本音の断片、本心の残骸
「とりあえずはこれでいいだろう。後はしっかり休んで、水分を沢山摂ることだ」
「うん……マサ君、ごめん、ね……迷惑、掛けて……」
「迷惑だなんて思ってはいない。それよりも、あの地下入り口で倒れていたということは、今日も湖で遊んでいたのか?」
「うん……でもなんか、ぼーっとして、しんどくなって、もう寝ちゃお、って思って、戻った、んだけど」
そこで力尽きて倒れてしまったのか。
「辛いなら連絡をくれれば良かったのに。渡したスマホは持っているだろう?」
「だって……今日、会える日、じゃなかった、し……」
「そんなことを気にする必要はない。何か困ったことがあれば、遠慮せずに呼べばいいんだ」
「………」
叱られたと思ったのか、紫音はしょんぼりとした顔で布団を口元まで引き上げた。
聖人は、そんな彼女に一つ小さく息を吐いて――そっと、紫音の熱を持った手を、両手で包み込むように握った。
「マサ、君……?」
祈るように、握った手に額を押し付け、触れ合う肌の温もりを確かめる。
「心臓が、止まるかと思った」
「え……?」
「倒れているお前を見付けた時、心臓が止まるかと思った」
あんな夢を見た後だからだろうか。
もし本当に、宗一や誰かが紫音を傷付け、あまつさえ殺したりなんかしていたら。
考えただけでも、ぞっとする。
「大袈裟、だよ……」
「大袈裟じゃない」
「でも……」
「大袈裟じゃない。お前に何かあったら、俺は――……」
一際強く、紫音の手を握り締めた。
自分よりずっと小さな手から、紫音が戸惑っているのが伝わって来る。
「……これからは、何かあったら知らせろ。小さな事でも……少しの事でも。
辛いと感じたら。悲しいと感じたら。苦しいと感じたら。
必ず、俺を呼べ。そうしたら俺は、何処に居ても、お前の元へ飛んで来るから」
握った手を、額から口許に移し、紫音の指先に唇で軽く触れる。
自分より年上の男の切なげな瞳に浮かぶ熱に、心臓が少し大きく一つ鼓動を刻む。
違う意味でまた熱が上がるけれど、聖人はそんなことお構いなしに今度は彼女の手の甲に唇を落とし、やがて握った手を彼女の布団の中に戻してやった。
「返事は?」
半ば覆い被さるような格好で問う聖人の姿に、紫音はもう、顔を真っ赤にしてこくこくと頷くことしか出来なかった。
「良い子だ。さあ、もうお休み」
嬉しそうに笑うと、聖人は愛おしむように紫音の頬を撫で、髪を撫でた。
「マサ君も、もう、帰る……?」
「ああ、そうだな。本当はお前が元気になるまで側に居てやりたいが、俺が屋敷に居ない事がバレたら大騒ぎになって、お前の事もバレてしまうかもしれないし」
「そか……」
「夜中にまた様子を見に来る。それまで、ここで静かに寝ていろ」
「うん……でも、いっこだけ、お願い、していい……?」
「何だ? 言ってごらん?」
「これ……」
言って紫音は布団の中から手を出して、鍵を聖人に差し出した。
お守り袋がキーホルダー代わりに付けられた鍵で、少し錆び付いている。
「蔵の鍵……私、閉めに行けない、から」
この状況では中から鍵を閉められないから、代わりに鍵を閉めて帰って欲しい、ということのようだった。
お願い、と言うから何か冷たい飲み物とかゼリーとかを要望されるのかと思ったら。
聖人は軽く苦笑を零して、その鍵を受け取る。
「分かった。ちゃんと閉めておく。今夜来た時に返すな?」
「うん……ごめん、ね」
「何で謝る。こういう時は、“ありがとう”と言うものだ」
「……、じゃあ……ありがと……気を付けて、ね」
嬉しそうに紫音は笑う。
けれど、微笑みの裏に、微かに心細さが滲んでいるように見えるのは、紫音が少しでも、聖人が行ってしまうことを淋しく思ってくれているということの、表れだろうか。
そんな風に思ったら、聖人は込み上げて来る衝動に抗い切れなくなった。
紫音に僅かに覆い被さっていた体をゆっくりと落とし、顔を紫音に近付けて。
戯れのように、また、額に口付ける。
「……っ、」
「――じゃあな」
そうしてあっさり身体を離して、聖人は、地上へと戻って行った。
地下と地上を結ぶドアが閉まる直前、たまが「みゃあ」と鳴く。
聖人が去った後の部屋には、いつも通りの静寂が訪れた。
顔に集まる熱が、風邪のせいなのか今のキスのせいなのか、もはや紫音には分からない。
「も……マサ君、やだ……」
半ば涙声で呟いて、紫音は布団を頭から被った。
やだ、と言う割に、きつく握られた手も、キスをされた指先も額も、他に比べて一際熱くて、優しい彼の顔が頭から離れてくれない。
最近、聖人の言動には戸惑わされてばかりだ。
紫音は聖人の事を友達だと思っているけれど、外では、友達にキスをしたり抱き締めたりすることなんて普通なんだろうか。
深い意味がないのなら止めて欲しい、と思う、のに、一方で、時々……もっと、触れて欲しい、と思う事も、あって。
全部、聖人と出逢って初めて知る戸惑いと感情だった。
「にゃーん」
布団の向こうで、たまが不思議そうな声音で一つ鳴いた。
顔を出すと、たまは紫音のいつの間にか枕元に飛び乗っており、行儀よく座って紫音を見つめている。
何となく片手を差し出せば、たまは紫音の指先を舐めた。
「たま……マサ君はどうして……いつも、私に、優しくして、くれるのかな……?」
氷枕の側で冷えを感じたのか、今度はたまは紫音の包まる布団に身を滑り込ませて、身体を丸めて目を閉じた。
人間の風邪って、猫に移ったりしないかな……?
