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それでも愛してると言いたかった  作者: 和菜
七章 逃亡
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ただ、君に、触れたい

 

 裏の参道を進むと、小さな社があった。

 その社の石畳に腰掛けて、二人は手を固く握ったまま、次々と空に上がる花火に見入っていた。


「綺麗……」


 そう紫音が呟いたのは何度目だったか。

 もはや無意識につい口にしているんだろう。

 そうでなくても紫音は、花火を見るのは初めての筈だから、呆けたように見入ってしまうのも無理はない。

 この裏の参道は屋台が並ぶ境内と違って灯りも少なく、木々に囲まれているから少し物悲しくて、結構良く花火が見えるのに、聖人達以外に見物客はいない。

 まるで二人だけが世界と切り取られたかのような錯覚に、聖人は少しずつ動揺が鎮まっていくのを感じていた。

 同時に、ほんの僅かな間はぐれたことで浮き彫りになってしまった、己の心の中で静かに、確かに息衝いていた熱情を思い知って、半ば途方に暮れた。

 気付かなかった、否、気付かぬふりを、していた。

 思いの外想いが肥大し過ぎていた事を。

 本当は、今すぐにでも想いを遂げてしまいたいと心が叫んでいる事を。

 そうしようと思えば出来たものを、そうしなかったのは、紫音が聖人に向ける想いが、あまりに純粋過ぎたから――というのは、自分を誤魔化す言い訳でしかなかったのだ。

 これが、感情の有無の相違か。

 絢子相手には何も躊躇いはしなかった。

 ただ、そろそろそうしなければ、と打算的に考えて、最初はせがまれるのを拒まなかった。

 次からはただ、一度覚えた女の味を身体が求めるままに。

 紫音への想いを自覚してからは、この無垢な少女に、唯一自分に会いに来る男が甘ったるい香りを身に着けてやって来る事への、一種の不安を植え付けてやりたいと思って。

 だが今の聖人は、そんな己の行いを心から恥じるくらいには、紫音への想いに焦がれていた。

 触れたい、自分色に染め上げて、自分の形に作り替えて、貴方が欲しい、と言わせてみたい。

 そう思う一方で、そうすることで、彼女に違う恐怖を植え付けてしまったら、と思うと、こうして手を引く事でさえ、酷く恐ろしくなる。

 厄介だな、と心底思わずにはいられない。

 思えば聖人はこれまでの人生、人をこんなに好きになった事などなかった。

 初めて知る気持ちに自分がこうも易々と翻弄されるような男だったなんて、知らなかった。

 ――小さな町の花火大会は、数千発の打ち上げで、余韻を残しつつ終わりを告げた。

 それでも紫音と聖人は何となくすぐにはここから移動する気になれなくて、暫し無言で座り込んでいた、けれど。


「……紫音」

「ん……?」


 やがて聖人が、静かな決意を秘めた声で紫音の名を唇に乗せた。

 手は繋がれたまま、だが、引いて立ち上がる風ではなかった。

 花火を見つめながら、ずっと、考えていた。

 自分はこの想いを、どうするべきなのかを。


「俺は、家を、捨てた男だ」


 ぐるぐると色んな事を、考えていた。


「親を捨て、友を捨て、好いてくれた人を捨てた男だ」


 此木家の歴史が刻まれた大量の資料からは、紫音とその母親についての記載は一切見付けられなかった。

 父は一度取り壊すつもりだった祖父の蔵を現存し、地下に部屋を作って少女を監禁した。

 理由も経緯も何も分からなかったけれど、しかし今の聖人には、何故紫音がそんな目に遭わねばならなかったのか、ということより、そんな残酷な運命の中で、それでもこうして出逢えた事の方が大事な事だと思った。


