真っ白な恋に、仄暗い愛を
ごくり、と聖人は無意識に喉を鳴らした。
それで初めて逢った時、あれ程までに怯えていたのか。
それでも最初の数ヶ月は、母に会いたい一心で、蔵から逃げ出そうと色々頑張ったのだという。
天窓から、外に出てみようとしてみたり。
根本的に“人の死”を理解出来てなかったために、外に出られさえすれば、母に会えると思ったのだ。
だが、悉く捕まってしまい、その度に宗一に殴る蹴るなどの暴行を加えられた。
『このクソガキ! そんなに死にたいか!!』
本当なら、一度脱走しようとした時点で殺されている。そうならないのは誰のお陰だと思っているんだ、と。
やがて、紫音は力尽きて、蔵の外に出ることを諦めた。
そうしているうちに年月は過ぎて、母が死んだことを、殺されたことを、いつの間にか理解するようになっていた。
「……、」
聖人は何と言って良いのか分からなかった。
胸に渦巻く感情が、失望なのか絶望なのか、あるいは恐怖なのか、分からない。
紫音の話から察するに、彼女の母を殺したのが誰なのかも容易に想像が出来てしまう。
だがまさか……本当に? そんなこと、まで?
信じられない、と事実から目を背けたくなる一方、あの父ならやりかねない、と心の奥で妙に納得出来てしまう自分も居た。
父は恐ろしい人だ。それは息子の自分がよく分かっている。
聖人は、苦し気に目を伏せて、少しだけ紫音との距離を詰めると、体の前で握られた彼女の手を取り、引き寄せた。
「、……!」
自分よりずっと小さな身体を、胸に掻き抱いて、閉じ込める。
「――辛かったな」
良い言葉が見付からなくて、結局、そんな同情めいた言葉が唇から滑り落ちる。
本当は、此木宗一の息子として、此木家の次期当主として、謝罪するべき、なんだと思う。
けれど、聖人はまだ、何も知らない。
何故、宗一が紫音の母親にそんなことをしたのか。
何故、紫音の母は殺されないといけなかったのか。
何故、紫音はこんな所に閉じ込められなくてはならなかったのか。
どんな理由を探し当てても、紫音が納得出来る理由などきっと一つもないことは、分かっているけれど。
紫音の母の顔すら知らない自分が、何一つ真実を知らないまま、ただ“息子だから”とか“次期当主だから”謝る、というのは、感情も誠意もない、ただのパフォーマンスでしかないと思った。
「……でも、今は、平気だよ……?」
悔しさと無力感に苛まれて、無意識に紫音を抱き締める腕に力を込めた、時。
紫音が、不意に、腕の中で呟いた。
「蔵の外で会う人……皆、怖い人だと思ってた……だから、一番最初、マサ君のことも、怖かった……
でも、今は……怖く、ない。
こうされてると……凄く、安心、する」
「……っ、」
「独りぼっちは、辛い、けど……マサ君と、一緒に居る時は、辛くない」
――この娘は。
自分が今、とんでもない台詞を口にしていると分かっているのだろうか。
そしてその台詞が、聖人の心に燻る自己嫌悪を、いとも容易く癒してしまったのだということを、分かっているのだろうか。
「――じゃあ、もう少しだけ、こうしていようか」
湧き上がって来る熱情を抑え込んで、聖人は紫音の耳元で囁いた。
嬉しそうに頷く彼女は、躊躇いがちに、けれど甘えるように聖人の胸に擦り寄って来る。
その様子は本当に、妹が兄に甘えるような幼い仕草だった。
その無垢さが、悪戯に聖人の心を掻き乱しているのだということに、全く気付かずに。
――これだから、困る。
「あ……」
「どうした?」
「……マサ君、首元、どうしたの……?」
「首元?」
「赤く、なってる……虫刺され……?」
「、ああ……これは……」
紫音が無垢であればある程、真っ白であればある程。
聖人の心が黒く淀んだものに歪んでいく。
この真っ白で無垢で、綺麗な少女に、自分という染みを付けてしまいたくなる。
汚して……しまいたく、なる。
「――別に怪我をしてる訳じゃない。心配するな」
「そ、なの? でも、なんか、痛そう……」
「これはただの痕だ。今は全く痛くない」
