冷酷な真実
「きゃ……っ」
此木の屋敷に到着してすぐ、紫音は蔵の地下に半ば放り込まれた。
追い詰めるように宗一が嫌にゆっくりと階段を下りて来る。
「この恩知らずが。貴様のようなガキでも、快適に暮らすには充分過ぎる部屋を造り、これまで何不自由なく生きられるよう、世話をしてやったというのに。所詮、阿婆擦れの子は阿婆擦れか。
それとも、人の物を横から掠め取る卑劣さは、むしろ“あの男”譲りか?」
「……、っ」
「どう願い望もうが、貴様は聖人と一緒にはなれん。
そんな資格など貴様は一ミリたりとも持ち合わせてはおらんのだからな。そもそも貴様が人と心を通わすなど、分際を弁えろ」
冷たい眼差し。
視線だけで心臓を止められてしまいそうな程に、冷酷な。
それを必死に食い止めようとするかのように、呼吸が荒くなり苦しくなる。
「……それ、は……マサ君、に、婚約者さんが居る、から……?」
だが紫音はそこで踏み止まった。
懸命に、心底恐ろしいと感じる男としっかり目を合わせて、言葉を紡ぐ。
それは彼女なりの、抵抗だった。
婚約者の居る相手を好きになり、あまつさえ駆け落ちなどして、確かに許される事ではなかったかもしれない。
けれどこの気持ちを……聖人がくれた言葉を悪く言われる事に、激しい嫌悪を抱かずにはいられない。
「ほう、一般常識くらいは持ち合わせていたか」
紫音の抵抗にも、宗一は鼻で笑い飛ばす。
「そんな常識過ぎる常識を知っていながら聖人を愛し、且つ私に歯向かうか。
女というのはつくづく馬鹿だな。
愛だの恋だので己の心を美化し、声高にくだらん台詞を喚き立て、そうすれば何でも思い通りに出来るとでも思っているらしい」
憎悪を通り越して、その声音はもはや呪いだった。
負けたくない、と確かに鼓舞してい筈の心が、恐怖で竦んでいく。
「だが、残念だったな、紫音。
お前のその崇高な恋愛感情は所詮、下劣で愚かしい茶番だ」
吐き捨てられたその言葉を合図にするかのように、此木家のSPが二人、宗一の両脇に下りて来た。
幼い頃に見たのと同じ立ち姿に、一気に紫音の全身に恐怖と絶望が駆け巡った。
震える足で後ろに後退るが、すぐに背中が壁にぶつかって、逃げ場が無くなった。
「や……っ、嫌……!」
サングラスを掛けた二人の男が、無表情のまま紫音に歩み寄る。
かつて、母と自分を無理に連れ出した時と、同じ。
「嫌ぁあ!!」
男達の手が伸びて来ると同時に、紫音は悲鳴を上げて座り込み、己を必死に守るように両腕で頭を抱えた。
「みゃあ!!」
その時、何処からとなく猫の鋭い鳴き声が響いて、次いで男の一人が怯んだ。
見ると、紫音を守ろうとするかのように、白黒の猫が一匹、敵意と殺気を剥き出しにして三人の男を威嚇している。
「た、ま……」
その猫はたまだった。
聖人と駆け落ちしてからもずっと屋敷の周りや、敷地内をうろついていたのだろう。
紫音が戻って来たことに気が付いて、蔵の中に入って来たらしい。
「……お前達、下がれ」
たまを捕まえて追い払おうとしたSP達だったが、そこで宗一の待ったが掛かった。
「この蔵の鍵は私が預かる。ここを出たらどうなるか、今回の事で思い知っただろう。聖人への想いは断ち切って、今度こそ一生、死ぬまでここで一人で過ごしてもらうぞ。
言っておくが、逃げようとしても無駄だぞ。出入口には見張りを立てる。
必要な物はこれまで通り運ばせてやるから、有難く思え」
終始汚らわしいものを見るような目で紫音を見据えて、その瞳のまま吐き捨てて、宗一は男達と共に背を向けた。
「……どう……して……」
しかし、震える声が、尚も宗一の冷酷な背中に食らい付く。
「何で……こんな目に遭わないと、いけないの……?
