目覚め
そうして、月日は瞬く間に過ぎていく。
いつだったか誰だったか、二十歳を過ぎると人生は加速し、二十五過ぎると更に加速する、と言っていたのを、幸三郎は最近よく思い出す。
気が付けば咲のお腹は随分大きくなり、出産まで間もなく、という時まで迫っていた。
此木財閥は解体し、此木聖人は名実共に出自を失くした。
これで良かったのだ、と少々不謹慎ながらも幸三郎は思う。
どの家も大なり小なりの歪みを抱えているものだけれど、此木家の歪みは、大きな代償を支払ってでも正されるべきものだった。
後は、聖人が橋谷の家でも生きていられるだけの基盤を築き、守り続ければいい。
それも関連して、最近以前にも増して忙しい日々が続く。
咲がこの病院の産婦人科に入院して、二日目。
その日幸三郎は、一般の面会時間をとうに過ぎた頃に、漸く咲と聖人の見舞いに訪れた。
咲は元気だった。
予定日は既に明後日と迫っているのに、全然そんな感じじゃないから逆にちょっと不安かも、と笑う程度には。
更には、遅い時間にやって来た幸三郎を気遣って、早く帰って寝なさい、とまで言って半ば追い返すものだから、幸三郎は五分しか咲を見舞えなかった。
まあ、元気なら大丈夫だろう。
それでも、陣痛が来たら夜中でも何時でも連絡するよう、咲にも看護師にも再三言って、帰りに聖人の病室に寄った。
こっちも相変わらずだった。
ベッドに横たわり、死んだように眠り続けている。
「……なあ、此木。もうすぐだぜ。もうすぐ、俺と咲の子供が産まれるよ」
幸三郎は毎日何かしら聖人に語り掛ける。
他愛のない話から仕事の愚痴まで、聖人が起きている時と同じ調子で。
返って来る言葉はないけれど、一言でも、挨拶だけでも、必ず語り掛ける。
そうしたら、目を覚ましてくれるかもしれない。
怪我は完治し、後は“意志”に懸けるしかない現状、医者にも言われた唯一の希望だった。
「性別はもう分かってるんだ。女の子だってさ。咲に似て美人だろうな。
でも俺らの子供だから、きっと将来は気の強い女に成長するんだろうな」
くくっ、と面白がるように笑う幸三郎に、答える声はない。
青白い顔で眠り続ける友の頬を、そっと撫でる。
「今日はもう帰るな。本当は面会時間とっくに終わってるのに、特別に許してもらって来てるし……明日はもうちょっと早く来れるように頑張るよ」
先程咲にも言ったのと同じ言葉を聖人にも言って、幸三郎は腰掛けていた椅子から立ち上がった。
――その時、だった。
にゃーん。
唐突に。猫の鳴き声が、室内に響く。
驚いて振り向けば、窓枠に、白黒の猫が、一匹。
野良猫が迷い込んで来たのだろうか。そう思って……すぐに気付いた事実に、心臓が大きく波打つ。
この病室は七階建ての建物の六階に当たる。
いくら猫が何処でも登っていく質とはいえ、この病室の外には足場もなく、足場に出来そうな雨樋もない。
もっと言うとその猫は……姿が、やけに、ぼんやりとしていた。
後光でも差しているかのように淡い光に包まれていて、それでいて、今にも消え入りそう、で。
何より、彼はその猫に、見覚えがある……気がする。
五年前――紫音が死んですぐ、紫音の手紙を聖人に届けようとふらりと現れた、あの猫。
聖人が「たま」と呼んでいた、あの。
呆けている間に、猫はまた「みゃあ」と鳴く。
たまはあの後、幸三郎が保護して暫くの間橋谷の屋敷で飼っていた。
しかし一年程経ったある日、突然居なくなっていた。
庭中を探し、近所も探してみたがとうとう見付からず、幸三郎は橋谷の屋敷以外に住処を見付けたかあるいは此木の庭に戻ったのかもしれないと思い、捜索を打ち切った。
元々あの猫は野良猫だったらしいし、此木の屋敷に居着く前からあちこちで餌付けされてたようであったし。
