決意
「……じゃあ、またな、此木」
「ああ。気を付けて帰れよ」
完全に夜の帳が下りた頃、幸三郎はいつもの調子で「そろそろ帰るわ」と言った。
送らせる、と言ったが、今日は歩いて帰りたい気分だからと断られた。
弓道場の片付けも着替えも後回しにして、聖人は何となく幸三郎を門まで見送った。
いつもと同じように軽く手を振り合ってから幸三郎は歩き出したけれど、数歩行った先で不意に立ち止まる。
「……ありがとうな、此木」
「、……何だ、いきなり」
「俺を庇ってくれた上、三葉を諫めてくれて。礼を言うの遅れた」
「気にするな。友達として、当然の事をしたまでだ。それに、あのままではいくら何でも、悲し過ぎるから」
「……お前も、何かあったら言えよ? お前のためなら俺、何でもしてやっから。
どんな事だってしてやっから。だから絶対……一人で抱え込んだり、勝手に壊れちまったり、するんじゃねえぞ?」
その時聖人は、何処か必死な幸三郎の言葉に、酷く心が痛んだ。
長い付き合いだ。彼は、聖人が今何処となく危うい事に、既に気が付いているんだろう。
本気で聖人を心配してくれる幸三郎に、聖人は一瞬だけ痛みを耐えるような顔をして、目を伏せた。
「――ありがとう、橋谷。せめて、お前は幸せになってくれ。俺の、分まで」
「……、此木……」
「じゃあな」
言いながら上げた聖人の顔は、やけにすっきりしていて、穏やかなのに――否、穏やか故に不安を誘う、そんな、表情だった。
幸三郎が何かを尚も言い募ろうとしたけれど、聖人は、まるでそれを振り切るように、屋敷の中に戻って行った。
その晩、蔵の向こうの湖に行くと、紫音がいつものように、湖面に両足を浸けてぶらぶらさせていた。
贈ったヘアゴムを気に入ってくれたらしい。
綺麗に切り揃えてやった髪が、水色のリボンが付いたそれで結われていた。
「紫音」
呼び掛ければ、彼女は肩をびくりと震わせつつ、驚いて聖人の方を振り向いた。
相手が聖人だと分かると、紫音は安堵と共に嬉しそうな笑みを見せる。
「マサ君」
「もう、風邪はすっかり治ったみたいだな」
「うん。もう、元気。でも今日、会いに来てくれる日、だっけ?」
「いや、スマホに着信は残していないが、無性に、お前に会いたくて堪らなくなってな。会えるか分からなかったが来てみたんだ。だから良かった。会えて」
きょとん、と首を傾げる紫音に思った通りの事を言えば、彼女は頬を赤く染めて聖人から視線を外した。
――どうしてなのだろう。
どうして、自分達はこうも己の恋愛すら、敷かれたレールの上なのだろう。
綺麗に整備されたレールの上で、しかも、その上を走っている自分ではなく、勝手に敷いた誰かの勝手な判断で。
好きな人に好きだと伝える、たったそれだけのことさえ。
「マサ君?」
手を伸ばして、愛しい人の頬に触れる。
幸三郎と三葉が交際していた頃、彼らには何の力もなかった。
巨大な権力と圧力に立ち向かう力も、逃げ出す力も、逃げ延びる力も。
だが、今は――
今の此木聖人ならば……?
