猫と看病
『――この阿婆擦れが!』
怒鳴り声は鮮明に、心臓に重く圧し掛かるかのように重厚だった。
『恥晒しの獄潰しが!』
怒号の合間に響くのは、女の悲鳴と何かを何度も殴ったり蹴ったりする音。
倒れる女は身を庇い、顔を両腕で覆い、身体を縮こまらせる。
ドアの隙間から見える男の顔は、やはり、靄が掛かっているようではっきりしない。
無論、倒れ込んでいる女の顔も。
少年は呼吸すら忘れていた。
ただ目の前の光景に息を呑み、見たくない、怖い、と思うのに目が逸らせなくて。
やめろ、と叫んで部屋の中に飛び込みたいのに、それも出来なくて。
ただただ、少年は愕然として見ているしかなかった。
視線を動かす。
側には、サングラスを掛けた大男が二人と、彼らにがっしりと拘束され口を塞がれている、子供が一人。
やっぱり顔は見えない。
でも、何故か、その子が自分以上に恐怖し、泣いているのだということだけは、分かった。
助けなきゃ、と思った。
彼らに勝てるとはとても思えなかったけれど、それでも助けなきゃ、と強く思った。
だが、少年は、絶望の中で身を奮い立たせた瞬間、意図せず自らの存在を知らせる音を、発してしまった。
助けなきゃ。
でも――でも……。
今、助けに入ったら。
――俺も……殺……――
□□□
「みゃあ!」
「っ!?」
突然顔面に何かが覆い被さって、聖人は短い悲鳴と共に飛び起きた。
覆い被さった、というか、乗っかって来た、と言う方が正しいだろうか。
それは聖人が飛び起きるとすぐ飛び退いてしまっていたが、突然の出来事に聖人は夢か現実かも一瞬判断が遅れた。
「みゃあ、みゃあ! みゃあ!」
呆ける聖人を覚醒させるように、真横で猫が忙しなく鳴いている。
見るとそこには、ここ暫く会っていなかった白黒の猫が一匹。
「……たま?」
「みゃあ!」
「お前、どうしてここに……」
化け猫でも見るような目で呟けば、今度はたまは勝ち誇ったように一つ鳴き、聖人の膝元に跳び乗って来た。
「というかお前、どうやって俺の部屋に入っ――」
入ったんだ、と言おうとした瞬間、冷たい風が部屋に吹き込んで来た。
慌てて見遣ると、窓が一ヶ所開いていて。
聖人が閉め忘れたそこから、入って来たらしい。
資料を読み耽るのに夢中で、窓を開けていたことを忘れて気が付いたら寝落ちしたのだろう。
「みゃあ」
我ながら迂闊だったな、と苦笑すると、たまが前足で聖人の腹の辺りを叩いた。
見下ろしたたまの表情は、何処となく自慢気に見える。
「……まさか、俺が魘されていたから、起こしてくれたのか?」
まさかな、と思いつつ問えば、たまは、また一つ「みゃあ!」と鳴いた。
えっへん、と聞こえたのは気のせいだろうか。
猫なのに賢い。本当にこいつはただの野良猫なのか。
「……ありがとう」
苦笑のままに礼を言い、顎の辺りを撫でてやれば、またまた嬉しそうに鳴き声を上げる。
だが、たまは唐突に真顔になり、ふと聖人の手から離れると、今度はもっとぐっと聖人に近寄り、汗でぐっしょり濡れた彼のシャツを咥えて引っ張るような仕草をした。
「、……どうした?」
「みゃあ、みゃあ」
問うても、鳴いて、シャツを引っ張って、前脚で叩いて、それの繰り返し。
痺れを切らしたのか、たまはベッドから跳び下りると小走りにベランダに続く窓のように駆けていき、顔だけ振り向いてまた鳴いた。
そこまでされて、たまが何を言いたいのかやっと理解した。
すっかり見慣れた動作は、「一緒に紫音の所に行こう」という合図だった。
「……今から行く気か? しかし流石にもう寝ているだろう」
時計を確認しながらそう聖人が言うけれど、たまは駄々を捏ねるように鳴き止まない。