「痕……?」
「そう。……さて、そろそろ俺は屋敷に戻るよ。今日は、辛い話をさせてしまってすまなかったな」
「、ううん……私も、変な話、聞かせちゃって、ごめんなさい……」
体を離して、腰に回していた腕を解き、慈しむように頭を撫でる。
……本当は離さずに、共に朝を迎えることが出来るなら……。
そう思い掛けて、聖人は小さく苦笑を漏らして、振り切るように完全に紫音から手を離し、背を向ける。
「見送りはいいから、もうお前は休め」
「うん……マサ君も、気を付けてね……」
地上へ続く階段へと向かいながら、別れの挨拶を交わす。
最後に振り返ってみると、紫音が、明らかに淋しそうな顔で聖人をじっと見つめていた。
(……本当に、困る。だが――)
多分、紫音は自分が今どんな顔をしてるか、なんて、分かっていないだろう。
微かに過ぎった悪戯心に火が点いた聖人は、上ろうとした階段から再び足を下ろして、すかさず、再び紫音を掻き抱いた。
「ま、マサ君……!?」
腕の中で紫音が焦った声を上げる、けれど。
「……またすぐ会いに来る。スマホはいつも持っておけ」
わざと艶っぽい声を出して、耳元で囁けば、今度は紫音はがちがちに身を強張らせる。
分かったな? と念を押せば、半ば必死にこくこく頷いて。
くす、と無意識に笑みを零して、解放してやる。
予想通り、紫音の頬は仄かに赤くて。
聖人は、悪戯の最後の仕上げとばかりに、紫音の後頭部を引き寄せて、彼女の額に、口付けた。
「――……~っ!!」
「じゃあな」
そうして、聖人は何でもない顔をして、今度こそ地上に上がり、扉を閉めた。
ばたん、と閉まった瞬間、紫音は顔を茹蛸のように真っ赤にしてその場にへたり込んだ。
その足で聖人は屋敷の地下、父が管理する書庫へと出向いた。
社外秘の資料なども多く保管されているここは、正に此木財閥の全てが保管された場所だった。
ドアの鍵は、宗一と彼の秘書、聖人と修三、メイド長の五名しか開けることは出来ない。
屋敷の何処よりも厳重にロックされた部屋は、五名の指紋認証で開閉する仕組みになっていた。
聖人は、ドアの横の認証装置に指を翳して、ロックを解除し、中に入る。
彼が管理している書庫などより、比べ物にならない規模だった。
聖人が入室した途端に一斉に明かりが灯り、圧し掛かって来そうな程の書棚が現れる。
その要塞にも似た書庫を、聖人はゆっくりと目的の場所に向けて歩き出す。
ここに出入り出来るようになったのは、ほんの一年程前からだった。
家を、会社を継ぐ者として宗一から少しずつ仕事を任されるようになり、必要な資料はここで閲覧するようにと指示を受けた。
そうして辿り着いたのは、書庫の最奥部。
此木の家のこれまでの軌跡が、集約されている本棚だった。
聖人はそこから、十年前から十五年前までの資料を探し、一冊手に取る。
――ここなら、もしかしてと思ったのだ。
此木の全てが網羅されているここなら、自分の知らない父の事が何か分かるかもしれない。
父が昔、紫音とその母親に何をしたのか。
父が二人に言った“悪い事”とは何なのか。
此木家の息子でありながら、あんな立派な地下室に女の子を一人閉じ込めていた事を、聖人は知らなかった。気付きもしなかった。
だから、知らねばと思い、その手掛かりを掴めるとしたら、ここしかない筈だった。
聖人はその場に座り、本棚に寄り掛かって一心不乱に資料を読み耽る。
座学で聞いた歴史もあれば、ここへ来てまだ知らなかった細かい功績まで、色々細かく記録されている。
小さな手掛かりでも見逃さないよう、食い入るように文字を追い――
「聖人」
だが、その最中、突然、全く予想していなかった人物が姿を見せた。
「、……父上」
驚いて振り向いた先、父が冷徹な眼差しで歩み寄って来る。
別段悪い事をしてる訳でもないのに、何故か身が微かに竦んだ。
「こんな時刻にこんな所で何をしている」
「……、勉強を。最近、任される事も増えてきましたし、大学を卒業すればすぐにあらゆる業務に携わることになりますから、今の内からと思って」