私……私の存在が悪い事って言うなら……おじさんだって、そうだと、思う……!」
――その時。
初めて、宗一の表情が変わった。
見下すような、醜いものを見るような目が、殺意一色に染まる。
両脇に立つSPを半ば押し退けて、大股で紫音に近付き、躊躇うことなく、強く握った拳で、紫音の頬を殴打した。
「産まれて来てはいけなかったゴミの分際で、ふざけた事を抜かすな!!」
怒号は狭い地下室内に木霊し、次いで、鬼のような形相で少女に暴行を加える音と悲鳴が、響き渡る。
宗一の怒りは、SPが慌てて止めに入るまで収まる事はなかった。
もはや抵抗し抗議する気力もなく蹲り痛がる紫音を見下ろし、宗一は荒い呼吸を繰り返す。
「この罰当たりが。大人しくここで野垂れ死ねば良いものを。そこまで身の程も恥も知らんとはな。
……良いだろう。ならば話して聞かせてやる。
貴様という存在がどれ程罪深いのか。貴様は決して産まれて来てはいけなかった人間なのだという事をな」
□□□
「――お前達、俺の命令が聞けないのか! 離せ! 離せと言っている!」
「我らは此木家のSPですが、最も優先されるべきは旦那様の命と心得ております。
残念ながら、その旦那様より坊ちゃまを決して外に出すなと命ぜられております故、坊ちゃまの命は聞けません」
容赦なく聖人の両脇をがっちり固めて、鍛え抜かれた体格の男達は聖人を彼の自室に引き摺るように連れて行く。
少し後ろから、同じような格好で幸三郎も連れて来られていた。
「坊ちゃま、いい加減お聞き分け下さい。旦那様に逆らう事も、この屋敷からあの娘を連れて逃げる事も、もはや不可能です」
「黙れ!」
冷徹に言い放たれ、それでも抗う聖人の怒声が廊下に響く。
男達は聖人の自室に着くなり彼の体を半ば乱暴に放り投げる。
何とか倒れ込みはしなかったものの、もう一度立ち向かう隙もなく、ドアは男達の手によって固く閉ざされた。
紫音と引き裂かれ、屋敷の中に軟禁されてから、既に五日の時が過ぎていた。
その間、聖人は何とか紫音を助け出して、再び逃げようと奮闘していたが、部屋の前と屋敷内、敷地の中に至るまで監視の目が光っており、悉く失敗に終わっていた。
せめて、父と話をさせて欲しいと見張りの一人に頼んでみたりもしたが、聞き入れてもらえなかった。
こちらのどんな抵抗も抗議も一切意味を為さない。
こうしている間にも、紫音はどれ程心細い思いをしているだろうかと思うと、歯痒くて堪らなかった。
「……紫音……」
どんな話も聞いてもらえないなら、話そうとすること自体が浪費だ。
このまま大人しくしていたら、聖人は絢子とすぐにでも結婚させられて、紫音とも一生会えない。
元々そうしなければいけなかったのも、そうすることが正しいのだということも分かっている。
しかし……。
それに異を唱えることが、そんなに悪い事、なのか。
「此木、」
途方に暮れる聖人を何とか励まそうと、幸三郎が聖人に歩み寄る。
だがその時。
閉ざされたドアの鍵が、がちゃりと開いた。
「っ……父上」
「愚か者め。この上まだ逃げようなどと考えておったか」
現れたのは、此木宗一だった。
両脇に二人のSP、背後には執事の修三と、絢子の姿もあり、何故か彼の服の袖や裾に、鈍色の汚れが付着している。
「諦めろ。お前はどう足掻いたところで、あの娘とは一緒になれん。
お前は長谷川の娘と結婚し、此木財閥を継ぐ。その未来からは決して逃れられんぞ」
冷めた目で告げられて、聖人は悔し気に唇を噛む。
「、――なら、せめて……」
なら、せめて。
「紫音を……あの子を、自由にしてやって下さい」
拳を握り、体を震わせ、まるで血を吐くように、本当は言いたくはない言葉を、紡いだ。
「もう二度と逢えなくても、いい」
本音ではない。
「もう二度と言葉を交わせなくても、いい」
本心ではない。
「俺は絢子嬢を妻に迎え、貴方の後を……ちゃんと家を継ぎます」
本当に願う事ではない。
けど――それでも。
「あの子は、俺に唆されただけです。この件に関しては、あの子に非はありません。だから、どうか……」
それでも、紫音を守れるのなら。
「父上ならば出来るでしょう? あの子が普通に暮らせるように、諸々の援助をしてやる事も……」
今すぐにでも、父を、修三を、絢子を強引にでも押し退けて、紫音の元へ駆け出したい衝動を必死に耐える。
そしてその場に座して……膝の前で両手を突いた。
「お願いです、父上……」