「紫音」
「はい……?」
「――外に、出てみたくはないか?」
「……――え……?」
□□□
「――いらっしゃいませ」
屋敷に居る執事のような身なりをしたウエイターが、来店を告げるドアベルが鳴ったと同時に、綺麗な所作で一つお辞儀をした。
オルゴールのような安らかなBGMがかかり、店内の客達は誰を見ても上品だった。
対して、たった今入店した客である幸三郎の身なりは、至っていつも通りのラフな格好で、明らかに場違いというか浮いていた。
だがウエイターはそんな彼に不快な顔をするでもなく、幸三郎が一人で来店したのかどうかを訊ねた。
「いえ、ちょっと人と待ち合わせをしているんですが」
その辺の気楽な喫茶店に立ち寄るような格好なのに、淀みない口調で受け答えをする幸三郎に、ウエイターは少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
そんな彼のリアクションなど気にも留めず、幸三郎はきょろきょろと店内を見渡し、やがて、一番奥の席に待ち合わせの相手が座っているのを見付けた。
ウエイターに一つ会釈をして、幸三郎はそこに歩み寄る。
「――絢子お嬢様」
声を掛けるとその相手――長谷川絢子は振り向いて、ぎこちない笑みを浮かべてお辞儀を返した。
「こんにちは、幸三郎さん。急に呼び出して、ごめんなさい」
「いえ……」
「どうぞ、お座りになって」
片手で向かいの席を示され、幸三郎は促されるまま席に着く。
すぐ後にお冷を持って来たウエイターに珈琲を注文し、そこで二人の間に沈黙が下りた。
今日、幸三郎は絢子に呼び出された。
朝方連絡があり、大事な話がある、どんなに遅い時間になっても構わないから、時間を作って欲しい、と言われたのだ。
電話口での絢子の声は、普段の凛とした大人びた口調とは違って何処か低く緊張していて、何だか思い詰めているようでさえあった。
なのに、婚約者の聖人でもなく、友達の咲でもなく、幸三郎を呼んだ。
そのことに悪い予感を抱きながらも、幸三郎は呼び出しに応じて、こうして絢子に会いに来たのだった。
珈琲が運ばれて来ても、絢子は少し俯き加減で、なかなか口火を切ろうとせず、ここへ来てもまだ、話すか否かを躊躇っているようにも見えた。
少なくとも、良い話、ではないだろう。
どうしようかと一瞬迷ったが、幸三郎は一つ息を吐き出して、少し慎重に口を開いた。
「……それで、お話というのは?」
聖人でもなく咲でもなく、これまで個人的な交友など一切ない幸三郎を呼んだ。
それこそが、絢子が話を切り出せない理由なのかもしれないと思った。
幸三郎も半ば意を決して促せば、絢子はびくっと肩を僅かに震わせて、僅か後、何かを言う前に脇に置いたバッグから何かを取り出して、テーブルの上に置いた。
写真のようだった。
見てみろ、ということだろうと思って、幸三郎が身を乗り出してそれを手に取り、中身を確認して――
「っ、!」
そこに写っていたものに、幸三郎は思わず息を呑んだ。
「……貴方なら、ご存じなのではないかと思ったの」
明らかな動揺を見せた彼に、絢子は追撃するかのように、言った。
厳しい口調で。でも何処か、痛みを耐えるような口調で。
「答えて」
視線を写真から絢子に移せば、彼女の瞳には、いつもの自信に満ち溢れた輝きは見付けられなかった。
「その女は誰?」
酷く傷付いた瞳で、責めるように問う絢子に、幸三郎は歯痒さにも似た何かを覚える。
絢子が差し出した写真。そこには、一組の男女が写っていた。
雨天の中、色とりどりの傘で通りが埋め尽くされている中、二人は相合傘で小走りに通りを駆けて行くような様子だった。
一見、見付かってはいけない相手に見付からないように急いでいるようにも見える構図、だったけれど。
別の意味で幸三郎は、それを見た瞬間胸に痛みが奔った。
悪い偶然が重なっても、生まれるのは最悪の事態だけ――。
そこに写っていたのは――聖人と三葉、だった。
恐らくは、二人が偶然街で再会したというあの日、長谷川の家の誰かが偶然二人が一緒に居るのを目撃してしまって、一大事とばかりに絢子に報告したのだろう。
この、証拠写真と一緒に。
「知ってるんでしょう? その女の事。聖人さんの親友の貴方なら」
知っているも何も。
思わず零れそうになったため息を慌てて押し殺して、幸三郎は写真をテーブルの上に置き直す。
「知っているなら答えて。隠し立てしても良い事なんてないわよ」
何も答えようとしない幸三郎に焦れて、ついにはそんな脅し紛いの事まで口走る絢子に、幸三郎はいつになく真剣な眼差しで真っ直ぐ彼女を見据えた。
「知っていたとして、もしそれが、お嬢様の予想通りの答えだとしたら。お嬢様はこの女性を、どうなさるおつもりですか?」
「……、どう、って、決まっているでしょう。聖人さんは、私の婚約者よ。私の夫となることが決まっている人なの。許される事ではないじゃない」
