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それでも愛してると言いたかった  作者: 和菜
二章 狂う歯車
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涙夢の果てに君と出逢う

 

 ――がしゃん!

 嫌に耳に響く音を立てて、ティーカップと受け皿が割れた。

 すぐ後、女性の短い悲鳴が聞こえ、何かが床に衝突する音が響く。


『――、っ! ……~、っ!!』


 ドア越しに聞こえる、男女が激しく言い争う声。

 廊下を歩いていた際、偶然聞こえたその物々しい様子に、まだ五つの少年は、恐る恐るドアの隙間からそれを覗き見た。


『……だと! この……――、』


 すぐ目の前で起こっていることなのに、彼らが言っている言葉がよく聞こえない。

 その二人が誰なのかも、どうしてか靄が掛かったようにはっきり見えない。

 けれど……。


『っ、!』


 男が、何をしているかだけは、はっきり見えて、理解出来た。

 泣いて、身を守るように蹲る女を、彼は口汚く罵りながら殴る蹴るの暴行を繰り返している。

 少年は震えた。

 何が起こっているのか分からなかった。

 怯えたように一歩下がって、その弾みで、ドアが微かに開閉して小さな音を立てた。

 その時、男が弾かれたように少年の方を見遣った。

 気が付けば少年は一目散に逃げていた。

 一心不乱に走って、辿り着いた先は自室だった。

 隠れるようにベッドに潜り込み、布団を被って蹲る。

 しかし所詮は、子供が逃げ込んだ場所。

 容易に何処に逃げたか予想が付いたのだろう、男は不気味な程静かに、少年の部屋に立ち入り、布団の上から少年を撫でた。

 恐ろしい程、優しい手付きだった。


『――今見た事は誰にも言うな。お前は何も見ていない。忘れるんだ』


 誰かに言えば。

 見た事を話せば。

 忘れずに憶えていたら。

 きっと、この男は、あの女性にしたのと同じ事を、少年にする。

 それは、少年の、恐怖心による確信だった。

 だって“彼”はそういう人、だから。


『忘れろ。いいな』


 念を押すように言われた言葉に、少年は、こくこくと何度も頷いた。

 やがて、布団の上から少年を撫でていた手はふと離れていき。

 男も部屋から出て行って。

 気が付けば少年は、包まった布団の中で、気を失ったように、眠っていた。



 □□□



「……、」


 目を覚ますと、頬が濡れていた。

 夢を見て泣くなんて、小さな子供みたいだ。

 けれど何故だか、起き上がって思い返そうとしたら、酷く夢の内容が曖昧だった。

 少なくとも、良い夢ではなかった。

 良い歳をして、起きた時に泣いているくらいだから。

 聖人は服の袖で乱暴に涙を拭うと、ベッドから立ち上がった。

 酷い寝汗を掻いた寝間着を着替え、そのまま部屋を出る。

 とてもではないが、このまますぐにもう一度寝直す気にはなれなかった。

 深夜二時ともなると、屋敷内でも起きている人間はいない。

 聖人は迷うことなく裏口に向かい、そこから庭へと出て、例の雑木林の方へと歩を進めていた。

 何でかは分からない。

 けれど無性に、祖父の遺したあの蔵を見に行きたくて堪らなかった。

 いつもより少しだけ足早に林を抜けると、やはり変わらず蔵はそこに建っていた。

 蔵の入り口まで歩み寄り、石段に腰掛けて、少しの間夜空を見上げた。

 ――そういえば、あの少女はどうしているだろう。

 あれからこっそり何度かこの辺りを見に来たけれど、一度も出くわしたことはない。

 夢か幻だった、と無理矢理片付けるには、あまりに強烈な出逢いだった。

 でも、あの少女がどうなってしまったかなんて、確かめる術などない以上、聖人には関係ないことだ。

 大体、確かめてどうなるものでもないし。

 何処か冷めた気分でそう思って、小さく皮肉めいた笑みを一人零した時だった。

 にゃーん。

 呑気な猫の鳴き声が不意に側で聞こえて、振り向く。

 白と黒の毛並みをした猫が、妙に人懐っこい様子で聖人の元に擦り寄って来た。


「……迷い猫か?」


 少々驚きながら問いつつ手を伸ばせば、その猫は何故か嬉しそうに聖人の指を軽く舐めた。

 此木の屋敷にペットは居ない。

 明らかな迷い猫だろうが、警戒することなく人に擦り寄るということは、誰かがこっそり餌付けでもしているんだろうか。

 野良猫に無闇に餌付けするのは良くない筈だが……。

 そんなことを考えていると、今度はその猫は、聖人の顔を仰ぎ見て、また「にゃーん」と一つ鳴いた。

 するとそいつは聖人に背を向けて、ひょい、と石段の上から降り、何歩か歩いた後、立ち止まって今度は首だけ振り向いて、またまた「にゃーん」と鳴く。

 一緒に来て、と言われている……気がする。

 いやいや、まさかそんなファンタジーみたいな話がある訳……。

 そう思うも、白黒の猫は急かすように「にゃーん、にゃーん」と鳴き続ける。

 まあ、それこそ何処かのファンタジーじゃあるまいし、付いて行って雑木林を抜けたら異世界でした、なんて展開になる訳もなし。

 どうせ今日はもう眠れないのだ。

 変な夢のついでに、不思議な猫の招待を受けるとしよう。