「……此木……」
本当に愛した少女のために、苦し気に、必死に頭を下げる聖人を、幸三郎もまた苦しそうに見つめた。
「――ならん」
けれど、ややあって宗一が返した返事は、悲しい程、恐ろしい程、きっぱりとしたものだった。
「何故です!」
「あの女は我が此木家の唯一にして最大の汚点。何があろうと外に出す訳にも、ましてや世に存在を知られてもならんのだ」
「だからその理由を――!」
「待て、此木」
宗一の言い分に食って掛かろうとした聖人を、しかし幸三郎が制した。
「橋谷……っ」
「……どうにも解せませんね。あの子はどう見ても、何処にでも居るような普通の女の子だ。そんな非力な少女を捕まえて、“此木家最大の汚点”だと仰る。
此木家の汚点という事はつまり……会長ご自身の汚点、とも言えるのではないですか?」
「……、」
幸三郎の指摘に、宗一が微かに瞳を揺らした。
「何があっても外に出せないし、世に知られてもいけない。その言葉通り、此木家の歴史を綴る文献にも、あの子が産まれた頃の年に、それらしい記載はないと聞きました。
……あまり、考えたくはないが……それ程までに隠さなきゃならない子供、ということは……」
聖人が、目を瞠り、息を呑んだ。
同じように、宗一の後ろで、絢子も。
宗一自身はあまり表情は変わっていないようにも見えた、けれど。
一層増した冷ややかさが、感情の僅かな流動を如実に物語っていた。
「……何が言いたい、橋谷の小僧」
口調が変わる。
無意識の内だったのなら、尚更それは、動揺を意味している。
「あの子は――紫音ちゃんは、此木家に何の所縁もない子、なんですか?」
宗一が眉を顰めた。
その刹那、場の空気が氷の刃のように鋭く凍った。
余裕で問い詰めているように見えて、幸三郎の握った拳は震えていた。
自分が今何を言っているのか、暴こうとしているのが何なのか、問い詰める幸三郎自身が、良く分かっている。
そしてその答えが出た時、誰が一番傷付くことになるのかも。
同時に、随分突飛な考えだということも、分かっている。
だから外れて欲しいとも思うのに……こういう突飛な発想に限って、そう考えれば辻褄が合ってしまうのだ。
もっと言えば、自分達が生まれ育った世界は。
そういう事があっても、何ら、不思議は、ないのだ。
「……ちゃらんぽらんでいい加減な男と思っていたが、存外勘の鋭い男だな」
『……っ!』
「旦那様……っ」
ふ、と軽い吐息の後、宗一は何処か静かに吐き捨てながら薄く笑みを浮かべた。
そしてその笑みは……確かな、答えだった。
「どういう、事です、父上……!」
震える声で聖人が言い募ったけれど、宗一は興味が失せたように目を伏せ、踵を返す。
「一つだけ訂正しておくが、あの娘は間違いなく我が此木家の汚点、だが、私自身の汚点ではない。
私は当主として尻拭いをしてやっているに過ぎん」
「なに……?」
「この先は修三、お前が話してやれ。あの娘の命を繋いでいたのは、お前でもあるのだからな」
「……、っ」
吐き捨てるように言い放ち、宗一はSPと共に立ち去った。
だがもはや、聖人も幸三郎も、絢子でさえも宗一の背を追うことはなかった。
三人共、この場の統制を任された修三に視線を遣る。
当の修三は俯き、幸三郎や聖人と同じかそれ以上に、震えていた。
「やはり……お前だったのか、爺」
沈黙の中、労わるように口火を切ったのは、聖人だった。
「蔵に備え付けられたダムウェーターで、紫音に必要な食事や薬、菓子などを届けていたのは……」
「、っ」
「爺、答えろ。あの子は、此木家にとっての何なのだ。
何故父上は、頑なにあの子を隠そうとする? それも労わりでも慈しみでもなく、ただただ蔵の中でひっそりと生きて死ぬのを待つような……何故そんな真似をするのだ」
聖人もまた俯いて、問う。
静かな詰問は、しかし決して言い逃れを許さない尋問だった。
修三は腰の前で綺麗に組んだ手を握り締め、暫し黙り込んでいたけれど。
「――坊ちゃま、どうか……紫音様の事は、お忘れ、下さい」
やがて、そう、言って。
「あのお嬢様は、坊ちゃまと決して結ばれぬ運命にあります」
刹那、問うておきながら、聞きたくない、と思う。
だが修三は意を決して顔を上げて。
「あの方は――紫音様は」
知りたくなかった、最大の真実を、紡ぐ。
「紫音様は――……亡くなられた奥様が、外で結ばれた殿方との間にお産みになった、御子でございます」




