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それでも愛してると言いたかった  作者: 和菜
六章 哀しき愛の残骸
22/45

過去の痛みに未来という慰めを

 

「――いくら払ったの?」

「何……?」

「幸三郎のお父さんは、その婚約者の親に、一体いくらお金を払ったの?」


 低く震える声に、聖人は軽く息を呑んだ。


「それとも、幸三郎が婚約者本人に礼金でも渡した? お父さんに言われて」


 思いも掛けなかった言葉は、聖人が知る一ノ瀬三葉の人物像とはとても掛け離れていた。

 話が見えずに戸惑っていると、三葉は疲れ切った表情で顔を上げた。


「幸三郎のお父さんが私の両親に酷い事をして、私達家族全員を社会的に抹殺させようとさえしてた。だから幸三郎は、私達を守るために、私と別れる道を選んだ。

 そのことは、知ってるよね?」

「……ああ」


 知っているも何も、その頃の事は聖人もよく憶えている。

 財閥の息子と、普通のサラリーマン家庭の娘。

 ありとあらゆる愛の形や婚姻の形が認識され始め、当たり前の事として徐々に受け入れられ始めている世の中で、家柄の違いという古臭い風習に囚われ、一つの淡い恋が無残に散った。

 幸三郎は泣いていた。

 地位も名誉もお金もある筈の自分には、それより何より一番尊い力が……好きな女一人守る力さえもが、ないのだと。


「私達が別れた後ね、橋谷財閥の秘書って人が、うちを訪ねて来たの。やけに分厚い封筒を手に持ってね」

「……、!」

「……慰謝料と手切れ金、そして、口止め料だって。幸三郎と縁が切れた以上、こちらとしてもこれ以上貴方方に手を出す気はない。今までのお詫びとして受け取って欲しい、って」


 心臓が、普段以上に大きく波打つのを感じた。


「全く酷い話じゃない。

 お父さんはね、当時会社の人間全員から無視されたり、道を歩いてたら轢き逃げされそうになったりしてたのよ。

 うちには毎日のように無言電話とかいたずら電話が掛かって来て、郵便受けには私達家族の隠し撮りの写真とか脅迫状とか送られて来て、お母さんもノイローゼ気味だった。

 私も、学校ではいじめられるようになって、先生達は見て見ぬふり。

 それが、“そんな必要なくなったからもう辞めます、これで許してね”って札束握らせてはいおしまい、だもんね。

 お金持ちってそんなに偉いの?」

「……っ」


 昏い――昏い、笑みで三葉は言う。

 彼女は、こんなに、ぞっとするような笑みを浮かべるような女だっただろうか。

 そんな風に思って、聖人は、堪らず彼女から目を逸らしてしまった。

 違う。

 彼女をそんな風にしてしまったのは――他ならぬ、“金持ち”である自分達だと、気付いたから。

 三葉達家族が橋谷の秘書に渡された金額が如何程のものか、三葉は明言しなかった。

 だが恐らく……一介のサラリーマンの月収よりは、多かったことは、間違いないだろう。

 その事実こそが、三葉にとっては幸三郎の父から受けた侮蔑に他ならなかった。


「人を死ぬ間際まで追い込んでおいて、“金をやるから全部チャラにしてね”ってさ……お金持ちって最高ね? 犯罪を犯してもお金さえあれば罪に問われないんだもの」


 そしてその、幸三郎の父の一連の仕打ちは、三葉に、富豪への、金そのものへの恨みを植え付けた。

 このことを、幸三郎は、知っているのだろうか。


「幸三郎のお父さんは今回、彼の婚約者の家にいくら払ったの?」


 聖人は何も答えられなかった。

 今では互いに好いて好かれた仲とはいえ、二人の婚姻は形式上は政略結婚だ。

 恐らく、両家の間で挨拶代わりの金品の授受は行われているだろう。

 だがそれは、三葉が思っているような意味ではないし、何より幸三郎は、幸三郎なりに過去の恋にけじめをつけて咲と結婚する道を進んでいる。


「ねえ、いくらなの? 幸三郎の婚約者は、幸三郎のお父さんにとって、いくらの価値だったの?

 あんた達金持ちにとって、人間なんてお金で売買した挙句にお金で棄却出来る産業廃棄物みたいなもんなんでしょう?

 流石に今回ばかりは、幸三郎もそのことを知らない筈ないわよね? 知ってて相手を好きになったって言うんなら、幸三郎も結局父親と同じ穴の貉になったってことね!

