかかったのは私と透花だ。私は火傷の手当てをして貰った後、婦警さんに色々聞かれた。勿論、正当防衛になるように言葉を選びながら。恐らく透花もそうだろう。私より上手くやり過ごす。だから敢えて気にしなかった。
けど。
「……何故、貴方と恋人同士の設定になっているのでしょう?」
解放された頃には夜の11時を回っていた。パトカーで家付近まで送ってもらい、2人一緒に降りた。
透花も私も特に疑われず正当防衛だと見なされた。上手く言葉を選んだとはいえ、何故か私と透花は恋人なのだと勝手に思い込まれてしまった。
「だってそう言っておいた方が都合良いでしょ」
「……まぁ……」
「何回か通報されてたんだね。それでも取り合ってくれなかったって?」
「うん……。警察はきらい。役に立たない」
「近所からの証言もあったみたいだし、正当防衛成功と」
「何か掴めた?」
「それなりに。おにいさんの容態は?」
「……なんか……めちゃくちゃ腕の良い医者が執刀した所為で一命は取り留めたって……」
「悪運強ぇな」
「どうしよう……。せっかく透花にここまでして貰ったのに」
「次は無いでしょ。生きてたとしても多分、外に出られる姿じゃねぇし。それにさ、儚い命になると思うんだよね」
透花の言葉の意味を私は後に知ることとなる。
「サイレン煩さ……」
先程から鳴っているのは聴こえていたが、鳴り止むどころか段々増えているように思えた。
「火事かな」
「相当ヤバいやつだろ。この辺じゃねぇな」
「先の方だと思うけど……。透花、一人で帰る?」
「心配してくれんの?」
「助けて貰ったので……」
「大丈夫だって。街灯あるし。お前、明日は学校休めよ」
「どうして?」
「……いや。気にしてないなら良いけど」
「あぁ、放課後のやつ?いじめ位、兄の暴力に比べたら戯れみたいなものだよ」
「助けらんねぇから、先に言っとく」
「ん?」
「泣くなよ」
顔を近付けられたのでドキッとした。透花は耳元で囁くと良い声だなと改めて思う。
「じゃ。気をつけて」
「うん。ありがと、透花」
手をひらひらさせながら透花は帰って行った。
家には先に帰宅していた父と弟がいて、母は兄の容態を窺いに病院へ向かったらしい。所詮、母は子を手放せない。自らの腹を痛めて愛する為に産んだ我が子を早々見限れるものじゃない。
私も、愛されているのだろうか。
「おかえり、海凪。さっきの人は?」
「帰ったよ」
「海凪の恋人?」
「……まぁ、そのような存在」
「そうなんだ」
あんな事があった後だと言うのに弟はけろっとしている。切り替えが早いのも得だなとつくづく思う。
「手は?」
「全治3ヶ月」
「利き手じゃ大変でしょ」
「なんと左手も利き手だから問題無し。俺、凄い」
「そうだったっけ?」
「海凪が左利きだからだよ」
「……えっ」
「そゆこと」
意味深な発言をしながら弟はやっていたゲームに視線を戻した。
右利きが主流な世間で左利きは珍しい、もしくは変人扱いされる。五月蝿い家系だと右利きに無理矢理治されるらしいが、母も父もマイペースな人達なので特に口出しすることも無く今日まで至る。そう考えると私は恵まれている方なのだろう。因みに兄も左利きだった。
「何か食べる?」
夕飯は兄への報復と化してしまったので、主食となりそうなものは何も無い。
「ピザ、食べたい」
「いいね。お父さん、リクエストある?」
「何でも頼め頼め。父が金を出してやろう」
「わーい」
早速ピザを頼み、遅めの夕食を取った。
その日、母は病院に泊まったらしい。兄は暫くは起きないだろうと執刀医が言っていたそうだ。頭から火傷した上に首まで切り付けられたのだから当然だろう。だから首から上は包帯ぐるぐる巻で名札が無いと誰だか分からない状態のようだ。
