はじめてのきもち
――酷い気分だった。
未明に紫音と別れてからずっと、聖人の体は熱が燻って仕方がなかった。
手と額にキスだけで何とか堪えられた自分を、誰か褒めて欲しい。
そう思う程度には、本当に危なかった。
相変わらず紫音は質素なワンピースに野暮ったい長髪で、色気も何もなかったけれど、熱に浮かされて火照った顔を見ていると、どうしようもない衝動に駆られてしまう。
今すぐ、全て剥ぎ取って、その柔肌を見てみたい。
女の匂いが男に染み付く意味も、首筋の赤い痕の意味も、キスの意味さえ分かっていない無垢で哀れな少女に、男を――“俺”を教え込ませてみたい。
彼女の中でまだ成熟し切っていない“女”の部分を、引き摺り出してみたい。
それらの衝動が、頭の中で、腹の中でどす黒くぐるぐると回って、自分を抑え込むのに必死だった。
そして同時に、どうしようもなく腹が立った。
何処までも無防備で、何処までも無垢で、何処までも聖人に気を許す、紫音に。
ああ、本当に――酷い気分だった。
苛立ち故か、はたまたどうしようもない欲情故か、部屋に戻ってからも、大学で授業を受けている間も、素肌を晒して自分を求める紫音の姿が、脳内にちらついて離れてくれない。
卑猥で浅ましい妄想でしかないと重々承知しているだけに、己に対する嫌悪感と侮蔑で吐きそうだった。
だから聖人は絢子を呼んだ。
本当に抱きたい相手を抱けない、代わりに。
いつでも、求めれば応じてくれる、哀れな婚約者を。
(……ああ、そうだ)
絢子の上で、あるいは下で、背後で、最高級の快楽の波に呑まれて果てる度、聖人は、濁った思考に囚われる。
最初こそ罪悪感に身も心も震えていた。
本当に愛する女がいながら、全て手遅れだと諦観し、自身を好いてくれる女を身代わりに抱いて、それでも想いを止めることが出来ずに。
何の行動も起こさず、悪戯に健気な愛を与えてくれる女を利用して。
だが――今は。
その罪悪感でさえ、綺麗事でしかないのだと失笑が漏れるのだ。
だってそうではないか。
絢子と聖人の利害は一致している。
絢子は、聖人が自分を愛さずとも将来妻になれるのなら構わないと言う。
紫音の事は、これからも聖人が口を噤み続け、決して誰にも気付かれることなく秘めた逢瀬で済ませれば、誰の目に触れることも、誰かに傷付けられることもなく。
しかも、結婚し財閥を継げば、聖人は名実共に紫音を守る力を手に入れられる。
悪い事だけれど、悪い話じゃない。
そうすれば紫音は……一生、聖人だけのものになる。
男を教えるのも、女を引き摺り出すのも、紫音という女の姿を目にするのも、聖人だけになる。
誰も損をしない。
流れに逆らわずに、敷かれたレールの上を走る。
昔からの生き方をこの先し続けていれば、思わぬ形で聖人の欲しいもの全てが手に入るのだ。
――醜さと背中合わせの思考に心が魅入られた時。
自分の下で啼く女が、一瞬、絢子ではなく紫音に見えた。
「……絢子」
それでも聖人は、ちゃんと、本人の名を熱っぽく囁く。
貪るように腰を動かして、彼女の上体を抱き起して、肩口に頭を押し付けた。
「ね……また、痕、付けてもいい?」
しがみ付いて懇願する絢子に、聖人は、仄暗く微笑む。
「ああ。前みたいに、見える所に……好きなだけ、付けろ」
そうして今夜、また、紫音に見せ付けてやるから。
いつも身に付けるその甘ったるい匂いごと、聖人に擦り付ければいい。
背を抱く腕に力を込めれば、絢子は嬉しそうに笑って、聖人の首筋に唇を寄せた。
彼の仄暗い微笑みに気付かぬまま。
□□□
