重なる命の息吹
「あの、もしかして……今日受診されたのって、産婦人科……ですか?」
訊いてから自分が今仕事中であったことを思い出し、「しまった」と思った。
担当している患者でも何でもない相手へのそういう質問は、院内であっても看護師として宜しくないだろう。
だが咲は、気分を悪くするでもなく、困ったような、それでいて照れ臭そうな微笑みを浮かべて、一つ、頷いた。
「本当は、夫に一番に報告するべきなんでしょうけど……その友達が一番って、やっぱり、おかしいわよね」
「いえ、あの……すみません、私ったら」
「いいのよ。どうしてかしら。何だか貴方と話してると落ち着くわ。同じ人を好きになった者同士だからかしらね?」
「い、今それを言われるのは、ちょっと複雑なんですけど……。でも、えっと……いいんですか? こうざ……ご主人に、すぐに連絡しなくて」
「そうしたいのは山々だけど、今、あの人役員会議の真っ最中でね。電話出来ないの」
「そう、なんですか……あ……あの、おめでとうございます」
「ありがとう。夫の元恋人に祝われるのも、それこそちょっと複雑ね」
咲が笑うと、三葉も笑う。
(この人が……幸三郎の奥さん、かぁ……)
こう見えて、三葉も緊張していた。
白衣を着ていなかったら、もっと不愛想につんけんした喋り方になってしまっていたかもしれない。
けれど咲には、そんな緊張すら優しく包み込まれているような気分にさせられる。
話し方も親しみがあって、令嬢というより、伸び伸び育てられた気さくな女子、という感じだ。
緊張の糸が切れて、咲の魅力に惹かれているのだと自覚した時、三葉は思ってしまった。
(――悔しいなあ)
これがもし、お金持ちを鼻に掛けるような、庶民を見下すような女性だったなら、それこそもっと好戦的に、堂々と振る舞って、看護師という立場をも利用して、真っ向から対面するのに。
こんなに素敵な女性を前にしては、白衣という鎧を着たままでないと対等に立ってもいられない。
過去の痛みを、苦い記憶として閉じ込めたままにしておくしかない。
「あ、では私はそろそろ――」
不覚にもちょっと泣きそうになったのを慌てて堪えて、三葉が仕事に戻ります、と言い掛けた時、再び病室のドアが開かれた。
「――…………」
が、開いた瞬間、開けた当人は目を丸くして硬直してしまう。
まあ無理もない。
自分の妻と元恋人が、並んで談笑しているのだから。
中心人物となった男は唖然ともなる。
「――………スミマセン、ヘヤマチガエマシタ」
「間違えてないし。ていうか何で片仮名なのよ?」
混乱して意味不明な事を呟いた挙句ドアを閉めようとした幸三郎を、すかさず咲はキレの良いツッコミで制した。
「……えーと……これ何? もしかして俺を巡って十年越しの修羅場? 俺の友達の病室で?」
「そんな訳ないでしょ」
「そうよ。今更そんな事になる訳ないじゃん」
「ねえ?」
顔をひくつかせながら的外れな事を言う幸三郎に、咲と三葉は交互に息ぴったりに言い放つ。
状況に追い付けない幸三郎は、急に頭痛を覚えた。
「今は採血の時間です。もう採り終わったけど」
「あ……そうだったんだ」
「そうだったの。まあ、奥さんとつい喋り込んじゃったけどね。そろそろ仕事に戻るわ」
「楽しかったわ、三葉さん。良かったら、またお話しましょう」
「はい、是非。じゃあ、何かあったらナースコールして下さいね」
未だ狼狽える幸三郎を他所に、三葉は電子カルテ端末のカートを押してあっさりと病室を出て行った。
何となく、その後ろ姿をドアが閉まるまで見送った。
……彼女に咲の事を「奥さん」と呼ばれるのは何だか変な気分で、同時に何処か、凄く、擽ったかった。
幸三郎はやがて小さく笑みを浮かべると、締めていたネクタイを緩めながら、咲の隣に並んだ。
「今日も相変わらず、だな」
「うん」