「明日にしないか? あと一時間もすればメイドやシェフ達が起きる」
行きたいのは山々だったが、状況的にこれから会いに行くのは難しいと思った。
たまが人の言葉を理解出来るかどうかは知らないが、以前は大人しく引き下がったのに、今宵は何だかしつこかった。
どころか、何処か焦ったような、助けを求めるような鳴き方に、聖人も流石に眉を顰めた。
お願いだよ、一緒に来てよ、と縋り付くように、たまがベッドから下りた聖人の足に擦り寄り、寝間着のズボンの裾を引っ張ったり叩いたりする。
「……何か、あったのか?」
先程とは違う意味で、まさかと思いつつ低く問う。
すると、たまは何処か嬉しそうに両の前足を持ち上げて、聖人の脛辺りを叩いた。
「――分かった、行こう。着替えるから少し待て」
言って聖人は汗でぐっしょりのシャツとズボン、下着も全部乱暴に脱ぎ捨てて、適当な服に着替えて、ベランダに出た。
縄梯子を垂らし、庭に降り立つ。
早く早く、と急かすようにたまは走り出し、聖人も辺りに気を付けながら小走りに後を追った。
蔵のドアの鍵は開いていた。
というより、もはやドア自体が開いていた。
ここは常に紫音が施錠していて、紫音が開けなければ誰も開けることは出来ないドアの筈だった。
一気に聖人の心に緊張が奔る。
脳裏に思い浮かぶのは、外の人間に見付かったら殺されてしまうのだと怯える、紫音の姿だった。
だが、ここは家の誰であっても立ち入ることを許されない、立ち入り禁止区域。
彼女は真夜中にしか蔵の外に出ないし、出ても同じ封鎖区域のあの池くらいだ。
誰かに見付かったのだとしたら、一体誰に、どうして……。
いずれにしても、もし彼女が誰かに傷付けられていたら。
――助けなくては。
たとえその後、自分が宗一に如何な仕打ちを受けるのだとしても、紫音だけは、何があっても守らなくては。
弓道以外の武道は続かなかった男だけれど、ここから彼女を逃がすくらいのことは、出来る筈。
半ば決死の思いで蔵に入り、中の様子を窺いながら慎重に足を進める。
以前来た時と同じ、真っ暗で静かだった。
人の気配もなく、争っているような気配もないし、悲鳴なども特に聞こえない。
緊張に汗が滲む中、更に聖人は奥へ奥へと進んでいき。
「みゃ、みゃあ!」
突然、たまが悲鳴のような鳴き声を上げた。
心臓が嫌な鼓動を上げ、慌ててポケットに入れて来たスマホのライトを起動させ、駆け出す。
たまの鳴き声がする方に駆け寄り、そこに向けてライトを翳すと――
「っ、紫音!!」
地下室への入り口の上、蹲るように倒れる紫音の姿があった。
聖人は血の気が一気に引くのを感じた。
半ば悲鳴のように紫音の名を叫び、その小さな身体を抱き起す。
「紫音! おい、紫音! しっかりしろ!」
揺さぶりながら大声で名を呼び続け、たまも呼び掛けるように鳴き続ける。
冷静さを失った聖人の頭に、まさか、と最悪の事態を連想させる文字がちらついた。
……けれど。
「ん……、」
ややあって、聖人の腕の中で紫音が小さな声を上げて、その目が薄っすらと開かれた。
「紫音……!」
「……あ、れ……マサ君……? ど、して……?」
「それはこっちの台詞だ! こんな所に倒れ込んで、一体何があった!?」
もはや怒鳴る勢いで言い募る聖人だったが、紫音の目は何処かぼんやりしていて、焦点も定まっていないようにさえ見えた。
「なんか、ぼーっとするの……」
「っ、は?」
「頭、くらくら、する……目、熱い……」
いつにも増して途切れ途切れにそう呟くように言う紫音に、聖人は一瞬何の話だと思ったが、よく見ると紫音は顔を赤くし浅い呼吸を繰り返してぐったりしている。
