逢瀬
部屋に備え付けてある洗面台で、まずは手の平の傷口を洗わせ、清潔なハンカチで拭き取った。
その後、消毒液で傷口を消毒する。かなり沁みるようで、少女は顔を顰めたけれど、聖人が苦笑交じりに「我慢だ」と言うと唇を噛み締めた。
ガーゼを貼り、包帯も巻いて、手当ては完了。
「はい、出来たぞ」
言って笑い掛ければ、少女は少しだけ戸惑った表情を見せながら、包帯の巻かれた手をまじまじと見つめ、恐る恐るその手をもう片方の手で包み、一つ息を吐き出した。
「……あ、」
「ん?」
「……ありが、と」
「、……!」
未だ震える声で、かなりたどたどしく紡がれた言葉、だった、けれど。
小さく告げられた御礼に、何故か、聖人は一瞬だけ、身動きが取れなくなった。
「いや……大したことない怪我で良かった」
元はと言えば俺のせいでもあるし。
何故か何処か誤魔化すように言って、聖人は自室に備え付けの薬箱を片付けた。
その時、部屋の窓が小刻みに揺れる音が響いた。
風に揺れるようでありながら、規則的に何かが叩いているような音で、聖人は訝しげにカーテンを開けた。
「にゃあ」
すると窓の向こう、ちょうど彼の足元の辺りを前足でどんどん叩く、先程の白黒の猫があって。
ボクも入れて、とせがむような動作に、聖人は軽く目を瞠りつつも窓を開けてその猫を招き入れてやった。
「あ……」
部屋に入るや否や、猫は一目散に少女の膝の上に上り、寛ぎ始めた。
「……驚いたな。まさか付いて来ていたとは……その猫、お前が飼っているのか?」
「ううん……時々、蔵に来る。一緒にご飯食べて、一緒に寝て、でも、朝起きてちょっとしたら、まだどっか行く」
「蔵……? 蔵って、あの蔵か? お前と逢った湖の手前の」
「……!」
聖人の困惑の声に、少女はしまった、と言うように目を瞠り両手で口を覆った。
だがもう遅い。
「お前は一体……」
困惑と、僅かな警戒を滲ませた声で呟けば、少女が猫を抱き締め俯いた。
「この後、私、どうなるの……?」
「え……?」
「連れてくの……? 怖い、人達の、とこ」
「怖い人達……?」
「私、殺されるの……? お母さんみたいに……」
「……!」
少女が何を言っているのか、聖人にはさっぱり分からなかった。
だが、殺される、という言葉と、お母さんみたいに、というその二つの単語は、それだけで彼女がこれまで何を見たのかを窺い知ることが出来る、非常にインパクトの大きい言葉だった。
何を変な冗談を言ってるんだ、と笑い飛ばすには、あまりに少女の怯え方は尋常ではなかった。
間違いない。
少女の母は……誰かに、殺されたのだ。
彼女の言う、“怖い人達”に。
唐突に突き付けられた凄絶な話に、聖人の心臓はいつもより速く鼓動を刻んでいた。
誰かが誰かに殺された、なんて……まだまだ彼には、ニュースの向こう側の話でしか、ないと思っていた。
現実味のない現実は、聖人の心を混乱させ、次から次に色々な疑問を浮かび上がらせる。
しかし聖人は、感情に任せて少女を質問攻めにしたい衝動を懸命に抑え込んだ。
一つ息をゆっくり大きく吐き出し、少女の側にそっと歩み寄って、彼女と目線が合うようにしゃがむ。
「大丈夫だ。俺はお前を、誰の所にも連れて行かない」
「……ほんと、に……?」
「ああ。俺はこれから先も、お前の事は誰にも言わないと誓う。今夜の事も、二人だけの秘密だ」
「……、」
「そういえば、まだ名乗っていなかったな。俺は此木聖人。一応、この家の長男だ。良かったら、お前の名前も教えてくれないか?」
猫を抱く少女の手にそっと手を重ねながら言えば、少女は少しだけ躊躇った後、自身の名前を唇に乗せた。
「……紫音……」
「紫音、か。良い名前だな。その猫は?」
「……決めてない。どっか、他所のお家の子、かもしれないし」
「猫は普通放し飼いはしないから、恐らく野良猫で間違いないだろう。
まあ、人懐っこい所を見るに、元は飼い猫だったか、あちこちで餌付けされたりしているみたいだが」
「……そうなんだ」
にゃーん、と猫がまた一つ鳴いた。
おうおう。お前らも好きに呼ぶがいいぜ、なんて、聞こえた気がした。
「俺達は、何て呼ぼうか?」
下から紫音の顔を覗き込むようにして問えば、彼女は仄かに頬を染めて、気まずそうに目を逸らす。
「……た」
「た?」
「……たま」
一番オーソドックスなのが来た。
しかし良いかもしれない。
無駄に気取った横文字の名前より、気紛れにやって来る野良猫相手なら、むしろオーソドックスなのが可愛らしい。
すると白黒の猫も気に入ったのか、嬉しそうな顔でまた「にゃーん」と鳴いた。
「決まりだな」
少しだけ可笑しそうに笑んで聖人が猫――たまの顎を撫でる。
他所は他所で違う名で呼ばれているだろう。
あちこち名前があって、果たしてこいつはそのいちいちをちゃんと聞き分けて応えるんだろうか、と素朴な疑問が脳裏を掠めた。
というか、きっと同じ名を付けた人が居そうだけれど。
「一人で大丈夫か?」
「うん……」
細心の注意を払いながら、入って来た裏口まで紫音を連れて行くと、彼女は「ここまででいい」と言った。