こんこん、と軽くノックをしてから、地下室へ続く仕切りを引き上げた。
覗き込むと、出迎えるように階段の下に小走りにたまが駆け寄って来て、一声鳴く。
聖人はドアを戻しながら階段を下りて、たまを抱えてベッドの方を見遣ったけれど、そこには、紫音の姿はなかった。
「紫音?」
名を呼びながら室内を見回せば、たまが再び鳴いて、聖人の腕の中から飛び退いた。
するとたまは部屋の奥へ行き、バスルームへ続くドアの前に座り、聖人の方を振り向く。
バスルームの明かりが点いていて、中からシャワーの水音が聞こえる。
「……風呂……ということは、熱は下がったようだな」
安堵と共に呟けば、応えるようにたまが鳴く。
扉一枚、隔てた先に一糸纏わぬ姿の紫音が居るのだと思うと胸がざわついたけれど、昨夜のような獰猛な感情は、何とか沸き起こる前に抑え込んだ。
気を紛らわすように聖人は、良い機会だとばかりに改めて室内を観察した。
人一人が最低限不自由なく暮らすには充分な設備が整った部屋。
必要な物は全て揃っているし、掃除もきちんとやっているようで、居心地が良い。
しかし、そんな至れり尽くせりの室内に、異彩を放つ設備が一つ。
「……、」
今まで気が付かなかったそれに、聖人は緊張した面持ちでそっと近付き、半ば恐る恐る手を伸ばした。
上下に開くスライド式のドアと、その真上にあるボタン。
鉄の箱のような内装だが、恐らく人は入れない。入れるとしても子供が一人がやっとだろう。
だがそれは、人を運ぶためのものではない。
物資運搬専用の小型エレベーター、ダムウェーターだ。
――恐らくは、これを使って屋敷の誰かが密かに紫音に薬やらお菓子やらを、定期的に運んでいるのだろう。
それが誰か、は分からないが。
「マサ君……?」
「、……ああ、上がったな」
「……来て、くれたんだね……」
「様子を見に来るって、言っただろう?」
いつの間にか風呂から上がった紫音に名を呼ばれ、振り向けば髪は濡れたまま、頬を上気させて嬉しそうに、はにかむように笑う紫音の姿があった。
無防備過ぎる姿に聖人の心臓は五月蠅く反応するけれど、彼は何とかそれを無視して、微笑みを返す。
「熱、下がったよ」
「そうみたいだな。だが、油断してるとぶり返すぞ。ほら、早く髪を乾かせ」
「ふわっ」
首に下げたタオルを取り上げて、少々乱暴に紫音の頭を掻くように被せる。
「おいで」
そのまま肩に手を回して、紫音を洗面台まで連れて行った。
椅子に座らせて、サイドに置いてあったドライヤーと櫛を手に取り、彼女の髪に当てる。
「あ、あの、それくらい、自分で出来る、よ……?」
「いいからじっとしていろ」
てきぱきと手慣れた様子で聖人は紫音の髪を櫛で一度整えると、ドライヤーのスイッチを入れた。
ごく自然に、紫音の髪を手で梳かしながら乾かす聖人に、紫音は何故だか酷く緊張して、畏まってしまう。
「改めて見ると、お前の髪は本当に長いな。ここに連れて来られてから、ずっと切っていないのか?」
「うん……でも一回だけ、自分で切ってみたこと、ある」
「そうなのか?」
「うん……右と左で、長さが全然違くて、一緒くらいにしようと頑張ってたら、どんどんガタガタになって……すっごく変な髪型に、なっちゃって」
その時の事を思い出したのか、しゅんとなっていく紫音に聖人は思わず小さく声を上げて笑った。
「それ以来切ってない、と?」
「……うん」
いじけたような顔で答える紫音に、やはり女の子だな、と聖人は思う。
「じゃあ、俺が今から切ってやろうか?」
「え?」