 白黒の猫が向かった先は、いつだったか例の少女と初めて逢った、あの湖の方だった。

 何処かうきうきした様子で小走り気味に進む猫の背を追い、やがて猫と聖人は雑木林を抜けて、湖に辿り着いた。


「……、!」


 猫は目的の場所に着くや否や、突然駆け出して一目散に畔へと向かう。

 その先に……あの少女が、居た。

 初めて逢った時と同じように、湖面に足を浸け、ぶらぶらとさせながら。


「にゃあ!」


 猫が嬉しそうに、少女の腕の中に半ば飛び込む。

 相変わらず野暮ったい長髪に、地味なワンピース姿だった。

 あれからずっと会わなかったから、てっきり、もう自分の帰るべき所に帰ったのだと思っていた。

 まさか猫に導かれて、また、逢うなんて。

 呆けたように野暮ったい後姿を見つめていると、猫が不意に少女の腕から飛び退いて、聖人の方に駆け戻って来た。

 驚いた少女は、猫の背を追うように振り向き……そこで漸く、聖人の存在に気付いたようだった。

 聖人の顔を見た途端、目を瞠り息を呑み、次の瞬間にはあの晩と同じような怯えを見せた。


「……また逢ったな」


 聖人は、努めて柔らかい声でそう言った。

 けれどやはり少女は、必死の形相で彼に背を向け走り出そうとする。

 しかし、その弾みで足を踏み外してしまい、少女は地面に盛大に転んでしまった。


「っ、おい」


 咄嗟に駆け寄って、体を支え起こそうとした、けれど。


「や……っ!」


 腕を振り払われた。

 すると彼女は尻餅を着いたまま、後ろ手に這いながら聖人と距離を取ろうとしていて。


「……大丈夫か? 怪我はしていないか?」


 とにもかくにも、落ち着かせないといけない。

 瞬時にそう思った聖人は、少女の目をじっと見据えて、努めて静かに言った。


「怖がらせてすまない。だが俺は、お前に危害を加えるつもりはない」


 尚も後退る少女に、けれど聖人は敢えてそれを深追いしようとはせず、逸らすことなくただ真っ直ぐ少女を見つめながら言葉を紡いだ。

 真摯な言葉が少しは響いたのか、彼女は闇雲に後退るのを止めて、聖人を見つめ返した。

 それでも防衛本能故か、尻餅着いたまま両腕を体の前に持ち上げた。


「、……怪我をしているな」


 その持ち上げた手の平に擦り傷が見えて、聖人は微かに目を瞠る。


「さっき転んだ時だな。ちょっと見せてごらん?」


 言いながら手を伸ばすけれど、彼女はまだ聖人のことが怖いのか、身を強張らせた。


「……ただ傷を診るだけだ。怖がらなくていい」

「……、」

「さあ」


 無理強いせず、けれど手当ての必要性を静かに諭すように、聖人は彼女に片手を差し出した。

 強引にその手を取ってはまた振り出しに戻る。

 決して目を逸らさず、根気良く彼女が手を伸ばしてくれるのをじっと待った。

 ……やがて、少女は恐る恐る、差し出された聖人の手に手を重ねた。

 安心させるように小さく微笑んで、聖人は少女の傷の具合いを確かめる。

 転んだ拍子に咄嗟に手を着いたらしい。

 皮が剥け傷口には砂粒が付着している。

 一度綺麗に洗う必要があるだろう。

 とはいえ今聖人は、簡素な部屋着なのでハンカチの類は持っていない。


「一緒においで。手当てしてやる」

「っ、……」

「大丈夫だ。お前の事は誰にも言っていないし、屋敷の人間は皆寝ているから。

 そのまま放っておいたら黴菌(バイキン)が入って良くないぞ」

「……、」

「今だけでいい。今だけでいいから、俺を信用しないか?」


 微かに、握る手に力を込めた。

 沈黙が下りて、暫し互いに見つめ合う二人だったけれど、ややあってから少女は一つ、躊躇いを見せつつも頷いた。




 先程通った裏口から屋敷内に入ると、聖人は少女の手を引きつつ慎重に先へ進んだ。

 間違いなく使用人達は皆寝ている筈だが、それでも用心するに越したことはない。

 引いた彼女の手は細かく震えていた。

 慎重且つ素早く移動して、順調に聖人の自室へと近付いていく。

 けれど、あと一つ角を曲がれば到着、という時。


「坊ちゃま?」


 念のため、廊下の影に潜んで様子を確認している所に、声が掛かった。

 息を呑んで振り向くと、たった今来た道の方に、寝間着を着た修三が立っていて。

 聖人は平静を装いつつ自身の背に少女を隠す。


「如何なさったのです? このような時間に」

「……ああ。ちょっと夢見が悪くてな。目が覚めてしまったんで、気分転換にうろついていたんだ。そう言う爺こそどうした?」

「私めも、先程目が覚めてしまいまして、キッチンで水を頂いて参ったところにございます」

「そうか」


 修三は聖人の言葉を特に不審がる様子はなく、短い会話を交わすと「では私はこれで。お休みなさいませ」と言って、すぐ側の自室へと戻って行った。

 少し肝は冷えたが、どうにかやり過ごせたらしい。

 思わず安堵の息を零し、背に隠した少女の方を振り向けば、いつの間にやら聖人の服の裾を掴んで身を縮こまらせていた。


「……もう大丈夫だ。さあ、おいで」


 そんな彼女の手を再びそっと取って、聖人は少々足早に自室へと戻った。


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