立ち入り禁止区域
此木聖人が、己がどれ程虚しい生き物だと理解してしまったのは、いつのことだっただろうか。
財閥の跡取り息子として、物心付いた頃から、ありとあらゆる英才教育を徹底して叩き込まれ。
時には贅を尽くしたパーティーに着飾って出掛けて、大の大人相手に完璧な振る舞いを求められ。
そんなこと、一般市民はやらないのが普通だと知ったのは。
自分が、籠の鳥だと思い知ったのは――。
□□□
ノンアルコールのカクテルをぼんやり見つめて、聖人は、耳障りなワルツが大音量でかかる部屋の壁に寄り掛かり、吐き気がする程の嫌悪感に耐えていた。
今夜呼ばれたのは、父が懇意にしている家の一人娘の誕生パーティー。
心底行きたくなかったが、娘の方が聖人には是非にと懇願して来たため、父も快く承諾した。
ビジネスの付き合いに於いて、子である聖人の意思は尊重されることはない。
父が行けと命じるならば、行くしかないのだ。
「聖人さん」
早くお開きの時間になればいいのに、と思いながら暇を持て余していると、いつの間にか件の令嬢が側に来ていた。
目がチカチカするような黄色いドレスと、首や耳、白いグローブの上に光るアクセサリーの数々。
趣味の悪い真っ赤なルージュ。
極めつけは気持ちの悪い上目遣い。
彼女が、聖人に気があることは昔から知っていた。
彼女の父親も、会社のために是非娘を聖人にと思っているようで、聖人の父に娘をよく売り込んでいることも。
「こんばんは。今宵はお越し下さり、本当にありがとうございます」
ドレスの端を摘み、お辞儀をする彼女を、聖人は冷めた目で見下ろした。
彼女はわざとらしく体をくねくねさせながら、さり気なさを装って聖人の腕に手を絡めて来る。
「宜しければ、少しお話しませんか? 先程からあちこちの殿方の話し相手ばかりしていて、ちっとも御挨拶に来れませんでしたので」
何ならこの先百年間くらい別の男の相手をしてて欲しい。
うっかり喉元まで出掛かった言葉をカクテルで無理矢理押し流して、聖人はそれこそさり気なく彼女の腕を外した。
「こちらこそ、御挨拶に伺わず申し訳ございません。
改めて、絢子お嬢様にお誕生日の祝福を申し上げます。
私も、もう暫くお話したいところなのですが、今宵は気分が優れませんので、ここで失礼させて頂きます」
「まあ。またですの? 以前も同じような理由でお話出来ませんでしたのに」
「お許しを。最近、父の仕事の手助けとして任されることも増えましたので、些か疲労が溜まっておりますので……」
「……そう、仕方がありませんわね。でも次は絶対、絶対二人きりの時間を作りましょう? ねえ、約束よ?」
上目遣いで強請る絢子に、聖人はイエスともノーとも言わなかった。
当たり障りなく、「機会があれば」とだけ答えて、カクテルを適当なテーブルに置いて、フロアの出口まで急ぐ。
元々、二十一時には帰る、と父にも執事にも言っておいたのだ。
明日も学校があるし、二十一時も十分過ぎているし、問題ないだろう。
外に出れば、時間を見計らって待機していたのだろう自宅の車が停まっていた。
恭しくお辞儀をし、車の後部座席のドアを開ける執事に一瞥さえくれることなく、聖人は車に乗り込む。
発車し、屋敷の門を出た瞬間に、彼は蝶ネクタイを乱暴に外した。
出来ることなら、もう二度とパーティーなんて来たくない。
呼ばれる度、絢子のような女に声を掛けられる度、もう幾度も思って来た事を、やっぱり今日も思いながら。
家に帰ってすぐに風呂に入った。
絢子の付けていた香水の匂いが思いの外きつかったし、紳士の嗜みと称してあちこちで吸われるパイプの匂いも不快だった。
