涙夢の果てに君と出逢う
――がしゃん!
嫌に耳に響く音を立てて、ティーカップと受け皿が割れた。
すぐ後、女性の短い悲鳴が聞こえ、何かが床に衝突する音が響く。
『――、っ! ……~、っ!!』
ドア越しに聞こえる、男女が激しく言い争う声。
廊下を歩いていた際、偶然聞こえたその物々しい様子に、まだ五つの少年は、恐る恐るドアの隙間からそれを覗き見た。
『……だと! この……――、』
すぐ目の前で起こっていることなのに、彼らが言っている言葉がよく聞こえない。
その二人が誰なのかも、どうしてか靄が掛かったようにはっきり見えない。
けれど……。
『っ、!』
男が、何をしているかだけは、はっきり見えて、理解出来た。
泣いて、身を守るように蹲る女を、彼は口汚く罵りながら殴る蹴るの暴行を繰り返している。
少年は震えた。
何が起こっているのか分からなかった。
怯えたように一歩下がって、その弾みで、ドアが微かに開閉して小さな音を立てた。
その時、男が弾かれたように少年の方を見遣った。
気が付けば少年は一目散に逃げていた。
一心不乱に走って、辿り着いた先は自室だった。
隠れるようにベッドに潜り込み、布団を被って蹲る。
しかし所詮は、子供が逃げ込んだ場所。
容易に何処に逃げたか予想が付いたのだろう、男は不気味な程静かに、少年の部屋に立ち入り、布団の上から少年を撫でた。
恐ろしい程、優しい手付きだった。
『――今見た事は誰にも言うな。お前は何も見ていない。忘れるんだ』
誰かに言えば。
見た事を話せば。
忘れずに憶えていたら。
きっと、この男は、あの女性にしたのと同じ事を、少年にする。
それは、少年の、恐怖心による確信だった。
だって“彼”はそういう人、だから。
『忘れろ。いいな』
念を押すように言われた言葉に、少年は、こくこくと何度も頷いた。
やがて、布団の上から少年を撫でていた手はふと離れていき。
男も部屋から出て行って。
気が付けば少年は、包まった布団の中で、気を失ったように、眠っていた。
□□□
「……、」
目を覚ますと、頬が濡れていた。
夢を見て泣くなんて、小さな子供みたいだ。
けれど何故だか、起き上がって思い返そうとしたら、酷く夢の内容が曖昧だった。
少なくとも、良い夢ではなかった。
良い歳をして、起きた時に泣いているくらいだから。
聖人は服の袖で乱暴に涙を拭うと、ベッドから立ち上がった。
酷い寝汗を掻いた寝間着を着替え、そのまま部屋を出る。
とてもではないが、このまますぐにもう一度寝直す気にはなれなかった。
深夜二時ともなると、屋敷内でも起きている人間はいない。
聖人は迷うことなく裏口に向かい、そこから庭へと出て、例の雑木林の方へと歩を進めていた。
何でかは分からない。
けれど無性に、祖父の遺したあの蔵を見に行きたくて堪らなかった。
いつもより少しだけ足早に林を抜けると、やはり変わらず蔵はそこに建っていた。
蔵の入り口まで歩み寄り、石段に腰掛けて、少しの間夜空を見上げた。
――そういえば、あの少女はどうしているだろう。
あれからこっそり何度かこの辺りを見に来たけれど、一度も出くわしたことはない。
夢か幻だった、と無理矢理片付けるには、あまりに強烈な出逢いだった。
でも、あの少女がどうなってしまったかなんて、確かめる術などない以上、聖人には関係ないことだ。
大体、確かめてどうなるものでもないし。
何処か冷めた気分でそう思って、小さく皮肉めいた笑みを一人零した時だった。
にゃーん。
呑気な猫の鳴き声が不意に側で聞こえて、振り向く。
白と黒の毛並みをした猫が、妙に人懐っこい様子で聖人の元に擦り寄って来た。
「……迷い猫か?」
少々驚きながら問いつつ手を伸ばせば、その猫は何故か嬉しそうに聖人の指を軽く舐めた。
此木の屋敷にペットは居ない。
明らかな迷い猫だろうが、警戒することなく人に擦り寄るということは、誰かがこっそり餌付けでもしているんだろうか。
野良猫に無闇に餌付けするのは良くない筈だが……。
そんなことを考えていると、今度はその猫は、聖人の顔を仰ぎ見て、また「にゃーん」と一つ鳴いた。
するとそいつは聖人に背を向けて、ひょい、と石段の上から降り、何歩か歩いた後、立ち止まって今度は首だけ振り向いて、またまた「にゃーん」と鳴く。
一緒に来て、と言われている……気がする。
いやいや、まさかそんなファンタジーみたいな話がある訳……。
そう思うも、白黒の猫は急かすように「にゃーん、にゃーん」と鳴き続ける。
まあ、それこそ何処かのファンタジーじゃあるまいし、付いて行って雑木林を抜けたら異世界でした、なんて展開になる訳もなし。
どうせ今日はもう眠れないのだ。
変な夢のついでに、不思議な猫の招待を受けるとしよう。
白黒の猫が向かった先は、いつだったか例の少女と初めて逢った、あの湖の方だった。