 答えなさいよ、その女は、一体何億の買い物だったのよ!」


 ぱん!!


 言葉を重ねるごとに感情が高ぶって。

 最後には声を荒げた三葉を――気が、付いたら。

 聖人は……思い切り、引っ叩いて、いた。


 呆然と頬を押さえる三葉を、聖人は苦し気な表情で見下ろす。


「……お前が、橋谷の父上を恨む理由は、分かる。だが……橋谷の事まで、悪く言うのは()せ」


 悲しかった。

 かつて幸三郎を好きになってくれた人が、幸三郎のことを信じられなくなっていたことが。

 悲しかった。

 今でも幸三郎が大切に想っている人が、聖人が思っていた以上に深い傷を心に負い、その原因が、かつて自分が羨んだ恋の結末だったことが。

 そして、悔しかった。

 自分達が生まれながらにして持っているもの全てが、自分の大事なものをここまで追い詰めていたことが。


「あいつがどれだけ一ノ瀬を愛していたか、憶えていない訳じゃないだろう」

「……っ、」

「あの頃の橋谷の想いまで、捨てようとするな」

「捨てたのは、幸三郎の方でしょう!? ごみみたいに扱って、紙切れの束で誤魔化して、私達を馬鹿にして……!」

「あいつがそういう男じゃないことくらい、お前が一番分かっている筈じゃないか!」


 叩かれたショックと怒りで泣き叫ぶ三葉に、聖人も思わず怒鳴り返していた。


「分かってるだろう、一ノ瀬。橋谷は、かつて家の言いなりになることでしか、お前を守れなかった。そのことを、一番悔やんでこれまで生きて来たんだ。

 それでもあいつは、過去の苦い記憶を抱えたまま、愛する人を見付けて家を継ぐ道を選んだ。

 それは……もう二度と、自分のせいで、家のせいで自分の大事なものが傷付かずに済むようにするためだ」


 二人はもう元には戻れない。

 幸三郎は過去を乗り越え、咲を愛した。

 どうしたってそれはもう覆らない。

 でも、だからこそ。

 三葉には、幸三郎への気持ちを、悲しいまま抱えていて欲しくない、と切に思う。


「橋谷は一ノ瀬の事を忘れていない。忘れるという事は、それこそあの頃の気持ちを誤魔化すことと同じだからだ。

 あの時の悔しくて苦しい思いを忘れずに、あいつは必死に、前を向いてるんだ」


 仄暗く、辛く苦しい怨嗟の裏で。

 三葉が今でも幸三郎を深く愛していることが伝わって来るから、尚の事。


「忘れろとは言わない。分かってくれとも言わない。だが……橋谷へのその気持ちを、悲しいものにしないでくれ」


 俺はお前達の事が、本当に羨ましかったんだから。

 ――そう、告げると。

 三葉はその場に泣き崩れた。

 過去の苦い恋の記憶を糧に、未来を見つめる男と。

 過去の辛い恋の記憶を枷に、現在(いま)すら霞んでしか見えない女。

 二人の愛の結末は、かつて聖人が見たそれより根深く、悲しくて痛い真実が隠されていたけれど。

 せめて彼女が、今日この屋敷を出たら。

 あの頃の気持ちを愛おしむ心を取り戻せていたらいい、と、聖人は思った。



 □□□



 視界に、的しか映らなくなった刹那。

 聖人は矢を放った。

 けれど、放たれた矢は的には当たらず、少々ずれた場所に突き刺さる。

 既に十の矢を飛ばした。

 だが全てが的とはまるで違う方向に飛んでいった。


「――絶不調、だな。此木」


 十一射目を放ち、それも的の手前の地面に突き刺さる。

 その瞬間、背後からからかうような、それでいて心配そうな声が掛かった。


「的にすら当たんねえなんて、いくら何でも調子悪過ぎだろ。大丈夫か?」


 弓道場に半ばずかずかと上がってそう言う幸三郎は、相変わらずだった。

 赤くて派手な髪色に、手と首にはアクセサリー。

 両手をズボンのポケットに突っ込んで、およそ財閥の息子とは思えぬ身なり。

 ここに今日彼を呼んだのは、他ならぬ聖人だった。

 三葉との事を、きちんと話しておきたかった。

 冷静に、誰にも邪魔されずに話が出来る場所が、屋敷で一番心の落ち着く場所である弓道場しか、思い付かなかった。


「で、どうしたんだよ。改まって俺を呼び出すなんて」


 靴を脱ぎ、側に寄って来る幸三郎に、聖人は弓を下ろして一つ息を零し、やがて、意を決したように向き合った。


「一ノ瀬と、会った」