色々と騒がしかった夜が明け、朝を迎えた。寝不足になる訳でもなく、いつもと同じ時間に起き、学校の支度をする。深夜のピザはやばかったかなと少し気になったが、特に身体に変化は無い。包帯を巻いてくるなと言われたけれど、見せていい身体ではないので忠告をサラッと無視して包帯を手に取った。私はいい子ちゃんじゃないし。あの子達の戯言なんてささくれみたいなもんだ。
「海凪、学校行くの?」
「うん。とりあえず」
「嫌だったら帰っておいで」
父が優しく促した。無断欠席を咎めるような人では無かったし、理由を言わなくても悟ってくれた。だから弟はサボるらしい。態々、いじめられる為に学校へ行く意味も無いと言って。
義務教育なんて飾りに過ぎない。
「何かあったら連絡して」
「了解。行ってら」
「行ってきます」
何があっても今日は一人で切り抜けなければならない。透花は立場上、味方にはならないから、とりあえず、踏ん張れるだけ頑張って無理だと思ったら帰ろう。
そんな気の持ちようだった。
「なんで包帯してきてんだよ!」
案の定、彼女達が突っかかってきた。
いつもは時間ギリギリに登校しているクセに今日に限って教室で私を待ち伏せていたなんて。そこまでは考えてなかったよ。
クラスメイト達が私と彼女達を囲むようにして視線を注いでいる。誰も助けようともしない。冷たい目。兄に見られているみたいだ。まぁ、こちらも助けて欲しいなんて戯言は吐かないけど。
「身体見せろって言ったじゃん。なに無視してんの?」
リーダー格の子……あ、そうだ、宗像さんだ。今日はすぐに名前が出たな。下の名前はもう完全に思い出せない。ごめんね、宗像さん。
「貴方達の言いなりでは無いので……」
「は?勝手な事したら姫月にも見せるって言ったよな?」
「私は構わないけど……目に毒と言うか……」
「あんたさぁ、昨日、恵海と一緒に居たよね?」
「……それが何か?」
「恵海まで取ってんじゃねーよ!」
ドン、と思い切り押され、後ろの机に当たった。
「うざ」
宗像さんはまた側仕えみたいな子達に目で合図を送り、私の身体を押さえ付けた。
「皆にも見て貰いなよ。ねぇ?」
ブレザーを脱がされ、シャツの袖を捲られて包帯をスルスルと解かれた。明らかになる私の身体の傷に見ていたクラスメイト達は顔色を歪め、怪物でも見るみたいに嫌な視線を向けていた。
「ほんとに汚ったない身体。これじゃあ、彼氏も出来ないね」
「あたしだったらやだなあ。死んじゃうかも」
なら死ねばいい。とは言えない。苛立ちも憎しみもこの子達に抱いたって無駄でしかない。 どうせ、この箱の中でだけ成立する関係なんだ。
「こんな人と一緒のクラスに居たくないなー」
「なんか触ったら移りそう〜」
「こっわ」
彼女達は愉しそうにケラケラと嘲る。
ふと視線を上げると、ドア付近でこちらの様子を窺っている透花の姿があった。腕を組みながら傍観か。昨日直接「助けない」と言われたから傷つく事はないけど。この子達のことも、持ちかけたら殺そうとするだろうか。
「──なにやってんだよ!」
濁った空気を切り裂くように教室に入ってきたのは登校してきた姫月だった。
「あ、姫月。見て見て!今こいつのお披露目を……」
「海凪!」
宗像さんの言葉を遮って、姫月は私の元まで駆け寄ってきた。
私の傷跡を目にした瞬間、姫月は哀しげな表情を浮かべ、でもすぐに自分のブレザーを私に掛けてくれた。
「ちょっ……姫月?なにして……」
「気持ち悪ぃんだよ、お前ら。海凪に謝れ!」
姫月の印象とはとても結びつかない乱暴な口調に、皆も私も虚をつかれたような表情を浮かべていた。