メイドにスーツのクリーニングを命じ、いつもより念入りに体を洗った。
――生まれた時から生き方を決められている自分は、正に籠の中の鳥だ。
庶民の子供との違いが分かった時には、もう遅かった。
ただ決められたレールの上を走るだけの生き方しか知らない自分には、とても似合いの人生だ。
そう思う一方で、聖人の心は、常に、冷えていた。
どんなに温かく舌触りの良いご飯を食べても。
良い香り漂う入浴剤入りの風呂に入っても。
どれ程周りに持て囃されても。
聖人の心は、いつも、満たされなくて。
きっとこのまま、彼は好きでもない、親が結婚相手にと決めた女と結婚して、此木家の後継ぎを産んで。
一番高い所から人々を見下ろして、最期は最先端の医療機器に管だらけで繋がれて、死ぬんだろう。
普通の人なら、高額でとても出来ない治療や手術を、繰り返して。
高貴な人間、ただそれだけの理由で、生も死も、他人に握られる。
金持ちというだけで人に羨まれ疎まれ妬まれるけれど、金があることが絶対の幸福であると信じるのは、それだけ、この国の人間がお金に支配されているからだ。
金があれば大抵の事はどうにかなってしまう国だから。
金がなければ、命は紙くずより軽い国だから。
金を持っている奴が偉大なのではなく。
金そのものが、この世を支配する神なのだ。
金がなくなれば、此木家なんて、明日を自分で生きる力さえなくなるのだ。
その絶対的な、財力という名の砦が崩れれば、何も残らない。
暗澹たる気持ちを無理矢理吐き出すように、聖人は湯船の中で盛大なため息を吐いた。
――考えても詮無きことだ。
その金を、国を操れる地位を、名誉を、力を途絶えさせないための駒。それが此木家の子供。
結局行き着く答えは、それだけなのだから。
気分を変えようと、聖人は眠る前に外に散歩に出た。
政治家を裏で操っているとさえ噂される程の権力者である此木財閥の豪邸が建つ敷地は、郊外にある一等地だった。
広大な庭はちょっとした公園のようで、のんびり歩き回れば一時間くらいは軽くかかる。
家の中は正直あまり好きではないが、広い庭は好きだった。
庭師が毎日手入れをしている庭は、あちこちで季節ごとに色々な花を咲かせ、郊外ということもあっていつも静かだ。
子供の頃は、この庭を一人で歩くのさえ使用人に心配されたが、流石にこの歳になれば夜の散歩くらいは放っておいてくれる。
肌を撫でる夜風が、パーティーで染み付いた鬱々とした気分を攫っていく。
ふと立ち止まって空を見上げると、そこには、綺麗な丸い月が浮かんでいた。
気が付かなかった。今日は満月だったのか。
月は不思議だ。
細くても、ちょっと歪んだ円形の日でも。
そこにある、それだけで、気持ちが楽になる。
楽になったって、家の中に戻れば、また、色んなものが圧し掛かって来るけれど。
――どれくらいぼんやりと月を見上げていただろうか。
そろそろ、戻ろう。
そう思って、踵を返した、その時。
一瞬だけ、強い風が吹いた。
思わず目をぎゅっと閉じて立ち止まり、やり過ごして……
ふと、聖人は、今し方風が吹き抜けて行った方を、自然と振り向いていた。
その向こうはちょっとした雑木林だった。
聖人はそこから先にこれまで行ったことはない。
というか、その先は父、宗一によって封鎖された区域なのだった。
森の向こうには、本好きだった祖父が集めた書籍を保管するための蔵が建てられているらしい。
祖父の死後、その蔵は誰も出入りする者はなく、当初は取り壊す予定だったそうだが、何故か突然、宗一がそれを取り止めた、と聞く。
その理由は、祖父が蔵に遺した本は、そのどれもが貴重なものばかりだったから、だとか。