頭痛を訴える言葉に、漸く状況を正しく判断しようと思考が正常に働き始めた。
これはもしかして――誰かに襲われたとか、そういう話では、なくて。
聖人は慌てて紫音の額に手を乗せると、今度は違う意味で絶句した。
「……酷い熱だ」
恐らく、高熱で体を上手く動かせず、意識も朦朧としてしまい、地下室に着く前にここで倒れてしまったのだろう。
一緒に居たたまが、驚いて咄嗟に聖人を呼びに来た、ということか。
つくづく賢い猫である。
「驚かすなよ」
思わず安堵の息を吐いて、たまに言っていた。
あんな夢を見た後だからだろうか。倒れた紫音を見付けた時は、本当に寿命が縮んだ。
(良かった……)
厳密に言うと良くはなかったけれど、少なくとも、かなり緊迫した状況を想像していた点に於いては、予想が外れて良かったと思わずにはおれない。
聖人は紫音の体を一瞬強く抱き締めると、そのまま、彼女の体を横抱きに持ち上げて、地下室へと続く仕切りを開けた。
紫音を抱えて地下に下り、ベッドの上にそっと寝かせる。
「紫音……紫音、大丈夫か?」
「ん……頭、痛い……」
「タオルを冷やして来る。ちょっと待ってろ」
言って部屋の壁際にある衣装ケースを外から覗き込み、タオルの段と思われる所を引っ張り出して、一枚取った。
だが、閉じる直前に、その引き出しの中に氷枕が入っているのを見付けて、聖人は思わず笑みを零す。
すぐに温くなってしまうタオルより、こっちの方が良いだろう。
聖人はすぐさまその氷枕を作って、紫音の元に運んだ。
「紫音、ちょっと頭上げろ」
「ん」
紫音の頭を支え起こしながら、普段使っている枕と入れ替えてやる。
「……気持ちいい……」
「ここにそれがあって良かった。ついでに薬があると良いんだが……」
「お薬、あるよ……衣装ケースの、上の、箱……」
「……、ああ、あれか」
紫音が指差しながら言った場所に、確かに薬箱と思われる箱が置いてあった。
蓋を開けると中には絆創膏と軟膏、消毒薬にガーゼ、胃薬と痛み止めが入っていた。
聖人はその薬箱の中から、解熱の効能も兼ねる鎮痛剤を手に取った。
「これを飲んで、しっかり寝ればすぐに良くなる。夕食は食べたか?」
「……食べたくなくて……」
「……出来れば、腹に何か入れて飲んだ方がいいが……」
今から急いで粥でも作るか、と考えて、ふと時計を見てみると、メイド長やシェフが起き出す時間が近付いていた。
メイド長が起きれば修三もじきに起きる。
訪れた時間も遅かったために、これ以上長居出来ない時間まで迫っていた。
自分一人が見付かって叱られるのはいいが、紫音のことまで勘繰られる訳にはいかない。
こうなったら仕方がない、多めの水で飲ませてしまうか。
そう逡巡していると、不意に、たまが再び短く鳴いた。
ベッド側のキャビネットの方に駆けて行くと、その上にひょいと飛び乗り、置いてあった籠を前足で叩いた。
覗き込めば、その中には、聖人も時々食べる高級菓子店の、個包装されたクッキーやらチョコレートやらが入っていて。
何故こんなものがここに……。
「――でかしたぞ、たま。お前は本当に賢い」
「みゃあ」
常備薬としては十分な品揃えの薬、高級菓子店のお菓子。
間違いない。
自分以外にも誰か、紫音の事を知っている者が居る。
とはいえ今は、それを詮索することより、紫音を寝かせることが先決だった。
「ほら紫音。とりあえずこれを食べろ」
聖人は紫音の体をそっと支え起こすと、籠の中から一つクッキーを取り、封を切って紫音に渡した。
聖人なら一口で平らげてしまうそれを、紫音は大人しく時間を掛けてゆっくりと口に運ぶ。
食べ終わったのを見届けると、聖人は薬を差し出して彼女に飲ませた。