「ただ長くて重いだけの髪はストレスだろう? 女の子なんだから、もっと綺麗にした方がいい」
「で、でも……」
「心配するな。少なくともお前よりは器用なつもりだ」
悪戯っぽく言いながら、聖人はドライヤーのスイッチを切り、長い紫音の後ろ髪を手で束ねる。
鏡越しに紫音を見つめれば、彼女は頬を染めて、か細い声で「じゃ、じゃあ……お願い、しま、す……」と言った。
聖人は、一度屋敷に戻り、小ぶりのバッグにレインコートと新聞紙、それから理容鋏を詰めて再び蔵に戻った。
一旦紫音を椅子から立たせ、床に新聞紙を敷き詰め、レインコートを着せて再び座らせる。
やはりてきぱきと手慣れた動作に、紫音は半ば感心しつつも、先程より緊張が増して妙に落ち着かなかった。
唇まで引き結んで、両手は膝の上でしっかり握り込んで、ガチガチに固まっている姿が可笑しくて、聖人はまた吹き出すように笑ってしまった。
「そう緊張するな。やり辛い」
「ご、ごめんなさい……」
「まあいい。それより、どれくらいの長さにする?」
言いながら聖人が片手で紫音の背中に触れると、紫音は何故か益々身を強張らせた。
「え……っと、く、首は、隠したい……」
「じゃあ、この辺か?」
と、肩甲骨の真上のライン辺りを手で押さえる。
「う、うん……それくらい」
「分かった。では切っていくから、また暫くじっとしてろ」
「うん……」
切る前に、聖人は紫音の両肩に手を置いて、「リラックスして」と言った。
ややあって、聖人の手や櫛が、再び紫音の髪を梳き始め、規則正しい鋏の音が鳴り始める。
自然と二人の間に沈黙が落ちて、紫音は何だか所在なさげに視線をキョロキョロと動かし、何となく鏡で止めた。
そこには、いつになく真剣な眼差しで紫音の髪を切っていく聖人の顔と、少しずつ髪の長さが変化していく自分の顔が、当たり前だが映っていて。
その真剣な聖人の目に、紫音の心臓が一つ、切なく音を立てた。
(……どう、しよう……)
風呂から出て、聖人と目を合わせた瞬間から、何だか今日は変だった。
今日は何故か、聖人の顔を見ると、聖人に触れられると、緊張する。
触れられると何だか体が熱くなって、目を合わせると恥ずかしくなって、でも……触れられることも、目が合うことも、全身が、嬉しいと叫んでいる。
久し振りに風邪を引いて、心細い夜を過ごしたせいだろうか。
それとも――
「どうした?」
不意に鏡越しに聖人に声を掛けられて、紫音は我に返る。
半ば聖人に見惚れていたことにそこで漸く気付いて、「な、何でも、ない」と慌てて首を振って目を逸らそうとした、けれど。
「、あ……」
その瞬間、鏡越しに見えた聖人の首筋の赤い痕に気付いて……胸が、つきん、と痛みを訴える。
――痛い、と思って、そして、痛いと思ったことに、戸惑った。
あの赤い痕は、何なのだろう。
少し前に付いていた場所と、同じ所。
昨夜は消えていたのに、また、くっきりと残っている。
それに……今の今まで気が付かなかったけれど、聖人から、例の甘い匂いが、仄かに香って来る。
いつだったか教えてくれた、彼の婚約者の香り、だった。
それも、昨夜は匂わなかったのに。
「あ、あの……マサ君」
「ん?」
「きょ、今日、ここに来る前、婚約者さんと、会った……?」
普段と同じように世間話のつもりで訊いた筈なのに、紡いだ声は震えて、訊くのを拒むように胸の痛みは増した。
聖人は、一瞬手を止めたけれど、すぐにまた再開して、
「ああ、夕方まで一緒だった」
と何でもないことのように、答えた。
「……そっか……」
――ずきん、ずきん、ずきん……
胸の辺りが痛んで、泣きそうだった。