聖人も祖父に似て読書が好きなので、祖父が遺した蔵書が数多く保管されているというその蔵に行ってみたいと思っていたのだが。
幼い頃、誰にもバレないようにこっそりと行こうとして敢え無く失敗し、宗一に大目玉を喰らった経験から、以降、聖人はそこに一切近付こうとしなくなった。
その後も蔵を取り壊したという話は聞かないから、今もまだこの雑木林の奥に建っているだろう。
封鎖され、踏み入ることを禁じられた区域。
自分の家の敷地内に、そんな場所があるなんて、普通に考えたら不穏極まりない。
聖人は既に、欲しい本を欲しい時に手に入れるのに不自由しない力を持っているし、封鎖された区域にわざわざ立ち入る必要もないし。
今更、古い蔵書が捨て置かれた蔵になど、興味はない、けれど……。
何故か。
何故かこの時彼は、この向こう、祖父が建てた蔵とやらを、一目、見てみたい衝動に、駆られた。
一瞬の逡巡の後、聖人は、雑木林へと向けて、足を踏み出した。
満月の夜とはいえ、木々の中は仄暗く、僅かな不気味ささえ漂う。
怖くないといえば嘘だが、曲がりなりにも自分の家の敷地内である。
罠がある訳でも、猛獣が居る訳でもなし、聖人は毅然と足を進めた。
そうして、そう何分も掛からない内に、開けた場所に出て。
木々に人の目から遮断されるように、その蔵は、建っていた。
文字通り、ただの蔵だった。
ここだけ時代が切り取られたかのような古い土蔵で、所々壁には蔦が這い苔が生えている。
最先端のセキュリティを誇る屋敷の敷地内であることが嘘のような、年季の入った立派な建物だった。
聖人は思わず感嘆してしまい、蔵を惚けた目で見上げた。
この中に、祖父が収集し、遺した本が数多く眠っている。
本好きの性なのか、ここが立ち入ることを禁じられた区域だということを忘れて、聖人は、この蔵の中に入ってみたくなった。
まるで魅入られてしまったかのように、彼は、蔵を見上げたまま、更に一歩踏み出す。
「――聖人坊ちゃま」
しかし、踏み出した足は、唐突に背後から掛けられた声に止められた。
意図せずびくっと肩を跳ね上がらせて、弾かれたように後ろを振り向けば、執事の正装を纏った老人が一人、佇んでいて。
「……、爺」
掠れた声で爺、と呼ばれた彼は、聖人に向かって折り目正しくお辞儀をすると、一歩だけ聖人との距離を詰める。
身なりの通り、彼は、聖人の身の回りの世話を任されている執事で、父の代から此木家に仕えてくれている。
名前を立花修三と言って、父の宗一より長い時間聖人と一緒に居る、聖人にとってはもう一人の親のような存在だった。
「そろそろご就寝のお時間でございます。お部屋にお戻り下さいまし」
「あ、ああ……しかし……」
就寝時間間近になっても戻らぬ主人を探しに来たのだろう。
いつもなら大人しく引き下がって修三と共に部屋に戻る聖人だが、この時はどうしてか、蔵の中をすぐに見てみたい気持ちが根強く心に残り、らしくもなく渋ってしまった。
「坊ちゃま。ここは一切の立ち入りを禁じられている区域でございます。
旦那様に知られればきつくお叱りを受けましょう。どうか、見付からぬうちに」
修三にそう言われて、聖人は罰が悪そうに俯くと、大人しく蔵に背を向けた。
父親に叱られるのは怖くないが、自分が叱られるということは、監督不行き届きとして修三も叱られるということでもあった。
立ち入り禁止区域に入ったのは聖人なのだから、無関係な人間が叱られるのは流石に気が咎める。
聖人は「分かった」と小さく呟くと、修三の脇を通り過ぎ、一度も振り返ることなく屋敷へと戻って行った。
――修三が、聖人の背を追う前に、一度だけ、蔵に向かって深々と一礼したことを、無論聖人は気付く由もなかった。