「お前の方はどうだ? 今日は確か、具合が悪いから診察を受けて来るって話だったよな?」
そっと咲の肩に手を回して、幸三郎は心配そうに問う。
咲は一瞬だけ聖人の方を見遣って、すぐに、幸三郎と向き合った。
「あのね、幸。覚悟して聞いて」
「、な、何だよ。まさかお前、めちゃめちゃ重い病気なのか……!?」
普段は割と大きく構えているのに、咲の事になると簡単に狼狽える。
そんな夫の様子に温かさを覚えながら、咲は、頬を少し染めた満面の笑顔で、ずっと言いたかった事を、伝えた。
「――子供が、出来た」
「マジかよ、一体どんな病気だよ治るのかよ、ていうかどんな治療――……って………へ……?」
「だから、子供が、出来たの。貴方と、私の」
何を聞き間違えたのか、病と勘違いして変な事を口走る幸三郎だが、すぐ言われた言葉を反芻して、思わず、訊き返し。
子供が出来た、と、一言一言区切るようにしっかりと、その事実をもう一度、告げられて。
完全に、幸三郎の思考は停止した。
口をあんぐりと開けて、咲を見下ろして、呼吸さえ止めて固まっている。
「……………………まじ?」
漸く息を零して、漸く言葉を紡いだと思ったら、そんな、間の抜けた声で。
「大マジ」
砕けまくった報告と確認は、一見、重大さとか緊張感とかに欠ける、けれど。
幸三郎を更なる大混乱に陥れるには、十分だった。
「え? いやいやいやいや待て待て落ち着け落ち着け俺。そうだ一旦落ち着こう。状況をまず整理するんだ俺。
会議終わって会社出て車乗り込んでその後……」
「何処から整理すんのよ、長いわよ」
「おーい此木、いつまで寝てんの。お前の大好きなショコラ買って来たぞ、起きねえなら食うぞ食っちまうぞいいないいんだな」
「ちょっとそれ私の分もちゃんとあるんでしょうね。ていうかそうじゃないわよ、何現実逃避してんのよ!」
もはや大混乱というより大暴走し始めた幸三郎に咲は腹を立てて、頭を思い切り叩く。
すると急に、ベッドの枠に寄り掛かって、俯いて、動きを止めた。
「な、何よ、もしかして……嬉しくない、の?」
あまりに予想外過ぎる反応に、流石の咲も不安に駆られる。
だが。
「……!」
覗き込むように幸三郎の横顔を見れば。
俯いたまま、泣きじゃくって、いて。
しかもそれは、何かを悲しむような、悔やむような涙ではなかった。
唇を噛み締めるその口元は、頬は、涙を流しながらも確かに……笑っている。
嬉しそうに。本当に、本当に、凄く嬉しそうに。
「っ、……おい、此木、聞いたかよ……子供が……出来たってさ……俺と、咲の、子供……。
やべえよ、これどうしたらいいんだよ……滅茶苦茶、死ぬ程、嬉しくて嬉しくて、涙止まんねえよ……訳分かんねえよ……何で俺泣いてんだよ……」
「……幸、……っ、」
次の瞬間、幸三郎は咲を抱き締めた。
いつも以上に力強く、けれど、いつも以上に優しく。
「あはは……マジ、やべえよな。まだ産まれてもねえのに、妊娠が分かった段階でこんなんじゃ、父ちゃんとして頼りなさ過ぎだろ」
「……そんなことないわ」
「……触っていい?」
「いいけど、まだ蹴ったりしないよ?」
「うん。分かってる」
少し体を離して、咲の腹部に触れる。
言われた通り、まだそこに命が息衝いているという実感も感覚も、幸三郎には感じられないけれど。
でも、確かに、宿っているのだ。ここに。
「……あのさ」
「ん?」
「此木にも、触らせてやっていい?」
「え……?」
「こいつが起きてたら、やっぱり、一番に知らせてたと思うから……駄目?」
「ううん。いいよ」
了承してくれた事にほっとしつつ、幸三郎は布団の中から聖人の手をそっと取って、力無い彼の掌を、同じように咲の腹部に当てた。
生きている。
幸三郎も、咲も、腹の中の子も――聖人も。
生きているんだよ、と、幸三郎は願うように心の中で繰り返し聖人に伝えた。