「ほう。それは感心。だが、それで何故昔の資料を読んでいる?」
「過去を知る事も、将来家を継ぐ上で必要な事ですから」
平然と言って退けると、一瞬、宗一は探るように目を細めて聖人を見据えた。
「父上こそ、何故こちらに?」
小さな隙すらも一つも見逃さないような眼力を受け止めつつ、聖人も普通に会話を続けようとする。
だが宗一は答える前に踵を返して聖人に背を向けた。
「明日の会議で必要な資料を取りに来ただけだ」
「そうですか……」
「――会長、お待たせ致しました。仰っていた資料でございます」
「うむ」
そこでタイミング良く、その資料を探していたのだろう秘書が現れた。
彼は聖人の姿を認めると深く一礼する。
宗一は渡された資料を簡単に確認すると、「うむ、これで間違いない」と言ってもう一度秘書に返した。
「聖人、勉強熱心なのは結構だが、程々にして部屋に帰れ。今貴様に倒れられては困る」
「はい」
淡々と告げる父に聖人は素直に返事をし、頭を下げた。
宗一はそれを見届け、秘書と共に背を向けた……けれど、不意に立ち止まってまた聖人に向き直る。
「ところで、聖人」
「はい」
「長谷川の娘とは上手くやっておるか?」
「……ええ。恙なくやっています」
「恙なく、か。修三に聞いたぞ。最近では、長谷川の娘がよくうちに来て、朝は送ってやっているとか。
真面目が取り柄のお前にしては、随分手が早いじゃないか」
「……俺も所詮、ただの男ですから」
「くく、まあ良い。長谷川氏もお前達の仲睦まじさを大層喜んでいると聞く。
どうだ? 善は急げと言う。前倒しで式は卒業前に挙げるか?」
それは、息子の幸せを喜んでいる父の顔ではなく、結婚という戦略の向こうに待つ利益を予想し喜ぶ、“会長”の顔だった。
本当なら、ここで聖人は「絢子が良いと言うなら」とでも言って、承諾すべきなんだろう。
夫婦になる、という未来は決まっている。遅いか早いか、それだけの違いだ。
――たとえ聖人が、絢子ではない誰かを見つめているのだとしても。
「……せっかくですが父上、式はやはり、私の卒業を待ってからにして頂けませんか?」
「ほう? 待たねばならん理由でもあるのか?」
「恥ずかしながら、私にはまだまだ学ぶべきことが多くあり、今のままでは絢子嬢を夫として支えるにも、此木の家を父上の傍らで守るにも些か役不足と思います。
学生である今の内に学べることは大いに学び、卒業後に絢子嬢を妻に迎え、家を継ぎ、従業員を守れる男になりたいのです」
宗一の冷徹な目を真っ直ぐ見据え、そう告げると、宗一は「……回りくどいことを」と呆れたように呟いた。
「やることもその後の結果も変わらんのに、勿体ぶってもしょうがなかろう」
「それでも、その方がより多くの物を得られると思うからこそです」
憮然とする父に一歩も引かず言い募ると、やがて宗一は大きくため息を吐いた。
「――まあいい。長谷川の娘と結婚する事自体を嫌がっておる訳ではないなら、それも構わんだろう」
「……絢子嬢にも、了承は得ております」
嘘ではなかった。
いつだったかベッドの上で、そんな会話をしたことがある。
「抜かりのない奴だ。大口を叩いたからには、せいぜい勉学に励むがいい」
嘲笑交じりに吐き捨てて、宗一は秘書と共に今度こそ立ち去った。
無意識のうちに握り締めていた拳をそっと解くと、手の平に薄っすらと汗が滲んでいた。
実の父でありながら、彼の存在感や威圧感は本当に慣れない。
蛇に睨まれた蛙のような気分になる。
だからこそ、家や会社のために何をしても全く不思議ではない。
周りにそう思わせて尚、事業をここまで大きくし支えている手腕は、我が父ながら恐ろしいと思う。
でもだからこそ……突き止めなくてはいけない、と思うのだ。
父が、紫音を苦しめている、その理由を。
背中に冷たい汗が一滴伝うのを感じながら、気を取り直して聖人は、手にした資料の一冊をもう一度開くと、朝まで読み耽っていた。