その猫が、随分奇妙な姿で、絶対に立てる筈のない場所に立っている、という事は……。
「たま……? お前……」
でもまさか、そんな、と思いながら呆然と猫の名を呟けば、何処か嬉しそうに、たまはまた鳴く。
そしてその後、鼻の頭で窓をとんとん、と叩き。
「――……ん……」
その、瞬間。
ベッドの上から、小さな声が、漏れた。
驚愕のあまり、空耳を疑ったけれど、幸三郎はそれより先に再びベッドに駆け寄り、身を乗り出すようにして聖人の顔を覗き込む。
「、ん」
今度は確かに聞こえた。
しかも、譫言のような小さな声と共に、寝返りを打とうとするかの如く、頭を軽く左右に動かしてみせた。
この五年、一度たりとも決して見せた事のない仕草だった。
心臓が早鐘のように鳴り響き、それに急かされるように幸三郎はベッド枠に両手を掛け、更に身を乗り出す。
「っ……此木……!?」
祈りと望みの全てを込めて、友の名を呼ぶ。
目は閉じたまま、頭が幸三郎の方を向いた。
「此木……! おい、此木……!!」
駄目だ、また眠りの世界に行かせては。
何故か強くそう思って、彼は必死に聖人を呼んだ。
そうして、逸る気持ちが涙を生産し、その一滴が、聖人の頬に落ちた――刹那。
「……――はし、や……?」
五年もの間、固く閉ざされていた瞼が、開く。
未だ、夢と現実の狭間にあるような、ぼんやりした瞳が、涙に濡れる男の顔を捉え。
掠れた声が、その名を、囁いた。
「此木……っ!」
堪らず、幸三郎は聖人の名を叫ぶように呼ぶ。
夢だろうか。
五年間も待ち続けた瞬間が、今、正に現実になった。
「……何、だ……お前……泣いて、いる、のか……?」
随分と不自由そうに唇を動かして、聖人は呟いた。
長い間眠り続けていたせいで、口内も唇も渇いているせいだろう。
「馬鹿野郎……! 誰のせいで泣いてると思って……! つうか今はそれどころじゃねえ……っ、ナースコール……!!」
兎にも角にも看護師を呼び医師を呼ばなければと何とか思い立ち、幸三郎はベッドサイドのナースコールボタンに手を伸ばした。
けれどその時、上着のポケットに入れておいたスマートフォンが突然着信を知らせ鳴り響く。
マナーモードにしておくのを忘れていた、とこの瞬間思い出して、この一瞬で予想もしてなかった事が起こった反動で、すっかり幸三郎はパニックになる。
「うわ! 何だよこんな時に! てかやべえよマナーモードし忘れてたよ! もしもし!?」
と言いながら、耳に当てているのはナースコールボタンである。
「……落ち着け、橋谷。スマホ、まだ、出してない、ぞ」
起きたばかりの聖人の方が冷静だった。
やっぱり不自由そうに口元に笑みを浮かべて、パニック状態の幸三郎を諫める。
そんな……五年前には当たり前過ぎたやり取りに、また、幸三郎の目に涙が込み上げて来る。
ぴたりと動きを止めて改めて聖人を見遣れば、聖人は本当に――目を覚まして、微笑んでいる。
「……っ、」
「出ろ、よ。大事な、用かも」
どう考えてもここに看護師を呼ぶのが先決のような気がするのに、聖人は気にするなと言わんばかりに微笑んで、幸三郎を促す。
幸三郎は袖で乱暴に涙を拭いて、スマホを取り出して画面をスライドさせた。
「もしもし……」
『もしもし? あの、橋谷咲さんのご主人ですか?』
「はい、そうですが……」
『夜分に申し訳ありません。すぐに病院に来て頂けますか!? 奥さん、産気付いてこれから分娩室に入られます!』
「な……なにいいいぃぃいい!?」
『っ、と、とにかく早くお願いします!』
とんでもないタイミングで一大事を告げる知らせが来て、素っ頓狂な声が出る。