「手当て、してくれて、ありがと」
「礼を言われる程の事じゃない。気にするな」
「……あの」
「心配するな。お前の事も、今夜の事も、決して誰にも言わない。絶対だ」
「……うん」
繰り返し言い聞かせると、紫音はほっとした顔で頷いた。
この短い時間一緒に居ただけで分かったが、この紫音という少女、感情が顔に出るタイプのようだ。
「ほら」
何となく、もっと安心させてやりたい気持ちになって、聖人は自然と右手の小指を差し出した。
「……指切りげんまん?」
「ああ。嘘吐いたら針千本だ」
そう言うと、紫音は少しだけ目を丸くして、ややあって彼の小指に自身の小指を絡めた。
こんな子供染みた儀式で、名前以外はやはり正体不明の少女の信頼を得ようとするとは、財閥の長男らしくないな、と内心苦笑する。
けれど、何の駆け引きも見返りもなく、純粋に“約束する”と誓うこの細やかな儀式は、絢子と一緒にコンサートに行こう、と貼り付けた笑顔で約束した時より、ずっと心を穏やかにさせた。
「さあ、もう行け。またな」
「ん」
□□□
約束の日曜日。
デートとはいえ国際的なオーケストラを招いてのコンサートということで、聖人は無難にスーツで会場へ赴いた。
待ち合わせ時間の二十分前に到着したが、絢子も既に到着していた。
「すみません。お待たせしました」
「いいえ」
お嬢様らしく丁寧にお辞儀する絢子は、会う度に印象が変わるようだった。
今日は和装でなくドレスだったが、いつかの誕生パーティーとは違って今日は紺のワンピースドレスで、髪もハーフアップで纏め上げ、アクセサリーも小さな石の付いたネックレスだけだった。
あの派手な身なりは、数多の偉い人が集まるパーティーだったからかもしれない。
「では参りましょうか」
既に開場している劇場へと入るべく聖人が促すと、絢子ははにかむように一つ頷いた。
絢子が用意してくれたバルコニー席に向うべく、係員の案内に従い、一般人とは違う通路を進んでいた時だった。
「――あれ、此木?」
背後から思い掛けない声が掛かり、驚いて振り向くと、そこには、見知った男女がやはり心底びっくりした顔で立っていた。
「橋谷……お前も来ていたのか」
「ああ、たまにはな」
嬉しそうに言いながら歩み寄る幸三郎は、聖人と同じスーツ姿だった。
隣には、白いスーツドレスを着た咲。
偶然にも、彼らもデートでこのコンサートを鑑賞しに来たようだった。
「絢子お嬢様、お久し振りです。先日はお招き頂いたパーティーに出席出来ず、申し訳ありません」
「いいえ。幸三郎さんも、お元気そうで何よりですわ。そちらの方は確か……」
「――初めまして。大善寺の次女、咲でございます」
普段の砕けた印象とは打って変わって、礼儀正しく幸三郎と咲は絢子に挨拶をする。
クラシックコンサートにデートに来ることの方が少ない彼らも、曲がりなりにも財閥の子供である。
きっちりしなければいけない時は、完璧な所作で隙のない振る舞いを見せる。
「お二人もバルコニー席?」
絢子がにこやかに問うと、幸三郎と咲は頷き、チケットを聖人達に見せた。
幸三郎と咲の席は、聖人と絢子の席がある一角の一つ隣のバルコニー席だった。
「あら、お隣ね。……そうだわ。せっかくだから、皆で一緒に観ませんこと?」
絢子の思い掛けない提案に、他の三人は流石に驚いた。
「構わないでしょう? この二つのバルコニーは長谷川家と橋谷家の貸し切りみたいですし」
目を丸くする三人の傍らで、絢子は案内係のスタッフにそう話を進める。
バルコニー席を貸し切りにする客だ、どういう家柄か分かっているんだろう。
二組を案内していたスタッフ二人は、互いに顔を見合わせた後、穏やかに微笑んで同時に深くお辞儀をした。
「さあ、参りましょう」
絢子は咲の腕を引っ張って席へと急ぐ。
取り残された男二人も顔を見合わせて、互いに苦笑を漏らした。
「絢子嬢って、なんかいつもと印象違うな?」
開演前、咲と楽しそうにお喋りをしている絢子を、幸三郎は感心したような目で眺めながら言った。
「なんかこう……普段からケバケバしい化粧して派手な服着て、ついでに結構高飛車な性格してるもんだと思ってたが」
「そうだな」
「ああいうのがギャップ萌えって言うのかね」
「……あまり見惚れていると、咲さんに怒られるぞ」
「つーかお前ら、いつの間にデートするまでに進んでたんだよ?」
「父に言われて少し前に見合いした。その時に今日会う約束をしたんだ」
「え、何それ。見合い? 初耳なんだけど」
「最近お前とも学校で会わなかったからな」
そうでなくても、紫音とのこともあって幸三郎の存在が頭の隅に追い遣られていたために、報告するのを忘れていた。
「ところで、橋谷達がこういうデートをするとは珍しいな」
「親父がな。たまには財閥の跡取りらしい場所でデートをしろ、ってよ」
「そのためにバルコニー一角貸し切りか」
「絢子嬢も似たようなもんだろ」
そうこうしているうちに、開演を知らせるベルが鳴った。
次第に劇場内の照明が落とされ、暗闇に包まれる。
同時に客席から一斉に拍手が沸き出し、それに応えるようにステージにライトが点された。