そんなことを考えつつ、紫音は少しだけたまと距離を取り、壁際に寄る。
姿勢を変えて仰向けになると、視界に、地上と地下を隔てるドアが入った。
「マサ、君……」
つい今し方去って行った青年の名が、自然と唇から漏れる。
何故かそれだけで、また、全身に熱が巡るようだった。
「そう、いえば……今日は、甘い匂い、しなかったな……」
呟くうちに、薬が効いたのか紫音の瞼が少しずつ重くなっていく。
「それに……あの、赤い、痕、も……消え、て……――」
赤い痕の意味を、紫音はまだ、知らない。
聖人が何故、会う度に甘い匂いをさせているのか、その本当の理由も。
ただ、眠りに就く直前。
いつもなら香るその匂いが聖人からしなかったことと。
虫刺されと見間違った赤い痕が消えていたことに、紫音は無意識に安堵していたのだった。
□□□
「……珍しいわね、聖人さんから誘って下さるなんて。それも、こんな時間に」
いつか訪れたホテルの一室で。
シャワーから出た絢子は、バスローブ一枚を纏ったあられもない恰好で、聖人の隣に腰掛けた。
同じようにバスローブを着た聖人は、絢子が座ったと同時に彼女の肩を抱き寄せて、首筋に吸い付いた。
まだ、時刻は昼過ぎ。
昼休み明けすぐの授業を終えてすぐ、聖人は絢子に「すぐに会いたい」と連絡を入れた。
聖人がそんなことを言うのはほぼ初めてで、絢子はかなり驚いていたけれど、聖人から誘われた喜びが勝って、二つ返事で了承してくれた。
絢子と会うのは久し振りだった。
聖人は大学が試験期間に入っていたし、絢子もコンサートの助っ人や父の手伝いで地方に飛び回っていたりと忙しく、会う機会が減っていた。
『……今すぐ、二人きりになりたい』
半ば熱に浮かされて紡がれた聖人の言葉に、絢子は内心酷く動揺した。
聖人は絢子を愛していない。
だというのに、そんな情熱的な台詞を言ってくれるなんて、夢にも思わなかったのだ。
同時に、頭の片隅では分かってもいた。
聖人のその台詞が、恋人へ慕情から来る睦言などではなく、長らく身体を重ねていなかったための、渇き故でしかないことを。
分かっていたけれど、絢子は拒まなかった。
何度か共に訪れたホテルに向かい、いつもと同じ部屋を取る。
簡単に近況を報告し合って、自然と聖人が先にシャワー室へと入り、その後絢子が入って行った。
「っ、ん」
聖人の唇が、絢子の肌に噛み付き次々と痕を残す。
いつもよりも性急で獰猛な様子に戸惑うけれど、やはり、こうして聖人に抱かれている時が絢子は一番幸せだった。
聖人は、絢子を愛していないし、この先、きっと女性として見つめることも愛してくれることもない。
それは、あの日――書庫を見せてもらった夜に、窓の外を眺める聖人の切なげな瞳を見て、確信した。
けれど絢子はそれでも、構わないと思った。
ただ、欲をぶつけ吐き出すだけの虚しい行為だとしても、本当に経済的な意味しか持たない結婚にしかならないのだとしても、唯一、絶対に覆しようのない、誰にも穢されない事実だけが、絢子の手の中にあるから。
それが、将来、自分が聖人の妻となるのだという、事実。
生涯、聖人を自分のものに出来る、絢子だけの特権。
それがあるから、たとえ聖人にセックスフレンドのように扱われていても、平気だった。
馬鹿だな、と思う。自分でも。
けれど。
ベッドの上だけだとしても、好きな人が自分だけを見つめてくれて、自分だけに欲情してくれて、それが幸せでない女などいるだろうか。
偽りでも、戯れでも、確かに熱の籠った声で名を呼んでもらえることが、嬉しくない女がいるだろうか。
独り善がりと言われようが、ままごとと言われようが、構わない。
少なくとも、こうして性急に、獰猛に求められるということは、やはり聖人は、会わぬ長い期間中、絢子以外の女を抱くことはなかったのだと、確信し喜んでしまう程度には。
此木聖人という男に、狂っているのだ。