電話口の看護師はそれにかなりびっくりしていた様子だったが、あちらもあちらで緊急事態のために深く突っ込まず、告げねばならない事だけさっさと告げて、電話を切ってしまった。
早く来いも何も、まだ院内に居るからものの数分足らずで駆け付けられる。
駆け付けられるけれど。
こっちはこっちで、聖人がついに目を覚まして。
「え? え? これ何? 俺これ何? もしかして影分身とかしないといけないやつ!?」
ショート寸前だった。
「……どうしたんだ?」
一人で大パニックになっている中でも、聖人の掠れた声はやけによく耳に届く。
「く、くくくく此木! やばい、どうしよう!? 産まれる! ついに産まれる!」
「……咲お嬢さん、か……?」
「そう! い、今! 別嬪室に連れてかれたって!」
「分娩室、な。どんな言い間違いだ……」
「俺、行かなきゃ! ああ、いやいやその前に! ここに看護師さんと先生呼んで……って、ああっ! すぐ来てくれんのか!? 俺間に合う!?」
「……起きて早々、騒々しい、な」
聖人は堪らず声を上げて笑った。
それだけでも体のあちこちが鈍く痛んで、自分がどれだけ長い間横たわっていたのか、それだけで分かるようだった。
思わず口元を苦笑の形に変えて、重い手を持ち上げて、幸三郎が握るナースコールのボタンを力無く掴んだ。
「……俺の事は、いい。看護師は、自分で、呼ぶから。
お前は早く、咲お嬢さんの所に行ってやれ」
「え……っ、けど……!」
「心配、するな……もう……馬鹿な事は、考えてない。
ちゃんと呼んで、診てもらって、お前が戻って来るのを、待っているから」
「……、」
「橋谷……お前が今一番、優先すべきは……咲お嬢さん、だよ」
行ってくれ、と再度背を押すように言えば、幸三郎は急に混乱を抑えて、苦し気に目を瞑った。
だがすぐに瞼を開いて、両手で聖人の手を少し強く包み込む。
「覚悟しとけよ。戻って来たら、言いたい事が山のようにある。叱っても怒鳴っても足りねえくらい、山三つ分くらいある。
また眠りてえって思っても、絶対眠らせてやんねえからな」
「……分かった。ちゃんと起きて待ってるから。たとえ寝てても、今度はちゃんと、起こされたら起きるから」
「……嘘吐いたら針千本、だからな」
「ああ」
ここを離れたくない気持ちと、早く妻の元へ行かなければという二つの切羽詰まった気持ちが幸三郎の中でせめぎ合うが、幸三郎は、聖人の後押しを受けて、その手をそっと離した。
踵を返し、駆け出す。
少々乱暴にドアを開閉して、廊下に出て、産婦人科病棟へと急ぐ。
勿論、ナースステーションに寄って聖人が目を覚ました事を伝えるのも忘れない。
自分の妻が置かれている状況も早口に説明して、幸三郎は一目散に駆け出した。
エレベーターなんて待っていられない。
階段を一段飛ばしで駆け下りて、三つ下の病棟へ。
ナースステーションに辿り着くと、すぐさま看護師によって分娩室へと案内された。
――にゃあん
聞こえた鳴き声に振り向けば、窓の向こうに、うすぼんやりと浮かび上がる、白黒の猫の影。
「……たま、お前も、逝ってしまって、いたのか……」
掠れた、淋し気な声に応えるように、もう一度猫は鳴く。
「……今度は、連れて行っては、もらえないのだろう……?」
手を伸ばして呟けば、たまは目を閉じて頭を差し出すような仕草をした。
触れる事が出来たなら、今度こそあの子の元に行けるだろうか。
だが、たまはもう一度小さく鳴くと、残像さえも残す事なく、静かに、ゆっくりと姿を消した。
「……紫音……」
震える小さな呟きと共に、一滴涙を零した時、壊さんばかりの勢いでドアが開き、看護師――三葉と医者が、聖人の部屋に駆け付けた。
 