「でも、貴方が仰ったんですよね? ――“それでも構わない”、と」
「、……!」
「仮に。この女性が此木とそういう関係で、此木が真剣だったとしても。
お嬢さん達が夫婦になるのは決定事項です。あいつは、一度決まった事には逆らわないし、事実を無理に捻じ曲げるような事もしない。
そんなことをしたら、一体どれだけの人間が放り出されるか知っているから。
自分の肩に乗る責任がそういうものであることを知っているから。
だから、それでも構わないからと、此木の心までは望まなかったのではありませんか?」
「それは……っ」
責めるような幸三郎の指摘に、絢子は気まずそうに俯いた。
「……ご安心を。この女性は、此木の想う相手ではありませんよ」
「っ……本当に? それは確かなの?」
「ええ。だってこの女性は――俺の、かつての恋人、ですから」
「え……?」
「一昨日の事です。俺も此木から直接報告されました。俺の元カノと、街で偶然会った、って。この写真は恐らく、その時のものでしょう」
「……、それを、貴方は信じられるの……? というか、何とも思わないの? 報告によれば、二人はこのまま此木のお屋敷に帰った、って……仮にも、貴方の元恋人なのに」
「信じますよ。此木は嘘は吐きませんから。別に、やましい事は何もなかったと言っていますし、仮にもし、そういう間違いを起こしていたとしても、正直に打ち明けてくれます。あいつは、そういう奴です」
清々しい程きっぱりと言い放てば、漸く絢子から切羽詰まったような空気が消えた。
「いくらお嬢様でも、これ以上俺の友達や元カレにケチを付けるのはやめてもらいたいのですが」
「……、」
静かながらも強めの批難に、絢子はすっかり険を削がれて、罰が悪そうに俯いた。
相手が誰でも言いたい事をすっぱり言うところは、咲に影響されたのかもしれない。
「……ごめんなさい、幸三郎さん。私……知らなかったとはいえ、貴方の大切な人を貶めるような事をしてしまったみたい」
やがて、絢子は一つ息を吐いて、頭を下げながらそう詫びた。
「いえ……実際危害を加えた訳ではないですし、分かって頂けたなら結構です。俺こそ言い過ぎました。すみません」
幸三郎も素直に応じて、そこで二人の間に僅かな沈黙が下りた。
「何だか、馬鹿みたいね、私。物分かりの良いふりをして、こんな……」
「………」
「愛してもらえなくても、一緒に居る権利を独り占め出来るなら、それで良かったのに」
矛盾。たとえ、聖人に心に決めた相手が居るのだとしても、結婚の約束は決して揺るがぬからと彼の心までは縛ろうとしなかった。
だというのに、正にその瞬間を捉えた写真を突き付けられて、意図せず絢子は己が奥底にある本心を、引き摺り出されてしまったらしい。
それを自覚して、絢子は戸惑いを隠せないでいる。
「……ねえ、教えて、幸三郎さん。聖人さんが本当に愛している人って、誰?」
短い沈黙の後。
絢子は、疲れ切った声でそう問うた。
「それは、俺も知りません」
「嘘」
「嘘じゃないです。それに関しては、俺も何も聞いていないので」
探るように真っ直ぐ見据える絢子の視線を、幸三郎も真っ向から受け止めた。
本当に嘘を言っていないと理解したのか、絢子はやがて彼から視線をそっと外すと、考え込むように片手を口許に当てた。
「そう、なら……貴方にも隠すような相手、なのね」
「……お調べになるつもりですか?」
少しだけ険しい表情を浮かべて、幸三郎は問う。
「当然でしょう。夫となる人の不義の相手だもの。妻としては見過ごせない」
「ですがそれは……」
「私はね、幸三郎さん。本当に、構わないと思っていたの。
聖人さんが誰を好きでも。一生、愛してもらえなくても。たとえ……セックスフレンドでも」
「……、」
「でも……駄目みたい。今回の事で、自分の気持ちを、痛い程思い知ったわ」
ふと、絢子が目を伏せる。
だがすぐに上げられた顔には、今までのどの笑みとも違う、何処か悪寒さえ感じさせる笑みが、浮かんでいた。
「私が欲しかったのは、聖人さんの妻という絶対的な位置と権利だけじゃなかった。私……あの人の全てが欲しい」
堪らず、幸三郎は身を強張らせ息を呑んだ。
いつもの優雅で妖艶な笑みではなく、冷徹で仄暗い笑みは、まるで何かが壊れたマリオネットのようでさえあって。
「愛してるの。私、あの人を。自分でも、怖くなるくらい」
恍惚な輝きすら宿して恥ずかし気もなく愛を囁く姿は、傍から見たら目も奪われる程に美しく、誇り高く見えるけれど。
その裏に、確かに揺らめく狂気を、幸三郎は見逃さなかった。
「出来れば――邪魔しないで」
そうして絢子は、幸三郎が何か言い募るのを振り切るように、席を立ち颯爽と立ち去って行った。
どうして、こうなったんだろう。
暫く呆然としていた幸三郎は、いくら問い掛けても出る筈のない答えを探して、自問を繰り返す。
聖人も絢子も、ただ、人を好きになっただけ、の筈、なのに。