「それは……私、のせい……?」

「いいや」


 不安気に揺れる顔を、両手で包み込む。


「俺自身のためだ」


 ずっと、家の、父の言いなりだった。

 此木財閥を継ぐ者として、高度な教育を受け、豊富な知識と知恵を叩き込まれ、教養を培われた。

 代わりに聖人には、希望も夢もなかった。

 ただ、歳を重ねる毎に近付いてくる確定された未来だけが、運命だった。

 乾いた心はいつの間にかその温かみの欠けた人生を受け入れて、その時が来るまで漫然と構えるだけ。

 幸せも不幸せも、興味がなくて。


「欲しい、と思ったんだ。俺の無機質な人生の中で初めて、心の底から、どうしようもなく、お前が欲しいと思った」


 愛しているのだと気が付いた時、絶望すら覚えた。

 世間から隠され隔離された少女との未来を願うには、この心は呼吸すら拒んでいたから。

 気付いた時には、絢子を妻にすることが決まっていたから。


「此木の家を継ぐことを、何も疑問に思っていなかった俺には、目の前に横たわる全ての責任を負う義務があった。

 婚約者を決める事も、その相手を妻として迎え入れる事も、俺が、次期当主として果たさねばならない責務だった」


 放棄すれば、他に子が居ない此木家はいずれ傾いていくだろう。

 そうなれば仕えてくれている使用人達や、会社の従業員達、その家族、想像するだけで戦慄してしまう程の数の人間を、路頭に迷わせることになる。

 良くか悪くか、此木の息子、という境遇に圧し掛かる責任の重さを、聖人は既に下ろせない所まで来てしまっていた。


「だから俺は最初……お前を囲うつもりだった。

 あの蔵に一生閉じ込めて……俺だけのものにしようと思った」


 表では絢子と夫婦関係を築き、普通に結婚して普通に子供を産んで、家も継いで。

 そんな、全てを丸ごと手中に収めて、全てを翻弄してやろう、と。


「だがそれは――父以上に卑劣で、愚かだ」


 絢子は慰め者じゃない。

 紫音は聖人の人形じゃない。

 家とか親とか婚約者とか、もう、関係なかったのだ。


「誰に恨まれてもいい」


 たとえ出自を失くしても。


「誰に憎まれてもいい」


 たとえ生涯逃げ続けなくてはならないのだとしても。


「俺は、紫音、お前が欲しい」


 親も、友も、好いてくれた人も。

 全てを失くしても、誰かが泣くことになっても。


「愛してるんだ」


 それだけだった。

 もう、それしかなかった。

 手に入るのなら、それでいいのだ。


「だから、お前のせいじゃない。全部、俺のために、俺がやったことだから」


 紫音の瞳が揺れる。

 切ない熱が灯り、その中に微かな怯えを滲ませて。

 聖人が必死に抑え、それでも隠し切れない情欲に、戸惑っているのだろう。

 急に知らない人に見えて、怖がらせてしまったのかもしれない。

 だが、どんなに怖がられても泣かれても。

 聖人はもう限界だった。

 限界だということに、気付いてしまった。


「――だから、これからやることも、全部、俺のためだ。

 ただ、お前が欲しくて堪らない俺の、身勝手で卑怯な行いだ」


 ぐい、と肩を強引に引き寄せた。

 紫音の唇から小さな悲鳴が漏れる。

 そのまま横抱きにして、社の裏まで連れ込んだ。

 花火が終わっても、まだ祭りは終わらない。

 それでも石灯籠もなく、境内の灯りさえ届かぬ場所。

 紫音の体を下ろすと、社の支柱に小さな背を押し付けつつ、腰を抱き寄せた。

 強引に、性急に唇を重ねれば、その合間からくぐもった声が漏れる。

 悲鳴に近い声、だが、それさえも、限界を超えた聖人の欲を煽る。

 聖人もまた、微かだが確かな恐怖を感じていた。

 乱暴にするつもりはない。屈服させるような抱き方をする気も、奪うだけの浅ましい抱き方をするつもりも、ない。

 それでも心が「紫音に触れたい」と叫んでいるのだ。

 もっと深くまで、もっと隅々まで知りたい、と暴れているのだ。

 けれどその叫びのままに紫音に触れたら、彼女はどうなってしまうのだろう。

 それが怖くて、ずっと触れる事を躊躇って来たのに。

 触れたくて触れたくて堪らない気持ちと、それを躊躇う気持ちがせめぎ合って、苦しい。

 だというのに、体は手慣れた様子で勝手に動いて、紫音の浴衣の帯を緩めに掛かる。


「……マサ、君……」


 縋る手は制止を求める合図だろうか。


「待、って……マサ君、待って……」

「待てない。待てばその分、きっと俺は乱暴になるから」

「だって、私……どうしよう、私……変、なの」

「何が……?」

「マサ君、知らない人、みたいで、ちょっと、怖い……でも、それなのに、私、マサ君に今すぐいっぱい、触って、欲しくて……もっといっぱい、触って、欲しくて……」

「……!」

「どうしよう、マサ君、私……私、私……!」


 ――箍が、外れた。

 緩めた帯を一気に解いて、紫音の胸元を一気に剥ぐ。

 ああもう、何てことを口走ってくれるのだ。

 味わったことのない感情が体中を駆け巡り、支配して、だがその感情の名すら分からずに。なのに聖人が欲しいと心も体も叫び始めて。

 顔を真っ赤にしてその全てに戸惑い、困惑し、あろうことか聖人に助けを求めるなんて、本当に、困った女だ。


「じゃあ、望み通り、沢山触れてやる。だからお前も、俺に触れていろ」


 性急に、乱暴に自らの服を脱ぎ捨てる。


「あまり大きな声を立てるな。人が来てしまうから」


 渦巻く葛藤など何処(いずこ)かへと追い遣られて、ただ、欲望に従う。

 紫音の困惑は、聖人への許容の代わりだった。

 首筋に噛み付いて、痕を残す。

 紫音の白い肌にそれが付いたことを確認すると、堪らない征服感に包まれた。

 躊躇いも迷いも忘れた聖人は、夢中で紫音の肌に噛み付き、合間に彼女の唇を吸った。


「ま、さ、くん……、っ」

「紫音、掴まって。大丈夫。お前は俺に身を委ねていればいい」

「ん……っ」


 彼女がこれから何をされるのか、きっと分かっていないのを良いことに、聖人は紫音の腕を自分の首にしっかりと巻き付かせた。

 早く、早く、と己が体を駆け巡る熱が、聖人を急かす。

 この時をどれだけ待った事だろう。

 痛いと泣く紫音の涙を拭いながら、一つになろう、と囁いて、強張りを解かせる。

 初めて襲う快楽と幸福に、紫音はもはや何も考えられないようで、半ば壊れた人形のように、繰り返し聖人の名を呼び続ける。

 神が祭られている社の麓で、神を冒涜するような行為だった。

 熱を穿つ度、暗がりでもはっきりと輪郭が浮かぶ荘厳な社が目に入って、罰当たりだな、と何処か他人事のように思う。

 けれど聖人は、たとえ神でもこの行為を「不埒だ」と蔑まれる筋合いはない、と思った。

 変な話、こうして人は命を宿すのだ。

 そこには確かに愛が必要で、狂う程の情欲が必要で。

 そして聖人は、紫音のことを狂おしい程愛していて。

 むしろこれは潔い行いだとさえ、思う。


(おかしくなりそうだな……いやむしろ、とっくにおかしくなっているのかもな。

 あの日――紫音と出逢った、あの、瞬間から)


 きっとあの瞬間から、運命は動き出していた。

 だからもう、止められない。

 誰にも。神でさえ。


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