何処かうきうきした様子で小走り気味に進む猫の背を追い、やがて猫と聖人は雑木林を抜けて、湖に辿り着いた。
「……、!」
猫は目的の場所に着くや否や、突然駆け出して一目散に畔へと向かう。
その先に……あの少女が、居た。
初めて逢った時と同じように、湖面に足を浸け、ぶらぶらとさせながら。
「にゃあ!」
猫が嬉しそうに、少女の腕の中に半ば飛び込む。
相変わらず野暮ったい長髪に、地味なワンピース姿だった。
あれからずっと会わなかったから、てっきり、もう自分の帰るべき所に帰ったのだと思っていた。
まさか猫に導かれて、また、逢うなんて。
呆けたように野暮ったい後姿を見つめていると、猫が不意に少女の腕から飛び退いて、聖人の方に駆け戻って来た。
驚いた少女は、猫の背を追うように振り向き……そこで漸く、聖人の存在に気付いたようだった。
聖人の顔を見た途端、目を瞠り息を呑み、次の瞬間にはあの晩と同じような怯えを見せた。
「……また逢ったな」
聖人は、努めて柔らかい声でそう言った。
けれどやはり少女は、必死の形相で彼に背を向け走り出そうとする。
しかし、その弾みで足を踏み外してしまい、少女は地面に盛大に転んでしまった。
「っ、おい」
咄嗟に駆け寄って、体を支え起こそうとした、けれど。
「や……っ!」
腕を振り払われた。
すると彼女は尻餅を着いたまま、後ろ手に這いながら聖人と距離を取ろうとしていて。
「……大丈夫か? 怪我はしていないか?」
とにもかくにも、落ち着かせないといけない。
瞬時にそう思った聖人は、少女の目をじっと見据えて、努めて静かに言った。
「怖がらせてすまない。だが俺は、お前に危害を加えるつもりはない」
尚も後退る少女に、けれど聖人は敢えてそれを深追いしようとはせず、逸らすことなくただ真っ直ぐ少女を見つめながら言葉を紡いだ。
真摯な言葉が少しは響いたのか、彼女は闇雲に後退るのを止めて、聖人を見つめ返した。
それでも防衛本能故か、尻餅着いたまま両腕を体の前に持ち上げた。
「、……怪我をしているな」
その持ち上げた手の平に擦り傷が見えて、聖人は微かに目を瞠る。
「さっき転んだ時だな。ちょっと見せてごらん?」
言いながら手を伸ばすけれど、彼女はまだ聖人のことが怖いのか、身を強張らせた。
「……ただ傷を診るだけだ。怖がらなくていい」
「……、」
「さあ」
無理強いせず、けれど手当ての必要性を静かに諭すように、聖人は彼女に片手を差し出した。
強引にその手を取ってはまた振り出しに戻る。
決して目を逸らさず、根気良く彼女が手を伸ばしてくれるのをじっと待った。
……やがて、少女は恐る恐る、差し出された聖人の手に手を重ねた。
安心させるように小さく微笑んで、聖人は少女の傷の具合いを確かめる。
転んだ拍子に咄嗟に手を着いたらしい。
皮が剥け傷口には砂粒が付着している。
一度綺麗に洗う必要があるだろう。
とはいえ今聖人は、簡素な部屋着なのでハンカチの類は持っていない。
「一緒においで。手当てしてやる」
「っ、……」
「大丈夫だ。お前の事は誰にも言っていないし、屋敷の人間は皆寝ているから。
そのまま放っておいたら黴菌が入って良くないぞ」
「……、」
「今だけでいい。今だけでいいから、俺を信用しないか?」
微かに、握る手に力を込めた。
沈黙が下りて、暫し互いに見つめ合う二人だったけれど、ややあってから少女は一つ、躊躇いを見せつつも頷いた。
先程通った裏口から屋敷内に入ると、聖人は少女の手を引きつつ慎重に先へ進んだ。
間違いなく使用人達は皆寝ている筈だが、それでも用心するに越したことはない。
引いた彼女の手は細かく震えていた。
慎重且つ素早く移動して、順調に聖人の自室へと近付いていく。
けれど、あと一つ角を曲がれば到着、という時。
「坊ちゃま?」
念のため、廊下の影に潜んで様子を確認している所に、声が掛かった。
息を呑んで振り向くと、たった今来た道の方に、寝間着を着た修三が立っていて。
聖人は平静を装いつつ自身の背に少女を隠す。
「如何なさったのです? このような時間に」
「……ああ。ちょっと夢見が悪くてな。目が覚めてしまったんで、気分転換にうろついていたんだ。そう言う爺こそどうした?」
「私めも、先程目が覚めてしまいまして、キッチンで水を頂いて参ったところにございます」
「そうか」
修三は聖人の言葉を特に不審がる様子はなく、短い会話を交わすと「では私はこれで。お休みなさいませ」と言って、すぐ側の自室へと戻って行った。
少し肝は冷えたが、どうにかやり過ごせたらしい。
思わず安堵の息を零し、背に隠した少女の方を振り向けば、いつの間にやら聖人の服の裾を掴んで身を縮こまらせていた。
「……もう大丈夫だ。さあ、おいで」
そんな彼女の手を再びそっと取って、聖人は少々足早に自室へと戻った。