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それでも愛してると言いたかった  作者: 和菜
二章 狂う歯車
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感情の置き場

 

「あー……疲れたぁ……」


 乗り込んだ車の後部座席で、幸三郎がネクタイを緩めながら思い切り脱力した。

 結局、コンサートが終わった後四人で食事に行き、すっかり意気投合した女性二人は、仲良く絢子嬢の家の車に乗って帰って行った。

 元々は幸三郎と二人で電車で帰る予定だったらしいが、咲ともう少しお喋りがしたい、という絢子の願いで、男女別れて帰宅することとなったのだ。


「ざっくばらんなデートをしているお前達には、少々ハードルが高かったようだな」


 からかうように聖人が言うと、幸三郎はあからさまにため息を吐いて、


「ほっとけ」


 と口を尖らせた。


「だが、そう遠くない将来、家を継ぐ段に至れば、趣味に合わん、という理由では避けられなくなるぞ。特に、賓客として招かれた場合は」

「わぁってるよ。ちゃんと音楽も勉強シマス……明日から」


 ダイットが長続きしない女子みたいなことを言う幸三郎に、聖人は思わず笑った。


「まあでも、絢子嬢が実は感じの良い人って分かったことは、収穫だったな」

「そうか」

「で……どうだ? そっちは」


 シートの背凭れにだらりと体を預けたまま、幸三郎は脈絡もなくそう問うた。


「どう、とは」

「――好きになりたい、と、思えそうか?」


 いつだったか、幸三郎を気遣って聖人が問うた言葉を、そのまま返される。

 絢子の事は……誕生バーティ―で会った時よりは印象が良くなった。

 無闇に体を強調させて、聖人を色で釣ろうとしているだけの、浅ましい女だとさえ思っていた自分を、今では少し反省している。

 相変わらず無遠慮に触れて来るけれど、その代わり、周りへの配慮やマナーといった常識面はきちんとしている。

 見合いの時の店員への接し方や、今日の会場での振る舞い、咲や幸三郎への態度で、それはよく分かった。

 けれど――。


「――分からない」


 それが、聖人の正直な気持ちだった。


「ガードが堅いね、お前も」

「まるでお前が緩いみたいだな」

「まあ……堅くはねえ、だろ。見合いの話だって、過去を振り切るのに利用したようなもんだし。

 それで咲お嬢さんの印象が良かったもんで、あっさりコロッと行っちまってる訳だし」


 自嘲するかのような言葉だったけれど、そこに一片の悔いも浮かんではいなかった。


「どっちにしても、もう決定なんだろ。絢子嬢との結婚」

「……ああ。さも当然のように、な」

「さも当然なんだよ。分かってたことだろ。だったらもう、妥協じゃねえけど、此木からもちょっとくらい歩み寄ったらどうだ?」


 身も蓋もない言い様だが、言い返す要素のない正論だった。

 聖人がこのまま絢子との交際に気乗りがしなくても、既に父の宗一は息子の結婚についてあれこれ段取りを決め始めている。

 聖人が願って取り付けた縁談ではなく、父が最良だと判断した縁談だ。

 どう足掻いても結果は覆らない。


「……努力する」

「うん。でもまあ……しんどくなったら言えよ。お前より少しは女の扱い分かるつもりだから」


 重い口調で言えば、幸三郎は優しそうに微笑んで、聖人の肩をぽん、と叩いた。

 そうだ。

 どう足掻いても覆らない。

 いずれ聖人は、絢子と結婚しなければいけないのだ。

 好きになれなくても。

 好きになりたいと思えなくても。

 父のために、会社のために、そこで働く多くの者達のために。


(だが……)