何でこんなに痛むのか、本気で分からなくて、分からないから怖かった。
「紫音、前髪を切るから少しの間目を閉じていろ」
「ん」
紫音の困惑など気付かぬ様子で聖人から出された指示に従い、紫音は瞼を下ろした。
先程よりずっと近い位置に聖人の存在を感じて、顔に熱が集まっていくのを感じる。
胸の痛みは紫音の心に冷たい風を呼び込むのに、側に感じる聖人の気配は、心に吹く冷たい風を陽だまりで包むように温かくする。
冷たいのと温かいのが同時に全身を伝って、紫音はもう本格的にどうしていいか分からなかった。
その後紫音は、何となく鏡越しでも聖人の顔を見つめているのが居た堪れなくて、鏡越しに自分の胸元だけをひたすら見つめていた。
気が付けば時間は過ぎ、聖人が「終わったぞ」と言った頃には、あれからもう数十分が経っていた。
我に返り改めて鏡を見遣れば。
手入れの行き届いていない野暮ったい長髪から一変、前髪も顔回りも後ろ髪も、綺麗に切り揃えられた、整った髪型をした自分が、映っていた。
「……わ、たし?」
「ああ、紛れもなく紫音だ」
言っても、本当に、ただ綺麗に切り揃えただけである。
ともすると地面に付きそうだった長い後ろ髪は、肩より長め、予定通り肩甲骨のラインの辺りまで切り落とし、顔を覆わんばかりの横髪は段を入れてすっきりさせ、前髪は眉を隠す程度に作った。
言ってしまえば地味で味気ない日本人形のような髪型だが、今までの姿に比べたら断然清潔さが増したし、何より可愛くなった。
物心付いた頃から、不揃いでただただ長くて重いだけの、小汚いとさえ思うような髪をしていた紫音にとって、こんなにきちんと整えられた髪は初めてだった。
紫音は先程とは違う意味で頬を染めて、瞠っていた目元を緩ませ、口許を綻ばせた。
「……凄い……私、じゃない、みたい……」
「そうか?」
「うん……何で、かな……凄く、凄く、嬉しい……」
緩んだ瞳に、薄っすらと涙が滲んでいく。
たかが、鬱陶しさを覚える髪を切った、それだけのこと、の筈なのに。
先程まで感じていたもやもやした気持ちが嘘のように、紫音は嬉しくて堪らなかった。
「ありがと、マサ君」
「……、大袈裟な奴だな」
嬉し泣きする紫音の目元を拭ってやりながら、聖人も微笑んだ。
「……実はもう一つ、お前に渡したいものがある」
「え……?」
言って聖人はバッグの中から小さな包みを一つ取り出した。
「開けてごらん」
包みを手渡してそう促すと、紫音はきょとんとした顔で言われるまま封を開ける。
中には、いつだったか、聖人が町のアクセサリーショップで購入した、リボンの付いたヘアゴムが入っていた。
「……可愛い。これ、私、に?」
「ああ」
「……いいの……?」
「勿論だ。そのために買ったんだから」
思い掛けない贈り物に呆然とする紫音の手からヘアゴムを取り上げると、聖人は、紫音の髪をそれでハーフアップに結って纏めた。
「――ああ、やっぱり、似合うな」
少し身を屈めて紫音と目線を同じにし、そっと紫音の顔を後ろから包むと、聖人は彼女に横を向かせた。
「見えるか?」
「……ん」
優しい色合いのリボンを目にして、再び紫音の瞳に涙が浮かぶ。
「気に入ってくれたか?」
「うん。マサ君……ありがと。ほんと、に……ありがと。
これ、ずっと、大事にするね」
「ああ」
紫音がそう言うと、聖人も嬉しそうに笑う。
紫音が喜んだことを喜ぶような、屈託のない優しく穏やかな笑みは、また、紫音の胸を切なく叩く。
――今日、一緒だった婚約者にも、聖人はこんな風に笑うんだろうか。