「――!!」


 短く告げれば、幸三郎が大きく目を瞠り、息を呑んだ。

 聖人は幸三郎に三葉とのやり取りを全て話し、やるせなさのあまりに彼女を引っ叩いてしまった事も話した。

 話を聞くにつれ、幸三郎は痛みを耐えるような顔になり、最後には項垂れて、その場に座り込んだ。


「……そっか……そりゃ、何ていうか……きついな……」

「……知っていたか? お前の父上が、一ノ瀬の家に多額の口止め料を払っていたことを」

「いや……恥ずかしい話だけど、今初めて知ったわ……有り得ねえよな、ほんと」


 疲れ切ったように呟いて、幸三郎は片手で顔を覆う。

 泣くのを堪えるような姿に、聖人は胸が痛んだ。


「此木、俺はさ……あの時、これで三葉に平穏を返してやれると思ったんだ。

 一緒に居られなくなるのは辛えけど、それでも、これで三葉は幸せになるために歩き出せるって。

 俺との事なんて忘れて、きっと、楽しく生きてるだろう、って」


 その安堵は、驕りと逃避だった。

 実際それ以降、三葉が受けた仕打ちなど知ろうともせず、どれ程今尚も傷付いているか考えようともせず、勝手に決め付けて。

 自分の傷にだけ酔っていた。


「最低だな、マジで。あいつに恨まれても仕方ねえや」


 かつて愛した女に恨まれているという事実に、幸三郎はただ力なく呟く。


「いくら能天気でいい加減な男でも、こればかりは、駄目だよな……」

「……橋谷」


 どう言葉を掛けてやればいいか、聖人は分からなかった。

 こんなに落ち込む幸三郎は、それこそ、三葉と別れて以来久し振りに見る。

 やはり今でも、幸三郎にとって三葉は、それだけ大きな存在なのだろう。


「……連絡を、取ってみるか?」

「え……?」

「別れる間際、せっかく再会したのだから、これからは友達らしく、たまにはメッセージ交換でもしよう、と一ノ瀬が言うので、IDを交換した。

 だから、連絡を取ろうと思えばいつでも出来るぞ」


 悩んだ末、そんな気休めにもならない提案を唇から漏らした。

 何を言っているんだ、と自分でも思う。

 だが幸三郎は、一瞬だけ躊躇いに瞳を揺らして、でもすぐに首を横に振った。


「そんなことしたら、余計にあいつを苦しませるだろうよ。それにそんなこと……ただの自己満足だし」

「……そうだな……すまん」

「いや……こっちこそ、悪かったな。結果として、俺のせいで、今になってお前にまで嫌な思いさせちまった上、色々気を遣わせちまって」

「俺の事など……」


 やや俯き気味にそう言えば、幸三郎は労わるように微笑んだ。


「いくらで買ったの、か……」


 そこで沈黙が下りる。

 夕陽に照らされた弓道場が、少しずつ、少しずつ闇へと誘われていく。


「……また、増えちまったな。俺の罪が」


 短いような長いような沈黙の後、幸三郎は自嘲の笑みでそう言った。


「けどな、此木。誰に何て言われても俺は、咲が好きだ」

「……、」

「だからもう、止まらねえ。過去がどんだけ俺を責めても」

「……橋谷」

「今度こそ、守りたいもんは全部、この手で守るよ」


 そうして、幸三郎は立ち上がった。

 闇へ向ける彼の、悲しみを押し殺した決意に満ちた瞳は、痛々しい程切なく、同時に、猛々しい程気迫に溢れていた。


(……ああ、やっぱりお前は、真っ直ぐな男だな)


 思わない訳がない筈だった。

 今、もう一度、深く傷付いている彼女の元に走って、全てをやり直せるなら。

 きっと、今度こそは、と。

 だが幸三郎は……それでも、未来を守る決意を改めて決めたのだ。

 今愛している人のために。かつての己と、今の己のために。

 ――これ程の覚悟と決意を決められる友を、聖人は素直に凄いと思った。

 同時に、これ程近くに居続けながら、気付けば横たわっている自分達の決定的な差に、半ば愕然とした。


(俺も、お前のようになれたなら……絢子嬢を不幸にすることも、紫音を身勝手な慕情で囲うようなことも、せずに済んだのだろうか)


 いつから自分は、これ程醜い男になっていたのだろうか。

 本当は、幸三郎と肩を並べる資格など、ないのだ。


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