 己に半ば言い聞かせた時。

 何故か、紫音の姿が頭を過ぎった。



 □□□



 息を吸うと同時に弓を持ち上げ、吐くと同時に弦を引く。

 親指の付け根に矢尻が乗った瞬間、聖人は呼吸を止めて、的を見据えた。

 最上級の緊張感に包まれ、本能が“今だ”と告げた、刹那。

 勢い良く右手を放した。

 矢は唸りを上げ、けれど美しい放物線を描きながら、真っ直ぐと的へ飛んでいき、真中に命中した。

 既に、的の真ん中に突き刺さっている矢は三本。

 調整は上手くいっていると見て間違いないが、油断は出来ない。

 聖人は的から視線を外すと、小さく息を吐き出した。

 一月後に弓道の大会が開催される。

 此木財閥もスポンサーの一員として名を連ねる大きな大会で、聖人も毎年参加させられており、去年は優勝、一昨年は準優勝を飾っていた。

 此木の名に恥じない試合をし、結果を残せ、と毎回父には言われる。

 激励ではなく、そうあることが当然だ、とでも言いたげな、半ば高圧な目で。

 幼い頃から数々のスポーツや武芸を習わされたが、胸を張って好きだと言えるものはなく、殆どをそこそこの結果が出た瞬間に辞めて来た。

 金持ちの道楽と揶揄されても仕方ない程に、どれにも真剣に取り組んでは来なかったけれど、弓道だけは違った。

 矢を放つ瞬間の緊張感、ほんの僅かな所作や、作法、どれ一つ取っても、一糸乱れることなく洗練された動きと正確さ、集中力を求められる武道。

 その一連の動作を美しく完璧にこなせる誰かを目にする度、聖人は家の事も何もかもを抜きにして、自分ももっと上手くなりたい、と強く思う。

 弓道だけは、父のためでなく自分のためにやっているのだと、誇ることが出来る。


「……素敵ですわ」


 すり足で持ち場を離れた時、背後で絢子がうっとりした声でそう呟いた。

 そういえば、彼女に練習風景を是非見学させて欲しい、と言われて通してやったのだった。

 クラシックコンサートに一緒に出掛けてから一ヶ月。

 絢子との交際は……とりあえずは恙なく、といったところだった。


「大会には、是非応援に行かせて下さいね」

「……ええ、勿論。ベストを尽くします」

「聖人さんなら、今年もきっと優勝間違いなしですわ」


 簡単に言ってくれる、と内心呆れながらも、聖人は小さく笑みを浮かべてお礼を言った。


「……今日はここまでにします。片づけをしますので、少々お待ちを」

「あ、私もお手伝い致しますわ」

「いえ、どうかお気遣いなく。矢は危険ですので」


 気持ちは嬉しい、という意図を滲ませてそう言うと、聖人は的場へ行き的から自身が放った矢を一本ずつ引き抜き、雑巾で矢先を拭き取った。

 射場へ戻り、矢を所定の場所に戻し、弓懸(ゆがけ)を外して弓と共に纏めておく。

 絢子と共に弓道場を出て、ドアをしっかり施錠した。

 此木家で弓をやるのは聖人だけなので、弓道場の鍵も書庫同様聖人が所持していた。


「では絢子お嬢様。私は裏の水場で顔を洗った後、シャワーを浴びて参ります。

 お嬢様は客間でお待ち下さい」

「はい。なるべく早くいらしてね?」

「ええ」


 愛らしく少しだけ砕けた調子で言う絢子に、聖人は普段通りの調子で応える。

 今日はこの後、屋敷でディナーの約束をしていた。

 パーティーで会った時こそあの上目遣いに苛立ちを覚えたが、きちんと場に応じた格好をして弁えた振る舞いをしている時であれば、確かにあれはそれなりの破壊力がある。

 パーティ―というのは、各界の偉い人も多く招く場だから、特に女性は色々着飾ったりする必要があるのかもしれないが、もう少し控え目にして普段通りにしていた方がずっと彼女は魅力的なのに。

 聖人の心が奪えるかどうかは別にして。

 聖人は絢子が屋敷の方に歩き去って行くのを暫く見送って、一つため息を漏らした。

 言った通り弓道場の裏手にある水場に向い、顔をばしゃばしゃと洗って、タオルで拭いた。

 夕方から夜に移り変わっていく時刻、空も茜色から闇色へとゆっくりと移ろっていく。

 視線を少し動かすと、雑木林が目に入った。

 あそこを抜ければ例の蔵に行ける。

 あの日以来、紫音と会っていないが、彼女は元気だろうか。


「――みゃあ」


 聖人の心配に応えるように、不意に、足元で猫の鳴き声が聴こえた。

 いつの間にやって来ていたのかそれは、あの時紫音が“たま”と名付けた、白黒の猫。


「……たま。久し振りだな」


 驚きつつ身を屈めて頭を撫でてやると、たまは嬉しそうに鳴いた。

 そうして手を離すと、たまは更に聖人との距離を詰めて、片方の前足で彼の膝を叩く。

 何かを促すかのようであり、何かを乞うような仕草に聖人は首を傾げたが、やがて、くるりと身を翻して顔だけ振り向く姿を見て、もしかして、と思い苦笑を浮かべた。


「――すまない。今日は行けないんだ」

「にゃーん……」

「ごめんな。ちょっとこれから約束がある。だが、近いうちに必ず会いに行くから」

「にゃ……」


 確証も根拠もないけれど、たまはまた聖人を紫音の所に一緒に行こうとしてるのだと思った。

 行きたいのは山々だが、聖人はこれから絢子と夕食を共に食べるという約束がある。

 聖人の言葉が通じたのか何なのか、たまは残念そうに力なく一つ鳴くと、半ば項垂れたまま雑木林の方に緩く駆け出して行った。

 ――約束なんてすっぽかして、紫音に会いに行けたなら。

 去り往く猫の背中を見つめて、脳裏にそんな思いが過ぎり、聖人は己に息を呑む。

 まだ自分は、絢子と過ごす時間を好きにはなれないらしい。


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